朝方、日本の夢を見た。
内容は覚えていないのだけど、空気感がリアル過ぎて愕然となった。それで目が覚めた瞬間、苦しいほど現実に違和感を覚えた。きっと瞬間移動とかすると、こういうギャップを感じるんだろうな。
初めて気付いたが、あの生まれ暮らしてきた国にも独特の空気があったんだ。それは友人の家に行った時の感じと、似ているかもしれない。
夢とはいえ、日本の空気の居心地良さは生々しかった。起きている現実のほうが、よっぽど非現実的だろう。この青い壁の色も信じられないし、月蝕とか月光浴とか毎日がウソ臭い位。
一体、ナニが〈本当〉なんだろう?…すべて僕の妄想なんじゃないか?
薄暗い部屋に、発光する窓ガラスが目にしみる。簡易ベッドを片付けて、起きぬけの一発。腹の調子は下り坂で、メキシカンな辛さが火を噴きそうだ。プラジャ・デル・カルメンで食べ過ぎた夕食が効いてる、更に昨日の焼きトウモロコシだな。
閉め切った個室は蒸し暑くて、汗が噴きこぼれる。今度から裸で入らなきゃ。
「…ちょっと!」
カーテン越しに、苛立ったようなトニーの声。彼の人生でも、かなり最悪の起こされ方だったろう。荒々しく、部屋の外に出て行った。
トニーは何か言いたいことが喉につかえている様子だったけれど、マナー違反を詫びると渋い顔で許してくれた。実は彼も昨日から腹痛気味だったのに、僕のいない間にトイレに入っていたのだ。そんな彼の気遣いを、僕はちっとも知らなかった。
ポスト・カードを出して、ぶらりぶらりと写真屋に。やはり今日も謎の男が店の前でタバコをふかしていて、僕が「オーラ」と声を掛けると黙って手を上げた。ちょっとフレディ・マーキュリーっぽい、といっても顔だけで格好は普通。
彼は、店の奥に向かって大声で店員を呼んでくれた。男達の話し声は何でこんなにデカいんだ? ちょっと真似して、僕も大きめの声で店員と話す。彼らは英語が通じないけれど、僕の片言スペイン語でも事足りた。「クァント・クェスタ[いくら]?」とか「クァンド[いつ]」といった単語を覚えておいたのが、辛くも役に立った。
「仕上がり時間が閉店ギリギリになる」と言われたので、僕は単語を並べて(明日で問題ない)と返答した。
「マニァーナ、ノ・プロブレマ」
彼らは(閉店までにやっとくから今日中に来い)という様な事を言ってくれるが、僕は時間に気を取られる位なら明日で構わなかった。それに折角の好意でも、急ぐあまりに粗い仕事をされてもね。
「エスト、ノ・ラピド」
これ、早くない…で通じるのかは疑問だったけど、そう言って店を出た。
その隣の角に、下町のタバコ屋の風情を漂わせる雑貨屋がある。なぜか「アメリカ」という名の、オーソドックスな品揃えのグローサリー。
外国人が来るのは珍しいのか、みんな気遣わし気に僕を見てる。客は近所の主婦や子供、それに年寄り。彼らに「オーラ?」と微笑みかけると、ためらいながらも笑顔を返してくれた。しかしレジにいた老店主だけは、なおさら疑わしげに眉をひそめたままだ。
僕は気にせず、薄っぺらい中とじの雑誌などを物色する。文具の上には、うっすらとホコリが積もっていた。駄菓子と缶ジュースを、菓子パン陳列棚を兼ねた商品カウンターに置く。そして老店主にタバコを吸う仕草を見せて、
「ティエネ[…はありますか]・シガレット?」と問いかけた。
彼はまだ胡散臭そうな顔付きのまま、背後の棚から出して僕に見せる。やはりここでは国産品しか置いていなかったが、まぁいい。幾つかの銘柄を選んで金を払い、おばさん店員から茶紙の袋に入った商品を受け取る。
彼らに礼を言って向き直ると、そこに意外な顔があった。
ヘセラ!
昼下がりの日差しを避けるように、アレタと並んで軒先に入って来たところだった。僕から声を掛けると、彼女達はびっくりした顔で笑った。こんな所で出逢えるなんて、やっぱ運命?
ヘセラだけなら結構ドラマチック方面に持ち込めそうなのに…と、猛烈に頭を働かせているのも構わずアレタが割り込んでくる。思わず露骨に煙たい顔をしてしまう僕に、気にする素振りもない。
「ねぇ、エドベンに伝えてほしいんだけど。明日の晩のディスコの事」
てっきり(エドベンを口説いたのか)と思ったら、僕らも一緒に誘ったって? 知らないなぁ。アレタはちょっと悲しそうな顔をしたが、ヘセラが彼女を元気づけるように言った。
「そうそう、闘牛を観に行かない?」
メキシコなのに闘牛?! スペイン統治時代の名残りなのかな、それにしてもまた突飛な展開だ。闘牛は週に2回あるそうで、次の水曜日を指定された。
「楽しいわよ、きっと…」
あぁっ、ヘセラ! 君にそんなコト言われたら、どんなトコだって〜!
「じゃ、ちゃんと話しておいてね」
またアレタは、とっとと自分の用件だけで話をまとめようとしてる。ちょっと待ってよ、まだヘセラと話もしていないのに…。で、ちなみに今日はこれからどうするの?
「試験勉強するのよ! ねっ、ヘセラ」
だーかーらー、引っ込んでくれよ。人の恋路を邪魔すると、犬に蹴られちまうぞ。でも彼女の背後からヘセラが、ちょっと困ったような顔で僕に微笑んでくれた。思い違いだとしても、それだけで有頂天だ。
「あたしに電話ちょうだいって伝えて」
アレタが僕に手を振る。おいおい、まだ僕はヘセラと話していないのにぃ。
「闘牛とディスコ、君も行くの?」
ヘセラが笑った。「えぇ、多分ね」
「ワォ、そりゃー楽しみだ!」なんて単純な僕。
明日のディスコと水曜日の闘牛、忘れずにエドベンに言っておかなきゃ。闘牛は痛々しそうで気乗りしないけど。
「トニー、ヘセラ達に逢ったよ!」
僕は部屋に入るなり、彼に今さっきの出来事を話した。
「明日の夜、ディスコって聞いてた?」
「知らないなぁ。それよりさぁ、これから一緒にチビっ子達と水風船で遊ばない?」
また水風船かよ…!
「エドベンは、いつ帰るか判らないよ。でも今夜は彼と外で会うから伝言しておくね」
トニーは、彼を介して携帯電話を買うのだそうだ。1996年当時、まだ日本でもポケベル全盛の御時世だ。携帯電話なんて、メキシコでも安くはないだろうに。ましてや夜間営業してる電話屋がある訳ないし、そもそも外国人である彼が易々と入手出来る筈がない。
案の定、聞けばどうやら名義貸しのようだ。エドベンが、親戚であるホゼの知人を紹介してくれるらしかった。彼の一番下の妹、ウェンディの旦那さんだ。エドベンの家族の中では唯一、いかにもメキシカンな人相で胡散臭さをプンプンさせている。
そんなホゼのアミーゴなんて、むしろ要注意なんじゃないの? 以前、エドベンが盗難車を買わされた時も彼絡みだっていうし。
「借りるとしたら、結局は他人に頼るしか手がないんだ。メキシコではそうするしかない」
騙されても泣き寝入りするしかない、それは承知の上なのだ。身内の人間に紹介してもらったほうがリスクを減らせる、そうトニーに言われるとなぁー。
しかしエドベンは、こう言って反論したそうだ。
「みんなコネを大事にする。でもそれは血縁であって、ホゼは家族と見なしていない」
うぅむ…、わかりません。
結局、僕も子供たちと水風船遊びでビショビショになった。
アスファルトの上で温まった水は、独特の匂いがする。町なかの、夏の匂いだ。道路中に飛び散った鮮やかな風船の破片は、また今日もそのまま日干しになっていった。服ごとシャワーを浴びてから、着替えて屋上のロープに濡れ物をぶら下げに行く。
メキシコ式の洗濯干しは、ロープのねじれの間を拡げて裾を挟み込む。まだ僕はママのように手際良く出来ない、絞っていない分の重みでロープをこじ開けるのに四苦八苦。
日が落ちてからトニーは出て行き、僕は留守番。現場の様子を見てみたかったけど、珍しくトニーは僕を連れて行くのを嫌がった。彼が帰宅したのは、かなり遅い時間だった気がする。「電話を見せて」と言ったら「今はない」。取引がどうなったのか、教えてもらえなかった。
「エドベンには伝えたよ」
思い出したようにトニーが言って、意味ありげにチラリと僕を見た。
「そういえば彼女、あの男のコと逢ってないらしいぜ?」
ナニ言ってるんだ、ここ数日の話だろ…?
2005年08月15日
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