2006年06月30日

 メキシコ旅情【ハバナ!前編・1 ドラッグ・ポリス現る】

 久しぶりに早起きだ。エドベンを待たせてしまわないように、急いでキューバ行きの支度をする。空港で働いている彼の出勤ついでに、僕らは車に便乗させてもらうのだ。こういう時に目的地が一緒だと、こちらも気兼ねがなくて良い。
 1泊2日の、首都ハバナだけの小旅行…にしては大荷物だった。インライン・スケートの道具一式を持って行くからだが、しかもトニーときたら更に行商みたく余計に詰めて遠征状態。自分のシューズとプロテクターだけで充分なのに、向こうで女のコを誘うつもりだな〜?!
 朝は意外に車が多い。出勤ラッシュ、という訳だ。それでも渋滞なしでスイスイ走れるのは、信号や横断歩道が少ないからか。キビキビと活気にあふれた空気は、いつもの僕が目を覚まして出歩く時間帯とは大違いだ。
 ロータリー形式の大きな交差点は、倍速メリーゴーランドのように石像の周りを車が廻っている。ノンストップで合流すると慣れたハンドルさばきで弧を描き、エドベンはウィンカーも出さずにヒョイヒョイッと外側の車線へ移ってゆく。車間距離もスタント・カー並みで、よく事故らないものだと舌を巻く。
 トゥルム通りには、もうセントロの賑わいは無い。もう家並みも消え去り、空港への一本道は低い木々に囲まれている。左手に見え隠れする海は、内陸とホテル地区に挟まれたサンゴ礁の湖だ。全速力で走るから、隙間だらけの車体は風がビュービュー吹き込んでくる。頭上を、超低空飛行のジェットが横切ってゆく。
 カンクン国際空港だ、着いた初日のむせ返るような感覚が懐かしくなる。
「楽しんでおいでよ。リコンファームは任せておいて」
 それから握手をして、エドベンと別れた。

 昨日、トニーは「お金を使わなくったって平気だ」と言っていた。キューバ女性の事だ。
 彼に言わせると、熱帯の女性たちは(心身ともにオープン)なのだという。町なかで友達になって、気が合えばOK。お金目的じゃなく、非常にフレンドリーな感覚で一夜を共にしてくれるのだそうだ。しかも女性たちのほうがゴム特有の匂いを嫌っているので、男性諸氏にとってこれほど都合の良い相手はいなかったろう。ただ彼女達はいまだに感染症にも無頓着だったりするから、近頃は男性側が自衛手段を講じなければならないらしいが。
 もちろん熱帯に属する国すべての女性という話ではないし、どこまで真顔で相槌を打つ話なのかも定かじゃない。でも何となく(そんなモンなんだろう)とは思ったりする、というのも(だって〈貞操〉なんて普遍的な美徳でもないよなぁ)という気がしたからだ。
 つまり〈操を守る〉というのはローカル・ルールの一種であって、それを必要とする集団によって作り出された幻想に過ぎないと。個別に意志として相手を限定するかは別だし、性差による役割分担とも貞操の正邪は関係ない。ひょっとしたら、外敵や天災など死亡率が高い南国にとって繁殖の知恵だったのかもしれない。とにかく機会を設けて人口を増やしていく方が、全滅を回避する理に適っていたのではないだろうか。
 そもそも「熱帯=パラダイス」という発想自体が西洋的な幻想なのだ。この陽差しのように生死苦楽のコントラストが強い、どう猛な自然と気候の中で人々は喜びも苦しみも等しく受け入れていく。性的な事を生きる力として、タブー視するのではなく堂々と肯定してみせる…カッコ良いじゃないか。
 僕の脳裏に、あの「ストリップティーズの踊り子」の感触が蘇ってきた。野性的で、汗に濡れて、火照った肌。それに動物のような匂い、まるで劇薬だ…。その生命力には触れてみたいけれど、僕には取り扱いが危険そうだな。

 だが突然のキューバ行きは、もう出発前から波乱万丈だった。
 まさか搭乗前にドラッグ・ポリスの洗礼を受ける羽目になろうとは!
 ドラッグ・ポリスは、麻薬の取締を行う警官だ。空港で初めてお目にかかった。メキシコの警官は良くない噂ばかりだが、奴らは特にタチの悪い、手に負えない連中なのだと聞かされていた。
 搭乗手続きに並んでいた時、彼らを見かけたトニーは先ず(振り返らないで)と僕に忠告した上で「彼らの注意を引かないように!」と言った。前を向いたまま、さりげなく小さな声でだ。僕は、彼の態度に緊張した。
 ドラッグ・ポリスは3人連れで、肩を揺するようにしてロビーを闊歩していた。どの男も巨漢で人相が悪く、柄の悪い私服姿で、どこから見ても公僕ではない。しかも時々、罪のない若いバックパッカーに麻薬を売りつけて検挙率を稼いだり、押収した麻薬を横流しして小遣い稼ぎに精を出したりしているという。
「最低だな」
 奴らを横目で見ながら言うと、トニーが目で(黙れ!)と合図した。しかし、もう遅い。大男が、向きを変えてゆっくりと近寄ってきた。ただでさえ特に外人を目の敵にしている奴らだ、トニーが急に笑い出した。
「…いや参ったよホント最低だったよな、あの時は!」
 彼の目が(調子を合わせろ)と言っていた。奴らが目の前に来て、トニーは初めて気が付いたふりをして陽気にあいさつする。
「あ、どうも。メキシコは暑いですネ、我々はアメリカから来て…」
「そうかね、良かったらこちらに来て話しましょう」
 奴らの口調はごく普通なのだが、見えない圧力の掛け方を心得ている。危うく〈毒蛇の巣〉へ連れ込まれる寸前、運良く通りかかったエドベンの職員権限で事なきを得た。
「君は目立つから、くれぐれも注意しろよ。いいね?」
 エドベンは、いつになく険しい表情をした。やり取りしていた内容は解らなかったけど、下手をすれば説得しようとした彼までしょっ引かれかねなかったらしい。許してくれたのは、言わばまぐれのようなものだったのだ。
「なぁ、怒らないで聞けよ」
 トニーとしては、出発前に不精ヒゲを剃って無難な格好をして欲しかっただろう。今まで、彼はそのような事を口にしなかった。マナーとして外見的な強制を避けたのだ、その人の在り方に干渉しないように。危ない目に巻き込まれかかった腹立ちを抑えて、トニーは僕の置かれている状況を分かるように説明してくれた。

 日本が経済大国になったこと以外には、メキシコの華僑を憎む人もいたりして好意的でない事。
 この辺は東洋人が少なく、ラフな格好で不精ヒゲを伸ばしてる僕は余計に目立つ事。
 そういうメキシコの常識では(まとも)に見られない外見から、僕はドラッグ・ポリスの標的にされやすい事。
 僕はトニーの言うとおりに行動しようと思った。

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