2009年10月09日

思い尽きたが好日・不安を脇見

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



見るものが中心にくる。
たとえば手仕事をしながら誰かと話をしているとき。
テレビを点けたまま雑誌をめくっているときなど。
人間は視覚から多くの情報を得ているから、気持ちの集中する方に目が向いてしまう。
そして目を向けている物事に、どうしても気持ちの主軸が移ってしまう。

それは子供や老人の、自転車運転にも似ている気がする。
道端のドブに寄ってしまっているな、と気が付くと吸い寄せられてゆく。
子供は成長や、そういった経験から自然と目を安全な方へと向けられるようになる。
しかし老人の場合は、おそらく不安や恐怖への感度が高くなってしまうのだと思う。
同じ目に何度も遭っても、やはり「危ない!」などと叫びながら危険に向かって進んでしまう。
それでも大抵は自分から自転車を降りて(あるいは倒して)回避はするけど。

以前(ハウリング)について考えてみたことがある。
感情の増幅効果は、どうも負の方向に強く働くらしい。
犬がサイレンの音に反応して吠えるのは、遠吠えの周波数とサイレンの音が似ているからだという。
遠吠えだ、と思うと自分も吠えずにいられなくなる習性なのだろう。
人間の感情も、それと同じ原理が作用するのかもしれない。

管理社会、いや近ごろでは監視社会ともいわれる。
こんな状況は、不安を中心に置いてしまった人の意識が生み出したのではないかと思ったりする。
世の中には、様々な不安要素があふれている。
というよりも、不安を増幅する装置に充ちている。
ニュースもそうだが、物を売る口実もそうだ。
そして他人を黙らせる方法も「では万一の時、貴方に責任を取ってもらいますよ」という言い方をする。
互いに助け合う、ではなく縛りあう社会だ。

ところで話はそれるが・・・。
誰かが「社会的弱者」という言葉を口にする時、何か引っ掛かりを感じる。
あたかも自分ではない誰かへの義憤でありながら、それは架空の存在を通して自分を語っているのではないかという気がする時がある。
それが過去のトラウマなのか罪悪感なのか、そういった本人の心理的な「内的弱者」の救済を訴えているような。
もちろん自身の葛藤を、社会問題と見せかけて解決したい訳ではないとしても。

特定の誰かを周囲が「社会的弱者」と呼んでいるうちに、本人も(自分は弱者だ)と思い込んでしまう事は、ないだろうか?
あるいは(自分は無力だ)と感じている人が望むのは、システムの変更なのだろうか?
むしろ己の窮状を打ち明けた相手に手を取ってもらい、話を聞いてもらうことだったりはしまいか。
たとえば子供の窮状を解決するため、と意気込んで教育現場に乗り込むよりも。

親自身が、我が子に労力や時間を費やすことで失うものを怖れるから、その弱さが裏返しになって教師を攻撃するのだと思ったりする(無論、一概には言えないが)。
そういう心理と同じような原理で「社会的弱者」という代理人を仕立ててはいないだろうか。
自分に何のメリットもデメリットもない事柄に、そうそう強気にはなれないものだ。
本当は縁も所縁もない第三者のためではなく、そうする事やそうして望む結果が自分に重要なのだ。
それは収益や立場に関わるのかもしれないし、深い心の問題かもしれないが。

大きな声を上げる人の、その言葉の中に目を背けていたい何かが見えるとしたら。
その人は「危ない!」と叫びながら危険に飛び込むかもしれない。
「弱者を救え!」と訴えながら自身の弱さに向かうかもしれない。
でも行動する人には動機があるのだから、それはそれで構わないのだ。

平成19年12月4日
posted by tomsec at 00:50| 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする