少しだけ、暑さがしのぎ易くなってきた。
授業の後で、僕はグラシエラと別れて「コメルシアナ・メヒカノ」に行った。定番メニューのビールとコーラ、ナチョ・チップスにハーシーズのミント・クッキー・チョコ、それにフルーツ。あとはポスト・カードを十枚ぐらい。
いまだにペソの感覚がつかめず、つい安い気がして買い過ぎる。どうもこの(ジャンク買い)だけで、僕の資金がかなり喰われてるな。T/Cブックが、徐々に薄くなってゆく。気を引き締めていかないと、大変なことになってしまってからじゃ取り返しがつかない。
帰り道、マカレナ公園の前を通ってみた。ジョアンナのベンガンザが気になったからだ。
あの一帯だけ、濡れた路面に水風船の破片が散乱していた。激戦を物語る光景だった。とはいえ、子供達はそれなりにゲーム感覚で面白がってるんだろうな。
グラシエラ達の部屋のほうに行くと案の定、開いたドアからトニーの冗談と笑い声が聞こえてきた。部屋の前で声を掛けると、ベッドに腰掛けてニコニコしているグラシエラが見えた。この部屋は風通しが良いのか、割に涼しくて快適だ。
僕の体験授業の話と、ジョアンナのベンガンザ話でたっぷり笑う。トニーの話振りからは、復讐劇も水遊びの口実でしかなかったみたいで安心した。物静かなジョアンナから仕掛けるなんて意外だったが、だからこそトニーは盛り上げるために参加したのかも…? それで結局、連中は景品を出すのかなぁ。どうせ、これでチャラなんだろうけど。
ビアネイが帰ってきて、グラシエラと僕はまた英語学校の話をした。するとトニーは「そうだ、今夜は日本語教室をしよう!」と言い出し、グラシエラもビアネイも大賛成。ともかく夜まで時間があるので、いったん部屋に戻る。
夜、部屋のドアが小さな音を立てた。
「誰か来たんじゃない?」僕が言うと、トニーはベッドから跳ね起きて「カム・イン!」と言いながら扉を開けた。
「ハロー…」ティミーだった。
入っていいのか戸惑っている様子で、トニーはおどけるようにして招き入れる。彼女に会うのは、マカレナ・ダンス・パーティ以来か…あれは何日前だっけ? 今夜の日本語教室に、いつの間にかトニーが声を掛けていたらしい。やっぱり彼女は、どこか恥ずかしそうに微笑んでいた。
グラシエラとビアネイは来ていなかったが、彼は「さぁ始めよう」と言って部屋の真ん中に椅子を並べた。急にそう言われても、先生になるのは僕にとって初体験だ。何から教えればいいのやら。
「そうだねぇ、日本語の[クール]は?」とトニーが言う。なるほど、実践的な会話だね。
「ふむ。[イカす]…いやいや[カッコ良い]かな。ティミー、言ってみて?」と僕。
「いきなり日本語で言っても判らないよ、パードレ・イズ・かっこいい」トニーが助け舟を出してくれる。
「ねぇトニー、パードレって[お父さん]のことでしょ?」
「そうだけど[クール]もパードレって言うんだって、メキシコではね」
「ふぅん、書いとこ」これじゃあ、誰が教えてるんだか…。しかし、いざ教えるとなると難しいものだ。どういう切り口でやるか、その辺の勝手が僕にはつかめない。
ティミーは、ゾナ・オテレッラでウェイトレスをしている。まずは基本的なあいさつ言葉などを一通り教えることにしよう。僕は自分のノートを取り出して、トニーが教えてくれた(使えるスペイン語)の書き込みページを開く。
「ねぇトニー、ウェルカムって何て言うの?」
「ビエン・ベニード」
僕はノートに英語、スペイン語、更にローマ字で日本語を書いてティミーに見せた。
「ディス・イズ・[ようこそ]」と言いながら、彼女に復唱させる。
「…ジョウコソ?」
そうか、スペイン語読みだと発音が違うのだ。そればかりか「ヨ」という音自体が、スペイン語には存在しないとは…。面倒になってきたが、ローマ字で50音を書き並べて彼女に発音してもらう。
日本語には、スペイン語にない発音が結構多くて驚いた。それにこの二つの言語は、発音は似てるのに表記上では違っていたりする。英語とスペイン語でも、似ているようで実に違っているものだ。当たり前なのだけど。
ローマ字でのZ行はサ行の発音になり、H行を発音するのにはJ行で表記しないとア行つまり母音の発音になってしまう。ゲはヘになって、ツとナニヌとヤ行とワとキャシャチャヒャミャ行などが言えない…。
「なぁ〜、そんなに真剣じゃなくたって良いんだぜ?」
僕の授業が退屈になって、トニーがまぜっ返して言った。
「ティミー? スペイン語で、[アイ・ラブ・ユー]は何て言うの?」
「おいトニー、何言ってんのさ!」
「じゃあ人生で、最も重要なフレーズはなーんだ?」
さすがは先生だ。
「OK、わかったよ。確かに知っていると良いかもね」これは遊びの授業なのに、僕は真面目にやり過ぎた。そうだよ、楽しくなくちゃね。
ティミーは恥ずかしそうに、小声で答えた。
「何? オートラ・ベス[もう一度]」トニーが、耳に手を当てる仕草。
「テ・アモ…」
トニーと僕は、その言葉を繰り返し確認しあった。「これは僕達にもユースフルだよね?」
「で、どっちが[ラブ]なんだろう」僕の疑問に、トニーがフランス語の[アモール]を引き合いに出して教えてくれる。そっかぁ、さすが教え上手。
僕はふざけて、目の前のティミーに「テ・アモ」と言ってみる。彼女は僕の目を見ると、困惑顔でうつむいてしまった。「ごめんごめん、心配しないで。冗談だよ」本当にシャイというか、純情なんだなぁ。「それじゃあさぁ、ティミー。[キス・ミー]は?」
「ベサ・メ」
「えぇっ、ベサメ? ムーチョ?」僕は笑ってしまった。スタンダードなラテン音楽の曲名が、実は[もっとキスして]なんて意味だったとは知らなかった。キスを[ベサ]と言うのは、おそらくフランス語の[ヴェーゼ]から来ているのだろう。やはり愛の言葉がフランス語っぽいというのは、妙に説得力がある気もする。
「日本語で[ベサメ]は、[キスして]と言います。ティミー、繰り返してごらん」
「キスして」
おわぁーっ!! 生々しすぎて、背筋がゾクゾクするほど日本語! 僕がママ達にスペイン語の発音を褒められるように、ティミーの日本語もまた上手だったのだ。
「上手過ぎるよ、ティミー。オートラ・ベス」独りで照れまくっている僕を見て、ティミーは不思議そうな可笑しそうな表情をしている。
「キスして…」
ドキッとして、顔を上げて彼女を見る。
彼女も僕を見た。
あれ、部屋の中には二人だけ…いつの間に!?
頭の中がクラクラしてきた。椅子をくっつけ合わせるように並べていたので、彼女の唇は目と鼻の先だった。ティミーの息づかいを感じるくらい、距離は危険な近さだった。まったく馬鹿げた話だが、この瞬間、僕は日本で女のコと密室にいるような錯覚を覚えた。
(ヤバイぞぉーヤバイぞぉー!)
彼女の目を見れば、そこに何の感情も無い事は一目瞭然なのだが…ドキドキする!
「ひどいぜトニー、二人きりにするなんて!」
「嬉しかったくせに。それにしても、やけに早いじゃない?」
「おいおい、僕が彼女に何もする訳ないだろ」
グラシエラとビアネイの部屋に行って、僕はトニーに抗議した。
「で、ティミーは?」
「僕が『トニーはここにいるだろうから捜してくる』って言ったら帰っちゃったよ」
ビアネイが笑顔で「サルベッサ?」と尋ねるので、冷蔵庫からビールを取ってもらう。
僕の日本語教室、第二回目は「乾杯!」で開講した。
2005年08月15日
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