今朝は、予定もないのに午前中に目を覚ました。この頃にしては珍しい。
強い日差しの中に立つと、ふつふつと気力がみなぎっていくように感じられる。こういう朝は最高の気分だ、何か良いことがあるに違いない…!
そんな一日の始まりだった。
いつもの如くママのコミーダを食べて、書棚の本を見ているとトニーが顔を出した。
彼はこれから映画を観に行くので、僕を誘いに来てくれたらしい。映画無料デーなのだろう。しかし、観てても疲れるだけなので遠慮しとく。日本語の字幕なしで平気なほど、僕は語学堪能じゃないからな。
そこにロレーナが、今日も不機嫌そうな顔して奥から出てきた。トニーは彼女から紙の束を受け取ると、それを僕に手渡して嬉しそうに言った。
「ちょうど良かった、これが出来上がるのを待ってたんだ」
ディズニー・アニメ「ジャングル・ブック」スペイン語版の台詞をタイピングしてもらったんだという。彼は自分の持っているビデオを、スペイン語学習の教材として活用するつもりらしい。だけど、なぜ僕に…?
「観ているだけでストーリーが判るし、台詞も簡単な言い回しが多いから役に立つよ」
って事は、つまり僕がやるの?
「耳で聞いて文章を見ればダブル・チェックだからね!」
あ、ひょっとして映画に行ってる間の宿題かよ?!
トニーは出掛ける直前、日本語でこんな事を言い残していった。
「今夜、踊りの場所にアイヌ達と行きます。」
「えっ? あぁ、アイヌってヘセ…」
「シッ!」
日本語で話すのは楽だけど、英語を使わないと逆にややっこしくなる。
要するに伝言を頼んでた件だな。雑貨屋「アメリカ」で彼女達と逢ったのは一昨日だから、昨夜が「ディスコに行こう」と言われてた日だけど…? 音沙汰ないからすっかり・れていたが、エドベンが予定を変更したのかな。
(今夜、か…)
ヘセラの魔力的な瞳と肌を想い出して胸が高鳴る。ものすごい引力だ! でもやっぱり、スシ男たちも来るんだよなー。ちぇっ。
僕は、書棚からマヤ関連の新書を一冊借りて部屋に戻った。
マヤに関する本は、メキシコに来る前に何冊か読んでいる。本によって文明の解釈が大きく異なったりするのは、まだ推測の域を出ない未知の部分が多いからだろう。スキャンダラスに扱われがちな生け贄の習慣についても、未だ事実が解明された訳ではない。
僕が知りたかったのは、主にマヤ暦の事だった。現在使用されているグレゴリオ暦よりも非常に古く、はるかに正確なカレンダーがマヤの人々によって用いられていたという。紀元前3114年8月11日に始まって西暦2012年12月21日に終わる記録が、発掘された遺跡の石板に刻まれていたそうだ。
だけど今まで読んだ本には、それ以上は詳しく書かれていなかった。マヤ暦と西暦の何が違うのか? といった疑問も、書棚で見つけた本を読んで一気に氷解した。とはいえ複数の周期を組み合わせる方法そのものが複雑で、大枠を理解するだけでも大変だったが。
マヤ暦の複雑さは、今世紀に入って数学の概念が追いつくまでは馬鹿げた模様と見なされていたのだ。しかも石板に刻まれた五千年近い歳月さえ、マヤ人にとっては更に大きな周期の一部でしかなかったという。
こういう、常識的な価値観が根こそぎ引っ繰り返るようなカタルシスは堪えられないものがある。やっと西欧文明にも理解できるようになった叡知が、はるか太古の時代に存在していたのだ。
本と首っぴきでノートに向かい合っていると、あっという間に時間が経ってしまった。ひとくちにマヤ文明といっても数千年にわたって広範囲に拡がっていったので、地域によって更に尊かな農耕祭祀用の暦が幾種類もあってキリがない。
切り上げて、気分転換に「ジャングル・ブック」を観る。
ロレーナがワープロ打ちした紙束と、画面をチラチラ見比べてながら台詞を追いかけるのだ。なんだか慌ただしくて、ものすごく疲れてきた。一発本番のアテレコ作業やってる声優の気分。
トニーがドアを開ける音で、僕は簡易ベッドから半身を起こした。目を閉じてから、まだそれほど時間が経っていない気がする。
「シエスタ中だったか、ごめんね」
そう言って、彼はすぐにクーラーのスイッチを入れた。僕が冷房を使わずに・寝してたのは、考えられない事のようだ。さすがに喉が渇いたけれど、ビアネイ達がまだ帰ってないので冷蔵庫が使えなかった。
「行って帰ってくれば、ちょうど部屋も冷えているさ」
という訳で、角の雑貨屋に出掛けて属み物を調達する。僕は「アメリカ」行きを主張したが、トニーはやっぱり緑道の先にある雑貨屋のほうが好きらしい。
「今夜のディスコ話、どうなってるんだろう?」
「詳しい事は判らないけど、たぶん大丈夫でしょ」
「でも、エドベンの事だからねぇ…」
夜が来て、僕の不安は的中した。
エドベンの車は、セントロの外れで停まった。大通りに面してはいるが、薄暗く人通りのない寂しいエリアだ。この場所は知っている気がするけど、どの辺りだったか思い出せなかった。
明かりの消えたガラス戸の横に階段があって、エドベンは振り向きもせず先に上がっていく。どうやら二階はディスコじゃないな、非常に怪しげで…。またまたエドベンに一杯喰わされたようで、トニーと僕は顔を見合わせた。
階上から彼が呼んでいる。ここまで来ちまったものは仕様がない。かなり気が進まなそうなトニーに、僕は背後のポスターを指さして言った。
「これだよ、きっと」
彼は一歩後ずさり、ぎょっとした顔で僕を見た。踊るのは僕らじゃなくて、こういう際どい衣装の女性達なのだ。扉の向こうからは、ディスコ・ビートがあふれ出している。僕ら2人は現実との境界線上にいたが、エドベンはすでに暗がりの奥だった。
ストリップティーズ。トニーは、これが違法行為じゃないか多配なのだと思う。ビザなしで長期・在しているので、警察沙汰は洒落にならないのだ。
確かにヤバそうな店だけど、エドベンだってそれぐらい考えるさ。こういう店は「明るくさわやか」じゃ雰囲気が出ないから、わざとこんな感じにするのだろう…。と、分かったような口を叩く僕も二の足を踏んでいた。
僕がワイキキのストリップに行った時も(あの時も連れて行かれたんだが)、やっぱりこんな感じだった。ここのほうが場末の小屋っぽくて格は落ちるが。
トニーが言うには、フロリダのストリップは明るく清潔で安全なのだそうだ。客は悠々自適組で、踊り子にチップ渡すのも孫に小遣いあげるみたいで…ってホントかよ?
2005年11月08日
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