2005年05月29日
【台湾の7日間('02.12/13〜20)】3日目・2 「廟の中」
機車で送ってもらった公園までの道を、西日に照らされ歩いて帰る。
途中、小さな池に大きな鯉の置物を発見。自動餌販売機とな? こういうユーモア、好きだなー。そして僕のトーテムフラワー、メキシコでも咲いていたロータス! でも夕方だからか、花は閉じてて残念。
昼間は人気のなかった道も、この時間は車も通るし老若男女がちんたら歩いてる。のどか。
道路沿いに建ててる家、ずいぶんと天井の高い三階建て。しかも足場は木の棒だし、外枠だけコンクリートで壁はレンガを積んだだけの巨大な箱だ。施工主は、豪快な三匹の子豚に違いあるまい。
台湾大地震から約半年、耐震設計まるで無視か。
商店街とは反対方向にスーパーマーケット、およそ日用品は何でもある。
日本製は国内品より割高で、こうして比べると石鹸一つでも見栄えが違うものだ。品質はともかく、パッケージングの差で。明らかに台湾製でも日本語が踊っている商品、特にお菓子や化粧品に多かった。
誤植もないし文法的に間違ってる訳じゃない、だけど普段意識せずに話している日本語の微妙なニュアンスを突かれた気分になる。
スーパーを出ると、商店街は夜に向けて活気をたくわえ始めたようだ。
通りの突き当たりに、台湾の神社仏閣にあたる(のか?)霊廟がそびえ立っている。後で知るのだが、これは媽祖廟という。
確か家内安全だか健康祈願だかに霊験あらたかだったような、お婆さんの神様をお奉りしている廟だ。お母さんを媽と書くので、名は体を表すの如し。
商店の間にもいくつか廟らしき御社はあったけれど、媽祖廟は色遣いも装飾も格が違うようだ。宵っ張りな柴又帝釈天、そう思うと雰囲気はかなり近い。
その媽祖廟まで戻ると、兄きが背中越しに声をかけてきた。そのまま機車の後ろに乗せられ、蓮霧とバナナの農園(肥クサイ!)から土手沿いの道へ。まっすぐ公園まで行ってまた歩いた道を戻ってきた。
訳も分からず、でも謝謝。
茶店には入らず兄きと別れて、順仁大旅社に。ふと「火車站前担々麺」という看板に引かれ、どれほどのもんか入ってみる。他のメニューが100元前後もして焦ったが、担々麺は30元だった。
しかし非常に薄味だこと! どこが担々なんじゃ。
日も落ちて、宿で早速ハガキ4枚を書く。ガイドブック見てたら、ノースウェストはリコンファームしなくて良いと分かって一安心。メキシコでも人任せだったし、電話で英語は自信がないのだ。心配事がひとつ減った。
腹も減って、また外出。先程の量では腹5分目、というか屋台の飯屋は少なめなのだ。
昨日入った、茶店の向かいの店。台湾にしては珍しく濃い味の、付け麺みたいなの(名前は忘れた)。あと台湾麦酒。露店で夜風を浴びながら、飲んで食べる。
夜の交通量は昼間の比ではない、まるで通勤ラッシュ状態。今風のダッジバンが目に付く、それと怒涛の機車。電飾付きの原チャリって、オシャレ?
兄キと女児が来て、茶店を指して何か言うので「後で行く」と答えてから気が付いた。
あれ? 中国語と日本語でも通じちゃってたぜ、お互いに。
で、茶店。兄きの両親に、冷やしサトウキビを御馳走になった。あっさりとした甘みは悪くない、でも汁を吸った残りカスを口から出すのがうざい。筆談で、沖縄の話など。
「グリーンティ、ホット」と言ったら、茶色いウーロン茶が出てきた。しかも甘−いの。
小さい頃、友達の家で出された麦茶が甘くてショックを受けた記憶がよみがえる。しかし台湾では、お茶といえば普通は甘いものらしい。
兄キが「日本語ができる人がいるから」と言って、僕を茶店から連れ出した。
その後について、媽祖廟の先にある別の廟の中に入る。ほの暗く線香くさい通路を抜けると、色褪せた事務室のような部屋に出た。談笑していたのは、日本語を話す5人くらいの年寄りだった。
半世紀前から時間が止まっている薄明かりの下で、勧められるままにお茶を飲み、タバコを呑みながら話をした。彼らは10代前半に日本語教育を受けていて、統治時代の思い出を懐かしそうに語った。
ほとんどが70を過ぎていたが、ついこないだも当時の教官に会いに日本まで行ってきたそうだ。みんな日本の世情に詳しく、逆に日本人はどれだけ台湾について知っているのか? そう思わされてしまった。
話し込むうち、夜も更けてきた。
長老格の人に「明日はどうするのか?」と訊かれ、僕は「まだ決めてないけど、小琉球にでも行こうかと思います」と出任せを言った。本当は、明日の事は明日になって決めるつもりだった。
すると老人は、後から来た4〜50代の男性に東港(Ton-kong?)まで送らせると言い出した。ガイドブックには載っていなかったが、小琉球へは東港から船に乗ると早いらしい。
早朝に迎えを寄越す、と話を進める老人に「でも僕は早起きは苦手で」とやんわり断ろうとしたら「たまにはいいでしょ!」と逆に切り返され、半ば強引に決められてしまった。
うー、ありがたさ余って迷惑千万。慌ただしいのは苦手だ、それに送り役に抜擢された男性の顔には(長老達の気まぐれで使い走りを押し付けられた)と書いてあった。
でもまぁ、そういう事になってしまったのだ。明朝8時、男性と一緒に協会長らしき(実は違った)71才の人も来てくれるという。断ったのに聞く耳持たずの馬耳東風。
これは翌日の車の中で、71才の人から聞いた話だ。
この建物は三山國王廟といって、三山國王という神様を奉っているらしい。彼らは「三山國王協会」の協会員で、実は兄きことリンさんも協会の会計員(元は銀行員)だった。
(廟の中−おわり)
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