2005年05月31日

81*リゾネイター

 こないだ、DVDを衝動買いしたのね。タイトルは「ワッツタックス」ってんだけど、その辺の詳しい内容はレビュー書いちゃったから置いとく。その中で、何度か「共鳴」って表現が出てきたのよ。で、思ったの。
 人間ってさ、外部からの振動に心を震わせて喜怒哀楽を表してるんだな…って。
 悲しい話に沈み込み、明るい雰囲気に開放感を味わう。ある意味、それだけなのかもしれないよなぁ。というかむしろ、それだけでいいんじゃないかってね。心なんて空っぽの、たとえばギターの胴体みたいだとしても。
 ちょっと飛躍し過ぎてて、伝わらないかな? まぁ魂の定義は色々だから、とりあえず(人間=心と体で出来てる何か)と考えた場合ね。体ってのは自分と外側の境界で情報を伝達する道具で、その体から送られた情報に対して心が対応を判断してる…と。こういうのは「唯心論」とかいうのに近いのかな、それはともかく。

 そんで今度は人生論入っちゃうけど、たとえば(自分の名が語り継がれるような足跡を歴史に残す)という行き方もあると思うのね。まぁそういった功名心とか目的意識ってのも何かしら「共鳴」の結果だったりするのかな、でも僕の思った事とは範囲がスレるので「反映」という区切りに分けておこう。
 僕のイメージで言うと、その共鳴した瞬間で完結してる感じなのよ。種が芽吹いて大樹に育つような連続性のある話じゃなく、ひとつの事柄への反応が次の事柄に対する反応に連鎖してゆくような…。
 もうちょっと具体的に言えば、事実かどうかは知らないが「インディアンの生き方」というのに譬えてもいい。元からの環境を変えないようにして、また去った後も痕跡を残さないような暮らし方。母なる大地の上に生まれ死んでゆく事に、人もケモノも変わりがないからね。
 残るのは、誰かの心に刻まれる思い出だけ。ならば僕は、相手とが互いに良い思い出となるように出会ったり別れたりしよう。そう思う。

 時々、僕は(どうして死ぬのは悲しい事なのか?)って考えてみたりするんだ。そりゃあ未練や依存もあるだろうけど、きっと何か悔いを残してるからなんじゃないかな?…などと思ったりもして。やり残した感じ、というか。
 死にゆく者は「納得の行く思い出を、大切な人との間に作れなかった」と不甲斐なく思い、見届ける側は「大切な事を伝え切れていなかった」と感じたりして…。だけどこれは想像に過ぎないんだけどね、まだ僕が身近な人と死に別れてないから。
 所詮、きちんと伝え合ったって「今生の別れ」が楽しい思い出にはならないだろう。でもいつか(全力投球できた)と思えたり、そう出来なかった自分と相手とを容赦したら、その死から得る何かは違ってくるよなぁ〜って気がするんだ。
 それにはね、怒りや憎しみの言動に共振して何かを壊したりするのと違う反応をしてようって思うのよ。実際どうかは分からない、けど「ひとつひとつの輪を閉じる」っていうインディアン的な言い回しに通じてるんじゃないのかなぁ。
 だからって僕は悪感情を否定する気はないのよ? 仙人じゃないし未熟者だからさ、むしろ出てくる気持ちを押し殺す方が毒になるもん。ただ、出し方を変えてみるだけでね。ものは言いようだから、いかに響かせるか? って部分で。

 じゃあ、どんな響きを善しとするか…となれば、やっぱ最もリアルな基準は自分自身だから「箱鳴り」だよなぁ。共鳴体である自分が、気持ち良く震動してるかどうか。自分から響かせた音が、ある範囲の空間を充たしてゆくような感じ?
 もし誰かのビートが気持ち良くなくっても、それを自分好みに変換して震わせてたら気にならなくなるかもなぁ。隣に座った人のヘッドフォンから、シャカシャカ音が聞こえてきてもね。
 僕は(自分のビートで踊っていよう)と思うんだ、そして(それを身に付けよう)って。そんな自分鳴りしてる音が、周囲の共鳴体を経由して変換された音を聴いてみたいな。
 ま、音響的には単なる「ハウリング」にしかならなくてもね。

平成17年5月31日
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posted by tomsec at 23:48 | TrackBack(0) |  空想百景<81〜90> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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