あれって、障害者も乗れるのだそうだ。でも僕だけじゃなくて、やはり世間でも認知度は低いようで。
特に外見で障害を持っているか分かりにくい男性は、車内で白眼視されたり詰問されるみたい。
思えば障害者用のトイレや駐車場だって、四肢に不自由がなくても何らかの障害で止むを得ない事情は起こり得るんですよね。
電車で優先席に座っていた妊婦が怒られたとか、エレベーターで右麻痺の人を支えていたら後ろから「右側通行だ」とどやされた・・・といった勘違い話も。
なるほど、駅のエレベーターに群がる人々を(横着者め)と決め込んでいた自分も同じ穴の狢であります。あれだって健常者とは限らなかったのだなぁ?
障害者が、健常者に分かりやすい障害者でいなければならない・・・としたらですよ。その方が、考えてみれば怖い。
そういう意味でも、見た目ってのが大事な社会なんだよなー。
というか、こう考えたりしちゃう自分の「余裕のなさ」に問題の根っこがあるのか・・・。
ちなみに軽々しく「障害者」という表現を用いて不快に思われる方がいたら失礼、ただ僕は腫れ物に触るみたいな語感は避けたいと思っているだけで他意はありません。
そういえば僕は「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」とは言わないし、インドの「ヒジュラ」を「聖なる手」とも呼んでませんな。
それもまた、どちらで呼んでも傷つく人はいるのだと思ったからなのです。まぁ気持ちの上でね、活字では伝わらないので念のため。
また話は違うんですけど、たとえば晴れた日に腕を布で覆っている女性。
てっきり(美白と紫外線対策の過剰反応ね)とばかり思っていたんですよ、もちろん他人の勝手ですけどね。まぁ(モテない女性の男嫌い)と同レベルの貴婦人気取りに見ていたんです。
でも母にそう言ったら、意外な話を聞きました。
ホルモン治療を受けている人は、肌が過剰に反応しやすいので「日焼けと虫刺されに注意しないといけない」のだそうです(甲状腺の治療だったか、専門的な部分は忘れましたが)。
なので母は、僕とは違って(ホルモン治療を受けている女性がこんなに増えてる)と思っていたそうで。
他人の事情とは、計り知れないものなのですなぁ。
世間では様々な問題が取り沙汰されていて、でも時々ヒヤッとするんです。いや別に後ろめたいからでなくてね、正論の切れ味とは恐ろしいものだと思って・・・。
そもそも本来は「裏なコト」が(生活の裏ワザ)とか(渋滞の裏みち)なんて、処世の知恵みたくまかり通っているのと表裏一体な気もするんですけどね。
だからって抜け穴をなくすように緻密な罰則を決めるとか、分厚い契約書みたいな方向性にも薄気味の悪さを感じるし。それが却って、明文化されていなければ都合よく解釈しても何らはばかる事ない構造を肯定してるみたいだし。
ところで水泳のフォームって、自分が思ってるよりも情けないんですよねー。
小学生の頃、指導員の泳ぎを見ていて(ゆっくり泳ぐと速いんだ)という大発見をしたんです。無論とんでもない勘違いなのですが。
それをクラス対抗リレーで実践してしまいましてね、息継ぎの合間に聞こえる大歓声!・・・と思ったのは大差で敗れたブーイングの嵐でした。
その夏休みは特訓を受ける羽目になりましたが、最後はコーチにほめらるまで上達したんです。
で、その10年後。その間に泳法は大きく進化していて、プール監視員になった僕は先輩から「お風呂のオモチャだ」と失笑を浴びたのでした。
たとえば、どこかのブログに書き込みする時。しごく真っ当に思える意見に、嬉しさのあまり激しく賛同するコメントを送信しかけてヒヤッとするんです。
猛省を促す、配慮を求める、あるいは自重せよ・・・なぁ〜んてコトは言いませんけど。なんというか、妙に空々しくて聖人君子めいた自分の言葉にね。
たとい(その件に関しては潔白である)としても、だから強気に出るってのは違うかって気がしたんですよ。
まるで自分が常にベストの状態みたいな、苛々してたりボーッとして間違える事がないみたいな語感に。
メディアが掲げる(市民の声)の中にも、同じ怖さを感じてしまう時があるんです。
謙虚さを口にしながら、一向にそれが身に付かない僕なのですが。
平成19年10月10日
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