そうだ、この数日間は1日1度の間食といった程度で済ませていたんじゃないか。何とまぁ、えらい極貧旅行をしたものだ。その割にはタクシーに乗ってばかりいて、おかしいよなぁ。
部屋に帰って荷物をバラし、水シャワーを浴びて寝る。トニーは昼寝なんぞしないで飛び回っていたのだろうけれど、僕は眠らずにはいられなかった。目が覚めると日が暮れてしまっていて、最後の使い捨てカメラの現像出しに行きそびれた。ハバナで撮り終えた分で、今日中に仕上げて皆に見せたかったが仕方ない。
階下に降りると、ちょうど夕飯の時間だった。どうしても(これが最後の夕食なのだ)という実感が湧いてこない、いつもと変わらないエドベン家の夜。食事の後、僕はなんとなく思い立ってギターを手に取った。ソファーの上に投げ出されたままのギターを調律していると、自然とそこにいた皆の視線が僕に集まってくる。
ママ、パティ、ディエゴ、そしてトニー。
「ええと、今までの感謝の気持ちで1曲うたいます」
トニーが、僕の言葉を訳してくれる。
「これは日本の唄で、僕のアミーゴが作った曲です。タイトルは『さようなら』と言います」
TVが消され、静まり返った空気がぎこちない。何だか、急に緊張してきた。思いつきは良かったが、暗譜してもいないのに歌詞もコードも持ってなかったのだ。
「あ、あのー、あんまり覚えていないので間違えると思うけど…」
まるで世紀の一瞬を見守るような注目に、僕は誰に言い訳しているのか(しどろもどろ)になる。
「…んで『さようなら』というのは、日本語でアディオスの意味です」
血が上った頭を深呼吸で静めながら、僕は出だしのコードを手早く繰り返して確認する。後へは引けない。思わず真顔になって、一瞬、目を閉じた。
最後のリフレインの後、弦を押さえていた指を離す。沈黙の中に、長い余韻が響いていた。
(すべてが夢のようだ)と思う。
唄もギターも突っ掛かったが最後、頭の中まっしろになって間違いまくってしまった。それでもずっと(歌詞と和音を並べていく作業に忙殺される僕)とは別な(もう一人の僕)がいて、そちらは記憶の中に淡く浮かんでは消える場面を漂っていた。ここの空気と共にあった幾つもの光景が、寝覚めの色彩を散りばめた薄絹みたいに揺れる…そんな不思議な気持ち良さの中、遠くで自分の口づさむメロディが響いている感じだった。
目を開けると、涙ぐんでいるママの顔があった。言葉も通じない見知らぬ男を、我が子のように何くれとなく世話を焼いてくれたママ。僕も目頭が熱くなり、彼女の姿が涙にぼやけた。もっと練習するとか、きちんと考えてくるんだったな。こんなに失敗だらけじゃあ、この唄を作った友人にも申し訳ない気持ちになってしまう。
まさかメキシコで弾き語りするなんてなー、思いつきにしては上出来な別れの挨拶だった…そう言い聞かせて自分をなぐさめる。みんなの暖かい拍手に迎えられ、ともかく気持ちは伝わった事を感じて嬉しくなった。思わずウルウルしてしまった自分が照れ臭く、でも僕は心を込めて言う。
「ムーチャス・グラシアス!」
その夜も、いつもと同じくビアネイ&グラシエラの部屋を訪ねた。
トニーと2人でハバナの土産話を開陳し、大いに盛り上がる。ビアネイにイダルミの話をしながら、あのカメラを現像に出していればと残念に思う。ダンス・ホールの話になり、トニーの買ったカセットテープがラジカセから流れ出した。
ハバナの独特な空気がよみがえり、楽しかった事ばかり心に浮かんでくる。嫌な思い出も今となれば笑い話、ハプニングの連続に振り回されてた自分が狂言回しのようで可笑しくなった。
こうしていると改めて、この部屋での時間がいかに特別なものだったかと気付く。まるで学生時代に仲間同士お喋りして、男も女も関係なく夜更かしする胸踊るような感じ。冷えたコーラと、ハーシーズのクッキー・ミント・チョコ。「ホエール」という洗礼名…。
しかし適当に切り上げないと明朝は8時起きだ、寝坊する訳にはいかない。当たり前に繰り返した(毎晩の恒例行事)は、いつも通りにお開きになろうとしていた。想いを巡らせると無性に名残惜しく、いつまでも立ち去り難くなる。
帰る間際に、グラシエラからプレゼントをもらった。「CANCUN」の白文字がプリントされた使い捨てライターと、ソンブレロの形をした素焼きに派手な彩色が施されている素朴な灰皿。タバコを吸わない人から喫煙グッズを贈られるのは、何だか変な気分だ。彼女に悪気がないのは分かっているけど、まるで(私は大嫌いだけど、気にしないでバンバン吸ってよ)と言われているような気がして困る。
「この灰皿、君が作ったの?」
そう尋ねると、グラシエラはニッと笑った。いつの間に作ったのだろう? 裏返すと「グラシエラより」と書いてあり、その下の「コン・カリーニョ」とあったが、意味は敢えて訊かなかった。彼女とは友人なのだ。
トニーの部屋に戻り、僕は簡易ベッドを拡げて横になった。ハンモックは邪魔にならないように、片付けたままになっている。最後にもう一度あれに揺られて眠りたいとも思ったけど、明朝にバタバタする手間は増やしたくない。
「どうもありがとう、トニー。色々と迷惑を掛けたね」
青ざめた光の差す室内に、僕の声が他人事のように響いた。
「こちらこそ、いなくなると寂しくなるよ」
トニーがいなければ、僕の旅そのものが有り得なかったのだ。なのに僕は、ずっと彼に尻拭いを押し付けていた気がする。感謝と、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「トニー、おやすみ」
「おやすみ、モト」