「ベンガンザ!」
トニーはそう言った。リベンジ[復讐]という意味だ。
彼は、ジョアンナに加勢してマカレナ軍団に仕返しをするという。事の起こりは一昨日、彼女がタチアナやビクトールのくじに当たったのに景品をもらえなかったのが発端だ。
くじ自体は、トニー曰く「アメリカの子供達の間でも珍しくない」のだそうだ。元々はボーイ・スカウトや小学校のクラス単位で、収益金を行事予算に充てる目的で行われてきたようだ。いわば地域の子供会でやる(お楽しみ会)みたいな感じで、そのアイデアを子供同士で遊びに応用したんだろうな。
仲間内で小遣いを出し合って運試しをする、その胴元がチョンボしてるのだ。大人の世界でもありそうな話だけど、それがこじれた結果がジョアンナの復讐だった。とはいっても水風船、可愛いもんだ。
タチアナ達の一家は、ブラジルから移住してきたらしい。そういえば、連中は学校に行っているのだろうか? 僕が通れば、いつでも「マカレナ、マカレナ」と飛び出てくるが…。
僕もトニーに誘われたが、どうせまたビショ濡れになるんだと思うと気乗りしない。しかも先日は、ヨーディのレガロ踏ん付けたり散々だったからなぁ。
家に帰るとグラシエラが出かけるところで、これから仕事かと思ったら「英語のクラスに行く」のだという。ちょうど僕もポスト・カードとか買いに行こうと思っていたし、セントロまで一緒に行くことに。
グラシエラの英語は分かりやすかったけれど、たまにスペイン語訛りの発音で混乱してしまう。ギターをギターロ、スターをスタールというようにrをrr(ダブル・アール)で発音するのだ。語学力としてはビアネイのほうが達者だが、ただグラシエラは他の単語や仕草で補うのが上手かった。
しかしまた僕も日本語訛りで発音しているんだろうな、そう気にし始めると会話に集中できなくなるが。
その時、前方から歩いてくる一人の若者が目に付いた。まだ雑踏に見え隠れしてる段階から、何故か浮き上がって見えたのだ。外見上は、目立った特徴のないバック・パッカーなのに。すれ違う寸前、その男が日本人だと分かった。
「ハポネス[日本人]!」
思わず吐き捨てるように口走り、相手は僕の凝視に気付かず過ぎ去っていった。異国で出遭った同じ国の人間に、強烈な不快感を抱いた自分に戸惑う。そんな抑え難いほどの悪感情に…。
困惑した顔のグラシエラを見て、はっと我に返る。あの男が何だっていうんだ? 周囲の誰ひとりとして、彼に反応を示さなかったのに。きっと僕は、どうしようもなく日本人である彼の姿に自己イメージを傷つけられた気がしたんだ。
ダラス空港で日本人グループを見た時、同じように僕は腹がムカムカした。同類と見なされる事への反発心だけでなく、鼻に付いたのは(カッコ悪さ)だった。服のセンスも、歩き方のせいで台無しだった。
その足運びは見慣れた動作で、他の人種の中で奇異に映る理由は見当が付かない。だが間違いなく、この嫌悪感は日本人独特の動きにあった。あのみっともない歩き方は、鏡に映った己の姿なのだ。しかし、それならば何故あの男は僕に気付かなかったのか…? そう思うと、釈然としないモヤモヤが晴れなかった。
このようにして、初めて僕は日本人と遭遇した。
グラシエラの英語学校は、しょぼい雑居ビルの一角…かと思いきや、意外に小ぎれいな一軒家を使っていた。こぢんまりとして、白い二階建ての家だ。ガラス戸を押し開けるとロビーの正面に階段があり、脇には小さなガラス戸をはめ込んだ受付があった。まるで診療所の窓口みたい。
彼女は、いきなり突拍子もない事を言い出した。
「一緒に授業を受けてみない?」
アポなし体験レッスン? いきなり平気なのか心配だけど、ダメなら謝れば済む事だな。グラシエラは板張りの狭い階段を上がり、引き戸に付いた小窓から教室をのぞき込んで言った。
「あっ、もう始まっちゃってる…。私の後から、静かに入ってきてね」
がらり、と鳴り響くようなドアの音で授業の声が途切れた。グラシエラは怪訝そうな女性教師に近寄って事情を説明し、彼女の目配せで僕は教室に足を踏み入れて自己紹介をする。気分は転校生だ。あちこちから(クスクス)と忍び笑いがもれ聞こえた。
よーし、もう大丈夫。みんなの中に僕は「変なガイジン」として認知されたのだ。すかさず、先生が英語で何か気の利いたジョークを言ってみんなを笑わせる。よく聞き取れなかったが、周囲にあわせて薄笑いを浮かべておく。まぁこういうシチュエーションだから、おおよその察しは付く。授業を再開させるため、先生はとりあえず一発笑いを取ったのだろう。
室内は、二人掛けのテーブルをくっつけて並べてある。全員が向き合って話し合える配置だ。グラシエラが僕にも見えるようにテキストを開いたが、僕はただ興味本位で授業に参加してるだけなので遠りょする。
みんな「変なガイジン」が気になってしまうらしく、ちらちらと僕を見て先生に注意を受けていた。勉強の邪魔はしたくないので、僕のせいで授業が滞るのは心苦しい。
やがて前の席から順にプリントが配られたが、活字を追っていると眠くなってきてしまった。見るともなく図柄を眺めていると、突然それが何なのか判った。これは有名なナスカ〈地上絵〉じゃないか! でもどうしてマヤ文明の地で南米大陸の古代文明を…?
カンクンに来る前にマヤ〜アステカ文明について書かれた本を読んでいて、その中には南北に散らばった様々な文明の符号を示唆しているものもあった。その中の「かつて北米から南米に至る、広範囲な交流と文化ネットワークが存在したのではないか?」という、途方もない説が脳裏をよぎる。
ゾクゾクしながら先生の言葉に耳を立てていると、今まで古代文字に見えていた英文の説明がスラスラ理解できた。内容的に目新しい古代文明の情報はなかったけど、やる気を持てば僕の読解力も結構できるんだな。
休憩時間のチャイムが鳴り、グラシエラが僕を教員室に連れて行ってくれた。彼女は40から50代くらいの快活な女性で、日本に滞在した事があるという。知り合いだった日本人に招かれたそうだ。
先生の英語は滑らかだったけれど、完璧なスペイン語訛りだった。皮肉な事に、グラシエラの発音は実に優秀だったのだ。こうしてメキシコの英語教師と話してみて、なるほど日本の英会話教室にありがちな「ネイティブによる本場の英語!」なんて殺し文句もまんざらではないなと思う。
トニーがここで教える事が出来れば、きっと生徒にとっても彼の懐にとっても良いだろうに…。それは彼自身も最初は考えたらしいけど、メキシコの賃金では割に合わないのだとか。物価と同じく労働単価も当然安い、どうしようもない問題だ。
2005年08月15日
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