2006年12月12日

 メキシコ旅情【帰郷編・3 帰国の朝】

 帰国の朝だ。キューバでの疲れが後を引いたのか、起きるのが辛い。
 だけどエドベンの出勤ついでに便乗させてもらうのだ、彼が空港に勤務していてくれていて助かった。でなければ自腹でタクシーを呼ぶしかなかったからな。
 荷物は昨日の内にまとめてあったので、出発予定の9時半に余裕で間に合いそうだ。寝ているトニーを起こさないように、僕はゆっくりと身支度を整え始めた。
「…ん〜っ、行くのか?」
 ベッドから、モソモソとうごめいて声がする。
「それじゃ、気を付けて」
 トニーは、夢の中からのお見送りだった。昨日の夜、確かに「悪いけど、見送りには行けないから」とは言っていたけど…ちょいと冷たいんじゃない?
 だけど逆に、この程度のシンプルさのほうが却って自然に思えてきた。一生の別れでもあるまいし、また逢えるのだから。次はどこだろう、東京かな。それともキューバ?
「トニーの厚意には感謝してる。じゃあ、夢の続きを楽しんでね」
 ステンド・グラスみたいに、色ガラスが黒塗りの鉄格子にはまったドアを閉める。そっと閉めたのに、でもやっぱり大きな音を立てた。薄暗さに慣れた目に、外の光が洪水のように飛び込んできて目を細める。踏み出す前に足元を確かめると、今朝はまだ(レガロ前)でウンを付けずに済んだ。
 冷房の効いた部屋から出ると、一気に血が沸騰する気分だ。いつもの雲一つない青空、朝の気持ち良い風が陽射しの強さを和らげてくれる。階下に降りると、エドベンがパパの白ワーゲンをガレージから出していた。彼の青ゴルフは外に停まっている。
 出勤姿のエドベンは、ストライプのシャツにネクタイを締めて(爽やかな好青年)そのものだ。いたずらを思いついた子供のような笑みが、相変わらず口元に浮かんでいる。
「待ってるから、ママにあいさつしといで!」
 そう言われて家の中をのぞくと、戸口の近くにママとパティが立っていた。すぐ後ろに、パパの姿も見える。何も言わず、僕は目の前にいるママを抱き締めた。
「ムーチャス・グラシアス、ママ…」
 感極まったように、彼女は涙でほおを濡らす。僕は暖かい気持ちで見つめ返した。何も与える事は出来なかった僕を、ママは見返りを求めない広い心で受け入れてくれた。本当の家族と同じように…。
 僕は他の2人とも同じように、ハグを交わす。パパと顔を合わせる機会は2,3回程度しかなかったのに、それでも彼は僕を力強く抱きしめてくれた。それだけで充分に、お互いの心が伝わりあった感じがする。
 パティはあまり感情を表に出さないタイプだから、彼女がプレゼントをくれたのは嬉しかった。黙って、部屋から持って来た油絵を僕に寄越したのだ。ママもちょっと驚いた様子で、それはパティ自身が描いたのだと教えてくれた。小さなキャンバスに描かれた、みずみずしい入り江の夜明け…。
 それは予言者のタロットみたく、何かを象徴しているような神秘性があった。水辺を照らす黄金色の太陽は、今日という日そのものかもしれない。そのようにして、プライベートな神話は生まれ続けてゆくのだろう。陽はまた昇るように、旅の終わりが新たな始まりに続いてゆくように…。良い流れだ、と思う。
 僕は最後にもう一度、心からの感謝を告げると振り向かずに車へ乗り込んだ。運転席でエンジンを掛けて待っていたエドベンにキャンバスを見せ、それをカバンにしまって後部座席に座る。そしてパパが助手席に腰を落ち着けた。一路、空港へと出発する。

 朝の通勤ラッシュは、僕が目覚めて町なかへ出る時間には見られない光景だった。いつもは住民の気配すら感じられない通りが、まるで荒れ狂う急流のようになっている。びっしりと混み合う車の群れが、猛スピードで飛ばしているのだ。活気があるというか、威勢が良いというか…。
 途中、エドベンは車を路肩に寄せて停まった。そこは三角州みたいな空き地で、新聞売りの掘っ建て小屋の周囲に背広姿の男達がいる。パパはそこで車を降りて、会社の同僚の車に相乗りして行くらしい。すでに顔見知りなのか、エドベンも何人かにあいさつしている。他の人々も、車で通りかかる同僚を待っているのだ。忙しい朝にあって、陽のあたる芝生の孤島は不思議な趣があった。そこはまるで、走り回る車の海流に浮かんだ「ビジネスマンの楽園」みたいだった。紙コップの熱いコーヒーと新聞を手にした男達が、走りだした車から見えなくなってゆく。
 しばらくすると、大学の前を通りがかった。ヘセラたちが通っているのだという。彼女はどうしているだろう? 土曜の夜、もしもキューバに行かなければ…どこかのディスコで、僕らはどうにかなっていたのかな。
(ヘセラ!)
 彼女の、か細い腕を想い出して急に胸が苦しくなってきた。小麦色の、滑らかな素肌。そして黒い瞳の奥にある、あの謎めいた微笑を。僕はまだ、旅を終えられない…このままでは心を残してしまう。もはや景色など上の空で、僕は真剣に思いを巡らせていた。しかし今となっては、もうどうする事も出来ないのだ。いくら知恵を絞ってみても、何かを変える時間などなかった。
 現実を受け容れようと思えば思うほど、彼女のことばかり想い浮かんでしまう。仮にヘセラと再び逢ったところで、踏ん切りが着けられる訳でもない。ますます別れ難くなると分かり切っていても、行き場のない気持ちに押し潰されそうだった。
 空港が見えてきて、奮ぶった感情がようやく落ち着いてきた。何もかもが思い通りにいかなくても、それはそれでOKなんだと思う。僕は(マクトゥーブ)と胸の中でつぶやいた、すべてはなるべくしてなってゆくのだ。
 車を降りてエドベンに別れを告げると、彼は「また後でね。様子を見に行くから」と窓越しに手を振ってクルー専用の駐車場へと走り去って行った。
 今回は何事もなく、搭乗手続きを終えることが出来た。なぜかドラッグ・ポリスは一人も見かけない、まぁ拍子抜けしたけど遭いたくもない連中だからな。気のせいか若い日本人旅行者が多かったが、帰りの道中まで彼らと一緒になったりはしないだろう。
 僕が乗るのは、午後1時33分発のアメリカン航空355便だ…まだ3時間はある。
posted by tomsec at 20:35 | TrackBack(0) | メキシコ旅情12【帰郷編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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