早くも売り切れてしまったのか、パン類の棚は空っぽだ。チェッ、朝食まだ食べてないのに…キューバ以来、どうも僕は食べ物とは縁遠いな。
日本の立ち飲み店と変わらない、粉っぽい味のコーヒー。ママの作るインスタント・コーヒーは、どうしてあんなに美味しかったのだろう…? あれは決して(家庭の味)なんていう錯覚じゃなくて、本気で日本に持ち帰りたかった。あれこそ単なる粉コーヒーだったけど、こんなドリップ・コーヒーが詐欺みたく思えてくる美味さだった。
ふいに懐かしさが込み上げてきて、ちょっと切なくなる。まだ僕はメキシコにいるのに、もう思い出の場所に変わりつつあるのか。
店の前をエドベンが通りかかって、すぐに僕を見つけた。どうしてなのか不思議な事に、彼は僕に向かって一直線に歩いて来た。やはり日本人って目に付くのかなぁ? 彼は空港職員の制服を着ていたが、当たり前のようにコーヒーを注文して座った。
「おい、仕事中に大丈夫なのか?」
「…そうだな、ここじゃ丸見えだ」
彼の呑気な答えにも驚いたが、そんなメキシコらしさが嬉しく感じられる。さすがに通路から目立たない席を探したものの、あいにく混んでいたので隅のテーブルに移動した。彼は同僚の目を避ける必要があるし、考えてみれば僕もドラッグ・ポリスへの勢力圏内にいるのだった。
しかしエドベンは同僚に見つかってしまい、彼に僕を紹介して3人一緒に店を出た。職員詰め所の前で2人が立ち話をするのに付き合って、僕は灰皿の脇で一服する。僕の吸っていたタバコに同僚が目を留めたので、そのハバナ製のパッケージを見せて勧めた。
葉巻には高くて手が出なかったけど、タバコであってもハバナ製は実に旨い。彼があまりにも満足げに煙を吐き出すので、僕はパッケージごと残りを全部あげた。どうせ、そこには数える程しか残ってなかったのだ。すると思いがけず非常に感謝されたので、エドベンの評判が少し上がったかもしれない。
再びエドベンと通路を歩きだし、その突き当たりが実質上のメキシコ国境だった。その税関の先は、この土地とは何のつながりもない空間…そういった漠然とした物思いに囚われていて、走り寄って来る人影に気付くのが遅れた。
ヘセラ!?
一瞬、訳が判らなかった。なぜか、僕の目の前に彼女がいた。ヘセラもまた、嬉しそうな笑顔の中に驚きの表情を見せている。空港の制服に身を包んだ姿を見て、彼女が空港でバイトしている事を思い出した。そういえばそうだったな、すっかり忘れていた。
彼女は、背後のベルト・コンベアでスーツ・ケースの積み込みを手伝っていたのだろう。仕事中に持ち場を離れて良いのか気掛かりだけど、今はそんな心配どころじゃなかった。とにかく、幸せなる偶然に感謝するだけだ。
「こんな所で、一体どうしたの?」
「あぁ、日本に帰らなきゃならない。こっちこそ、ここで君に逢えるなんて考えもしなかったよ」
ヘセラは僕の言葉を冗談だと思ったのか、あいまいな微笑を返してきた。でなければ、すぐに僕がカンクンに戻って来るものと思い込んでいるのだろう。彼女と、2人きりで話がしたかった。
あの日、もしもキューバ行きがなければ…。こうしてヘセラと見つめ合っていると、今さらの思いに胸が苦しくなってくる。抱擁を交わすと、彼女のサラリとした肌に僕の顔が触れた。
きっと何もかも、これで良かったんだよな。ブラジル式に、僕はヘセラの両方のほっぺに(チュッ)として別れる。
「じゃあね。一緒にディスコに行けなくて残念だった」
そう言って、僕は再び日本へと歩き出した。
いつかは忘れるさ。
税関の手前でエドベンとも別れ、手荷物の検査を済ませるとエレベーターを上がった。そこは明るく広々とした待合所で、メキシコを思い出させる要素は何一つなかった。数日前のキューバ行きで、トニーと通過したばかりだった。あの時は、この待合所のトイレで不精ヒゲを剃ったっけなぁー。そう思うと、まだ彼と一緒に旅行している途中のような気がする。でも、もう誰もいない。
長い道中ずっと独りだと考えると、心に穴が空いたような落ち着かなさに襲われた。しかも今夜はシアトルで一泊だ、遠いよなぁ〜。
滅入る気分を変えようと、ふっかりとした椅子に座って本を取り出した。読み始めてみたものの、いつ搭乗開始になるのかと思うと集中できない。そこに制服の職員が近寄って来た。ドラッグ・ポリス絡みか…!?
「モート〜!」
エドベンだった。ホッとするやら嬉しいやら、だ。だけどさっきから仕事もしないで僕にかまってばかりで、そんな調子で平気なのかね。
「気にするなよ、今日はボスが遅いから」
そういう問題じゃないと思うが、彼の心遣いは沁みた。エドベンは僕の横に腰を下ろし、出発前の不安定な感情を共に分かち合ってくれた。ほとんど会話らしい言葉は交わさなかったが、友人がそばにいてくれる心強さを痛感する。僕はエドベンやトニー達に、このような思いやりを示せただろうか?…そう思うと(僕は良い友人ではないな)という気がしてくる。
彼が、無意識というよりは心得た上で(ただここにいてくれる)のが感じられた。