2006年03月06日

 メキシコ旅情【逃避編・9 思惑色々】

 いつも通り遅起きして、まずは両替に行く。
 覚えているうちに行っておかないと、いつもの如く突然のバタバタに巻き込まれて忘れてしまうのがオチだ。
 毎日が、直前まで予想もつかなかった出来事で締めくくられてゆく。(今日こそは何事もなく退屈な一日になりそうだ)と思っても、こう言っちゃあ悪いが心休まる日は一日もなかったからな…。そんな暮らしが楽しくもあり、煩わしく感じる時もある。
 そんな思いも、きっとこの旅が終われば愛おしい思い出に変わるのだろう。でも今は、これが僕の日常でしかない。振り回されてばかりにならないように、ある程度の覚悟をしながらもペースを保たないと。自分の都合は優先させて、何事も起こらないうちに片付けておくに限る。
 ここに滞在できるのは残り6日になってしまった。コスメル島の温水シャワーでもそうだったが、段々と日本の事を思い出す回数が増えてきたような気がする。心は、こうして徐々に帰国の準備を始めているのかもしれない。

 全額両替しようかと思ったが、うっかり使い切ったら大変だからやめておく。帰りにシアトルで一泊するのを考えて、百ドル以上の残高があるからって油断してはいけない。不測の事態に備えて脇目も振らずに帰るのだ。ママの「コミーダ」が僕を待っている。
 食事の後、前夜トニーが借りたビデオをひとりで観る。彼は、珍しく僕を残して出掛けていった。ホゼ(エドベンの3番目の妹の旦那)の友人から携帯電話を買うためなのだが、いつもは何かと執拗に僕を誘うトニーらしくない。それでつい、僕が同行できない程ヤバい用事なのかと気を回したくもなる。
「やっと自分の電話が手に入る!」
 彼は喜び勇んで買いに行ったけれど、この話がまともじゃない事ぐらいは覚悟の上なのだ。慎重派のトニーにしては余程の事なのだろうが、しかし彼はビザ切れだしホゼのアミーゴってのが気に掛かる。
 エドベンが盗難車を売り付けられたのも、ホゼ絡みの相手だったのだ。さすがに今回のアミーゴは別人らしいが、それ故かトニーはエドベンの忠告を聞き流している様子だった。
 トニーは「郷に入っては郷に従う」ような気配りの人で、常に自分がグリンゴ〈よそ者〉である事を意識している。そんな彼だから尚更、エドベンの家族に電話を取り次いでもらう事を心苦しく感じてしまうのだろう。
 長期滞在して交友関係を拡げていくにつれ、昼間は仕事や勉強で忙しい友達と連絡を取り合うには夜の電話が重要になる。しかしエドベン以外の家族はみんな夜が早いし、電話のたびに2階の部屋まで小間使いのように往復させる訳にもいかない。
 しかもこの家の女性達は、トニーの交友関係にあまり良い感情を持っていなかった。彼がろくでもないトラブルに巻き込まれないように気を配るのは、ある意味では当然の親切心かもしれないが…。特に、例の「ベイビー・ベイブ事件」はママ達の意見に充分な論拠を与えてしまったようなものだ。

 ビデオを観終えて、しばらくアマカ〈ハンモック〉でシエスタしていたら3時過ぎ。こんなに何事もない一日は、ひょっとしたら初めてではないだろうか?
 気が付けば、もう陽が傾きかける時刻ではないか。トニーが戻ってこないまま、夕方になってしまった。不安が抑えきれず、とにかく部屋で待つとする。今のところは手の打ちようがなかったし、後はエドベンが帰ってからだと決めた時。
 外で声がしたと思ったら、トニーが勢いよくドアを開けて入ってきた。
 彼がそんなふうに扉の開け閉めをするのは、今まで一度も見たことがなかった。それだけで、彼が相当に疲れて苛立っているのが伝わってくる。
「お帰り。遅かったね」
 僕の声に返事もせず、大きなため息を吐き出しながらベッドに倒れ込んだ。部屋の空気が薄くなったみたいだ、ヤな感じ…。トニーも、僕もずっと黙っていた。
 ややあって、彼が口を開いた。
「夕飯、まだ食べてないよね?」
 弾みをつけるように体を起こすと、彼はそのままバス・ルームに入っていった。
「すぐシャワーを浴びるから、何か買いに行こう。こんなに時間がかかる筈じゃなかった」
 詳しい話を聞く気もなかったが、結局はむだ足に終わったのだろう。トニーは「うまく運べば明日中に手に入るよ」と楽観的な観測をして、それが本気でそう思っての言葉なのか僕は煙に巻かれた気がした。
 携帯なら、誰かに名義を貸してもらえば面倒な手続きは要らないだろう。しかし万が一トラブルが起きたら、そこで最も厄介な相手が警察だと知らないトニーではないのに…。その辺が彼の解らないところだ。

 外に出る時、エドベンが一階のリビングから僕を呼び止めた。
「週末はディスコ! OK?」
 僕に(ヘセラも来るから…)と耳打ちすると、背中をどついてニヤッとした。今さっきまでトニーと一緒だったらしいのに、どうやって話をまとめたんだか。しかも、なんと彼女は独りで来るという。この上なく有り難いけれども、どうやってスシ男や草むら君を切り離したのやら…?
「なぁに、『奴はヘセラの事が好きだから、独りで来い』って言ったのさ」
 またニヤついて(だから、彼女と2人っきりにしてやる)だとぉー?! 余計なお世話だ、どんな顔すりゃいいんだよ。それに2人っきりって、ナニが出来るってんだい。
 まったく、現実的というか即物的というか…。確かに僕は「ヘセラが魅力的だ」とは言ったろうけど、単なる(旅先の恋心)じゃあないか。嬉しいような嬉しくないような、実に困る。

「でも持ってれば、そのほうがイイでしょ? 後でいくつかプレゼントするから」
 トニーと買い物に出た夜道でもヘセラの話は続いていて、更に即物的な話題に進展していた。要するに、コンドゥムを用意しとけ!…と。
 なーんか妙な展開になってきたな〜。エドベンもトニーも、こっちの事は放っとけっての。彼らの熱いスピリットは嬉しいけれど、お膳立てされたら気持ち悪いぜ。
 ここでトニーは、彼独自のプランを持ち出してきた。
 この週末、彼はずっと温存していた「キューバ計画」を実行に移すつもりでいるらしい。しょっちゅう口にしてはいたが、まさか彼がそれを本気で考えているとは思ってもみなかった。前にエドベンと行った時の写真を僕に見せながら、いつもその話は冗談に終始していたのだ。
 やれやれ、またまた雲行きが怪しくなってきたぞ。
「君がいるのもあと少しだし、せっかく安く行けるんだからさ」
「この週末を利用するとしたら、ディスコは無理だろ?」
「うーん、困ったねェ〜。…あっ、そうかぁ。じゃあ、こうすればいいんだ!」
「まさか週明けは無茶だぜ。リコンファームしなくちゃいけないし、荷物も…」
「違う、チケットを延ばすんだ。確か、フィックスでも少し払えばできる」
「僕も出来ればそうしたい、でも無理だ」
「いいや、レセプションに訊けば判る。せいぜい5千円ぐらいだよ」
「そういう意味じゃなくて、僕のお金の問題なんだってば」
 日数を延ばせば、食べるにも遊ぶにも費用がかかるのだ。もう僕は、予算の割に充分すぎるほど濃い時間を満喫している。欲は幾らでも出せるけど、帰りが出なけりゃ笑えない。
「それなら、こうしよう。ディスコが無かったらキューバでブギブギだ!」
[ブギブギ]とはトニーの個人的なスラングで、おそらく英語としては通用しない。
「それは…ちょっと遠慮しておくよ」
「ヘ〜イ、どうして? キューバ女性は美人でスタイルも良いし…オッパイは小さいけど」
 僕は言葉に詰まってしまった。そりゃあヘセラとだって、キューバ女性とだってしてみたい気はする。ただ、そういう目標に向かって行動するのは嫌だった。そういう目配り自体が面倒臭く思えたし、誰かと上首尾に運ぼうという必然性も以下同文。
「あのな…。僕だって男なんだぜ、解るだろ?」
 なんだか懇願口調のトニーに同情しかけて、ちと腑に落ちない点が…。
 ひょっとしてトニーさん、僕のヘセラ話を自分の都合の枕にしてませんか?!
posted by tomsec at 19:59 | TrackBack(0) | メキシコ旅情9【逃避編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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