2006年03月06日

 メキシコ旅情【逃避編・3 マヤの遺跡トゥルム】

 海に面した丘は、切り立った崖になっている。下をのぞき込むと、わずかなばかりの砂浜が見えた。水着姿のカップルが一組、波打ち際で砂の大きなレリーフを作っている。それは舌を突き出すような独特の表情をした太陽で、マヤの「第五の太陽」だった。
 マヤの神話では、この世界以前に四つの世界があったといわれている。そして五世代目となる現在の世界は、西暦に直すと紀元前30世紀よりも昔に始まったマヤ暦の起点でもあった。
 この世界の神とされる太陽は常に、年老いて飢えた舌を出した顔で描かれていた。それは間もなく燃え尽きようとしている姿であり、また生きながらえるための生け贄を要求する恐ろしい顔だと解釈されている。
 神話によると、太陽は男女の神の犠牲から生まれていた始原の存在だ。原初の炎に身を捧げた二神あってこそ、の世界観か。そんな起源に基づいた文明であれば、生け贄もあったのかもしれない。
 マヤの暦は西暦2012年に終わっていて、その時が太陽の寿命であり現世の終焉を意味すると考えられている。当時のマヤの人々は太陽神の飢えをいやすため、あるいは老いた神の延命を願って命を捧げたそうだ。それにしても、世界中で崇められている神は「嫉妬深い、怒れる神」ばかりだな。
 白人のカップルは、笑いあいながらレリーフをより正確に手直ししていた。気が付いてみると、僕の立ち位置は象徴的な気がした。波に消されそうな神の偶像と修復し続ける男女、そして高みから俯瞰している僕…。

 早くも飽きてきた。
 というか、無情な暑さと喉の渇きに気が削がれる。
 古代文明の遺跡に初めて接した訳だし、地方都市とはいえ充分に壮大なマヤの世界に浸っていたい。とはいえ、やっぱ観てるだけじゃあ退屈にもなる。それに日陰がないから、脳天に突き刺さるような太陽からの逃げ場がない。熱された芝生から蒸発する湿気と、海面の反射光でぐったりとしてくる。頭の中には、冷たい飲み物と涼しい木陰の事ばかりが行き来していた。
 これじゃあ、マヤの神だって舌を出すよなぁ!
 勿体ない気もしたけど、売店に戻って喉を潤すほうが重要だ。なのに二人は元気いっぱい、僕の意見には「もうちょっと待って」という答えが返ってくる。あっちの遺跡こっちの遺跡と歩き回り、やっと石造りの小部屋みたいな遺跡に避難できた。と思ったら、すごい湿度と人いきれで耐えられない。あー、汗くさっ。
 立ち入り禁止のプラカードが、出入口の脇に放置されていた。きっと誰かが外して、日除け代わりに入り込んだのだろう。狭くて暗くて何もない場所に詰め掛ける理由は、ほとんど誰もが同じに違いない。
 せめて休憩場所ぐらいは用意して欲しいものだ、それと自動販売機…は無理か。ここは文字通り僻地だから、電源を通すのも水道を引き込むのも容易じゃないよなぁ。
 セノーテもあったけど、それは涸れそうな泉でしかない濁った水溜まりだった。庇のように出っ張った岩盤の下にセノーテ、その真上に遺跡が建っていた。トニーが急な斜面を上っていき、面倒になった僕は腰を降ろして彼を待った。まばらな草は、乾ききっている。
 その辺は遺跡群の端っこで、すぐ近くに石を積んだ壁があった。入口の分厚い城壁とは違って簡素なものだが、この石壁が遺跡の周囲を取り囲んでいるらしい。デタラメなようでいて、案外がっしりした積み上げ方ではある。
 その石壁の外へと抜けるアーチを発見したのだが、残念ながらロープで通行禁止にしてあった。向こう側の木々が、気持ち良さそうな緑の木陰を作っている。この石垣が、ジャングルの生命力をさえぎる結界に思えてきた。この遺跡群もまた、放棄されてから発見されるまで人知れず密林に埋もれていたのだろう。アーチの向こうには、今も眠り続ける古代の何かがあるに違いない。

 突然、日本の夏を思い出した。アブラゼミの、あの喧しい鳴き声がなつかしい。
 ここは静かだ。
posted by tomsec at 19:59 | TrackBack(0) | メキシコ旅情9【逃避編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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