2006年09月15日

 メキシコ旅情【ハバナ!後編・3 矛先】

「気に入ってくれた? 1泊40ドルです。朝食も付けますか?」
「ムイ・ビエン[とても良い]!」
 僕が叫ぶと、女主人はニッコリした。トニーを見ると、相変わらず渋い表情をしている。どうやら彼は、非合法という点に引っ掛かりを感じるらしい。白タクもレストランもOKなのに、宿だけはイヤなんて変なの。
「いいじゃんか、他に見つけられなかったんだから」
 他に捜し回る当てでもあるのかい? という殺し文句で、ようやく彼も首を縦に振った。今になって何をこだわるのか、むしろオマケのような一日だからこそ(こういう下宿風ホテルに身をやつす)というのも乙なものではないの?
 階段を駆け降りて、タクシーから荷物を引き上げる。僕らの宿が決まって、不安顔だった運ちゃんも胸をなでおろす仕草をしてみせた。いい人に出逢ったり助けられたりすると、涸れかけた心も幸せに沸き返る。彼には、本当に救われた。手を振って別れる。

 トニーの希望で、僕らはナショナル・ホテルに来た。
 僕としては、あの部屋のサン・ルームでぼんやりと過ごたかった。もうどこへも行きたくない、ひたすら平穏無事に眠りたかった。しかし彼に空腹を指摘されると、ここで寝て待つ訳にはいかなかった。
 宿の窓から見えたホテルの門は目の前だったが建物までが長過ぎて、芝生の照り返しの蒸し暑さに何度か意識が遠のいた。めかし込んだ旅行客でロビーはごった返していたが、さすが国賓クラスだけあって僕らのような軽装の若者は皆無。ものすっごく場違いな雰囲気。
「ここを動かないで。すぐ戻る」
 トニーは早口で僕に告げ、振り向いた時には人混みに消えていた。そうやって、何でも一方的に…。数分後に戻ってきたら、何の説明もなく階段を下りて行く。地階の照明は白く、冷淡でよそよそしい感じだ。開け放たれた部屋は土産物売り場、とはいえ一流ホテルだけにちゃちな民芸品は少ない。高そうな酒と葉巻がDFSを連想させるが、僕らには無縁の場所だ。というか地階には他に何もなかった。
「あのさぁ、僕らは何を捜しているんだっけ?」
 僕の遠回しな皮肉を無視した彼は階段を引き返し、人の流れをかわしつつ無言で先に進む。立ち止まった彼に追いつくと、高い天井に届くほどの全面ガラスに透けて見えるテラスを指した。うねるような芝生の起伏と点在するヤシの木、その先はカリブ海。
「はぁ…?」
 僕の意図的な間抜け声に、トニーは少しムッとした。だって今は景色どころじゃない、食事だ。彼は感情を抑えて僕をうながし、素通しの扉を押し開ける。渋々、僕はガラス戸の外に出た。

 蒸すような熱気に包まれるが、日陰にいると風が気持ち良い。建物から広く突き出した屋根の下に、ラタンのテーブルセットが連なっていた。席に着いた人々の間を、ナプキンを提げたボーイが行き来している。…屋外レストランか! 内側から見た時は、窓際の人影に隠れて気が付かなかった。
 手前の席に座ると、早速ボーイが通りがかったので呼び止める。が、なぜかメニューを持ってこない。今は飲み物だけしか出来ないと言って、若い男は申し訳無さそうな表情を浮かべた。ランチ・タイムには遅すぎた、と。周囲では中年夫婦が舌鼓を打っているというのに、それが(ほんのタッチの差でした)という訳か…?
 1分や2分が何なんだ、この大馬鹿者の胸倉つかんで張り倒してやりたかった。こいつら身なりで客をあしらってやがる、そうに違いない。ここで「二度と来るかよ!」と椅子を蹴り上げて出て行きたかったが、最早そんな気力も出てこなかった。この調子じゃ、どこ行ったってシエスタを理由に門前払いされるのがオチだ。
 そう、単に僕らが理解と学習を怠っていたせいなのだ。3日間の滞在中、一度でも昼食を食べただろうか? ことごとくシエスタで食べ損ねて、それでも同じケアレス・ミスを繰り返すのは僕らの問題だった。情けなくて涙が出ちゃうぜ。飲み物メニューを得意げに暗唱する若者にコーラを頼むと、礼儀正しい態度を崩さず去った。
 どうしようもない僕の憤りは、目の前のトニーに向かってしまう。彼は最善を尽くしたし、宿を確保できて感謝している。だけど…。
(あと一分でも早く宿を決めていたら)
(地階に迷い込んでいなければ)
 彼を責めるまい、そう思うとなおさら腹が立った。葛藤の激しさで胸苦しく、何もかも投げ出してしまいたかった。

 唐突にトニーが切り出した。
「ここでお金の事をハッキリさせておこう」
 僕は思わずドキッ、とした。いきなりここで持ち出すとは…。それまで彼に矛先を向けていた怒りが、この一言で首根っこを押さえ込まれた。だけど彼は正しい。僕だって明確にしておきたかったし、いつまでも漠然と不安に思っているのは気分が悪かった。
「まずはチケットの613ドルをを2人で割って…」
 テラスでノートを広げ、ハバナで使った金額を書き出して割り勘にする。本来なら結構な額になってしまうところだが、彼は数字をかなり割り引いてくれた。それ以外にキューバに発つ前日に借りた分を加えて、彼は444ドルだけを返せば良いと言ってくれた。
「でもこれじゃあトニーが損する…」
 それならディズニーのビデオを2本買ってくれ、そう言って彼は笑った。
「日本語版が欲しかったんだ。吹き替えしてるのは有名な俳優なんだろ?」
 彼は身を乗り出すようにして、目を輝かせている。英語とスペイン語版のビデオは持っているのだそうだ。日本語版があれば、それを子供たちの教材に使うのだという。
「気にするな。だけど年末までには、日本から送金してくれよ」
「ロサンゼルスに帰るの?」
「語学留学したいんだ、ここに」
「ここって、キューバに!?」
「そうさ。だから今日は、下調べをしにハバナ大学に行きたいんだけどね〜?」
 それは面白そうだと思ったけど、やっぱり僕は部屋でダラダラしたい。トニーだって、たまには1人のほうが身軽で動きやすいだろう。
 ところが、そう言った途端に彼は「もう我慢出来ない」と僕を非難し始めた。感情的になった彼を見たのは初めてで、その勢いに僕は圧倒されてしまった。いわく「どれだけ親切にしても、君は自分の都合しか考えていない」…云々。ごもっとも。
 僕にも言い分があったのに、いざとなると何も浮かんでこない。色々な面で彼の好意に甘えていた、その事実は認める。確かに、彼の提案にことごとく反対していた。それが意地悪からでなかったにせよ、彼にしてみれば不愉快の連続だったろう。
「君も疲れているだろうけど、その条件は同じなんだ。一緒に来てくれよ」
 強気の姿勢から一転して、今度は穏やかな態度でトニーは言った。これでは断れないなぁー。
 ハバナ大学は、ハバナ市街にあった。一番最初に断られた宿の向かいだ。ちょっと見学して受付で話を聞くぐらい、たいした時間は掛かるまい…。
「よし、行くよ」
 そうして僕は、トニーに付いてハバナ市街に足を向けたのだった。

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