お湯のシャワーで汗を流す。やっぱり、水シャワーより断然に気持ちが良い。
(所詮、僕は日本人以外の何者でもないのだ)と、つくづく思った。コスメル島でお湯のシャワーを浴びて以来、たまらなく湯舟が恋しかった。まさかメキシコ暮らしで日本的なものに郷愁や未練を感じるなんて、しかも日本食より風呂だったとは…! 我ながら意外。
「風呂は素晴らしい日本の文化だよね」
先に入浴を済ませたトニーが、湯上りの僕に言った。彼は日本に住んでいる間、各地の温泉にしょっちゅう出掛けていたのだという。
「でもさぁ、君の国にだって泡立てたバスタブがあるでしょ?」
それを苦々しい顔で否定した彼は、マリリン・モンローみたいに浴槽を泡だらけにするなんて(レトロ趣味のおばぁちゃん)ぐらいなものだと言った。
「さ、すぐに出掛けるヨ。」
いつの間にか、イダルミと連絡をつけたらしい。手際がいいのは結構だけど、パンツ一丁でベッドにひっくり返った僕はダラダラと眠りたかった。
「もう夜じゃないか、冗談だろ〜!?」
どうして今からなんだよ、明日にしようぜ〜。観光めぐりでドタバタするの嫌なんだ、って言ったって聞いちゃいないんだよな。それに旅の手筈を整えてもらった手前、こうしてハバナ風呂にも浸かれた義理もある訳で。
「さぁさ、急いで支度して!『今すぐ行く』って言ったんだから」
だからって、こう事後報告で急かすのは止してくんないかな。
ホテルを出て白タクをつかまえた。もちろん白タクが正面の車寄せに入ってきたりはしないので、海岸通りに立って待ち構える。すると案の定、ものの数分でポンコツが停車した。
トニーがメモに書かれた住所を見せて交渉にかかる。値切ってはみたが兄ちゃんも強気で、結局は言い値を少し下げたところで折り合いが付いた。せめてアメ車ならポンコツでも有り難かったけど、これはひょっとしたらソ連製か…? それはそれで、レアだけど。
海岸通りをUターン、オールド・ハバナとは逆方向に走り出す。コンパクトな車で、恐ろしくサスペンションが軟らかい。あと少しでもアクセルを踏んだら、そのまま遠心力で転がってしまいそうだ。海沿いの道はトンネルに入り、明るいオレンジ色の照明灯が現代的な印象を受ける。
トンネルを抜けると闇の中、いきなり郊外だ。うら寂しい白色電球の街灯が並ぶ、影絵の中をブクブクと間抜けなエンジン音で静寂を打ち破る。コラムシフトなので前席がベンチシートになっていて、後部座席から背もたれに顔を乗せていると首が疲れてきた。路面のデコボコはカンクン郊外より激しく、夜は一段と暗く、兄ちゃんは無口だ。
やがて車は速度を落とし、街路樹に埋もれた外灯が緑色に照らす団地に近付いてゆく。その外観は、まるで自分が生まれ育った下町の都営アパートそのものだ…! 蒸し暑い夏の宵の、空気感まで僕の記憶をトレースしている。自分が今、一体どこにいるのか解らなくなった。更にスピードを落とし、懐かしくて非現実的な場所で車が停まる。
「トニー、逃げようぜ。なんかヤバそうだ」
兄ちゃんは車のドアを開け放ったまま、アパートに駆け込んでいった。
「どうして? 運ちゃんが道に迷ったんで、知り合いに訊きに行っただけだよ」
そんな…って、トニーの方がまともだよな。兄ちゃんは戻ってきて、再び延々と走って住宅街に入り込んだ。道の両脇から歩道が消えて道幅も細くなり、挟み込むように密集した家々のブロック塀越しに団欒の息遣いが感じられる。開け放された窓の明かりと、たまにテレビ中継の音が聞こえてきたりする風情は親近感を覚えるね。さっきまでの静けさはどこへやら、だ。
ただし滅多に車が通らないせいなのか、好奇心まるだしで塀から顔をのぞかせてくる。僕と目が合った途端、部屋の中に向かって大声で叫び出す輩もいて(なんだなんだ〜)と心配になってくる。気分はサファリ・パーク、というよりも裸族の獲物といった感じ。車を停めるたび、目をランランと光らせた群衆が(待ってました)と湧いて出る。
とっとと行こうぜ兄ちゃんよ、何もこんな所で道に迷う事ないだろ〜? 道路はガラガラに空いているのにさ、悪い奴ではないらしいけど「オレは道を知っている」なぁんて言い張ったんなら上手くフォローしてくれなきゃ。しかも「近くだ」と言っておいて、何度となく道を訊いては住民の知ったかぶりに振り回されている様子。もう20人くらいに道を聞いているが、遠回りしたって自分が損するだけなのに。
…とか散々けなしといてから、ちょっと補足。これは後から知った事なのだ。
キューバは社会主義国で、住宅といえど個人財産ではない。つまり全国民の所有物なので、この国の住宅地図は日々激変しているものらしい。事情に応じて空き家の情報を交換しあい、転々と住所が変わってゆくのが日常茶飯事だとか。とすれば白タクの兄ちゃんは、ビアネイの持っていた古い住所から転居順に辿って現住所を追っていったと考えるべきだろうな。誠にご苦労であった。
約40分かけて、やっと到着。イダルミの家は、親戚一同が集まったような大所帯だった。確かめに行った兄ちゃんが戸口で振り返り、感極まったような表情で叫んだ時は思わずこちらも釣り込まれて感激しちまった。しかし甘いぜ運ちゃん、まさか(これでやっと帰れる)とでも思ったのかい?
トニーは僕を車に残して、イダルミとボーイ・フレンドを迎えに行った。そして白タクは、4人に増えたお客を乗せて市街へと折り返す事になる。
イダルミと彼氏のアイザックは大学の職員をしているそうで、英語はかなり達者だ。ビアネイの学友なのだから(下手だというのではなく)彼女と同程度だろう、という予想は大間違いだった。2人とも高い教育を受けたことが感じられる言葉遣いで、ネイティブほどではないが僕では会話に追いつけない。しかもスペイン語の強いアクセントが混じるので、お手上げだった。
「アイザック、どこか良い店に案内してくれるかな」
助手席のトニーが振り返り、イダルミの彼氏に尋ねる。その問いかけに、彼は戸惑ったような思案顔を浮かべた。坊主頭で肌が黒く、中肉中背の青年だ。声変わりしていないような少年じみた声質と、まっすぐな力を感じる瞳。物静かな話し振りに彼の性格が著れているようで、僕は一目で好感を覚えた。
彼は隣に座っているイダルミに助け舟を求めたが、僕から彼女の姿はアイザックに隠れてよく見えない。小柄できゃしゃだが快活そうな彼女は、カフェオレ色の肌に鮮やかなサマー・ドレスを身につけていた。
「何でもいいよ、美味しいレストランとか、流行ってるディスコとか」
トニーが付け足して言ったが、2人は困惑した顔を見合わせていた。
(ディスコ…?)そんなつぶやきがアイザックからこぼれるのを聞いて、僕は(そうか)と思った。多分、彼らはドルと無縁な「普通の生活」をしているのだろう。ディスコどころか、ひょっとしたらレストランさえ行かないのかもしれない。ドルの使い道を知っているのは、外国人に関わる仕事に就いているか〈社会主義的には失業している人種〉に限られるのだと想像がつく。
しばしの沈黙が流れた。
補足(後知恵)
土地の所有は、基本的に国のもの
使用権は農民や組合に
私有財産はある
教育と医療は、基本的に無償
参考資料:
「キューバ・ガイド キューバを知るための100のQ&A」著・カルメン・R・アルフォンソ・エルナンデス 訳・神代修、海風書房
「SERIES 地図を読む7 キューバへ カリブ楽園共和国探訪記」著・樋口聡(あきら) 批評社
2006年06月30日
この記事へのトラックバック