人影がまばらだった出発ロビーにも人が増えて、カウンター前の椅子も埋まってきた。
先程の一件からずっと身動きもせず気配を消していたが、僕の尿意は我慢の限界を越えていた。搭乗する便の発券まで当分かかりそうだし、僕は人の波に隠れて席を立った。遠くに見えるドラッグ・ポリスの死角を突いて、トイレへ歩いてゆく。
「ふぅー」
誰もいないトイレで独りごち、思わず声がもれる。
人の気配に目をやると、大柄な地元の男性が狭い戸口を動きにくそうに入ってきたところだった。意味ありげに僕を見ながら、更に後ろから2体の巨漢が…。
ドラッグ・ポリス?!
連中が用足しに来ただけであって欲しい、だが僕を尾行してきたのは明らかだった。
畜生、こっちはそれどころじゃない。途中で止まっちまいそうになりながら、それも癪だし時間を稼ぐ必要もあった。僕は上半身をひねりながら、努めて明るくあいさつする。しかし先方は意に介さず、警察手帳らしき物を見せて一方的に切り出した。
背後から三方を囲んで、まったく「NY麻薬警察25時」かっての。何言ってんのか分からないが、こちとら揺るぎない潔白だぜ。それにしても身構えてベルトに手をかけるのは止めてもらいたいね、銃なんか出すなよ? これじゃあ時間稼ぎも奇襲作戦も通じないな。
用を終えて向き直ると、圧倒的な体格差が鼻先にあった。このまま別室に連行する気らしく、前後をドラッグ・ポリスに挟まれてロビーに出る。
空港内にある取調室に放り込まれたら最後、白でも黒になる…。トニーが言っていたのを思い出した途端、僕はパニックに陥った。黙って付いて行ったらダメだ!
「友達が待っている、彼のところに行かせてくれ」
泣き出したい気持ちを静めながら、足を止めて彼らに訴えた。
「頼むから聞いて下さい。友人に説明しないと心配するので、僕は逃げないから一緒に来て下さい。手間は取らせません、すぐそこです。お願いだから…」
もう必死だった。ここであきらめたら2度とチャンスはない、僕は冷静に断固として主張し続けた。トイレの前は人気が少なかったが、誰もが(何事だ?)という顔で通り過ぎていく。3人は顔を見合わせ、やがて(いいだろう)というふうに頷いた。
「ムーチャス・グラシアス! あなたがたの好意に感謝します」
こちらです、と案内しながら彼らの先を歩く。怪しまれないよう、歩調を落として何度も振り返りながら進む。トニーの姿が見えて目が合った時、思わず走りだしたい衝動に駆られた。彼は僕の背後に目をやり、すぐに事の次第を悟った様子だった。
「こちらの方々が僕と話したいと言うので、話が済むまで待っていて欲しい…」
もちろん再会なんて出来ないだろう、しかしトニーは懸命の説得を試みてくれた。ありがたい反面、彼のビザは期限切れなのだ! 巻き添えを食らって連行されたら、僕よりも危険な目に遭うのは明白だった。
私服警官たちは聞く耳を持たず、僕をうながした。
「ありがとうトニー、ちょっと行ってくる。フライトに遅れそうだったら先に行ってくれ」
もはやこれまで、だな。
「OK…一緒に行くよ。いいだろう?」
もちろん僕は断ったけれど、トニーは決然とした表情で同行の意志を告げたのだった。そう言ってくれたのは…正直いって心強かった。
僕ら2人はドラッグ・ポリスに従って歩きだした。
取調室には、レスラーの控室かと思うほど何人もの私服警官がいた。「虎の穴」だと思った。
トニーに小声で指示されて、僕は(お馬鹿な外国人観光客)を演じてみせる。愛想よくポケットの中身を並べ、担当者にカバンを突付かれたら手早く開いた。せめて今回はサープラス[軍放出品]のカバンは避けるべきだったな…。
トゥルム旅行の検問で引っ掛かった小バッグ、それに大きいリュックまで軍製品だ。こうなると判っていたら、以前トニーに貰ったスーツケースで来てたのに。だけどこれでメキシコに来ちゃった以上、選択の余地はなかった。
リュックを開けようとして、担当者の手に遮られた。奥に座っている小男が、僕らを連行してきた男達と言い合っているようだ。
「まぁ気にせず見てくださいよ。ついでだし、とりあえず」
トニーが(よせ!)と忠告するのも構わず「はいこれタオル、こちらがシャツにパンツ…」とやっていると、担当者が黙ってリュックの上ぶたを閉めた。
「いやいや、そう言わずに見て」と妙な意地を張る僕の腕を取って、トニーが有無を言わさぬ口調で(終わりだ、すぐにしまうんだ)ささやいた。
「なんでさ? こうなったら、とことん身の潔白を…」言い終わらないうちに、彼が語気を荒げた。「もういいんだ、行くぞ!」
渋々、訳も判らず荷造りし直していると(奴らの気が変わらないうちに出るんだ!)と急かされた。そそくさと荷物を抱えて「虎の穴」を早足で離れ、発券カウンターでリュックを預けると税関を越えた。ここまで来れば治外法権だ、もう奴等に怯えてビクつく心配もない。
「なんだ、心配するほど大したコトなかったじゃん」
正直ホッとして軽口を叩く僕を、トニーは冷ややかに見た。
「奴らを甘く見るなよ、今は運が良かっただけなんだ」
奥にいた初老の小男こそがボスで、たまたま彼の食事中に僕らの取り調べが行われようとしていたのだ。こんな時間にボスが食事してくれていたおかげで、それに(檻に閉じ込めておこう)と思わなかった事で救われたのだ。僕らが「虎の穴」から抜け出せたのは、偶然と奇跡と一種の気まぐれだった。
「今すぐヒゲを剃って、少しはサッパリしろ!」
怖い目をしたトニーに命令されて、僕はすぐに不精ヒゲを剃って借りたシェーバーを返した。そんなの普通は親しくても貸し借りなどしないが、僕は最初から持っていないし売店にも置いていなかったのだ。
「いいか、ここは日本のように身の安全が保障されている国ではないんだ」
彼は僕に「キリング・フィールド」という映画を観たか、と尋ねた。その一言だけで、充分に言いたいことは伝わってきた。僕にとって〈正しいこと〉が、万国共通な正義とは限らない。それは単に、僕の属するシステムが依拠する倫理観の象徴でしかなかった。いくら声高に(権力機構の腐敗)を非難しようと、ここでは僕の正義など何の力も持たない。ジャッジするのは彼らだった。〈長いものには巻かれろ〉ではなく〈郷に入れば郷に従え〉なのだ。
「迷惑を掛けて、本当に申し訳ないと思ってる」
「楽しい旅行をしたければ、目立たず保守的にならないと。これは覚えておいて損はないよ」
搭乗ゲートの正面に係員がやって来た。間もなくカンクン出発だ。
2006年06月30日
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