ステュワーデスがサイン・ボードの下に立ち、僕の乗る便の搭乗が始まった。早くも搭乗口には、乗客たちが殺到している。あれほど急ぐ必要もなかろうに、せかせか小走り気味で細い通路へ消えてゆく。どの国にも我勝ちになる人種はいるんだなー。行列が終わりかける頃合いに、僕は席から立ち上がった。
エドベンに、別れのあいさつを告げる。結局、最後の最後まで世話になってしまった。言い足りない感謝の気持ちを伝えて、チケットを改札機に通す。振り返って見ると、歩き去る彼の空港係官らしい後ろ姿があった。すでにノーズ・ゲートは人影もなく、おそらく僕が最後の乗客だろう。いよいよ、日本への長い帰途に就く。
カンクンからメキシコ湾を北上してアメリカのダラス間に向かう飛行機は、海外便の割に小型だった。そういえば、来た時も小さかったな。タラップの左はすぐに操縦室みたいで、客席は新幹線と同じ並びで奥行きも一緒。それでも、さすがにキューバのプロペラ機ほど狭苦しくない。あれの爆音も慣れれば平気かもしれないが、この飛行機がジェットで良かった。
僕の席は2列のほうの通路側、隣は小太りのビジネスマン。僕があんまり窓の外に見入っていると、彼が居心地悪そうにするので反対側の窓を見る。しかし今度は、通路を隔てた乗客と目が合ってしまった。ここには誰も、窓の外を見たい人間などいないのだろう。
上昇気流に乗った海鳥のように、瞬く間に高度が上がってゆく。眼下は深い緑の平面と、エメラルド〜ターコイズに染まった珊瑚の海だ。僕の歩いたセントロの町並みも、泳いだビーチもセノーテも、あの色のどこかに埋まっているんだなぁ。俯瞰する視点に(現実というのは、なんと夢のようなのだろう…)と思い知らされる。
ふいにスチュワーデスが来て、何事かを僕に質問してきた。早過ぎて聞き取れなかったが、何か座席に関して問題があるらしい。僕は気恥ずかしさを抑えながら訊き返した。
「すみませんが、もう一度ゆっくりと繰り返してください」
乗客全員の耳が、僕の言動を待ち構えている気がする。
「お客様、後ろの席にどうぞ」
別に、シート番号が間違っていた訳ではなかった。後ろの席が空いてたから厚意で言ってくれてたのに、その遠まわしな表現が理解できない僕は間抜けな問答を繰り広げる事になる。
「僕はこの席で満足しているんだ。何か問題ありますか?」
隣のオジサンが身じろぎして、周囲の人々も怪訝そうな顔をした。そして軽食の後でワインを飲んでいると、再びスチュワーデスが同じ話を蒸し返してきた。
「判りました。貴方の言うとおりにしますが、納得できるように説明して欲しいね」
そこで合点がいったとでもいうように、狭い通路で顔を突き合わせた彼女は大きく頷いた。まるで子供をあやすような丁寧さで説明された僕は、顔を真っ赤にして苦笑いするしかなかった。そういえば、いつだか読んだ記事に(空席がある場合、他人同士を詰め合わせるより分散させるのがアメリカ式…云々)と書かれてた気もする。
「一人のお客様同士の相席ですと、大抵は座席の移動を希望されるものですから」
彼女は茶目っ気たっぷりに、僕に微笑んでみせた。そうでしょうね、おっしゃる通りです。
「幸い、空席はいっぱいありますので。お好きな場所に座って下さいな」
棚から荷物を引き出すと、窓際のオジサンが大きく息を吐いた。周囲に拡がる静かなざわめきの中、後方の席に移動する。窓の外を眺めたい一心で、とはいえ横目まで使ってたのは失敗だった。あらぬ誤解を周囲に与えちゃってたんだろうな〜。
ともかく、これで気兼ねなく景色を眺められる。
約2時間でメキシコ湾を越えてテキサス州に着いた。そして、これから一気に大陸を北上してワシントン州まで行くのだ。何だかスゴイなぁ、飛行機に乗っているだけで北米大陸を縦断できてしまうのだから。
ダラス・フォートワース空港でトランジットして、ドメスティック・ラインでシアトルを目指す。今度は行きの時みたく外に出る事もなく、ほぼ待ち時間なしで午後5時9分発の便に移る。国内線のほうが機体が大きいのも妙な気分だけど、利用客数と飛行距離を考えれば当然か。
アメリカ人を満載している機内には、これまで乗ったどんな飛行機とも違う雰囲気が感じられた。これが、この国の空気感なのか? 僕はアメリカ本土に滞在した経験がないので、何とも言えないけど…。
ベルト着用のサインが消えると、ドリンクのサービスが開始された。スチュワーデスに飲み物を訊かれてビールを頼む。バドワイザーは「系列会社がイルカを劣悪な環境に閉じ込めている」という話を本で読んでいたので、それ以外の銘柄にしてもらう。クアーズの缶が、コップと一緒に出てきた。
「3ドルです」
「…ん?」
制服の彼女は、ニッコリ笑って繰り返した。聞き間違えるには、簡単すぎる単語だ。いかにも当然の事として言われたものだから、説明を求める前に僕は5ドル札を渡してお釣りを受け取っていた。
機内サービスが有料だなんて、どう考えても腑に落ちない。こうなったら得意の知ったかぶりは止めて、素直に訊くに限るな。先程の彼女に追いついて、僕は後ろから声を掛けた。
「すみません、教えて欲しいのですが…」
「何かしら?」
「いつから、これが有料になったのかと思ってね」
そう言って僕がクアーズの缶を見せて質問すると、彼女は微笑んで返金してくれた。
「あら、ごめんなさい。国際線のお客様だったのね」
なんだか拍子抜けして訊ねると、アメリカ国内便ではアルコール類が有料になるのだそうだ。ただし、国際線の乗り継ぎの場合には適用されないらしい。へぇー、そうなんだぁ。言ってみるもんだな。
2006年12月12日
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