ホコリを洗い流されたスペイン調の町並みが、乳白色の空の下で沈黙していた。商業地区を少し離れただけで、人通りの喧噪が嘘のようだ。
ひとしきり路面を濡らし、そっと雨足が遠のいた異国の街に風がそよいでいる。サラリとした空気が心地よいものの、湿度が高いせいか僕のTシャツは早くも汗ばんできた。太陽が隠れているのが、せめてもの救いだ。
「大きいねー」
僕は、ため息交じりにつぶやいた。トニーと僕は、ハバナ大学の正門前にいる。ゆるやかな階段の幅は50m位ありそうで、その上に神殿じみた建物を背にして青銅の聖母像が両腕を拡げて鎮座している。僕らは、彼女に向かって長い階段を上り始めた。まるで巡礼者だな。
「UCLAは、もっと大きいよ」
トニーにしてみれば、この程度の規模ならば驚くには値しないらしい。階段の八分目あたりで振り返ると、欧風な香りを残すハバナ市街が拡がっていた。雨上がりの閑散とした市街は目線よりも下にあり、上半分は空白だ。高層ビルがないだけで、同じ人工物でも自然に調和してるように思える。雨上がりの瞬間じゃなかったら味わえない美しさ、かもしれない。
「トニー、早く来て見なよ!」
フウフウ言いながら追いついてきた彼に、背後の景色を指さしてみせる。しかし彼には関心がないらしく、チラリと見返しただけで歩きだした。町じゅうのゴミやホコリの汚れが消えた新鮮な空気を深く吸い込むと、僕はそこに隠れていた様々な匂いを感じて嬉しくなった。
それから急いでトニーの後を追った。
神殿ふうの校舎に囲まれた、人影まばらな中庭に出た。そんな(学問の殿堂)といった感じの片隅、場違いな戦車が木陰に見え隠れしている。小型の装甲車はキャタピラーの代わりにゴツいタイヤで、小回りが利きそうな短い砲身だ。その機動性が、市内の広場にあった鈍重な戦車よりも生々しく見える。公共機関すべてに戦車を配置しているのだろうか、こんなふうに?
いつでも臨戦態勢というか、市街戦の覚悟でいる…。そう思うと、〈革命〉という言葉が現実味を帯びて迫ってくる。といって、それで現在のキューバは誰に向かって拳を振り上げようというのだろう?
「建物のどれかに入ってみるか、その辺の学生に尋ねてみたら?」
中庭を横切ってゆくトニーの足取りには、大学構内のどこで留学手続きに関する情報を得られるのか、心当たりがあるようには思えなかった。無いのなら、手近なところから手掛かりを探すほうが早い。
しかし彼は生返事で通り過ぎ、裏門側から回り込んで建物に入った。職員らしきスーツ姿の若者に話しかけていたが、その男性には話が通じなかったようだ。そばを通りがかった数人の女子学生がいたけれど、トニーは無視した。学生も忙しそうに、部外者を避けようとしているように見える。トニーは廊下の奥から戻って来て僕を促した。
「さぁ、行こう」
オフィスの見当が付いたのか、裏門の前の道を進む。ゆるく曲がり込んでいる坂を下った先には、小さいアパートがひしめいているのが見える。学生向けの下宿街だろうか、明らかに大学の敷地外だ。
「違ってない?」
僕が尋ねると、トニーも自信なさそうに口ごもった。
「右って言われたんだけどなぁー、でも左と間違えたのかも知れない…」
僕らは一度、来た道を引き返す事にした。もうすっかり汗まみれだ、思っていたよりも厄介になりそうだな。
「もう一度、誰かに訊いてみようよ。ほら、あそこにいる学生とかに」
芝生のベンチに腰掛けて、熱心にページをめくっている若者がいる。だけどトニーは首を振った。
「勉強の邪魔はしたくないな、キューバの学生は真剣に勉強しているからね」
この国の大学は、かなり厳しいらしい。課題も多く出されるし入学後の試験も多いので、学生達は必死になって勉強するのだと言う。
また中庭を横切って、今度は裏門を逆方向に進む。少し歩くと通りの向かい側にも校舎らしき建物が見えたので、その敷地に入って学生を呼び止めた。今度は「通りの向こうに行きなさい」と教えられ、敷地を出ると三叉路だ。僕の頭の中に(三分割された円グラフ)が浮かび、3つのキャンパスのうち2区画が調査済み…。となれば、目指すオフィスは目前だった。
第3のキャンパスにはサンタ・フェ調の校舎が建っていて、トニーは僕を待たせて校舎の奥に消えた。建物の入口に張り出した平屋根の開口部は、両側の壁に造り付けのベンチがある。板の片側を埋め込んだだけという簡単なベンチで、その(ついでの一手間)といった適当さが良い。
壁の色は光の加減でサーモン・ピンクに見えたが、間近に寄ってみると実際は土の風合いを残した色だ。上の方に、風通しを考えてか大きな丸穴が開けられている。向かい側のベンチでは、女子学生が本を片手にノートに書き込みをしている。けれど、僕の視線に気付くと立ち上がって行ってしまった。
気温が上がって、蒸し暑さが増してきたようだ。おそらく、天気は回復傾向にあるのだろう。トニーが出て来たら、後は宿に帰るだけだ。それにしても案外と簡単にオフィスが見つかってホッとした、安心したら眠くなってきたから少し横になろうかな…。
「ここじゃないって」
えーっ!?
再び、話は振り出しに戻った。
一体どうなってるんだ? 尋ねる度に違う答えが返ってきて、お陰でキャンパスをたらい回しじゃないか。学生達の悪ふざけにも思えないが、それにしても自分の大学の窓口ぐらいは覚えておけよ〜! ちょっと前にも同じような振り回され方をした気がするなぁ、あれはイダルミの家に行く時だった。…それで次は、どこへ行けって?
「この道路を左に行って、2つ目の交差点を左だって」
かなり具体的だな、とにかく言われた通りに動いてみるしかない。だが最初は「右だ」と教わった道を、今度は「左に行け」と言われているのだ。トニーは(自分達の理解が悪いか、相手が場所を説明するのが苦手なだけだ)とでも思っているらしいが、そんな真逆に聞き間違える筈がないし説明下手というレベルでもないだろう。いくら良心的に解釈しても、僕には何もかも疑わしく思える。