2006年09月15日

 メキシコ旅情【ハバナ!後編・8 ノーチェ・クバーナ】

 この店からは、ハバナ大学の正門が見える。やっと市街まで戻ってきたのだ。
 冷たいジュースでひと心地つき、売れ残っていたサンドイッチを僕らは半分こして食べた。一口で収まったサンドイッチは、空腹でも不味く感じて余計に喉が渇いた。店は空いているのに、鉢植えの向こうは人通りが激しくなってきた。
Havana_GwagwaStreet




 疲労のせいなのか、街は鈍く重苦しいモノ・トーンに見える。行き交う人々と車の上に、垂れ込めた雲から静かに雨が降り出した。下り坂になった店の前をまっすぐ行けばオールド・ハバナだ、道の彼方に入り江が見える。
「…もう、後は宿に帰るだけだよね?」
 僕は、トニーに念を押した。

 路上駐車で狭まった道路をかき分けるように進む「グヮグヮ」が、暗雲の如き排気ガスで町並みを少し黒く染める。帰途に就いた僕らに、壁から伸びたり引っ込んだりしている手が見えた。そこにはバス停があって、乗車待ちの人々が歩道を塞いでいた。
Havana_WhiteCar



 僕らは通り過ぎるふりをして、正体を確かめようと横目で見やった。通りに面した民家の庭先で、柵の間から路上の人手に得体の知れない何かが渡っていく。香ばしい匂いで、すぐに胃袋がピンときた。
 ピッツァ!?
 柵に掲げられたボール紙に「5$」と足元を見るような数字が書かれていて、僕らは(ずいぶんと値が張るなー)とためらってしまう。しかしトニーの決断は早かった。
「高いから、一切れでもいいよね」
 彼の言葉に、すがるような上目遣いをしてしまう僕。
 待ち人の列に並ぶと、柵の前でお父さんが慌ただしくピッツァを客に手渡してお母さんがお金を受け取っていた。何人かの娘達が庭の芝生を行き来して、次々に焼きたてのピザを運んでは家の中に消える。家族が分担して立ち働いていて、ピッツァは冷める間もなく人々の冷えきった体に収まってゆくのだった。なんか素的な雰囲気だな。
 順番が来て、トニーが1ドル札5枚を柵の向こうに差し込む。と、お父さんが札を押し返してきた。両者ともにビックリ顔で、真相はキューバ・ペソ表示で「一切れ5ペソ」だったのだ。つまり、このピッツァはキューバ市民を相手に売られているのだった。
 だからって(ドル紙幣は使えない)と言われても…!
 外国人は現地通貨に両替できないので、僕らはどこに行っても米ドル・オンリーだった。キューバ・ペソを持ち合わせていないからって、空腹を堪えるには美味しそうな匂いが充満している。無理無理、食わせて。
 トニーは後ろの待ち客に詫びながら、再度1ドル紙幣で交渉する。ちょっと考えてから、お父さんは横のお母さんに何か言い付けて受け取った。お母さんが細かいコインでお釣りをくれたので、ついでに「これでもう一枚買えない?」と訊いてみる。
 どのコインも粒のように小さくて、素人目には違いが見分けられない。手を出す娘に小銭を空けると、お父さんは代金分を拾い出して残りは返してくれた。なんて律義な一家なんだ! ハバナには路上で袖を引く若者もいるけれど、一般市民は観光客ズレしていない。周囲の様子からして、ドル札を見る事自体が珍しいような雰囲気だった。
Havana_Tony&Pizza



 僕らはそれぞれにピッツァを丸ごと手にする事が出来て、食べながら通りを下って宿に着いた。この辺に来ると人通りは絶えて、ヒマそうにぶらついているのは客引きの連中ばかりだ。僕ら2人をカモだと踏んで、あからさまな顔で駆け寄ってくる。実にうざったい。
 彼らは白タクの運ちゃんと組んで、客を連れてゆくたびにマージンを得るのだろう。それは当然、乗車料金に上乗せされる訳だよな。そしてその白タクも、個人営業の店や宿からキック・バックを得ている…。

 手動ドアのエレベーターで部屋に入り、籐のカウチに腰を下ろした。もう動けない、引力に逆らうなんて重労働は勘弁してくれ。どうにか体を起こし、数日振りの水シャワーでベタつく汗を洗い流した。これが温水だったら、さぞかし疲れも癒されるだろうに…いやいや、納得ずくだから、そんな事は言わないの。
 トニーは一足早くベッドに寝ていて、思わず(先に浴びて、彼がいない間に占領して寝ちまうんだった)などという考えが頭をかすめる。でも文句は言うまい、トニーには大きな借りがあるのだ。それに、僕にはラタンのカウチが残されている。
 こいつだって寝心地は悪くないだろう、もし悪くたって眠ってしまえば関係ない。まだ7時にもなっていないが、もはや寝ること以外に何もしたくなかった。
「モーニング・コールは6時に頼んでおいたからね、じゃおやすみ」
 そう言うやいないや、すぐにトニーは寝息を立て始めた。僕もカウチの足元に小さなスツールを並べ、寝仕度にかかる。目を閉じると、この部屋独特の匂いが感じられた。
 それは街中のホコリっぽさとも、エレベーター・ホールのコンクリートのような冷ややかさとも違う。もっと暖かく、穏やかな空気だった。落ち着いた家具と、陽光を吸ったシーツ。それに卓上に飾られた花の仄かな香り…。
 色々な出来事が重なった、キューバの濃い日々も〈終わり良ければ全て善し〉だ。そしてカンクンに戻ったら、慌ただしく帰国の準備にかからなければならない。僕は意識を失うように、眠りに落ちていった。

この記事へのトラックバック