2009年05月24日

思い尽きたが好日・今までも、これからも

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



裁判員制度が始まった。
人が人を裁く、その大それた事が義務として課せられる。
そりゃあ誰だって厭だよ、他人をとやかく言える自分じゃない事は知っているし。

でも、これからは自分たちが判決に関わらなければならない。
今まではテレビの前で好き勝手に、軽々しくジャッジしていたけれど。

昔、キャンプで鶏を絞めた。
それは仲間同士でのアウトドアと違って、非政府団体が主催するイベントのようなものだった。
子どもや10代の若者に交じって、真夜中の山中を明かりなしで歩いたりした。

そのプログラムの中に、自分たちで鶏を絞めて調理する食事があった。
もちろん菜食主義の人や、残酷な行為に加担したくない人は別メニューが用意されていた。

僕は自分で鶏を選び、その日ずっと可愛がって過ごし、夕食で殺して食べた。
夕食の時間が近づくにつれて怖くなったし、鉈を持つまで手が震えていた。
だけど覚悟を決め、心を込めて絞めて捌いた。

本当は、こういう事だったのにね。

いつもスーパーで買っている、パックされた加工済みの食料も。
自分の見えないところで、誰かが代わりに動物を食料にしている。
この手を汚さずに、頭では分かっているけれど実感として命の重さを感じる事もなく。

あのキャンプは貴重な、ありがたい経験だった。

制度に反対する人たちに対して言いたい事はないし、諸手を挙げて賛成でもない。
ただ、ふと思い出した事があったという話だ。

肉を食べる僕らは、日々あの手の感触を知らずに彼らを食べている。
実際に体験してしてみて、心から(いただきます)という気持ちになった。

今まで僕らはテレビや新聞越しに事件を知るだけで、無責任な事ばかり言ってきた。
本当の事なんか分からないのに、もしも自分がなんて考えもしないでね。
だったら外野からヤジ飛ばしてないで、自分らで裁いてみろと。

誰もが突然、当事者になるかもしれない・・・。
そんなふうに考えて口に出すようになるのは、そう悪い事でもない。

世の中は複雑になり、いろんな事を他人任せにしてきたけれど。
これ以上、豊かになる事よりも身近な現実について、もっと思いを深める機会かとも。

やっぱり大人がね、簡単に「死ねばいいのに」なんて言わない社会がいいな僕は。
posted by tomsec at 15:51 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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