これは麺が選べて(ビーフン、生めん、揚げ麺)、むき身の貝にすり身の魚と肉団子が入った香草風味の五目めん。とにかく薄味で、辛味ソースをレンゲ2杯も足しました。
香草(シャンツァイ?)とか調味料の味はクセがあるので、ハマらない人にとっては食べられた味じゃないかもしれません。でも個性的な味って後を引きますよね。
セ○ンイレブンに入って、妹の子供たちに土産を買います。なぜかコンビニ特製の子供用Tシャツがあって、カエルとマンボウ各250元。1枚700円程度なら日本より安い気もしませんが、襟裏のタグにあのコンビニのロゴ入りというのがレアで面白いかなと。
宿で荷をまとめ、まだ乾いてない洗い物もビニールに入れてチェックアウト。
気持ちよい宿だったな、朝に支払った延泊分はチップとさせていただきましょう(ビールのお礼も含めて)。
帰りのバスはどこまで乗ろう、東港まで戻らずに最寄りの駅からガタゴトと屏東あるいは潮州でも行くとしようか・・・・・・?
すると女主人が、バス運ちゃんに見せるようカードを書いてくれました。
「私は枋寮火車站で降ります謝謝」
隣の店(ホテル・カリフォルニアとは逆の並び)がバス停なので、そこの少年にも女主人は言い含めてくれました。
乗車券は備え付けの赤い専用レジ(ボタンは黄色)で売買するのですが、160元のところ小銭を足しても159元しかない!
そしたら少年は気安く1元オマケしてくれました。助かるけど、勝手なコトして大丈夫かぁ〜? お礼に写真を撮って、あとはガムぐらいしかないけど謝謝。
ひどい中国語訛りでも英語を喋るスケボー少年、瞳が水色だけどカラーコンタクトにしては鮮やかすぎて不思議な印象。
中南客運の運ちゃんに言付けしてくれた、握手してバイバイ。
ふと旅の初めに出会ったバックパッカーを思い出しました(その辺は「【'05台湾×2】04/コーヒーおじさんは何処へ?」ご参照くだされ)。
彼もここまで来てたんだなー、思えばあれから1週間が経って8日目です。
ここは南の端、あとは少しずつ北上するだけ。という事は時の流れも帰国に向かい始めてるんですね。
バスに揺られながら、南湾に面した道路から対岸が見えました。地図には三核と記載されてますけど、どう見ても風力発電の大風車ですね(でも実際に原発もあるらしい)。
帰りは15分足らずで恒春を通過、海沿いの田園風景を眺めて枋寮へ。
バスを下りると十字路を折れて枋寮火車站、駅のある町並みは林邊に似て不思議と郷愁を感じさせます。それは僕の記憶にある、都電の駅に続く商店街を思い起こさせるからでしょう。
日本のローカル駅と同じような雰囲気で、潮州まで60元の切符を買って駅舎で自強号待ちです。乗客は待合のベンチに10人ほど。
そこにやってきた、大きな背負子の物売りオバチャン。僕を見るなり、いきなり日本語で話しかけてきました。
どうして〜??
17:26発の便が到着する頃に日が暮れてきて、本当に初夏のようです。この穏やかな暖かさ、日本にいて思い出す台湾の空気そのものです。
ところで、急行が停車する小さな駅は決まっていないようですね。
佳冬には停まったけれど林邊は通過で、発着時刻の順番で通過駅を変えているのでしょうか(往路の便は逆だった)。
どちらにしろ潮州には停車するし、必ず急行が停まる駅って事は、佳冬みたいに宿がないほど小さな町でもないでしょう。
まぁ見つからなくても、最終列車は夜中まで走ってますからね。ここになくても、屏東に行けば何とかなります。
第3原子力発電所の歴史と事故
こちらは反原発志向と思われるサイト「Nuclear Plants in Taiwan」からの抜粋記事です。
故に、やや主観的な表現もあるかもしれません。
墾丁は、町も人も好い思い出ばかりの素的な場所です。
これらの三核に関連した情報は、飽くまで当時の僕が引っ掛かっていた要素として、後になって判明した事を記しています。
どうか否定的な印象を、墾丁に抱かれませんようにと切に願います。
1978年には島の最南端の恒春郷の、これまた後に国立公園に指定されるほどの風光明眉な海岸で、第3原発の建設がスタートした。
1984年10月:第3原発の龍興旺さんら3人の作業員が冷却水の排水口で潜水して清掃した後、次々と発病し、死因不明のまま数日間で相次いで死んだ。
1985年7月7日:第3原発1号炉で大火災が発生。修理して正常運転を始めるまで1年2ケ月間運転を停止し、一日当り一千万元の損失をもたらした。
1986年7月:第3原発の排水口付近の海域で大量の珊瑚が白化、死亡しているのが分かる。
1986年10月22日:第3原発で4人の作業員が間違って高放射能地区に入ってしまう。
1986年11月:第3原発で何回かに渡り、放射能汚染された排水が規則に反して流される。
1987年4月11日:第2、第3原発の作業員が眠りこんで巡回を怠ったのが見つかる。
1987年10月7日:第3原発1号機の蒸気発生機のタービンの翼で裂け目が見つかる。
1988年3月:第3原発で2つのコバルトが盗まれたのが発覚する。
1988年3月22日:台湾電力が「84年4月から88年3月までの、原発から大気中への放射能漏れ事故は第1原発が117件、第2原発が51件、第3原発は106件である」と発表する。
1988年7月:第3原発付近の浅い湾の珊瑚礁のうち半分が白化現象を起こし、前年より悪い状況になっていることが分かる。
特に第3原発の近海の珊瑚は世界的にも保存状態がよいと言われていたにもかかわらず、温排水の影響で86年7月には排水口付近の海域で大量の珊瑚が白く変色して死んでいるのが発見された。(中略)台湾電力は約4億元かけて周辺海域の浄化作業を始めたにもかかわらず、88年7月には周辺海域で、発電所から流れ出たと見られる油によって水面が汚され、大量の魚が死んでいるのが見つかっている。
88年7月、国際原子力機関の国際原子力安全顧問委員会のメンバー(中略)7人は台湾の原発について、世界的にみれば台湾の原発の管理、運営のレベルはABCDの評価で言うと、「B」か「Bの下」である、との評価を下した。
第3原発、大火事と珊瑚礁の破壊
1985年7月7日夕方、第3原発1号炉で大きな爆発音がして、原子炉が緊急停止し、発電機付近から出火した。恒春付近の7町の消防署のほか、100キロ近くはなれた屏東市からも消防車が出動し、軍隊もかけつけて消火したが、火は3時間近く燃え続けた。
消防署からの情報で新聞記者が恒春からやって来たが、発電所の入口で職員に阻まれて中に入れなかった。その代わり同日深夜、台湾電力は事故について記者会見し、出火から15分後の5時35分に消防への通報がなされたと発表した。しかしその後、この発表は嘘で、実は大きな騒ぎになるのを恐れる余り、出火後40分以上も発電所の人員だけで消火しようとしたがうまく行かず、ようやく消防に通報したのは6時ごろと分かった。台湾電力は事故の大きさを隠そうとしたのだった。
火事を起こした1号炉は翌86年9月まで約1年2ケ月間、運転を停止した。運転停止による1日当りの損害額は1000万元(5000万円)と言われている。85年5月に政府が提出した第4原発の建設予算に対する反対運動のほとぼりがさめていない時期に火事が起きたため、事故をきっかけに学者や国会議員の一部が原発の安全性に疑問を投げかけ始めた。
事故の原因は発電機を設計したアメリカのジェネラル・エレクトリック(GE)社の設計ミスだった。にもかかわらず、GE社に頭の上がらない台湾電力は、GEから事故の損害賠償を受けなかった。このことが、さらに反対の声を大きくした。当初、台湾電力は「事故の原因は電気系統の故障であり、放射能に関係した部分は問題がない」と強調していた。しかし事故に関する台湾電力とGE社との交渉の後の85年5月「発電機のタービンの設計に重大なミスがあった」と発表し直した。約40億元で購入した1号機のタービンは事故で完全に壊れて廃棄処分となり、合計70億元以上の損害があったが、台湾電力はGE社から全く補償を受けないまま交渉を終わらせてしまった。
もともと第3発電所の1号機は、運転開始から14ケ月間に50〜60回の緊急停止を起こしており、世界的にみて緊急停止は年に2〜3回が平均であることを考えるとこの数字は異常に多かったといえる。
第3原発の周辺は、日本で売られている台湾のガイドブックにも風光明眉な場所として大きく紹介されており、国立公園の「墾丁風景特定区」に指定されている。発電所は海に突き出た丘の頂きに立っており、国家公園法によればその頂きには本来、電柱の一本も立てられないことになっている。景色がきれいな観光地として多くの人が見にくる風景の中にコンクリートの原発を建ててしまったため、町長や観光業者を始めとする恒春の人々は原発の建設に反対していた。
運転開始後、発電所からの温排水の影響で、世界的にも貴重だと言われる付近の珊瑚礁が死滅し始めた。発電所のある集落、南湾の約80戸の住民のうち4分の3は竹の筏で魚を取っている漁民だが、漁獲量が大幅に減ったうえ、市場に持って行っても南湾の魚と分かると安く買い叩かれてしまうという。
さらに84年10月には、3人の原発作業員が温排水の排水口近くで潜水作業をした後、原因不明のまま次々と死ぬという事故が発生した。環境破壊を懸念する世論のたかまりの中、台湾電力は10億元以上をかけて海域の調査と設備の改善を行ったが、その効果に疑問をはさむ声も多い。また恒春は竜巻が起こりやすい土地のうえ、毎年台風が通過するため、発電所が竜巻や台風によって事故を起こす可能性も高いと考えられている。
発電所近くの住民が土地を担保に金を借りようとしたところ、国立銀行が担保価値を認めず金を貸さなかったという事件も起きている。恒春町長は雑誌「人間」のインタビューに答え「発電所のまわりは政府機関も欲しがらない土地になってしまったというのに、発電所が安全だと信じることがどうしてできようか。大事故が起きたら誰が責任を取ってくれるのか。町民は皆、将来は町を離れたいと考えるほどの危機感をもっている。台湾電力の幹部たちは我々地元の人間の不満や不安が分かっているのだろうか」と語っている。
発電所ではここ数年の間に、11人の作業員がガンで死んでいるうえ、原発で一定期間以上、放射能の高い区域で働き続けた作業員は解雇されてしまうという。そのため86年5月には第3原発の作業員283人が、不当解雇の禁止と作業員の放射線病に対する長期的な調査の実施を訴えて台北の台湾電力本社前でハンガーストライキを行った。住民の反対運動に加え、これまで黙っていた労働者も主張するようになってきたのだった。
引用元:「Nuclear Plants in Taiwan」
原発に関する追記【2009/06/22】1
原発に関する追記【2009/06/22】2
でも、ある日突然(うまそう♪)って感覚になったりして。
まぁ大好物とまでは言いませんが、そういう強烈な印象のものって裏腹なのかもなぁ〜と。
クセが強いほど好みは両極端だけど、キライなものを好きになるのは素的な事だと思うんですね。
人にも、そうであったら好いのですが・・・。 f(^_^;)"
臭豆腐は(アレがそうかな?)というのを食べたのですが、何の印象もなく肩透かしでした。きっと違ったのでしょうね! 笑
昔中国で豆腐を腐らせたようなスープを飲んだけれど、
まさかあれではないですよねぇ?あれはぼくは・・・
今回ひたすら気になったのはかえるくんTシャツ。
「Treefrog」ってまさか、
「きがえる(着替える)」では、ないですよねぇ?
そういえば沖縄料理の“とうふよう”も、かなり独特だと聞きます。
「腐」という字は、本来(柔らかく弾力性があるもの)を表すのだそうです。
臭豆腐の読み方は、「しゅうどうふ、もしくはチョードウフ」だそうです。
香港では、屋台の出店には行政の許可が必要なのだとか(くさいから)。
中国でも、地域によって調理法が変わってくるらしいです。
なるほどー。
北京の伝統的な栄養食品の『豆汁』も、独特の酸味と臭いを発するのだそうです。
昔は朝食に好まれたようですが、近年では食べる人も少ないらしく滅多に見られない・・・とウィキペディアにありました。
なかなかレアな体験をされたのでは? 笑
「Treefrog」、やっぱりアマガエルの事でした。
着替えるとは、まったく思いつきませんでしたよ〜! f(^_^;)""
ちなみにヒキガエルやガマガエルは「Toad」でした、村上作品の『かえるくん』は、おそらくこっち系でしょうね・・・。