胸の高さのコンクリート塀からは、芝生のグラウンドが下方に見えた。その後ろは濃い緑の樹々で、町並みはもっと低い位置にある様子だった。来た道が上り坂だった訳でもないのに、いつの間にか高低差が拡がっていたらしい。
競技用トラックの中に、白いサッカー・ゴールが取り残されている。奥の白く塗られたフェンスに書かれた「CARIBE」という赤い文字が、深い色の芝生にくっきりと映える。よく見ると「E」の後にある赤い模様は人物画で、奇妙なことに(マゲを結った侍の横顔)に似通っていた。
「ねぇ、トニー。あれさー、サムライかなぁ?」
僕はてっきり(学園祭向けに描かれたジョークか何かだろう)と思っていたから、彼にカリブ先住民だと教えられて驚いてしまった。キューバの先住民、カリベ族の横顔だったのだ。俄然と興味を示した僕の先手を打つように、トニーは一言で彼らの歴史を語った。
「…昔はね。今は絶滅して、一人もいないってよ」
思わず言葉を失う。どおりで、コロンブスが英雄な道理だ。現在のキューバは文字通り〈彼によって発見された国〉なのだからな。深い緑にさす赤い横顔は、この国の人々にとってどんなふうに見えるのだろう。
下り坂の両側は木々に覆われ、むせるような森の息遣いが感じられる。左に巻き込みながら勾配がきつくなり、やがて歩道は土と根っこの狭い未舗装路になった。息が乱れ、額を汗が伝う。
前方から、お喋りに夢中な数人の女子大生が軽やかな足運びで上ってきた。下りの僕らが汗だくでハァハァ言っているというのに、彼女達がすれ違いざまに次々と挨拶してくるので恥ずかしくなる。まるで雰囲気は山歩きだが、今は大学の受付窓口に向かっているのだ…!
後ろからサイドカーが、坂の下に見える十字路を右折して視界から消えた。上下各3車線もある道路は、車はほとんど走っていないのに不自然なほど整備が行き届いていた。一直線に延びている幹線道路は、左右を見渡してみても目に付く建物は見当たらない。これ、絶対に有事の滑走路を想定してるよな…?
確か(2つ目の交差点を左折)だったな、しかしこの十字路の先が大学の敷地ではないのは明白だった。果たして僕らは前進するべきなのだろうか。この時点ですらUターンして山道を引き返すのは嫌だけど、ここから延々と歩いてから「道順が間違っていた」なんて事態は意地でも避けたかった。
これ以上のリスクを背負う前に確実な情報が欲しいのに、こういう肝心な時に限って誰もいなかったりする。僕らは、すでに何時間も歩き回っていた。もう一歩でも徒労を重ねるのは御免だったが、ただ突っ立っていたって疲れが溜まるだけだった。
「もう少し先まで行ってみようよ」
トニーが、遠慮がちに切り出した。それも一理あるな。どうせ疲れるなら、手掛かりを捜しながら歩いてみるのも手だ。長い車道を急いで横断し、まっすぐに進む。
〈闘い続けよう、次の勝利まで〉
道路に面したチェ・ゲバラ看板と、ブロック塀に描かれたスローガンだ。そんな言葉が日常の中に掲げられている暮らしって、一体どんなものなのか想像もつかない。
「写真撮ってよ」とトニーが嬉々として言う。
「その愛国Tシャツで、かい?」
僕の問いかけに、トニーはニヤッと笑いを返した。そのユーモアは、受け止めようによっては彼らしくない毒を含んだ冗談にも思える。(資本主義帝国)アメリカを敵視するプロパガンダの前で、呑気なポーズを決めて観光写真を撮っているアメリカ人…。そんな所がまた、いかにもアメリカ的な感じもするけど。
横道から吹き抜ける風がパーム・ツリーを揺らし、気持ち良く汗を乾かしてくれる。空には、うっすらと青みが射してきた。これ以上は天気が回復しないでいてくれると、しのぎやすい1日なんだけどなぁー。大通りを過ぎて道幅は拡がり、はるか前方で中央分離帯の芝生が途切れている。あそこが交差点なのだろう。やはり人の姿はどこにもなく、少なくともあと何百mか歩いて次の十字路まで行くしかなさそうだった。左折する側の様子が見通せるように、2人は車道を横切って右側を歩いていた。
塀が切れて、空き地が現れた。雑草の奥に水たまりが残る地面が露出していて、そこに怪しげな長屋が建っている。人の住んでいる気配は、見た目からは感じられなかった。
「…あれ見て、何か変だよね」
僕は指さして、トニーに言った。トタン屋根のあばら屋があっても、それだけでは驚いたりしない。むしろ囲むように生い茂った樹木との相乗効果で、ジャマイカ的なレイドバックした雰囲気をかもし出している。僕が気に懸かったのは、壁にびっしりと描かれた絵の奇妙さのせいだ。それは決して(プリミティブ・アートとの融合を目指す都市生活者)などの類いではなく〈何らかの理由で廃屋になった幼稚園〉みたいな、どこか気味の悪いムードを漂わせている。犯罪の匂いに似たものが、僕の全身を駆け巡った。
「何か書いてあるよ」
そのまがまがしい絵の中に隠された文字に気が付いた僕は、トニーの警告を無視して雑草の中に踏み込んで行った。
「P、i、z、z、e、r、i、a…!?」ピザ屋か、それにしても怪しすぎる。
「わはははは、おーいトニー。ピザ屋だってさ、食べてみないか!」
彼は顔をしかめて首を振り、早く来いとばかりに手招きをした。信じられない、あんな店で客が来るのかなぁ? 来ないから潰れたのかもね。そういや食べてないなぁ、ピザ食いてぇー!
思い出した途端に、空腹感がよみがえってきた。でも、どこにも店なんて見えない。