2005年06月08日
82*すべての山に登れ
これは、とある有名なミュージカル映画の挿入歌(の訳詞)。
「夢はあなたが与える全ての愛情に必要です/あなたが生きている限り、あなたの人生の毎日は すべての山を登ることです/すべての流れをわたり/すべての虹を追って/あなたの夢を見出しなさい」
良い詞だなぁ〜って、まるで(ワタリウム美術館で観た、シュタイナーの黒板絵に添えられた言葉のようだ)と思ったの。他に譬えようがない、シンプルで明確な感じが。
先日、友人と会っていて思い出した事があるのね。その彼と、三宅島で1カ月くらいキャンプをしてた時の事なんだけど。
雄山が噴火する前年か、その1年前だったか。夏の終わりから秋の半ばまで、特に何か具体的な予定も期限もなく…といっても、無論テントは別々でね。一緒にメシの支度をしたり別行動を取ったりして、台風の時以外は毎晩たき火して。
そうして日々は単調に流れるかと思いきや、入れかわり立ちかわり新たな登場人物が現れて、盛り上がったり翻弄されたりする毎日でね。精神的にもシンプルライフを望む、というより混乱した状況を自分達なりに把握したくて、僕らは折あらば話をしていたんだ。
そんな話の最中に、僕は「あ、今カラスが後ろの電線に止まった」などと言ってた…らしいの。すっかり忘れていたけれど、そういえば僕は何でも(あれは何の予兆だろう?)と考えていたんだよなぁ。その頃の僕は「予兆を読む」という事に凝っていて。いや、憧れていたんだよな。
そのキャンプよりも数カ月前からの事だけど、特に(動物の送ってくるメッセージ)を読み取ろうとして敏感になってたんだ。たまたま読んだ何冊かの本に、そういった内容が書かれていたから気になってね。
自分の周囲に起きている事と、内面の動きには関連している…それは今でも僕にとってリアルな考え方ではあるのよ。だけど当時は、とにかく(予兆を読み解く)事そのものに焦点が合っていたみたい。それは今だって憧れてるんだけどさ、あんな熱病のように神経を尖らせてはいないもんなぁ。
その時期の僕は、よく「分水嶺」という言葉を口にしていたっけ。まぁ今になって振り返ると確かに、当時思ってた以上に幅広い「分水嶺」の期間にいた気はする。
勤め人という生き方を諦めた1年後、僕はユカタン半島の幻想的な浜辺で月光浴なんてして、更にその1年後には三宅島で「1カ月1万円で」とか言ってテント暮らしをしてたんだからな。
…という書き方をすると、まるで(じゃあ今は分水嶺以降の下り坂なのね)って印象になっちゃうか? ま、どっちだっていいや。たとえ人生の折り返し地点を過ぎたんだとしてもね、それ以降が別に欺瞞と不満にまみれているって感じじゃないし。むしろ毎日が、より楽しめる方向になってる気がするからなぁ。
そうねー、ゆるやかに下ってゆくような脱力加減とかね。しかも目の前に開がるのは一大パノラマ、そのままフワリと宙に浮いちゃえ〜!…てな感じで。
ものは言いようですからね、好いように(笑)。
ただ、微妙に寂しくもあるのは、脱力と同時に「熱」も失っちゃったような気もしたりして。何かに熱中している高揚感っていうのが、ふと懐かしく思える時もあるのね。
元来、集中力は高く短いほうなのよ。だから一般的な熱量と比べれば、そんなの微熱程度だったのかもしれない。それに、一種の無風状態というのも悪くはないなって思えるんだよ。ただねぇ…。
あの20代の集中力で世間並の地位や財を得た上での滑空ならば、もしかしたら巷の30代後半男性に共通の安定感なのかもって思えるのね。だけど僕ときたら、そんな高い山は越えてないんだよな〜。
先日の、友人と会って話したのは標高800メートルの山で、だった。
キャンプに出掛ける切っ掛けは、彼が見た「御蔵島の断崖で何かをしてた僕ら」という夢だったんだ。初夏の高尾山で、そんな話を聞いてるうちに(それじゃあ夢の場所へ行ってみようか)と言っていた訳よ。
「夢はあなたが与える全ての愛情に必要です/あなたが生きている限り、あなたの人生の毎日は すべての山を登ることです/すべての流れをわたり/すべての虹を追って/あなたの夢を見出しなさい」
平成17年6月8日
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