2006年09月15日

 メキシコ旅情【ハバナ!後編・4 ジョ・アモー・キューバ】

 昼下がりのハバナ市街。
 汗とホコリがまとわりついてくる。騒音と排気ガス。そして、しつこい客引き…こいつらには、さすがに僕も慣れてきた。相変わらず「おい、チノ!」とは呼ばれるが、いちいち気にならなくなってきた。彼らにどう思われたって、放っとけばのいいだ。
 アイデンティティなんて、自己イメージの産物だ。望んでいるように扱われたい自分、見せたくない自分…。突き放して眺めると、そんな自分にも人間くさくて愛着を覚える。僕は妙に晴れ晴れとした気分になって、街を歩きながら笑っていた。
 やっと僕は「キューバ人恐怖症」を克服した。

 そうこうするうち、トニーと僕は見覚えのある通りを歩いていた。初日に入ったレストランと「謎のブランドショップ」だ、その向かいある土産物店をのぞく。葉巻やべっ甲などの特産品にはチト手が出せないけど、ちょっと見てみるか。
「これ良くない?」
 僕がトニーに示したのは、ヘミングウェイの髭面がプリントされたTシャツだ。地色の微妙な色味も悪くない。いかにも土産用の薄い生地だったが、それは値段相応で仕方ないか。
「いいじゃないか、でもこっちの方が面白くない?」
 彼が指したのは(アイ・ラブ・キューバ)というデザインのTシャツ。YO[私は]のOがハート・マークで「ラブ」に引っ掛けていて、キューバ国旗のプリントに乗っかっている。
「大事なのは『私は皆さんの国をこんなに愛しています』という姿勢を見せる事さ」
 というともっともらしいね、それで(アメリカ人は観光地で悪趣味なTシャツを買い込む)なんていう自虐的なジョークが生まれるのか。これも外交手段の一つ、という訳? まぁ、その辺は〈国民性の違い〉なのか、あるいは個人の趣味の問題。
 土産物店を出て通りを横切り、ブランド・ショップとレストランの間にある建物に入った。正確には(ブランド・ショップの後ろに建っている雑居ビル)だ。外の日差しが強すぎる分、内部は薄暗く感じられた。蛍光灯の明かりが、リノリウム張りの暗い廊下に鈍く光る。一昔前の診療所が、こういう感じだったな。あまりに愛想がなくて戸惑ってしまう、あの雰囲気もそっくりだ。どの部屋のドアも特徴がなく、上のほうに横長のプレートが飛び出ていた。

 トイレで真新しいTシャツに着替えたトニーは、廊下を引き返して出入り口手前の部屋に入った。中は意外に混み合っていて、更に奥の部屋に入る順番を待っている様子だ。
「トニー、ここは何?」
「ああ、エドベンに電話しておこうと思ってね」
 事もなげに彼は答えた。そうか、空港まで迎えに来てくれる手筈になっていたのだな。だけど何でまた、わざわざこんな所で電話するのか…? そっか、町中に公衆電話が無いもんなぁ。ましてや、国際電話を掛けられる場所なんて限られているんだろう。
 窓がないせいか、室内には換気が悪く蒸し暑い空気が溜まっている。みな不機嫌そうな顔をしながらも、押し黙って順番を待っていた。奥の部屋からは、途切れなく話し声が続いていた。声の主は椅子に座って話しているけれど、他に2,3人いるオペレーターは機械類に張り付いたようにして立っている。〈立錐の余地もないほどの狭さ〉とは、この事だ。
 待合部屋から廊下に出て深呼吸、電話待ちの列は開け放した扉の外まで伸びていた。長椅子に腰掛けている地元の人たちも、じっとりと肌が汗ばんでいる。列はちっとも動かないが、市民は辛抱強く沈黙を守っていた。ひょっとしたら、みんな何とも思ってないのか…? キューバの人は、待たされる事で目くじらを立てたりはしないのかな〜。
 しばらく経って、部屋から出てきたトニーが言った。
「エドベンが『君のリコンファームは済ませたから』ってさ」
 すっかり忘れてた! トニーが彼に訊いてくれたのだろうか、それともエドベンから言い出したのだろうか。どちらであれ、改めて(2人には世話になりっ放しだなぁ)と思う。当たり前なのだけど、僕は独りぽっちではないのだ。ふいに気が付いてみて、この「手触りのない普通さ」に心を打たれる。

Havana_way to sea






 薄曇りの空からポツリ、と雨が降り出した。バスを待つ人の傘が、次々と開いてゆく。ちょうどハリケーンが接近中らしいが、それにしてもツイてない。トニーが僕に振り向いて「すぐに止むと思うよ」と声を掛ける。
「まだハリケーンは遠くの海にある。これは一番外側の、切れっぱしが降らせる雨だ」
 カンクンのジュビアみたく、一気にびしょ濡れにならないだけマシだな。あの調子でやられたら、ハバナ大学に行くどころではなくなってしまう。しかし雨脚は(ポツリ、ポツリ)が(ポツ、ポツ)に変わってきた。見上げた空は色を失っていて、何の気配も読めなかった。勢いがない分、少しづつ心を萎えさせえる降り方だ。
 ゆるい上り坂には、路上駐車の列が途切れなく続いている。それはどれもビンテージ・カーばかりで、トニーは1台ごとにのぞき込んで興奮気味。
「この車も写真に撮って!」
「フィルムは残り少ないんだよ、それに外車アルバム作るんじゃないからさー」
「いいじゃないか、ちゃんと貴重な車を選んでる。これなんか、まるでSFみたいだろ?」
 黒塗りのビューイック。ボンネットに据えられたマスコットがジェット機で、フロント・グリルもそれを思わせるクローム・メタリックの曲線で構成されている。フューチャリズム、バラ色の未来に酔いしれていた古きよき時代。
「判るよ。惜しむらくは、この無粋なドア・ミラーだね」
 オリジナルの凝ったフェンダー・ミラーが健在なのに、なぜか真っ赤な耳が両側から突き出ているのだ。せめて色合わせぐらいはして欲しい。車体の痛みが少ないだけに、可哀想だよなぁ。乗っている人にしてみれば、フェティッシュな造形などには関心のかけらも無いらしい。所詮は単なる箱だもんね。
「ザッツ・ア・ビークル、ノット・ビューティフル」
 僕の言葉遊びが、トニーの笑いのツボを押したようだ。彼に笑わせられる事ばかりで、僕の冗談が大当たりする事は滅多にない。そんなに受けるとは思いもよらなかった。
Havanautuarizm





 最初の安宿を通り過ぎた。今朝、一軒目に断られたホテルだ。さっきはタクシーに乗っていて地理感覚がつかめなかったけど、この通り沿いだったのか。
「ここは安い割に良さそうだから、今度来たら泊まろう」とトニー。
 利便性も良いし、ホテル・コヒバの1泊分で3泊以上できるのであれば文句無いね。
「でもさぁ、今度って?」
「留学するって言ったでしょ。家が見つかるまでここから通うつもりだよ、大学の目の前だし」
 そう言って、トニーは道路の向かいを肩で示した。
「ええっ!? ってコトは…」
 ずっとつながっている塀の奥に見える、神殿みたいな建物は全部そうだったの?
Havana_on the corner

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