これって常識外れな住人から苦情を受けた役所が始める、無益なサービスみたいなものか?
たとえば最近の携帯電話や乗用車などに、当たり前に付加された機能。
その中で(あぁ、まさにユーザー・フレンドリーだな)と、1つでも実感できるものがあれば上等。ほとんど無くても困らないし、その分だけ壊れにくく安く作ってくれよと思う。
全部オプションで別売りにするのが、ユーザー・フレンドリーじゃないのかって。
お店に入って「いらっしゃいませ」でなく「こんにちは」とか言われる、それ位なら構わない。
そんな頻繁に色々な店に出入りしないので、滅多には感じないけれど。
なんでもかんでも、先回りされたりすると鬱陶しくなる。友人でもない、赤の他人から馴れ馴れしくされる居心地の悪さも。
子ども扱いされてるみたいだし、それを望む客がいるとしても基準をずらさないでほしいと思う。
かつて「田舎者」という蔑みの言葉があった。
でもそれは決して地方出身者という意味ではなく、最近いわれる「KY」というニュアンスに結構近いのではないかと思う。
狭い道で行き違う時の会釈、エレベーターに乗り合わせる時の目礼、そういった仕草に気付かない人。
並んでいる列を追い抜いて割り込もうとする車のように、見れば分かりそうな事を無視できる厚かましさ。
そういうのを総じて「田舎者」と呼んでいたのだった。
ちなみに「KY」という場合、そこには地理的な限定がない。
数人で井戸端会議でもしてるとすれば、そこに話の腰を折るような人間が首を突っ込んでくるようなものだろう。
暗黙の了解を壊してしまう点では「田舎者」とも共通しているが、よりパーソナルで狭い了解であると思う。
ゲームでいう、ローカル・ルールのようなものだ。
たとえば都会に引っ越してきた子どもが、近所で遊んでる子ども達の仲間に入れてもらうとする。
ところが、自分が知っているケイドロとは全然ルールが違っていたとする。
当然、周りから馬鹿にされたりからかわれたりするだろう。
ただし、そのエリアに団地が多かったりして転入してくる子どもが珍しくなければ、転校生の儀式も長くは続かない気がする。
少なくとも、初めて外部の人間が越してくるような状況ほど引きずりはしないだろう。
「田舎者」と呼ばれる場合でも、自分から揉め事の種になったり我を通したりしなければ、徐々に周囲の了解事項が呑み込めて円滑に近所づきあいできるようになってゆく筈だ。
「KY」という言葉には、どこかそういった寛容性が感じられなかったりする。拒絶や排除のニュアンスが強くて、却って痛々しく思えてしまうのだ。
とはいえ、僕自身が「KY」という言葉が交わされる場所にいないから実際には分からない。
ずいぶん前になるが、あるバイト先に年下で学生の同僚がいた。
名の通った大学から立派な会社へ内定が決まっていて、穏やかで腰の低い青年だった。
そういう非の付け所のない外面とは裏腹に、彼は常に陰湿な事を企んでいる人間でもあった。
無闇に体を鍛えていて関節技の相手をさせられ、僕は古い大藪晴彦の映画を思い出した。
中学時代に味わった屈折した感情を、彼は成人式を過ぎても未だ脱け出せないのか・・・?
その頃にも、やはり「MG5」とか「MMC」といった流行語が「チョベリグ」の陰で囁かれていた気がする。
しかしそれは半分テレビのネタであって、実際に聞いたこともない渋谷界隈の内輪用語だった。だから、なぜそんな言葉が今になって喧伝されるのかが不思議でならない。
でも結局は当時のように短命で消えてしまうだろう。いくらメディアなりネットなりで話題にしても、所詮は残らなかった言葉だ。
今、この国の子どもたちは大人と対等に扱われているようだ。
僕が子どもだった頃ほどには、抑圧されていない感じがする。
反抗しても立ちはだかる壁はなくて、自分たちの言葉もスタイルも簡単にすくい上げられてしまう。
それが気の毒に思えてしまうのは、単なる感傷なのかもしれない。

平成20年3月14日
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