2006年03月06日

 メキシコ旅情【逃避編・2 狭き門】

 プラジャ・デル・カルメンを出たバスは、再び単調な幹線道路を突っ走る。
 また僕は寝た。トニーに起こされると、かなり寝汗をかいていた。冷房を効かせても、直射日光が強すぎるのだ。トゥルムに到着。
 バスは路肩の砂利に僕らを降ろすと、土埃を巻き上げてアスファルトの彼方に消えた。そこから僕はトニーとグラシエラの後に付いて、脇道の歩道をだらだら歩く。わざわざSLを模した乗り物を遺跡の真ん前まで走らせなくても、なんでバス停の位置を移さないんだろう?
 追い抜いてゆくSLから、白人のちびっ子が手を振る。可愛いので振り返す。大きな遊園地などの敷地内を走る、連結式のトラクターみたいな車だ。
 両側から張り出した木の枝が陰になって、ちょっとした暑さしのぎにはなる。しかし風が吹かず、木々の噴き出す湿気がまとわりついてくるようだ。またSLに抜かれたが、三度目は手を振る気になれなかった。暑いし、くたびれてきたからだ。どこなんだよ、肝心の遺跡は…。
 ふぅー、やっと着いたらしい。目の前の密林が開けて、石の壁が続いている場所に出た。さっきのSLが横付けされている。近くの売店で入場券を買うのだろう、そこで飲み物を買うと…やっぱり高かった。商売人は、どこでもそうするのだ。

 グラシエラがトイレに行っているのを待つうちに、僕にもビッグ・ワンが来てしまった。かなり強気な奴が下っ腹に打ち寄せ、ビーサンの足の指が全部くの字に折れ曲がってしまう。
「トニー、緊急事態発生…」
 なんとか平静を装いながら、僕は売店の裏に回る。ドアの付いてない二つの入り口の間に、椅子に座った婆さんがいた。僕が近づくと、手前のほうをアゴで差す。
 トニーは「入口でチップを渡せば紙をくれる」と言っていた、婆さんのひざの上の編みカゴに小銭を入れる。しみったれた量のちり紙だ、これじゃあ鼻も拭けやしない…。しかしダムは決壊寸前、とやかく言ってる場合じゃない。
 一歩踏み入れると中は薄暗く、ひんやりとしていて誰もいない。手前側が小用コーナー、奥の板囲いが大のスペースだった。けっこう広いのは良いとして、その仕切り板は僕の胸までの高さしかない。何故?
 外側から覗かれるだけなら、この際だから我慢もしよう。ところが、その内側は壁から扉まで…びっしりと白い壁を埋め尽くした茶色い五本線のフィンガー・ペインティングが! なんだこりゃ?
 それは洗練されたデザインと無縁の、月日を経た不特定多数の苦悶の筋だった。近寄って気が付いた瞬間、驚愕のあまりに大ちゃんが片足出しそうになり、そのままビクッと硬直する。ヒー、頭が出てきた…! もう後へは引けない、僕は決然とその小部屋に入っていった。
 便座がないだけならまだしも、便器も手形まみれだ。向き直ろうにも扉の縁さえ触れられないし、短パンを下ろすにしても床じゅう模様だらけ。ここを訪れた人々の、やむにやまれぬ叫びに満ち満ちている。なすり付ける指先の力強さよ、でも僕はプライドを捨てないぞ。
 僕は慎重に慎重を重ね、どの面にも触れないように砕心の注意を払って態勢を整えた。そして、排出作戦は無事終了した…が、ここからが最後の大仕事だ。この、しみったれた紙で充足させなければ先人の轍を踏んでしまう。結局ここで踏み外すのだ、油断してはならない。
 角に置かれたホーロー容器に、ヤバめな水が溜まっている。手水鉢を見ながら、僕は(あれに頼るんじゃないっ)と自分に言い聞かせる。
 それにしても、入口で頑張っている婆さんめ! ちったぁ仕事しろよぉ〜。
「アイ・ディド・イット!」
 やり遂げたぞ。暗く寒々しい空気を後に、僕は誇り高い帰還を遂げた。やや興奮気味に、トニーに事の顛末を解説する。
「ハブ・ユー・エバー・トライ・ジ・エア・チェア?」
 僕が[空気椅子]について語る前に、トニーはその単語だけで大笑いした。訳が分からないグラシエラには、僕らが話している内容は検討もつかないだろう。
 さすがに、炎天下でくだらないジョークを言っていても仕方ないので遺跡の中に入る。

 石を積み上げた階段を上がって、肩幅ほどの隙間に入ってゆく。背の丈をゆうに越える石垣に切れ込んだ通路の長さに、本来は敵の侵入を妨げる機能を担っていた城壁の厚みが感じられる。そして現在では、その狭い通路が見事な演出効果を上げる仕掛けになっていた。
 暗がりを抜けた目に眩しく、マヤ文明の世界が拡がってゆく。
 三方がはるか見通せる、なだらかな芝のうねりに点在する巨石を積み上げた神殿群。その光景は、まさに「圧巻…!」の一語に尽きる。今回の旅では予算的に無理だとあきらめていただけに、なおさら感慨深かった。
 テオティワカンやパレンケといった主要な遺跡は、カンクンから離れ過ぎている。チチェン・イツァーでさえ、このキンタナ・ルー州に隣接するユカタン州なのだ。パック旅行の費用は決して高くはなかったけれど、僕の予算では負担が大きかった。それがまさか、こんな近場にもあったなんて。
 トゥルム遺跡には、ピラミッドのような大神殿はない。だが、野っ原に突き出たような石の建造物群は異質だった。内部を見学できないのが惜しい。
 小高い丘に上ると、すぐそこに雄大なカリブ海が。後ろを振り返れば、石壁の向こうは延々と密林の地平線…。飛行機で見下ろした、あの独特な景色だった。
 その時、低木の陰で何かが動いた。一瞬の速さで茂みに駆け込んだ黒い影は、野ネズミにしたってやけに大きい感じがしたけど?
 グラシエラが笑って言った。
「イグアナよ」
 彼女に替わってトニーが説明してくれる。
「メソ・アメリカには、昔からイグアナが住んでいたらしいよ。そういえば、前にも見ただろ?」
 どこでだっけ、セノーテ?…あっ、言われてみればそうだった。ヘセラ達と一緒の時ね!
 でもイグアナって、こんなにすばしっこいのか。
posted by tomsec at 19:59 | TrackBack(0) | メキシコ旅情9【逃避編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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