2006年09月15日

 メキシコ旅情【ハバナ!後編・2 女神の居所】

 タクシーは、ハバナ中のホテルをしらみつぶしに回る羽目になった。遂にガイドブックもお手上げ状態で、トニーは疲れきって髪まで汗だくだった。さすがに僕も申し訳ない気持ちになる。
 運ちゃんが「知ってる宿を紹介しようか」と提案してくれた。40代くらいのオジサンで、初めのうちは(面倒な客を拾っちゃったな)という面持ちだったが、今は事情を知って同情してくれていた。3枚の紙片に手書きの住所があり、それは予想どおり個人営業の宿だった。
 最初の所は、どうやら住人が替わってしまったらしい。次は「満室」と言って断られれ、頼みの綱はあと1軒…。僕も祈るような、すがるような思いになってきた。運ちゃんはゆっくり車を走らせながら、家々の番地を確かめていく。
「あのビルだよ。正面からエレベーターで上がりな」
 自分でドアを開け、僕も車外に出た。湿度の高い熱気に、軽いめまいを覚える。荷物をトランクに入れたまま離れるのが心配だったものの、僕がドアを閉める時に「幸運を祈る」と言う運ちゃんの声を聞いた気がして(この人は信じて大丈夫だ)と思った。そして、今度こそ宿が決まりそうな感じがした。

 建物の廊下はひんやりと薄暗く、人の住んでいる気配が感じられない。突き当たりに僕らを待ち構えるような人影があって、身が引き締まる思いで近付いて行くとビーナス像だった。人だと勘違いして声を掛けてしまったが、まさか女神像だとは!
 円形のエントランス・ホールは吹き抜けになっていて、像の向こう正面には階段が、左右にいくつかの扉が円形に沿って並んでいた。まるで「不思議の国のアリス」だ、トニーにそう言うと彼も同意して笑った。
 エレベーターは、右の奥にある共同便所みたいなボロい木の扉がそれらしい。粗末な引き戸の上にランプが点灯していて、横のボタンを押すと板越しに何かがゴトンゴトンと音を立てて下りてきた。あまりにシュールだ、気味の悪い夢を見ているような。チーン! そして静寂…。
「ドアを開けて」と、トニー。
「えっ?」
「これは手動なんだよ、きっと」
 木戸に手を掛け、ゴロリと横に引く。電話ボックス程度の個室に、木製のスツールが1脚。
「ねぇコレ、各階共用の電話室なんじゃないの?」
 ビビッてる僕に軽く舌を鳴らし、彼に「いいから、早く乗りなよ」と急かされる。体重の重みで大きく揺れて、後からトニーが乗り込んでくると体の向きを変えるのもままならない。この狭さと不安定感! ゴロゴロと戸を閉めて5階を押すと、小さな箱は嫌々そうに「ゴットン、ゴットン」と上昇を開始した。
 胸の中にマイルス・デイビスの「死刑台のエレベーター」が聞こえ、僕は本気で(落ちないでくれよ〜!)と祈った。
「…この椅子さぁ、何のためにあるんだろうねぇ」
「さぁ。疲れたら座るんじゃないの」
 エレベーターは(動力源も手動ではなかろうか)という位、のんびりと揺れながら5階に辿り着いた。引き戸を開け、中央の吹き抜けから石の手すり越しにのぞいた下に恐ろしく小さく女神像が見えて毛穴が開く。その吹き抜けを取り巻いて、いくつもの部屋があった。外見から想像した以上に、建物内部は広く高い。トニーは紙切れを頼りに部屋番号を確認し、僕を振り返ると怒ったように叫んだ。
「何やってるんだ、こっちに来てノックするんだ!」
 そうカリカリすんなよ、そんな事は自分ですればいいのに。大人気ないぜ、トニー。でもここは素直に従おう。

havana_Vinus





「オーラァ、ブエノス・ディアースッ!」
 ふざけた声を張り上げてドアを叩くと、出て来たのは愛想の良い女主人だった。なかなか艶っぽい年増だな、ベタベタしていない感じの、キリッとした品の良さとたくましさを漂わせている。カンクンの女性達は年齢と共に豊満になるのに比べ、彼女は割に背丈はあるけど肉付きがしまっている。体質が違うのだろう。
 トニーが突然の訪問を詫びて事情を説明すると、彼女の鋭い目付きから微笑みがこぼれた。
「どうぞ入って見て頂戴。ちょうど掃除の途中だったんで、散らかっているけれど」
 室内は、予想に反して開放的だった。クッキーを焼いているような、香ばしくて甘い香りが部屋じゅうに充ちていて心地良い。入ってすぐの応接間は、がっしりとした木のテーブルに花が飾られていて、仕切りのない続き部屋の奥からベランダ越しの爽やかな午後の風が流れ込んでくる。
 どうやら、彼女の個人宅の一部を貸しているようだ。趣味の良い調度品は、どれも厭味なくこざっぱりと感じられる。僕は彼女の立ち振る舞いと同時に、そのセンスの良い暮らしぶりも気に入った。
「今、空いてる部屋はここになるんだけど…」
 そう言って案内された部屋は、ラタンのカウチに飴色をした木のテーブル、小さい棚の上には花が1輪。ベッドはシングル、だけど快適そうだ。
「シングルじゃないか」
 トニーが不満げにつぶやく。僕が「じゃあ一緒に寝るか?」とふざけたら、彼は本気で嫌な顔をした。おい、冗談だぜ? 寝床のひとつぐらい、それでもカウチで代用できるだろう。何といっても選択の余地はないんだし、これぐらい目をつぶろうぜ?
「あ、ごめんなさいね。シャワーは故障していて水しか出ないのよ」
 それは残念、でも水シャワーだって汗まみれよりはマシだ。隣はサン・ルームみたいな、サッシを隔てた小さなベランダへの縦に細い部屋。マガジン・ラックと安楽椅子が置かれて、洒落た(くつろぎスペース)という感じ。窓から通りを見下ろすと、向かいのビルとに挟まれた歩道を歩く客引き男が米粒サイズ以下! とても5階とは思えない、日本だったら10階からの眺めだな。
「ほら、左を見てよ。ナショナル・ホテルが真正面だ」
 トニーが言った。国賓クラスが滞在する、高級ホテルだ。丁字路の向こうの広大な敷地が全部、ホテルの所有地だというから驚く。赤坂の迎賓館に似た飾り門から、建物までの道が意味なく長い。建物も横に広くて、左手の芝生が切れ込んだ先はカリブ海。まさに絢爛豪華。

(どう思う?)と、警戒するようにトニーがささやく。
「いい眺めじゃない。部屋も気に入ったし、ここに住みたいよ」と僕は答えた。
 シャワーを別にすれば、この解放感は殺風景なシティ・ホテルなんかとは比べ物にならない。部屋を吹き抜けてゆく風が、僕らをキューバで暮らしているような気にさせてくれるのだ。

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