2006年12月12日

 メキシコ旅情【帰郷編・8 シアトルの朝】

 モーニング・コールが鳴った。
 しんとした部屋を、空調の静かな風が温めている。
 ベッドを立って窓際に行き、カーテンを開けた。曇ったガラスは鈍く発光し、そこを通して冬の朝の冷気が差し込んでくるようだ。
「ふぅーぷるるっ!」
 ベッドの誘惑に駆られながらも、僕は暖房の前で立ち止まってTVをつける。急いで着替えて、冷たい水で顔を洗い歯を磨くと眠気が取れた。荷物をまとめて、フロントで精算を済ませる。といっても宿代はチケットのクーポンに含まれていて、僕は部屋のキーと引き換えにレシートをもらうだけで良かった。
 ロビーには、コーヒー・メーカーの立てる朝の匂いが充ちている。中央の応接セットは、すでに朝刊の見出しを広げるスーツ姿の男達で埋まっていた。皆、シャトル・バスの発車時間を待っているのだ。それはまるっきりアメリカ映画か、コーヒーのCMに出てきそうなワンシーンだった。
 荷物を脇に置いてドアを押し開けると、真冬の空気に包まれる。朝露に濡れたアスファルトの彼方、青く浮き出した山脈に冠雪が見える。冷水から引き揚げたばかりの眺めだ、霧雨が音もなく冬空を煙らせていた。
 映画「ランボー」の、冒頭シーンを思い出す。寒い朝、独りの男が深い山あいの街道を小さな町へと歩いている…。吐く息も白い、明け方の湿った空気。そして異邦人の所在無さ。
 僕はロビーに引き返し、手近なところに差してあったパンフレットを手に取ってパラパラとめくった。それは系列のホテル・ガイドで、軽く目を通すと棚に戻す。ガラス張りのラウンジは、外気との温度差で室内がうっすらと曇っている。無料コーヒーをカップに注ぎ、荷物のそばでバスを待つ。
 きっと昨日までいたカンクンの真夏も、そしてこのシアトルの冬寒も、成田に着いたら忘れてしまう気がする。なのにあと半日で日本だ、よく分からない。

 シャトルバスが到着するより一足早く、男達はそそくさと玄関前に並び始める。そんな男達の合図を待っていたかのようにバスが来て、僕が並んでいる間に走り去った。折り返してくる次のバスでも間に合う筈だが、分かっていてもヤな感じ!
 手取り足取りアナウンスされる日本と違って、定員に達したら機械的に行ってしまう小気味よさも感じなくはない。けど男達の、我勝ちに出し抜くような態度は不快だった。偉そうな身なりはダテか!? 今にも雪を降らせそうな鈍い空の下では、人の心も縮こまるのか…。
 次に来たのシャトル・バスのドライバーは、昨夜とは別人のメキシコ人女性だった。空港に到着した時に「グラシアス」と言ってバスを降りると、彼女はちょっとはにかんで「デ・ナーダ[どういたしまして]」と応えてくれた。
 彼女が、シアトルで唯一の笑顔だった。昨夜のドライバーといい、この町には彼らが必要なのだ。わざわざ熱い国から移住してくる気が知れないと思っていたけれど、ここにメキシコ人がいなければ僕の気持ちは冷え込む一方だったからな。

 空港は、昨夜とは打って変わって賑やかだった。どこを見ても行き交う人々であふれていて、その多くが日本人だ。シアトルって、アメリカ入国への上野駅なのか!?
 さらに奇妙に感じたのは、ほとんどが観光目的らしき日本人という点。この近辺にそういう輩の好みそうな場所なんてないだろ〜? 思わず首をかしげたくなる。
 混み合う通路を成田行きの搭乗ゲートへ進んで行くと、それはもう日本人比率が異様なほど高まってきた。すでに好き嫌いのレベルを凌駕する、まさにレッド・ゾーンのヤバい感じ…。待合フロアで軽い朝食を取るつもりでいたが、それどころじゃなかった。
 今迄の人生で一度しかない、あの貧血を起こした時の気持ち悪さに似ている。僕は一目散で長いスロープを引き返し、待合フロアの混雑から離れた。突発的な人酔いだったのか、搭乗時刻ギリギリまではフロアに立ち入らないに越した事はないだろう。
 かなり時間の余裕があるので、この辺で何か腹に入れておこう。と思ったら、どこも小洒落たカフェばっかで日本人女性がギッシリ…! とにかく空席を捜して、騒がしい空気のなかで朝食にありつく。なんとなく、女性のトイレで用を足しているような居心地の悪さを感じて(もちろん例え話だけれど)どうも食べた気がしない。
 どこから湧いてくるのか、女性客は波のように押し寄せてくる。日本語の、興奮気味の他愛ない喋り声が春休みの原宿みたいに喧しい。

 成田行きの待合所に戻ると、日本人の収容場所みたいな混雑ぶり。それでも先程よりは気分の悪さも忍耐の範囲だ、というか我慢しなければ帰れない。
 フロア面積の大半は、我が物顔で○ィズニーの袋を抱えた親子連れとカップルで占領されている。よその国にお邪魔しているというのに、誰もが地元の縁日みたいな顔で賑やかにやっていて恥ずかしくなる。
 やがて、そうこうするうちにスチュワーデスがゲート入口の改札機を準備し始めた。先に早々とスーツケースを並べて場所取りしていた人々、その後ろに慌ただしく駆け寄る人々。移民の群れが一斉に行動を起こした。何をそこまで、という勢いだ。
「座席はなー、早い者勝ちで決まるのじゃーっ!」
 皆さん、そう言わんばかりの形相。両手につかまれた可愛いキャラクターの顔が、行列にねじ込まれる。子供達が、母親に叱咤されながら引きずられてゆく。典型的な日本の光景だ。僕は搭乗前の騒動を見物しながら、苛立ちとも嘆きともつかない感慨を覚えた。
posted by tomsec at 20:35 | TrackBack(0) | メキシコ旅情12【帰郷編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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