2005年08月15日

 メキシコ旅情【立身編・9 内心】

 僕は、ひとり砂浜に座っているティミーに手を振った。
「みんなと一緒に、海に入って遊ぼうよー!?」
 何度か手招きで呼ぶと、彼女はTシャツを脱いでビキニ姿になった。トニーとの約束が、なんとか果たせそうだ。腰まで浸かった海水をザブザブかき分け、僕は入れ替わるように浜に戻る。
「さぁみんなー、撮るよー」
 ティミーは僕の不純な胸中を悟ったのだろうか。能天気な声でカメラを構えた瞬間、避けるように海から上がってしまった。内気な彼女が、せっかく水遊びに加わってくれたのに…。情けなく、申し訳ない気持ちになった。
 どうして僕は、あんな頼み事を引き受けてしまったんだ?

 帰り道は、来た道より長く感じられる。
 すでにトニーの個人授業は終わっていて、エレーナはいなかった。
「ごめん。ティミーの水着写真は撮れなかった」
「いいんだよ、気にするな」
 トニーは笑いながら、ちょっと残念がってみせた。

 約束といえば、もう1件あったな。
 昨日、写真屋の店員に「今日行く」と言ったのを思い出した。陽も傾いてきたしシエスタにしたい気分だったけど、腰が重くなる前に家を出る。
 謎の男は今日もまた店の前でタバコをふかしていて、奥に向かって大声を上げた。声の調子からして(昨日の客が来たから写真を出してやりな)と言ってる感じだった。
 店内で確かめると、仕上がりは悪くないが写真が大きい。日本では特別に頼まない限りサービス判のプリントなのに、これは葉書サイズだった。しかも考えてみれば、翌日仕上げは特急料金が普通だろう。
(カモられたかも?)という疑念を抑えつつ、念のため「これより小さいサイズは無かったの?」と訊ねる。すると店員は意外そうな顔で「ああ、ないよ。不満だったか?」と肩をすくめた。
 それならまぁ、いいさ。整理する時に面倒そうだが、大判だと迫力が違う。画面が横長になるパノラマ写真も、上手く収まるよう工夫してプリントしてあった。上下の余白部分をマスキングして、映画のワンシーンみたく黒くなってる。
(日本で頼んだら、これだと手焼き指定で料金上乗せ&中三日ってとこだな…)そう考えると、却って得した気分だ。それでも、袋にマジックで書かれた値段を見て思わず「内訳を説明してくれ」と言ってしまう。
 日本円に換算すれば高くもないけど、今後も現像出しの度にカモられては敵わないからな。店員は、厭そうな素振りも見せずに教えてくれた。顔つきが微妙に胡散臭いだけで、中身は真っ当な写真屋なのだ。疑いはじめたらキリがない、僕は言い値で支払った。
 今度もまた、謎の男に見送られた。

 リビングに顔を出すと、珍しくエドベンも帰宅している。
「ヘーイ、どこ行ってた?」
 そう言って僕の肩を叩く彼に、出来上がったばかりの写真を見せる。ママやパティも、テーブルを囲むようにして集まってきた。セノーテ巡りで撮ったり、散歩の途中で写した風景などなど。僕の説明をエドベンが家族に訳してくれていると、ディエゴがアルバムを持ち出してきた。
 それはエドベンの物らしく、彼の日本滞在時の写真が何枚も入っていた。エドベンとトニーは、日本でのルームメイトだった。2人は、僕がトニーと知り合う以前からの古い間柄だ。京都、箱根、草津温泉、どこかのスキー場…。一緒に写っている何人かは、僕も会った事がある。
 ママが、僕にまとわりつくディエゴをたしなめてから、ふと思い出したように言った。
「おなかが空いてるでしょ?」
 さすが肝っ玉母さん、鋭いね。でも一昨日の腹痛から、僕は食事を控えめにしてたのだ。ママのジャンクフード嫌いが頭にあって、何と返事しようか思案しているとエドベンが支度を頼んでしまった。
「気にするなよ、ママは君を気に入ってるんだから」
 嬉しい事を言ってくれるじゃないか、そう思いつつ僕は急いで付け足す。
「温め直さなくていいよ、少しだけでいいんだ。ありがとう」
 ママは耳ざとく振り向き、エドベンが茶々を入れる。
「夜中に屋台のタコスなんか食べるからだ」
 それを聞いたママが憤慨して、トニーの悪影響だというような事を言い出したのには慌てた。僕を気に入ってくれるのは嬉しいけれども、それで彼の分が悪くなるのは間違いというものだ。それに、僕は〈ヘンなガイジン〉ではあってもガキじゃない。
「僕がタコスを食べたくて誘ったんだよ、彼が悪いんじゃない」
 そう言ってみたところで、ママの思い込みは直りそうになかったけれど…。

 僕が食事を終えようとしていると、上からトニーが降りてきた。
 夕食を僕と一緒にとる気でいたのか、こっちを見て少しムッとしたようだった。それでも顔には出さず、茶目っ気たっぷりに笑顔を振りまく。僕が勝手に食事を済ませた事を詫びると、彼は冗談めかして「そうだぞ」を一瞥をよこした。
 ママが出してくれた食後のコーヒーを飲みながら、僕はテーブルの上の写真を楽しそうに眺めている彼に解説をする。ソファに腰掛けてTVを観ていたエドベンも横に来て、さっきのアルバムを拡げた。それはトニーをひどく懐かしがらせた。
 2人が思い出話に興じている間、僕はそのアルバムを手に取ってめくっていった。後半はエドベンがメキシコに帰国してからの写真だったが、なぜか一人の女性が大方を占めていた。このリビングの、書棚の前に立つ彼女は日本人だった。
 この家を訪れた日本人は、僕の前にもいた訳か。それは不思議じゃないにしても、その事を誰も話題にしなかったのが腑に落ちない。僕が女性に見入っていると、ママとパティが彼女について教えてくれた。
 2〜3年くらい前だそうだが、しばらくここに滞在してから南方のチアパス州かどこかに向かったのだそうだ。何かを勉強するためらしかったけれど、それ以上はジェスチャー会話では分かりようがなかった。エドベンの知人だというのに彼は何も言わないし、僕に関係ない事だから敢えて訊く話でもないのかもな。

 部屋に戻る途中、階段を上がりながらトニーが言った。
「夕飯を食べるんだったら、先にそう言ってくれよ」
 やっぱり気にしていたのか。
「ああ、さっきは悪い事をした。謝るよ。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「判ってるよ。ママは自分の料理を食べてもらえると嬉しいのさ」
 ここに来てから、大抵はビアネイ達の部屋で夜を過ごしている。今日の昼間みたいにジャンクで適当に済ませて、まともに夕飯を食べない事が多かった。ところでトニーは今夜の食事をどうするのだろう、まさか懲りずにタコ屋台か…?!
「まさか。冷蔵庫には何か残ってるだろう」
 ビアネイ達の冷蔵庫なのに、ほとんど僕らのジャンクで占領しているのも如何かと。

 夜空の隅に、小さな雲がいくつか懸かっている。
 今夜も隣の部屋に押しかけ、真夜中過ぎに「おやすみ」を言ってから僕一人で屋上に上がった。
 少し氣を練ってみるが、やはり何も感じられない。
 風は凪いでいて、タバコの煙がまっすぐに立ちのぼってゆく。
 昼間のホテル地区で、銀バスから見えたホテルの廃墟群を思い出した。
 ティミーの夜の仕事と、呼び名の由来に関する噂話を思い出した。
 昔ここにいた日本人の女のコが、今どこで何をしているのかと思った。
 それから、僕はタバコの火を消した。
posted by tomsec at 02:37 | TrackBack(0) | メキシコ旅情7【立身編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック