2006年12月28日

90*誰かの責任

 人間というのは、絶えず考え事をしてるらしいねぇ。一日平均で何万だか何十万だか、たとえ無意味な妄想レベルだとしてもね。つまり起きてる間ずっと、脳みそってのは休まないんだなー。
 他の人は知らないけどさ、僕には何もしない時間てのが結構あるのね。そんな時は見かけによらず、ものすごーく考え事をしてるのだと胸張って言える場合もなくはないけど、大抵はその前段階にいたりする。ぼんやりと。
 そうやってぼんやりしてると、いろんな事を思い出したり気になったりして、でもそれが自分に関わりのある事柄だったりする事は少なくてさ。本当に毒にも薬にもならないような、まぁとりとめもないないような。だからこそ、純粋に楽しんでいられるのかなって思ったりもして。
 ともかくそうして過ごすのを好むあまり、用もないのにトイレで座り込んでみたり、やたら長風呂してみたり、すぐ横になったりする。部屋の隅っこ眺めてるだけで何か思いついた気になって、その辺のメモ用紙に書き込んでみたりして。

 大樹の種には100年後、
 大きく枝を張るために必要不可欠な要素が詰まっている。
 こんなに小さい種の中に。
 だけどそれを大きな樹に変えるには、
 水と土と、光と風が大切なのだ。
 虫や鳥やけものが、助けてくれるのだ。
 一粒の種が生まれるには、他の木だって必要だった。
 取るに足らないものだって、
 種が秘めた大樹の未来のためには、
 いつか出逢う水や土や、光や風や、虫や鳥やけものにとって大事なものだ。
 そして大樹は、捻じ曲がろうが朽ち果てようが、
 それらのすべてに役立つのだ。
 だから種は芽を伸ばさねばならない。
 根を張らねばならない。
 水に流され、風に吹かれ、虫に運ばれ鳥に呑まれても、
 広い世界には然るべき余地が残されているものだ。
 種は小さいが、殻はかたい
 その殻を打ち破る力こそが、大樹の源になっている。

 2006年を象徴する言葉が、命なのだそうだ。ふぅ〜ん、なぜだろう?
 いじめも凶悪犯罪も本当に「史上最悪」ではなくても、その言葉は報道の世界でいとも簡単に使われてるね。その文字が踊れば踊るほど、数字は跳ね上がるようにも見えたりして。
 それは単に平和だから、他に紙面を埋めようがないだけかもなぁ。でも不安をあおりながら何かの口実にしてんじゃないかってね、なんとなく物事の観点を誘導されているような感じがするんだよね。別に陰謀論って訳じゃなくてさ、慎重に見定めたいってコト。
 いじめ加害者に対する罰則を設けたり、犯罪防止に監視と管理を増やしたり。それって医学が患者を薬漬けにしたりチューブで生かしたりするようなね、違うかもしんないけど。根本を見誤ってるような、責任ってのがたらい回しされてるような。
 あと経済システムの在りようが、人との間でも当たり前のように通用しちゃってるけれど・・・。なんちゃって、実はまったく疎いから戯言として受け取っておいて頂戴ね。でも端からは金融取引が(合法的に理屈が通れば無礼講)ってな仕掛けにしか思えないのさ、資本金が大きいほど有利に出来てるし額面の大きさが発言力に比例するっていうね。
 その論法でいけば旧来の社会道徳やら人間性とかに価値はない訳で、すると某IT企業の社長さんだかの方が筋道立ってる道理になるじゃない? 調子に乗りすぎてお灸を据えられちゃったけど、それだっていじめとか凶悪犯罪への答なき対処と似てないかなー。
 日本に入ってきた外資系の雇用ってのも、土台が違ってる上に都合よく乗っかってる気がしてさ。昔っからの親方日の丸なんざ効率悪い、会社経営でいえば合理的じゃない。って、そうやって目先で手前ばかり見てるから全体で辻褄あわなくなってるのかもよって。
 おっと生意気が過ぎましたね、見当違いの放言をお詫びします。ただ「問題を世の中のせいにしたら解決しない」って言い方を聞くとさ、結論だけ欲しがってるというか他人事なんだよね。自分のケツ拭かないで「臭い!」って騒いでる・・・って喩えがキタナイねぇ。じゃあ誰に責任取らせるかって急きたてるなら、その人のせいでもあるとは思いませんか? って事ですよ。

 そうなのよ、本当は責めたいんじゃないんだよね。言葉の調子じゃ非難がましく受け取られたとしても、そいつは本意じゃあないのよ。あーまったく難しいねぇ、どうも上手い言い方ってのが出てこないと舌鋒鋭くなる嫌いがあるな。
 池の鯉を見やるよに、人の世を思えたら・・・なぁんて、つらつら思う年の暮れ。

平成18年12月28日ku90.jpg



posted by tomsec at 22:23 | TrackBack(0) |  空想百景<81〜90> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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