ホテルの送迎マイクロバスは、暗闇に灯った青白い明かりの前に横付けされた。シアトルの空港から大して離れていない筈なのに、幹線道路は真夜中の静けさだ。
運ちゃんにスペイン語であいさつして、ガラス張りの玄関を入る。チープな宿だ。それほど広くないロビーに革張りの応接セットが置かれていて、カウンターの上に「無料」と書かれたコーヒー・メーカー。新聞各種に、ガムの自販機。フロントでクーポンを渡して、部屋のキーを受け取る。
荷物を下ろして部屋の検分にかかる。何といっても、ゆったりとしてお湯の出るシャワーがあるだけで合格だった。ベッドもキング・サイズだし、MTVも写る。駐車場に出入りする車のライトが射し込むのは、厚手のカーテンで覆ってしまう。
ホテルの食堂は、営業時間をとっくに過ぎていた。近くに見えていたレストランを目指すが、ことごとく休業日か閉店したばかりだった。幹線道路沿いの店なのに、まだ8時過ぎだぜ…?
雨上がりのような、湿った空気が夜を包んでいた。人影はなく、車も走ってない。アスファルトのうねりが地の果てに続いていて、黒い山脈の背後に星空が拡がっていた。つやつやとした漆黒の闇に中古車センターの照明がやけに目立つ、東京近郊と変わりない典型的な都市郊外の夜景だ。
気を取り直して歩き出すと、坂の上の交差点にネオンが見えた。僕の後ろから轟音が迫ってきて、貨物列車のようなトラックが地響きを立てて追い抜いて行った。右側通行だから反対車線にいたのだが、一瞬(轢かれたか!?)と思った。
交差点まで行ってから横断するつもりだったが、向かい側に小さなネオンを見つけてJウォークする。縦にウネウネした直線道は見通しが利かない上に街灯がなく、疾走する車との距離を読み違えるには絶好の条件だ。いつまた次のトレーラーが来るかとヒヤヒヤしながらも無事に横断すると、真っ暗な路地から人が飛び出してきて「ひっ」と変な声を出してしまった。まったく、脅かすなってぇの!
見上げるような背丈をした黒人の若者で、ワッチ・キャップもダウン・コートも黒づくめだったのだ。人種差別的な意図は一切なしで、彼が完全に暗闇と一体化して見えたのも無理はないだろう。そんな格好で暗がりから出てくれば、こっちはもう襲われるのかと誤解もするぜ。
僕のビビッた顔を見て、その男性もまた奇妙なものを見るような目付きをした。彼の完全防備に比べ、こちらはTシャツに長袖シャツをはおっただけの軽装だ。考えてみれば気温は真冬並みだし、僕がひどく場違いに見られたとしても不思議じゃなかった。それでも、あんな大げさに着込む寒さじゃないな。だって、寒がりの僕でも(ちょっと肌寒いかな)と感じる程度なのだ。今さっきまで熱帯にいた僕でさえ。
少し歩くと、奥まった場所にネオンが見えてきた。僕の先を行っていた彼が、手前の駐車場を横切って店のほうに向かう。赤く光るサインは「VIDEO」の筆記体だった。残念。その店の入口付近に何台かバイクが停まっていて、数人の若者が溜まっている。なんだか僕のほうをチラチラ見ている気がして、なるべく気を引かないよう足を速めた。冬の夜に薄着でウロウロしている奴を見て、ヒマつぶしの材料と思われてはたまらない。
やっぱり(知らない町)は苦手だ。
思惑どおり、交差点の向こうにコンビニがあった。しかも見知った「セブン・イレブン」のロゴで、ホッと胸をなでおろす。この際だ、何でも良いから腹に詰めてしまおう。自動ドアが開くと、あったかい空気が…と思ったら室内の温度は外と大差ない。
そして同じチェーン店なのに、何というか日本のそれとは雰囲気が違っていた。コンビニらしくないというか、以前グアムで立ち寄った系列店の印象とも異質で意表を突かれた。(コンビニなんて、どこだって一緒)というイメージは、実は日本が均質化してるだけだったのか? むしろ本場のチェーン店のほうが個性を感じさせる、アメリカから輸入した制度だった筈なのに妙な感じだ。
僕は、棚にわずかに残っていたハンバーガーとブリトーを買ってホテルに戻った。ちなみに、店のレンジもセルフサービスだった。部屋で食べる頃には、帰るまでの外気に冷えてしまって過熱した意味がなくなっていた。それでも、店内のスツールで地元の若者に混ざって食べるよりはマシだ。
ともかく腹はふくれたし、お待ち兼ねの熱いシャワーでリラックス。それからテレビをつけて、日本に帰る用意をしておく。MTVはあいにく訳判らない時間帯で、カントリー系のプログラムを放送していた。それでも、落ち着かないドラマやプロレスの絶叫番組よりかは僕向きだけど。
ベッドの上に広げた、久々に見る雑多な小物。それらはリュックの奥に約1ヶ月間しまい込んでいた、僕のリアル・ライフの必需品だった。財布の中身を入れ替えて、残ったドル札はジーンズのポケットに。小銭はまだ出し入れするだろうから、円のコインを入れてある小袋はカバンの出しやすい所に。それに、家の鍵…。こういった物が、いよいよ明日からまた必要になるのだ。
ひと月前まで普通に使っていた物に触っただけで、自分の気持ちがカチッと切り替わった。心が一瞬で太平洋を越えて、日本の空気に同化したような感覚だ。何かが、もうカンクンで暮らしていた僕ではなくなってしまっていた。だからといって空しさでもなく、この気分はむしろ新しい勢いみたいなものに近い。
「ラブ・ミー、ラブ・ミー…」
カントリー番組が終わったMTVからカーディガンズの「ラブ・フール」が流れてきて、僕の心は一瞬にして、トニーの部屋に逆戻りしていた。彼とMTVを観ている時も、カンクンでは毎日この曲がヘビー・ローテーションでかかっていたっけ。胸が締め付けられるような、どこか甘い痛みを覚える。それは、この刹那気でスウィートなラブ・ソングの魔法かもしれない。
(きっと僕は、忘れた頃に再びこの曲を聴いて魔法に掛かるだろうな)
そう思った。
2006年12月12日
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