2007年09月01日

95*未熟の美学

 もう夏もオシマイですなー、いやぁ今年は暑かった!
・・・って、まだまだ暑いでしょうけど、蝉だってカナカナ言ってるしヒマワリだって下向いちゃってますから。
 なにより我が家でも「今日で今年のスイカは終わり!」と宣言されちゃいましたからねぇ。

 僕は果物全般が大の好物で、夏といえばスイカなしには越せません。そして比較的、果物全般において完熟よりも少し未熟な方が好きなんです。
 だから洋ナシみたいに(時間をおいて充分に熟してからが美味い)なんてのは、ちょっと困る。買ってきたそばからガブリと食らいつくような、何の支度も要らないカジュアルさがまた好ましいのです。

 たとえばバナナですと、いわゆるスイート・スポットが浮き出した甘いのは苦手でして。むしろ皮の表面が青味がかって実が締まった、そんな野趣のある風味が堪らないのです。
 でもバナナは本来、皮が黒みを帯びて実も柔らかくトロトロになって食すものだったそうですな。「バナナの皮で滑って転ぶ」には、それ位じゃないとダメらしい。

 ところでこの夏は、あちこちでヒマワリを見かけました。
 公園や道端に、いつからこんなに植わっているようになったのかって感じで。こういうのも流行り廃りですかね?
 それになんだか花が小ぶりになった気がするのも流行なのでしょうか。子供の時分と比べれば、すっかり目線だって違うんでしょうけど、それを差し引いても昔とは品種が違う気がするんです。花屋でだって切花として扱えるようになってますし・・・。

 そしたら先日、自分の中で思い描いていたまんまのヒマワリを見ました。
 草とは思えない太い茎が空高く伸びて、その先に黒々と種が詰まった大きな顔をもたげてね。子供心に、初めて植物のグロテスクさを感じた、そんなヒマワリでしたよ。
 毛羽立って肉厚な怪物じみた葉、花弁の中心にみっしりと凝集された昆虫のような種の頭!
 草花というには可憐さのかけらもない、近くで見上げるほどに怖気を感じるようなね。
 おもちゃの刀を振り回すと太い茎が容易く折れて、大きな黒い顔が覆い被さるように落ちてきた思い出。午後の日差しでしおれかけた夏草の上に、埃っぽい草の汁の匂いと生温かい湿気を巻き上げて・・・。
 そんな格闘と放心の記憶がよみがえりまして、すると小さいヒマワリが何故か気の毒に思えたりもしたんです。

 思えば小ヒマワリの増加は、割と近所の再開発エリアに目立っていたような気もします。
 戦後の復興から、地味ながら自然な曲線で伸びてきた営みを思わせる一帯だったんですけどね。バブル期に途中で投げ出され、それが近頃(夢よ再び)って感じで盛り返しまして。
 道幅は広いし街路樹も茂って、あちこちの公園に若い親子がいて。それこそ流行のドラマに出てきそうな、洒落た高層マンション街なんです。
 こういう(統一感のある景観)ってのは、こうやって根こそぎひっくり返してドカンと造らないと出来ませんね。実際、美しいと思うし心も安らぐ訳です。
 ハバナの街並みを眺めた時も、僕は同じように思ったんです。
 コロニアル、というのは(かつて計画的に建設されたという意味なんだよなぁ)って。その美しさは人為的な上にあるのだなぁって。

 そういえば湾岸の方には、もっと景観の美しい町があるんですよ。200万以下の車と40歳以上の人間がいない、ヨーロッパの石畳ごと移築したような町が! あれだけ徹底して造られると、歩いてるだけで観光気分になっちゃいます。
 まぁいくら美しく造られた町でも、世代交代と共に変わってゆく筈なんですよね。見えないところにゴミくずが捨てられたりスプレーで落書きされたり、というような何かがなかったら怖いなとも思うんです。
 というのも、ハバナの街の美しさには(人の営みが街の作為性を呑み込んでしまったからではないか)と感じられたからなんです。当時のまま清潔に手付かずに管理保存されても、やっぱり世界遺産には登録されたのでしょうけどね。

 子供の頃、美術の授業で「調和の取れた構図」や「遠近法」といった言葉を習いました。絵の描き方で、安定感や美しさを感じさせる視覚効果の技法です。
 でもそれを表面に出しすぎると、かえって野暮ったいというか妙な不自然さを覚えてしまう・・・。そんな感じと似たような、あんまり出来すぎた無味無臭さというのも物足りないよぁってね。
 こればかりは、誰かが一気にドカンと造り出せるものではないと思うんです。

平成19年8月31日
ku95.JPG



posted by tomsec at 15:09 | TrackBack(0) |  空想百景<91〜100> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

この記事へのトラックバック