すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。
英語では“Beats me”という言い回しがあるそうだこの文章は、去年の11月に書いたもので、元のメモを書いたのはもっと前だ。
正確には忘れたが、意味としては(困らせられる)というようなものらしい
正論というのは「そうですね」としか答えようがなく、会話の中では厄介なものだ
もし言われたら鼻白むんじゃないかな、漫才ではないからボケもツッコミも要らないにせよ
大抵、正論に目新しい意見はないものだし
たとえば政治家の失言でも、職務と縁遠い間違いを問題視するのって
個人の資質と職能は別次元だし、政党間の駆け引きとしても見苦しい
漢字の読み違いから引っ張れる主張もあるだろう、まぁ小気味よく茶化されてると感心するけど
ネット環境に触れるようになって、正論というのを身近に感じるようになった
批判を避けるために理論武装したような、そういう発言が日常では身近でなかったもので
せいぜい学生気分が抜けてない人に、そういう手合いがたまにいる程度
まぁ論争となれば正論同士のぶつかり合いなんだとは思う
不特定多数が閲覧する場だから、あまり主観的に過ぎる主張は慎重にならざるを得ないのもあるだろう
だからって新聞の投書欄みたいな発言ばかりでは、なんだか息苦しいというか
以前ふと気付いた事:何か面倒を抱えている時、そこから気をそらすために自分以外の中に問題を見つけてしまう
つまり一種の代償行為として、不必要なほど口出しをしてしまう
我が子が危なっかしい手つきで刃物を使っているようなら、正論より的確なアドバイスなのに
・・・というのは自戒を込めて、自分でも猛省を心がけたいところ
ネットは、こういう誰に話すでもない些細な息抜きにも便利ではある
自分の正義を実現するための道具にしてしまうのも、まぁ使いようではあるのだが
刃物と違って自分の使い方で成り立っていない、それを意識していないと
銃規制や自動車免許のように、許認可を権力に管理される道具になってしまうんだろうな
「活字中毒R.。」さんの村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」という記事を読んでいて、自分のネタ帳から引っ張り出してみたのだ。
もう村上氏の名前を出してる段階で、いかにも自分の意見に箔をつけようとしている感ミエミエですが・・・。笑
しかも今まで大っぴらにしなかったのを、急にアップしてみたりね。
氏の発言で、学生運動について触れた部分は感慨深いものでしたが、それは話がそれるので割愛。
で、氏の引用文はリンク先で読んでいただくとして(携帯からご覧いただいている方、もし閲覧できなかったらごめんなさいね)。
こちらのサイトマスターが引用文の後に書いた部分を全文引用してみます。
自分では考察の及ばなかった部分、そして村上氏の発言内容から感じたものと重なる部分もあったので・・・。
べ、別に虎の威を借るつもりじゃないんだからねッ!?
この『文藝春秋』に掲載された村上春樹さんのインタビュー、前日にasahi.comの記事として、村上さんの【「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている 】という言葉が採り上げられていて、僕は「ネット空間における正論原理主義」ってどういうものなんだ?とすごく疑問に感じていたのです。
「正論」がどうして怖いのだろう?
発売された、この『文藝春秋』でのインタビュー全文を読んで、ようやく村上さんが言っていることの意味が少しわかったような気がします。
ここで村上さんが語られている「正論原理主義」というのは、【純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす】ことのようです。
そして、その「正論原理主義者」たちは、「反対派」だけではなく、言葉を慎重に選んだり、いろんな立場の人々のことを慮ったりしてなかなか口を開けない人たちを「日和見主義者」だと強く批判して押しつぶしたり、追い出してしまう。
そして、「正しさ」はどんどん先鋭化して、「異端を排除する」ことにばかり向かっていくのです。
結果的には、社会を変革することよりも、内部での「正しさ比べ」になってしまい、それについていけない人たちは脱落していくばかり。
それでは、どんなに「正論」を主張していたとしても、世界を変えるにはあまりに少ない人々の力しか集められません。
ネット上というのは、「言葉だけの世界」だけに、なおさら、そういう「言葉の正しさ比べ」になりやすいんですよね。
本当に「大事なこと」は、「そう簡単に言葉にはできないこと」にあるのかもしれないのに。
僕は学生運動をリアルタイムで体験した世代ではありませんが、こうして毎日ネットにかかわっていると、「ネット空間にはびこる正論原理主義」そして、「その『正論』の尻馬に乗ることで、自分の優越感を満たしたい人」の多さに辟易しますし、僕自身もそういう人間のひとりであることを感じます。
あの時代、体を張って「正義」を訴えたはずの人の多くが、その後あっさり「転向」してしまったことは、ある意味ものすごく象徴的なことなんですよね。
「正論」って、ある種の人々にとっては、流行の服みたいなものなんだよ、たぶん。
でも、それは他者にとって、「玩具のピストル」じゃない。
ちなみに同じく、村上氏つながりでリンクをもうひとつ。
村上春樹さんに「そんな残酷なシーンを書くべきじゃない」という抗議のメールがたくさん来た小説
こちらは翻訳家でもある柴田元幸さんとの対談から、村上氏の『海辺のカフカ」で描いたある場面に抗議のメールが殺到した・・・という話。
で、サイトマスターの感想から一部を引用。
この村上春樹さんの話を読んでいると、「現実」だけではなく、フィクションの世界に対しても、「人間はどんなに悲惨な殺され方をしても許すけれど、かわいい動物たちを虐待するような描写は受け入れられない、という人がけっこういるのだということがわかります。僕も、作品を読んでいて楽しくはなかったですが。
実際に起こった事件や事故(あるいは、明らかにそれをモデルにしている作品)に対して「抗議」するのはわかるけれども、フィクションに抗議するというのは、僕にはちょっと理解不能なのですが……
でもそれは不快さを印象づけるエピソードですからね、つまり無抵抗であり利害関係が成立しない事がポイントな訳で。
しかしカラスではなく猫を選んだ点が絶妙だったのでしょうね。
*リンク先は「直リンクは、そのほうが読む人が便利だと判断された場合には、とくに制限はありません。」という方針のようなので、以前の分も直接リンクにしてみました。