2006年06月30日

 メキシコ旅情【ハバナ!前編・9 青いバンビ】

 人込みに揉まれているうち、ダンス・フロアの真ん中まで来てしまった。他の3人を見失ったのが気掛かりだけど、次の休憩時間に見つければいいか。
 正面にいる女のコと、たびたび目が合った。(バンビみたい)と思ったのは、その印象的な黒い瞳と栗色のほっそりとした面立ちからだった。青いワンピースの浅い胸元に桃色の貝のネックレスが揺れている。
 ここで踊っている大多数のセクシー系とは違って、どこか物腰に品があるような。ダンガリーの青が、素肌に映えて美しい。お互い、ニッコリほほ笑む。…悪くないじゃない、キューバ。不愉快さもあったけど、こんな気分で一日を締めくくれるなんて。
 トニーの声で振り返ると、イダルミとアイザックが抱き合うようにして踊っていた。僕に気付いた彼女が、はにかんだような照れ笑いを浮かべる。なぁんだ、本当は得意だったんじゃないの。本当に軽やかで楽しんでいる、何も考えずに体が動くままに任せているようだ。
 せめて形だけでもそれらしく…と見よう見まねの即席では、ちっとも様にならなかった。ブレイクやキメのタイミングは、ロックとかポップスとかを聴き慣れた僕の耳には予測不能だった。ラテンに来るならステップは必須だな、リード出来なきゃ男じゃない…とさえ思った。それはカンクンでのダンス・コンテストでも痛感したが、きちんと女性をエスコート出来ない男はみじめなのだ。
Havana_2dancer



 そうして僕が必死になって踊っていると、気付けばバンビが隣にいた。僕と並んでステップを踏んで、ゆっくりと向きを替えて僕を見つめて…ワオ! しかし浮かれちゃいけない、踊る女性にはパートナーが付き物。同伴者もなく女性が踊りに来てる筈がないのだ、日本の感覚と違って。
 じゃあ何故だ? いまや僕らは触れそうな距離で、特殊な引力を無視できなかった。彼女が僕を見つめ、そっと顔を近づけ…。何事かを、僕の耳元にささやいたのだ。でも僕には理解不能だった。
「あの、ノ・エンティエンド」
 ドキドキしつつも、僕にはそう答えるしかなかった。バンビは首をかしげ、再び耳に息を吹きかけてくる。彼女に首をすくめてみせ、トニーを呼んで通訳してもらう。
 彼はバンビを見てから、小声で僕に(本当は判ってるんだろ…)と言った。まさにその通り、訳された彼女の台詞は直球のビジネス・トークだった。しきりに後押しするトニーに、僕は断りをいれてもらう。バンビは最後の微笑を浮かべ、僕のそばから離れていった。
 僕の個人的な考えでは「娼婦という職種は『心に携わる仕事』の一種」だ。異論はあろうが、それは僕の価値観では奉仕を務める尊い魂だ。しかし僕には縁のない世界だった。予算もない。
 トニーは、バンビが口にした値段の高さを嘆いていた。日本に比べりゃ、まぁ安いモンじゃない? というか、この会場の客層と男女比からしてプロスティテュートだらけなのだろうなぁ。

 僕らがステージから目を離していた間に音楽が止んで、前座の時に出てきたオジサンが話をしていた。彼は、実はこの「NGラ・バンダ」のバンド・マスターだった。
「何か日本のこと話してる」
 アイザックは、そう言った。でもそれ以上詳しくは、彼にも聞き取れなかったらしい。
 バンマスがひとしきり話すと観客に拍手をうながして、右ソデに向かって手招きした。拍手に気押されるようにして出て来たのは、何故か日本人の女のコだった…遠目に見ても、とにかく判るものなのだ。間違いなく彼女は、日本以外で育ったアジア人ではなかった。
 ステージに上がった日本人が、バンマスから改めて紹介された。次いで、彼女自身がマイクを握ってあいさつする。その間、拍手の嵐で一切聞き取れず。今、何が起ころうとしているんだろう? 奇妙な焦りのようなものを感じ、僕はトニーに「なんて言ったんだ?」と訊いた。自分の語気が、知らずと荒くなっている。
「んん? キューバ人の話すスペイン語は早すぎてねぇー、それに訛りも強いし」
 彼は気圧されたのか、戸惑い気味に弁解する。イダルミ達にも聞こえなかったようで、訳が分からないまま彼女は拍手に送られて舞台を下りた。女優とか、有名人の類いには見えない。あれこれと想像を働かせてみるが、どうしても分からない。何者だよ? 僕の視線は彼女に釘付けになっている。
 彼女が、若い数人に取り巻かれながら移動し始めた。砕氷船のように人混みを切り拓きながら、現地の男性連中が彼女を護衛している。まるでVIP扱いだな。割と可愛いけど、明らかに気配が素人だ。近くに来た時、彼女と目線が合った。
 その目の色には、自分と同じ(げっ、日本人がいやがる)的なニュアンスがあった。

「…ムネ、マエ。アーッ、アスーカ!」
 マイクから、片言の日本語が聞こえてきた。どうやら、メンバーが観客に振り付けを説明しているようだ。「右」、「左」、「目」、「上」、「胸」、「前」ときて、「アスーカ!」で両手を股間に当ててグイッと突き出す。アソコ、と言っているのだ。ずいぶんと露骨なネタだなぁ。観客達も照れながら、苦笑交じりで腰を落とす。
 そしてラスト・ナンバーが始まった。
 曲の半ばでブレイクして、ドラムがキープするリズムに乗って振り付けが開始される。コール&レスポンス式に、「ミギ?」と言われて「右」と返し、同時に両腕を右方向に。…という調子で続けて、最後のフレーズは会場一丸となって「アーッ、アソーコッ!」グイッ。
 ホール全体に、奇妙な日本語の大合唱が起こっていた。この間抜けでおかしな振り付けを、掛け声と共に繰り返して踊る。やがてドラムにパーカッションが重なり合ってくる。コンガ、ボンゴ、アゴゴ、ギロ。スペイン語で繰り返し、ホーン・セクションも息を吹き返して一気に音楽が沸き上がる。ピアノが刹那げなオブリガードを決め、僕は感極まって泣きそうになった。そしてその時、全てを圧倒する生の歓喜に呑み込まれていった。
 確かアンコールは二回か、それ以上だったと思う。終わったのは、午前3時近かった。意識はもう限界で、アイザック達を見送って帰る間の事は覚えていない。

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