あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。
裁判員制度が始まった。
人が人を裁く、その大それた事が義務として課せられる。
そりゃあ誰だって厭だよ、他人をとやかく言える自分じゃない事は知っているし。
でも、これからは自分たちが判決に関わらなければならない。
今まではテレビの前で好き勝手に、軽々しくジャッジしていたけれど。
昔、キャンプで鶏を絞めた。
それは仲間同士でのアウトドアと違って、非政府団体が主催するイベントのようなものだった。
子どもや10代の若者に交じって、真夜中の山中を明かりなしで歩いたりした。
そのプログラムの中に、自分たちで鶏を絞めて調理する食事があった。
もちろん菜食主義の人や、残酷な行為に加担したくない人は別メニューが用意されていた。
僕は自分で鶏を選び、その日ずっと可愛がって過ごし、夕食で殺して食べた。
夕食の時間が近づくにつれて怖くなったし、鉈を持つまで手が震えていた。
だけど覚悟を決め、心を込めて絞めて捌いた。
本当は、こういう事だったのにね。
いつもスーパーで買っている、パックされた加工済みの食料も。
自分の見えないところで、誰かが代わりに動物を食料にしている。
この手を汚さずに、頭では分かっているけれど実感として命の重さを感じる事もなく。
あのキャンプは貴重な、ありがたい経験だった。
制度に反対する人たちに対して言いたい事はないし、諸手を挙げて賛成でもない。
ただ、ふと思い出した事があったという話だ。
肉を食べる僕らは、日々あの手の感触を知らずに彼らを食べている。
実際に体験してしてみて、心から(いただきます)という気持ちになった。
今まで僕らはテレビや新聞越しに事件を知るだけで、無責任な事ばかり言ってきた。
本当の事なんか分からないのに、もしも自分がなんて考えもしないでね。
だったら外野からヤジ飛ばしてないで、自分らで裁いてみろと。
誰もが突然、当事者になるかもしれない・・・。
そんなふうに考えて口に出すようになるのは、そう悪い事でもない。
世の中は複雑になり、いろんな事を他人任せにしてきたけれど。
これ以上、豊かになる事よりも身近な現実について、もっと思いを深める機会かとも。
やっぱり大人がね、簡単に「死ねばいいのに」なんて言わない社会がいいな僕は。
2009年05月24日
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