2005年11月08日

 メキシコ旅情【郷愁編・5 ブラジリアン】

 堪らなく眠いのに、トニーに起こされた。全身が筋肉痛で、錆び付いたように身動きひとつ出来ない。やっとの事で簡易ベッドから半身を起こす、それだけでもかなりつらい。
「サワー・マッスルは、体を動かさなきゃ治らないよ」…確かにな。
 もう昼過ぎで、さすがに腹も減っていた。呻き声を上げながら立ち上がり、ひざをガクガクさせながらシャワーを浴びる。昨夜の出来事が、映像の断片になって脳裏によみがえった。チキン・ダンスを長々と踊ったせいか、筋肉痛は背中が特にひどかった。
 トニーに連れ出され、夕飯の買い出しに。
「ママ達に、何か日本的な食事を御馳走しよう。いつもコミーダを食べているお礼に」
 名案だ。そして、そう言われちゃあ毎日ママに食べさせてもらっている僕が寝ている訳にはいかないわな。彼の話では、ちょっと歩いた所に持ち帰りの寿司屋があるという。
 ほほう…。それって、ぐるぐる回ったりするの?

 いつもと違う空だった。珍しく薄曇りで、一雨来そうな気配。
 カンクンの空は快晴かジュビアの両極端で、こういった半端な空模様は初めてだ。風は心地よく、照りつける陽射しもないので却って過ごし易い。生暖かな風は入梅の匂いを想い出させるが、それは冬に思い浮かべる夏のようにセンチメンタルだ。暑いばかりの毎日に、実は飽きていたのかも知れない。
 トニーはセントロに出ると、繁華街を素通りして更に進む。石畳の歩道をひたすらまっすぐ歩き、そこから僕の土地勘が及ばなくなってきた。しかし地理感覚が正しければ、この先をずっと行けば飛行場がある筈だ。
 ビルの上から水滴が…と思ったら、次第にポツポツと降り出してきた。妙に遠慮がちなジュビアは優しく降り注ぎ、町は溶けあうように淡く発光している。しばらくビルの軒先で雨宿りしたものの、いつもと違って数分で止む様子もない。雨足が、いくらか弱まったところで再び歩き出した。
 やがて、トニーが右側を指して言った。
「ここがグラシエラとビアネの働いている病院だよ」
 それは雑居ビルにさえ見える地味な建物で、もう一度この道を通っても見過ごしてしまうだろう。すでに町並みはセントロから外れて、アパートメントなのかオフィスなのか判別が難しい建物が続く。ずいぶんと歩いたな、ここから引き返しても一人じゃ帰り着ける自信がない。
「もう少し行けばエレーナのアパートがある。ちょっと立ち寄っていこう」
 彼女は、トニーのスペイン語の家庭教師だ。
「ついでに、店までの道順を聞いてみよう」…って、道を知らずに歩いていたのかよ!

 エレーナが住んでいるのは三階建のアパートで、幅広な石畳の歩道と庭先の芝生を街灯がみずみずしく照らしている。
 建物の内部は暗く、湿ったコンクリートの匂いがする。トニーは先頭に立ち、廊下の奥で部屋番号を確かめてからドアを叩いた。間を置いて乱暴に扉が開き、何故かマッチョ系の大男が顔を突き出した。げっ、ヤバイかも…! 僕は瞬時に、逐電スタンバイ状態。
「トニーなの?」
 中から声がして、駆け寄ってくる足音。エレーナの強烈なハグに出迎えられ、面食らいながらもホッとする。ボーイフレンドも打って変わった笑顔で、僕らと力強い握手を交わした。きっと来客の予定もないのに誰かがドアをノックしたので、彼もピリピリしちゃったのだろう。
 エレーナはベランダを背にしたソファに沈み込むと、僕らに「楽にしてね」というようなことを言った。
 部屋の天井が高く、玄関からテラスまでの二間が素通しになっているので採光性が生かされている。応接セットの他に家具はほとんどなくて、空間の使い方がリッチで開放的な部屋作りだと思う。
 グラシエラ達やエドベンの、メキシコ人が暮らしている部屋の持つニュアンスとは全然ちがう。こういうのって、ブラジル人的感覚なのだろうか? かといって、タチアナ達の家とも別だが。
 タチアナやビクトール達の家には、ジョアンナの賞金サギの一件で行った。くすんだ壁紙と使い込んでボロボロのアンティークっぽい調度品、乱雑なクッションとガラクタ…。故郷で暮らしていけなくなって移住してきたというから、ブラジル出身というだけで同一視できる訳もないか。
 ふと僕は、ファビオラの顔を思い出した。神秘的で伏せ目がちな感じの、薄幸の美少女だ。くすんだブラウス、磨かれていない革靴、それ以上に恥ずかしいくらいドキドキしてしまったのは…。彼女にハグをして初めて、シャワーを浴びられない貧しさというのを感じたからだ。
 ファビオラは学校に通うために、移住した親類の家に身を寄せているのだそうだ。ブラジルでも相当貧しい家庭に育ち、今の居候先でも彼女を養うだけで手一杯なのだという。決して陽気とはいえないけど、凛とした立ち方とあの微笑は美しい。

 トニーとエレーナが話している間に、僕は熟睡しそうだった。今から彼女の友人達が遊びに来るというから、よい潮時だ。彼女とのハグとボーイフレンドの握手に送られ、僕らは通りに戻った。
 ブラジル人とメキシコ人のハグは、何となく違うと思う。
 エレーナ達は、豪快だ。こちらが気後れする程の明るさで気持ち良い。「セニョール・フロッグ」で逢った、エレーナの(ホルモン系の)友達なんか、頬骨がぶつかりあう位の勢いだったからな。
 それに比べるとメキシコ人は、どこか板に着いていない気恥ずかしさがあるような。そっと抱き合うみたいで、若干エッチくさい感じがして照れ臭くなる。それはそれで好きなのだけど。また国内でも、中央メキシコ出身のビアネイ達とマヤ系のヘセラとでは何かまた別の違いがある気がする。
 それは決して、僕がヘセラに特別な感情を抱いているせいでは無い。…と思う。

 トニーがメキシコに来たのは、エドベンがいるという理由の他に(スペイン語をマスターする)という目的があったらしい。いつだか、彼は言った。
「世界じゅうの国々でもっとも話されている言葉は、何だと思う?」
 そりゃあ、英語でしょ。
「だとすれば、スペイン語はその次だ。スペイン語を使う国は、英語より多いよ」
 なるほど、アメリカでも英語を知らないヒスパニック人口が急増していると聞く。英語とスペイン語があれば、仕事の幅が拡がるもんね。それにトニーは、フランス語も中国語も出来る。人は見かけによらぬもの(?)だ。
 今、彼は家庭教師を頼んでスペイン語を習っているが、発音と文法には手を焼いているらしい。動詞の変化形を覚えるのは大変そうだが、発音の仕方は日本語に近いのだそうだ。エドベンのママが言っていた「あなたの発音は良い」というのは、あながちお世辞ばかりでもなかったようだ。
posted by tomsec at 01:52 | TrackBack(0) | メキシコ旅情8【郷愁編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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