2005年08月15日

メキシコ旅情【立身編1・プラジャ・デル・カルメン】

 延々と伸びる、ひと筋の街道。それは一見すると平坦な密林の大地が、実は大きくうねっている事を教えてくれていた。
 静かな雨は止んで、重く垂れ込めていた雲が遠ざかった空には夕闇が立ち込めている。そして車の後方には、鈍い残照に暗い虹が大きく架かっていた。フロントガラスには地平線の暗闇に向かって道が伸びて、僕らは雨雲を追いかけているようだ。
 みんな疲れてきたのだろう、その言葉のない時間は僕にとって心地よかった。あんまり周囲が元気良すぎたので、それに併せているだけでも苦痛になってきていたのだ。
 少し眠っていたらしい。気が付くと街道からはずれた道を走っていた。未舗装の砂利道に出来た、大きな水溜まりを避けながら。ゆっくりと蛇行運転を繰り返し、道全体が水没している箇所では床下から車内に浸水してきた。足元の鉄板は、穴だらけなのだ。
 カンクン郊外の雰囲気に似ているが、夜道にしては結構な人出だな。歩き方から、地元の人間じゃなくて観光客のそぞろ歩きだと分かった。かすかに潮の匂いがする、海沿いの小さな村に来ていた。
 何軒かの、開放的なレストランの前を通過した。どの店も明るく賑わい、マリアッチが陽気な音楽を奏でている。エドベンは駐車スペースを捜しながら運転している様子で、僕は長い一日の空腹に居ても立ってもいられなくなってきた。
 しかし華やかな町並みを外れ、車はビーチへと向かう。さりげなく食事の提案をしてみるが、誰からも返事はなかった。トニーだけが「おなか空いたね」と答えた。

 この町はプラジャ・デル・カルメンだと、トニーが教えてくれた。彼は以前にもここに来た事があるのだそうだ。
「ここのほうがカンクンより物価が安くて、バックパッカー向けだね。治安もそれほど悪くない」
 トニーは、この庶民的なリゾート地を気に入っているようだ。確かにここは絵に描いたような南国楽園海岸だった。ヤシの根元に貸し出し用ボートが並び、ソウル・ミュージックの流れるココナツ型のバーがネオンを連ねている。
 車を降りた一行は、どうやらこれから一杯やるらしい。お約束のような選曲で「トラック・オブ・マイ・ティアーズ」が流れている…悪くないねェ! 夜風に、海の匂いと草木の香りが交じり合ってそよぐ。それにしても雨上がりの砂浜は、歩くごとに濡れた砂が跳ね上がって厄介だ。
 目的地は、今朝がたコーヒーを飲んだ店を大きく派手にしたような吹きさらし店だった。つまり、映画「カクテル」に出てくるスタンド・バーそのもの。結構混み合っていて、カウンターを囲む椅子はすべて埋まっていた。人数分の席が空くのを待たず、二手に分かれて席を確保する。
 椅子の代わりに天井から吊られたブランコは二人掛けで、ビアネイとグラシエラが並んで腰掛けた。トニーと僕は、まさか一緒に座る趣味はないので互いに席を譲り合う。そこエドベンが満面の笑顔でやって来て、僕らの肩をバンバン叩きながら言った。
「もう注文したか?!」
 彼はバーテン越しの向かい側に、大学生達と席を取っていたのだ。
「いや、これから。エドベン、何かオススメの飲み物はある?」
 すると彼はカウンターに身を乗り出し、バーテンダーに向かってスペイン語でオーダーしてくれた。マヤン・サクリファイス…? 聞いたこともないカクテルだなぁ。
 カウンターに並んだのは、トニーと僕の2人分。深紅の液体の表面に青白い炎が揺らめき、しかも太いストロー付きときたか! まったく、こんな事だろうと思ったぜ。燃えてるんだから100プルーフ(50度)以上って事だろ、ただでさえストロー呑みは効きが早いっていうのに…エドベンめ!
 エドベンは得意の笑顔で、僕ら二人にグラスを持たせる。
「サルー!」
…じゃあないっつうの。
 
 度数の高いカクテルはショート・ドリンクと呼ばれて、ふつう漏斗型の小さなカクテル・グラスで作って二、三口で飲み干せるものだ。しかし「マヤン・サクリファイス」は、コリンズ・グラスに近い細みのグラスを使っていた。
 ストローの先から揮発したアルコールでむせそうになる、それを見てマヤ人の末裔たち三人は大爆笑。用心しながら一口すすると、案の定ひたすら強烈なアルコールの味だ。ここまでキツイとベースの酒なんて判らないし、それが何だろうが違いはない。
 ビアネイが興味津々に僕を覗き込み、「どう、美味しい?」と尋ねる。
「まぁまぁかな。呑んでみなよ」
 僕が平然として言うと、彼女はグラスを受け取ってそっと吸い込んだ。一瞬(うっ!)という顔をして、また大笑いした。「遠慮しないで、もっと呑みなよ」と言うと彼女はグラスを押し返し、グラシエラもトニーから一口もらって顔をしかめた。
「エドベンもどうぞ?!」
 さすがに彼は誘いに乗らなかった。僕はほとんど残して、トニーに至っては口を付けただけ。ビアネイが僕に、彼女達と同じ「ピニャ・コラーダ」をオーダーしてくれた。
「ピーニャっていうのは、パイナップルのことなのよ。知ってた?」
 前にも彼女から同じことを聞いた気がする。多分、スペール・メルカドに行った時だろう。

 ここからどういう話の流れでそうなったのか覚えていないのだけれど、僕はビアネイにマッサージをしてあげた。多分(疲れたでしょ、肩揉むよ)程度の事だったのだろうと思う。それを見てトニーが「上手だネ」と感心したので、僕はふざけ半分で答えた。
「シークレット・アームズさ」
 意味が伝わっていないトニーに、僕は日本語で確かめる。「秘密兵器は、シークレット・アームズでいいのかな。」
「うーん、そうね。まぁ、それで通じるョ。でもなんで?」
「えぇとね、後で話すよ。」 …あれ、判らないのかなぁ?
 手を離すと、ビアネイがうっとりとした瞳で僕を見上げた。踊っている時と同じ艶っぽさだ。彼女は時々、恐ろしくセクシーな別人に豹変する。いかんいかん。トニーが、さりげなく日本語で話しかけてきた。
「それで君の〈セクレテ・アルマ〉ってなんなの?」
 男同士の密談は、日本語で始まり英語で終わった。
posted by tomsec at 02:37 | TrackBack(0) | メキシコ旅情7【立身編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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