2010年02月18日

思い尽きたが好日・勝ちたいんや!

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



ちょっと、読み返して(とっちらかっちゃってるな〜)と感じたので、全面的に書き直してみます。
一応、最初の内容は追記リンクに残しました。

話の矛先が180度転換しちゃってるように感じられるかもしれませんが、見方を変えてみたのだと解釈してください。
正直、どうだっていい事ですからねぇ。

オリンピックどうでもいい派としては、国母選手にはシンパシーを感じなくもない・・・というのは冗談だが、実際に彼が「出たい、出させてください」っていう選手じゃないのは本当らしい。
選考委員会が「結果を出す」ため、国母トッププロに打診したとして。
これが「出てみませんか?」なのか「頼むから出てください」かは、橋本団長の判断から想像するしかない。

しかしスノボやる人が見れば神業でも、素人から見ればズッコケ君である事は否定できない。
というか、顔面から流血した映像を見て(雪で転んだホームレス)にしか見えなかったのは僕だけではないだろう。

開会式に彼がいても、別に違和感なかったんじゃないか?
というか、あのまんま何も言わずに歩かせてみればよかったのになぁ。

それで彼一人が地方の成人式みたいにチャラけてる映像が残ったら、それはそれで一つの教訓にはなったんじゃないか?・・・とも。
赤っ恥映像が一生付きまとうと知れば彼のプロ意識にも成長の余地があるだろうし、何よりも彼の格好に共感してた若者世代もイタさを共有できたろうに。

保守層は眉をひそめるけれど、そもそも「強けりゃいい」っていう空気を作ったのは痛い若者世代じゃないもんね?

勝ちたいんや 
ホームレス?








以下、最初に書いた記事
イマジンと老害問題
posted by tomsec at 22:09| 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年01月10日

思い尽きたが好日・昨年を振り返って

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



遅ればせながら、新年のお慶びを申し上げます。
年末は、あまりにバタバタで当ブログも休止しておりましたが。
スロー・ペースながら、ぼちぼち再開していこうかと。

で、とりあえずネタもないので昨年を振り返ってみようかと。
まぁ、ありきたりな事しか言えませんが・・・。


鳩山政権発足
これは国民に選ばれた、というよりも消去法ですよね。
止むをえず民主党、仕方なく鳩山総理って。
そして万年野党気分でいた民主党、まさかの政権獲得で今までの美辞麗句と辻褄あわなくなっちゃって。
連立内閣だか知りませんが、要するに民主党内でも人材不足って事ですよね?
元々は自民党から分かれたってのに、かつての社会党政権よりも手際がよろしくない。
というか志のない職業政治家ばかりで、下手なポストに就かされない方が色々と美味しいんでしょうが。


のり塩事件
芸能人の麻薬汚染がニュースで大きく取り沙汰されてましたが。
死にそうな人の救護よりも自己保身を図って放置した男に非難が集中するのは分かりますが。
逃亡・潜伏で出頭を遅らせてヤク抜きしてた女に同情が集まるのは解せません。
それって、まるで泥酔して轢き逃げした運転手が酔い醒ましで罪を軽くしようとしたのと同じ発想じゃないですか?
あの事件の(罪悪感より我が身可愛さか)っていう発想は衝撃でしたが、今では裏技感覚で気に留める人もいないんでしょうか・・・。
著名人の麻薬事件は過去にも度々ありましたが、今回の2人は人の性根が腐ってます。


新型インフルエンザ
最初の「豚インフル」では風評被害の懸念があるからと、呼称を変更したのが思い出されます。
潔癖症の国だけに、まぁ仕方ない気もしますが。
事実かどうかは知りませんが、多くの60代以降の日本人には免疫があるとも聞きました。
「昔はどこでも豚を飼ってたから、程度は違ってもみんな罹ってたんだよな」・・・と。
スペイン風邪は90年前ですから、その意見の信憑性には疑問ありですが。
「下手に新型なんて言うから、騒ぎが大きくなるんだよ!」って。
もちろん、後から言うのは簡単なのです。


米オバマ政権発足
白人社会に有色人種の大統領、というSF設定が現実化しましたが。
当のオバマさんにしてみれば(自分は自分だし)っていう、もどかしさもあるんじゃないでしょうか。
もはやアメリカも若い国ではありませんから、保守層からの強烈な反動を予想していました。
なので、とりあえずオバマさん元気でなによりです。


新疆ウイグル自治区の暴動
これはフリー・チベット騒ぎの流れで、起こり得るとは思ってました。
漢族支配の徹底という点から考えれば、次の火種になりそうな場所の締め付けがきつくなるだろうなと。
もしかしたら、国外の安いフリー・チベット派の増加が、ウイグルの人達に期待を持たせてしまったのではないかという気もするのですが。
すっかりトーン・ダウンした感のある、近年のフリー・チベット便乗組は、決して「フリー・ウイグル」とは言わないんですよね。
そういうチャラさに落胆・・・はしないけども。


高速1,000円
確かに、昔の政治家は無責任な約束をした。
「将来的には無料にする」とか、保守管理費用を軽んじた人気取りな発言でしたよね?
そして焼け石に水のような、まさかの国民ご機嫌取り政策という自民党の最後っ屁。
マイカー族(古!)は喜び、流通業の末端にいるトラッカーと利用者にとっては傍迷惑なだけの場当たり的な景気対策です。
昨今のクルマ離れとも、CO2削減25%とも噛み合わないんだがなぁ。


米軍普天間基地の件
残念ながら、日本はアメリカの後ろ盾がなければ危うい国なので。
そして沖縄県の有する海域は、伸展する中国海軍にとって、海底資源の宝庫として、非常に魅力的である故に。
もしも沖縄から米軍が完全撤退したとして、観光主軸の経済が成り立つとしても。
仮に自衛隊の駐屯基地を建設したところで、アメリカの威光が消えたら台湾危機も再燃かと。
その素人にも明白な地勢を覚悟で、沖縄の意見を尊重すればいいさね。


マイケル&忌野死去
川村かおりさんもお亡くなりになりましたが。
すっかり忘れてたくせに死んだからって持ち上げるような風潮が、なんとも切なかったです。
特にマイケルなんて、映画までヒットしてるみたいで。
ずいぶんと奇人扱いされてたのが、まさに手のひらを返すようなね。
キング・オブ・ポップス?・・・とても自分は口に出来ませんよ。


事業仕分け
やらないよりは、やって良かったんじゃないでしょうか。
見直してみて、やっぱり大事だって国民が判断した事は継続すればよい話。
今年は議員と高級官僚も仕分けてください。


八ッ場ダム建設中止
脱ダムは結構な事ですが、未だ人の手に余る原子力に依存するのはリスクが大きすぎやしませんかね。
とはいえ電気で自動車も走らせようっていう時代ですから、大規模な事故でもない限りは変わらないのでしょうけども。



年明け早々、なんだか厭味ったらしい文章になってしまい反省・・・。
しかし楽しくなるニュースを思い出せないっていうのが、それ以上に虚しいです。
今年こそは!
・・・という意気で、新たな1年よろしくお願いします。
posted by tomsec at 03:30| 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月09日

思い尽きたが好日・不安を脇見

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



見るものが中心にくる。
たとえば手仕事をしながら誰かと話をしているとき。
テレビを点けたまま雑誌をめくっているときなど。
人間は視覚から多くの情報を得ているから、気持ちの集中する方に目が向いてしまう。
そして目を向けている物事に、どうしても気持ちの主軸が移ってしまう。

それは子供や老人の、自転車運転にも似ている気がする。
道端のドブに寄ってしまっているな、と気が付くと吸い寄せられてゆく。
子供は成長や、そういった経験から自然と目を安全な方へと向けられるようになる。
しかし老人の場合は、おそらく不安や恐怖への感度が高くなってしまうのだと思う。
同じ目に何度も遭っても、やはり「危ない!」などと叫びながら危険に向かって進んでしまう。
それでも大抵は自分から自転車を降りて(あるいは倒して)回避はするけど。

以前(ハウリング)について考えてみたことがある。
感情の増幅効果は、どうも負の方向に強く働くらしい。
犬がサイレンの音に反応して吠えるのは、遠吠えの周波数とサイレンの音が似ているからだという。
遠吠えだ、と思うと自分も吠えずにいられなくなる習性なのだろう。
人間の感情も、それと同じ原理が作用するのかもしれない。

管理社会、いや近ごろでは監視社会ともいわれる。
こんな状況は、不安を中心に置いてしまった人の意識が生み出したのではないかと思ったりする。
世の中には、様々な不安要素があふれている。
というよりも、不安を増幅する装置に充ちている。
ニュースもそうだが、物を売る口実もそうだ。
そして他人を黙らせる方法も「では万一の時、貴方に責任を取ってもらいますよ」という言い方をする。
互いに助け合う、ではなく縛りあう社会だ。

ところで話はそれるが・・・。
誰かが「社会的弱者」という言葉を口にする時、何か引っ掛かりを感じる。
あたかも自分ではない誰かへの義憤でありながら、それは架空の存在を通して自分を語っているのではないかという気がする時がある。
それが過去のトラウマなのか罪悪感なのか、そういった本人の心理的な「内的弱者」の救済を訴えているような。
もちろん自身の葛藤を、社会問題と見せかけて解決したい訳ではないとしても。

特定の誰かを周囲が「社会的弱者」と呼んでいるうちに、本人も(自分は弱者だ)と思い込んでしまう事は、ないだろうか?
あるいは(自分は無力だ)と感じている人が望むのは、システムの変更なのだろうか?
むしろ己の窮状を打ち明けた相手に手を取ってもらい、話を聞いてもらうことだったりはしまいか。
たとえば子供の窮状を解決するため、と意気込んで教育現場に乗り込むよりも。

親自身が、我が子に労力や時間を費やすことで失うものを怖れるから、その弱さが裏返しになって教師を攻撃するのだと思ったりする(無論、一概には言えないが)。
そういう心理と同じような原理で「社会的弱者」という代理人を仕立ててはいないだろうか。
自分に何のメリットもデメリットもない事柄に、そうそう強気にはなれないものだ。
本当は縁も所縁もない第三者のためではなく、そうする事やそうして望む結果が自分に重要なのだ。
それは収益や立場に関わるのかもしれないし、深い心の問題かもしれないが。

大きな声を上げる人の、その言葉の中に目を背けていたい何かが見えるとしたら。
その人は「危ない!」と叫びながら危険に飛び込むかもしれない。
「弱者を救え!」と訴えながら自身の弱さに向かうかもしれない。
でも行動する人には動機があるのだから、それはそれで構わないのだ。

平成19年12月4日
posted by tomsec at 00:50| 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月30日

思い尽きたが好日・笑いの鮮度

少々ご無沙汰しておりました。

別にネタ切れといった訳ではなく、構成するのが億劫になっておりまして・・・。
何か思ったりして、それをまとめようとしていると(そういえば前にメモしたネタが使えるよな)って気が付いて、ネタ帳フォルダをチェックして関連ありそうなテキストを開いたりするんですよ。
でもなんか文章が締まらない感じで、そのままフォルダに保存して・・・っていうパターン。

他さんの個人ブログで、時々「この記事に1時間かかった」とかいった記述を見かけるんですけど、自分の場合は4〜5時間もかかってしまうのです。
文章の筋力が萎えているのかもしれません。

で今回は、思い付いたまま上げてしまう事にしました。
とりあえず構成とか校正とか考えず。
(今のお笑いは面白くない)っていう感覚について、ちょっと思った事を書いてみます。

これって、年を取ってみて分かった事だなって思います。
若者に人気のある若手芸人を見ても、僕には(あー、これが昭和って感覚かぁ)と感じたのですよ。
ほら、昭和を知らない世代が使うじゃないですか、たとえば「3丁目の夕日」とか観てね。
しかし若手芸人を観ていても、欽ちゃんとか林家三平といった「昭和の喜劇王」の持ちネタに大爆笑する客席・・・といった映像を観ている気分になったんですよ僕は。

平成世代にとって面白い事は、僕らにしてみれば(もはや今更)っていう感じがするのだなぁ。
箸が転がっても云々、なんて言い方があるのも、それだけ世の中が未体験の新しさに満ちているって事で、自分だって子どもの頃は(なんで大人はドリフとかツービートが可笑しくないんだろう?)と思ったけど。
結局は世代間で同じことが繰り返され続けているのか、と言えば案外そうでもない気はする。
でも何となく、60年代あたりからインプットが減り始めてたような・・・ってコレはまたの機会に掘り下げるとして。

つまり(今のお笑いが詰まらない)のではなく、年を食った分だけ自分の経験値からは鮮度が下がってるだけなのね。
お笑いのDVDを買っても、そんなに繰り返し観て笑えないのは慣れてしまうからなんだ。
ドラマとか音楽も、お笑いほどではないけれど昔ほど新鮮味を感じないのだけど。
ひょっとして、消費のための量産体制が鮮度を下げてしまっているのかもね。
ハングリー・マーケットって用語があるけど、そうやって飢餓感を煽らないと消費さえも娯楽ではなくなってしまっているんだろうな。

でも、現象としては(ネタ被り)な筈なのに、身近なアクシデント的な事だと何故か経験値が無視されるのね。
たとえば「視聴者からの仰天映像」みたいのとか、もう結果が読めてるありきたりな出来事でも可笑しいんだから不思議。
逆にいえば、意図的に人を笑わせるのって本当に大変なんだなって気はするなぁ。
posted by tomsec at 01:35 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月15日

思い尽きたが好日・自分の正義を実現する場としてのインターネット

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。

英語では“Beats me”という言い回しがあるそうだ
正確には忘れたが、意味としては(困らせられる)というようなものらしい

正論というのは「そうですね」としか答えようがなく、会話の中では厄介なものだ
もし言われたら鼻白むんじゃないかな、漫才ではないからボケもツッコミも要らないにせよ
大抵、正論に目新しい意見はないものだし

たとえば政治家の失言でも、職務と縁遠い間違いを問題視するのって
個人の資質と職能は別次元だし、政党間の駆け引きとしても見苦しい
漢字の読み違いから引っ張れる主張もあるだろう、まぁ小気味よく茶化されてると感心するけど

ネット環境に触れるようになって、正論というのを身近に感じるようになった
批判を避けるために理論武装したような、そういう発言が日常では身近でなかったもので
せいぜい学生気分が抜けてない人に、そういう手合いがたまにいる程度

まぁ論争となれば正論同士のぶつかり合いなんだとは思う
不特定多数が閲覧する場だから、あまり主観的に過ぎる主張は慎重にならざるを得ないのもあるだろう
だからって新聞の投書欄みたいな発言ばかりでは、なんだか息苦しいというか

以前ふと気付いた事:何か面倒を抱えている時、そこから気をそらすために自分以外の中に問題を見つけてしまう
つまり一種の代償行為として、不必要なほど口出しをしてしまう

我が子が危なっかしい手つきで刃物を使っているようなら、正論より的確なアドバイスなのに
・・・というのは自戒を込めて、自分でも猛省を心がけたいところ

ネットは、こういう誰に話すでもない些細な息抜きにも便利ではある
自分の正義を実現するための道具にしてしまうのも、まぁ使いようではあるのだが
刃物と違って自分の使い方で成り立っていない、それを意識していないと
銃規制や自動車免許のように、許認可を権力に管理される道具になってしまうんだろうな
この文章は、去年の11月に書いたもので、元のメモを書いたのはもっと前だ。

「活字中毒R.。」さんの村上春樹「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」という記事を読んでいて、自分のネタ帳から引っ張り出してみたのだ。

もう村上氏の名前を出してる段階で、いかにも自分の意見に箔をつけようとしている感ミエミエですが・・・。笑
しかも今まで大っぴらにしなかったのを、急にアップしてみたりね。
氏の発言で、学生運動について触れた部分は感慨深いものでしたが、それは話がそれるので割愛。

で、氏の引用文はリンク先で読んでいただくとして(携帯からご覧いただいている方、もし閲覧できなかったらごめんなさいね)。
こちらのサイトマスターが引用文の後に書いた部分を全文引用してみます。
自分では考察の及ばなかった部分、そして村上氏の発言内容から感じたものと重なる部分もあったので・・・。
べ、別に虎の威を借るつもりじゃないんだからねッ!?
 この『文藝春秋』に掲載された村上春樹さんのインタビュー、前日にasahi.comの記事として、村上さんの【「ネット空間にはびこる正論原理主義を怖いと思う」とも語っている 】という言葉が採り上げられていて、僕は「ネット空間における正論原理主義」ってどういうものなんだ?とすごく疑問に感じていたのです。
 「正論」がどうして怖いのだろう?
 発売された、この『文藝春秋』でのインタビュー全文を読んで、ようやく村上さんが言っていることの意味が少しわかったような気がします。

 ここで村上さんが語られている「正論原理主義」というのは、【純粋な理屈を強い言葉で言い立て、大上段に論理を振りかざす】ことのようです。
 そして、その「正論原理主義者」たちは、「反対派」だけではなく、言葉を慎重に選んだり、いろんな立場の人々のことを慮ったりしてなかなか口を開けない人たちを「日和見主義者」だと強く批判して押しつぶしたり、追い出してしまう。
 そして、「正しさ」はどんどん先鋭化して、「異端を排除する」ことにばかり向かっていくのです。
 結果的には、社会を変革することよりも、内部での「正しさ比べ」になってしまい、それについていけない人たちは脱落していくばかり。
 それでは、どんなに「正論」を主張していたとしても、世界を変えるにはあまりに少ない人々の力しか集められません。

 ネット上というのは、「言葉だけの世界」だけに、なおさら、そういう「言葉の正しさ比べ」になりやすいんですよね。
 本当に「大事なこと」は、「そう簡単に言葉にはできないこと」にあるのかもしれないのに。
 僕は学生運動をリアルタイムで体験した世代ではありませんが、こうして毎日ネットにかかわっていると、「ネット空間にはびこる正論原理主義」そして、「その『正論』の尻馬に乗ることで、自分の優越感を満たしたい人」の多さに辟易しますし、僕自身もそういう人間のひとりであることを感じます。
 
 あの時代、体を張って「正義」を訴えたはずの人の多くが、その後あっさり「転向」してしまったことは、ある意味ものすごく象徴的なことなんですよね。
 「正論」って、ある種の人々にとっては、流行の服みたいなものなんだよ、たぶん。
 でも、それは他者にとって、「玩具のピストル」じゃない。


ちなみに同じく、村上氏つながりでリンクをもうひとつ。
村上春樹さんに「そんな残酷なシーンを書くべきじゃない」という抗議のメールがたくさん来た小説
こちらは翻訳家でもある柴田元幸さんとの対談から、村上氏の『海辺のカフカ」で描いたある場面に抗議のメールが殺到した・・・という話。
で、サイトマスターの感想から一部を引用。
 この村上春樹さんの話を読んでいると、「現実」だけではなく、フィクションの世界に対しても、「人間はどんなに悲惨な殺され方をしても許すけれど、かわいい動物たちを虐待するような描写は受け入れられない、という人がけっこういるのだということがわかります。
 実際に起こった事件や事故(あるいは、明らかにそれをモデルにしている作品)に対して「抗議」するのはわかるけれども、フィクションに抗議するというのは、僕にはちょっと理解不能なのですが……
僕も、作品を読んでいて楽しくはなかったですが。
でもそれは不快さを印象づけるエピソードですからね、つまり無抵抗であり利害関係が成立しない事がポイントな訳で。
しかしカラスではなく猫を選んだ点が絶妙だったのでしょうね。

*リンク先は「直リンクは、そのほうが読む人が便利だと判断された場合には、とくに制限はありません。」という方針のようなので、以前の分も直接リンクにしてみました。
posted by tomsec at 02:41 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月29日

思い尽きたが好日・リアルとネットの温度差2

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。


なんだか別カテゴリーの「トラバ雑想記」みたいですが・・・。
”はてな匿名ダイアリーまとめブログの実験”という「増田にゃんねるβ」さんの記事『もう娯楽で金取るっつーのが無理なのかもしれない。』からの要約。

「DSi」という携帯ゲーム機を購入して「うごくメモ帳」というフリーソフトをインストールした・・・という話です。
パラパラマンガみたいな簡単なアニメや、カメラやマイク機能を使ったオリジナル作品を「うごメモシアター」という作品投稿サイトにアップロードして利用者間でコミュニケートできるらしい。
で。
『これがまあ、楽しいんだけど、「これでいいのか?」ってなんか釈然としない感じ。
何に引っかかってるかって言うと、UZEEE!って思うかもしれないけど、「著作権」ですよ。』

『ユーザは小中学生が多いんだろうけど、「著作権」という概念が全くない作者の巣窟』だそうで・・・。

版権キャラを使って、BGMも版権もの。
更にはTVや動画サイトを撮影したり、他人の投稿作品を複製してる。
そして「★ください!」(→★が多いほど高評価)
『こういう作品ってさ、だいたい、
「★100以上で、好きなリクエスト曲投稿します」とか、
「★100以上で、このアニメのED動画も投稿します」とか普通に書いてあるんだよね。
それも、いかにも小中学生って感じのへったくそな文字でさ。
悪気とか悪意とかまったくなし。でもそれが怖い』



僕はDSiについて知らないのですが、同じような状況は以前に複数のゲーム攻略サイトで見かけました。
そこではユーザーの発見した裏技などをコメントに書き込めるのですが、やはり(役に立った)度合いをアマゾンのレビューみたく五つ星評価できるのです。
で、高評価つけてくれたら極秘情報を公開する的な事も書いてあったり。
逆にガセ情報を未確認のまま書き込んで、低評価されてる場合もあったり。

著作権の話に戻しますと、まぁ自分たちもレコードの貸し借りでダビングしてきてる訳です。
図書館に行けば本でもCDでもDVDでも無料で閲覧できますし、それと何が違うのかって思われるのかもしれません。

というか、上の記事で気になったのは「著作権」と「版権」に関する認識でした。
著作者の権利は(作品のオーナーは誰なのか)という事で、そこから発生する利益は二次的な産物である・・・というのが僕の考えで。
その副産物のルールが、版権ビジネスであると認識しているんですね。
その考えからすると、問題は「作品の商品価値への侵害」ではないかと。

確かにインターネットは情報の共有化、平準化に大きく貢献しています。
ネット上に置かれたものは、すべからく共有されるでしょう。
それを望まない場合はネットにアップしない訳ですが、権利者の意向を無視して上げられてしまったら打つ手なしです。
よくある個人情報の流出もそうですね。
悪意があろうとなかろうと、上がってしまえば基本的に被害の回復は不可能です。
取り返しのつかない問題が、非常に簡単に起こってしまう・・・まぁこれは便利さに応じた代償です。

個人的なツールでありながら全情報と等距離である、見える物でありながら間合いを測りにくいフィールド。
そんなネット環境に、無自覚にアクセスする子どもたち。
それで痛い目を見て学習するのは言うことないですが、売り物を勝手に味見して買わないとなると既存の売買システムがネットから崩壊してしまいます。
それが新たな価値創造や流通システムの変革や、ひょっとしたら経済の概念を根底から引っくり返してくれるのかもしれません。

まぁそんな未来まで生きている気はないので、自由に世界を変えてくれて構わないとも思うのですが。
せめて僕ら旧世代が生きているうちは、お子様が使えるネット環境をワールド・ワイド・ウェブにリンクしない隔絶した環境にできないものでしょうか。
決してネットを規制すべきとは思いませんが、子どもが同じ土俵に上がってこられても相手が見えませんからねぇ。
posted by tomsec at 23:52 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年08月21日

思い尽きたが好日・リアルとネットの温度差

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



「活字中毒R.。」さんという、ブックレビューのようなサイトに掲載された『よしもとばななさんの「ある居酒屋での不快なできごと」』という記事が話題になっているようだ。

その記事では『人生の旅をゆく』という、ずいぶん前に出版されたエッセイの中にある1つのエピソードを取り上げている(直リンは張りませんでしたので、詳細はサイトのトップから『2009年08月08日(土)』の記事を探してご確認ください)。

まとめブログの大手『痛いニュース(ノ∀`)』さんに紹介されたのを初めとして、あちこちの同じようなブログに転載されリンクが貼られているのを見かける。
元サイトにコメント欄はないのだが、各ブログの記事は大量のコメントで賑わっていた。

エッセイの当該部分を大雑把に言ってしまえば、居酒屋で彼女が体験した不愉快な出来事だ。
ちょっとした事情があって、持ち込んでいたワインを店内で飲もうという事になった。
それを店長に見つかって注意され、仕方がないから道端で飲んだ・・・と。

どうやらそれが2ちゃんねるのニュース速報スレッドで「私が人脈持ってる人間だとわからないの!?」というタイトルで紹介され、各種まとめブログに転載されたようだ。

コメント欄が盛り上がっているのは、まぁ大方が「なんと鼻持ちならない女だ」といった方向になっている。
まぁ実際に紹介記事を読めば、そういう反応も分からなくはない。
わざわざ『人生の旅をゆく』を読まなくても済む話だが、本のあとがきでも作者はこの一件を取り上げている位だから、相当おかんむりだったのだろう。

ただ、この人は小さなタトゥをスーパー銭湯で見咎められて追い出された時も同じだった。
どの本かは忘れたが、やっぱり本文の他にあとがきでチクリと書いていた。
2000年頃からか、彼女のそういう文章が鼻につくように感じてはいた僕にしてみれば今更だし、最近は少なくとも小説に持ち込むのは止めたように感じている。

もちろん、2ちゃんのレスや各ブログでコメントしている多くは、昔の話でも今になって知ったから騒いでいる。
格好の(己の正義を表現する場)を見つけて、冗談半分で憤っている訳だ。

同じ「活字中毒R.。」さんの、2009年05月25日(月) の記事に『「ネットをやっている人間はバカになる」』がある。
これは『オタク論2!』著者の、唐沢俊一氏と岡田斗司夫氏の対談から抜粋されている。

岡田氏に対するネット上での批判に対して“彼らは「反証責任は岡田にある」と思っているんですよ。”と書いている。
そして自らも“ネットをやっていると、あまりに情報がたやすく手に入るから、「情報が手に入らないのは、情報を出してくれないヤツの責任だ」と思っちゃう”と、同じ思考に陥っていた事を発見したそうだ。

しばらく前に「ネットサーフィン」という言葉があった。
これを続けていると、日常の思考回路ではなく独自の価値観や優先順位を見出すようになるらしい。

また「活字中毒R.。」さんでは、こんな記事もあった。
2009年07月20日(月)付けの『ウィキペディアの「アグレッシブな滝川クリステル」』では、『週刊SPA!2009/7/14号』の滝川クリステルさんのインタビューの一部が引用されている。
それによると、まったく事実と異なる内容がウィキペディアに書き込まれていたらしい。

ネットサーファーの思考回路では(間違っている記事であれば編集されるものだ)と考えるし、修正がなければ(事実として黙認している)と看做して構わない事になる。
だが本人にしてみれば単に(困ったなぁ)という話であって、わざわざWikiを覚えて自分で修正しようとまでは思わない訳だ。
この、ネット思考の温度差は、もしかしたら(メールでは相手を怒らせやすい)といった印象とも関係しているのかもしれない。

ところで最近は『白いクスリ』という言葉をネット上で多く見かける。
まぁ酒井容疑者の持ち歌にかけて揶揄したものだが、この替え歌を用いた動画の再生頻度が非常に高いのだそうだ。
それで、動画の素材となるソフトを販売している会社が削除要請を出して次々と閲覧できなくなっているらしい(当然ながらイタチごっこなんだけど)。

僕の知る限りでは、昭和の初めにも「ナントカ節」といった風刺歌謡が存在していたのだから、現象として考えれば自然に受け止められる。
でもソフトを制作し販売する会社にしてみれば(悪用されて社会的信頼が低下する)という思考になるのかもしれない。
悪名高い2ちゃんねるに類するインターネットにて、大好評のソフトでござい・・・と?

仮想内部の思考が現実と乖離しているのと、現実社会のネットに対する偏向した思考。
いつか鉄のカーテンならぬ、電磁波のカーテンによって分断されたりして。
posted by tomsec at 01:12 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月15日

思い尽きたが好日・持ち歌に飽きて

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



よく、テレビの「懐かしのヒットパレード」的な番組には、持ち歌に飽きている歌手が出る。
いや本当に飽きているのかは知らないが、ヒットした当初とはまるで違った歌い方なのだ。

どこ呼ばれても必ず歌わされて何十年も繰り返し、変化をつけないとやってらんないのだな。
ものすごく前倒しに歌ったり、やたら後ろに引っ張ってみたりして・・・。
愛がない、というのは言いすぎだけど、その歌への敬意みたいなものは失われてしまっている。

本当は歌い飽きて、乗れない自分を鼓舞しているのだろうか?
だけど聴衆はその歌を待ち望んでいる、期待に応えようと勤める兼ね合いの中でなんだか違ってくる。

カラオケというのは完成された歌唱を真似るだけだが、最初はゼロから自分で歌を作っていく。
声の張り方や伸ばし方などその歌詞やメロディに最も相応しく表現できるようにと。
もちろん、歌い続けていく間にも工夫はされるだろうし理解が深まって変化したりもする。
だが、それはシンガー・ソングライターの話。

作詞家と作曲家に、自分のための歌を書き下ろしてもらっている歌手に改良の余地はない。
すべてコンポーザーが入念に作り上げているのだ、それを改変するのは作り手に対する侮辱でしかない。
言葉の一言、演奏の1音まで厳密なのだ。
という次第で、来る日も来る日も同じ歌を求められる中で編み出す苦肉の策がクイやタメなのだろう。

誤解を招かないようにお断りするが、この動画が「持ち歌に飽きて」の好例という訳ではない。
単に「最初と違っている」というのを、言葉で説明するより分かりやすい筈だ。
この人の場合はどう考えても意図的なんだが・・・もうノリノリである。


  ****************

先日、加藤登紀子と八代亜紀がテレビで競演していた。
それぞれが自分の持ち歌ではない歌を歌う、という趣向で、先ず加藤が尾崎豊の「I LOVE YOU」を歌った。

僕は加藤の歌には詳しくない。
せいぜいアニメ「紅の豚」のエンディングで流れた歌ぐらいだ。
だけどあの「時には昔の話を」という、まさに全共闘世代を思わせる歌を聴くと、自分には共感しようもない時代と知りながらも何故か涙が出てくる。

尾崎は世代的にリアルタイムだから、決して嫌いな訳ではなかった。
しかし当時から、ぶっちゃけ(浜田省吾の路線を同年代が歌っている)という意味で共感していた。[尾崎の「十五の夜」が'83、ハマショーの「愛の世代の前に」が'81年]
要するに尾崎の歌は、80年代という時代にしては直截で昔っぽい印象があった。

加藤の「I LOVE YOU」は(アレンジの効果も大きかったろうが)、オリジナルよりも深みがあった。

貧しくて先のあてもない2人が純粋な思いを重ねあう姿・・・それはどんな歌を歌っても不思議と60年代末の色あせた懐かしさを感じさせる加藤の真骨頂だろう。
大げさに言えば「神田川」とか「昭和枯れすすき」の時代風景に、ぴったりとおさまるのだ。
加藤は時代の変化に合わせてスタイルを変化させない、だけど時代遅れには不思議とならない。

八代亜紀は、井上陽水の「リバーサイド・ホテル」を歌った。
ブルージーなアレンジにあわせて、蓮っ葉な歌い方が新鮮だった。
バブリーな世相を皮肉るような歌詞なのに、緊張感が漂う雰囲気になっていた。
それでいて普段の演歌調とは違った、力の抜けた印象があった。

自分のために作詞家作曲家の先生が書き下ろしてくれた曲ではない、それは(こうあらねば)といった表現の方向性から自由な感じがした。

彼女たち2人のコーナーが終わると、別のグループが(いわゆるムード歌謡の定番曲)持ち歌を披露していた。
レコーディング時の歌い方をオリジナルとするならば、やはりクイやタメで崩していた。

一時代を築いた持ち歌があるから、こうした歌番組に招かれるのだが、その一方で歌い手は自身の持ち歌に縛られてもいると感じる。
きっと自分たちのステージではカバー曲も歌って、そこではもっと自由に伸びやかな気持ちでで歌えているに違いない。
posted by tomsec at 03:13 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

思い尽きたが好日・そんなに紫外線が怖いのか

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



僕は、サンバイザー姿の女性が怖いのです。
サンバイザーといっても、ママさん連中が自転車に乗る時に装着しているタイプ。
つばが広く顔全体を覆い隠している、それだけで不気味に見えてしまうのです。
そして、対向して走ってくる相手の情報が読めないことに、身の危険を感じたりします。

とはいっても、もちろん具体的に危ない思いはしてません。
だけど相手が何を認識していて、何かを見落としている可能性を予測できないのって不安。
特に、こちらも自転車に乗っていてすれ違う時には、とても緊張してしまう。
サングラスであれば、まだ口元や顔の向きから読み取ることが出来るけれど・・・。
バイク乗りがフルフェイスのヘルメットしてるのと違って、自転車には安全運転義務違反なんて意識ないからねぇ。

そんなの着けている人にしてみれば、なんだか分からない難癖に思われるのでしょう。
というか、僕のように感じている人なんて他にはいないのだろうし。
ひょっとしたら逆に(私の顔をジロジロ見てる訳?)なんて不要な警戒心を抱かれるかもしれません。
たとえば夕闇の自転車がライトを点灯させないようなもので、別に問題ではないのです。

サンバイザー姿そもそも、あのサンバイザーがなぜ普及したのか考えてみますと。
あれは両手が塞がっていて、日傘を差せないから必要なんですよね。
だから、まるで舞踏会のような長い手袋とセットで装着されています。
オゾンホールで紫外線が強いから、皮膚がんの恐れが高いのだとか。
気象庁だって紫外線予報をやってるじゃないか、UVケアは心がけないといけないのです。
・・・とかなんとか。

誰が何を信じようと構わないし、世に物申すような気もないのです。
それに毎度々々、何かにケチをつけているつもりもなく、素朴な疑問に近い感じなのですね。
ただ、これらの疑問に該当する方々に訊くには不躾な気はします。
友人知人にいれば率直に訊けるのですが、まぁそれで答えが出るような話でもないし。

スミやソバカスが、そんなに汚らしいものなのだろうか?
年を重ねて、つるっと白くてシワのない女性だったら魅力的なのだろうか?
そう訊ねても、明快な返事など返ってこないのは知っています。
僕にとっても美的感覚の是非ではなく、たった数年で全体が右向け右になってしまうのが怖いです。
まるで日本中すべての女性が一斉に、その単一の価値観に従っているように見えるのですが。
きっと実際には、そうでもないんですよね。
でも、そのように見えてしまう自分がいるのでした。
posted by tomsec at 18:26 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月15日

思い尽きたが好日・馴れ合いスキャンダル

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



政治家とスキャンダル、というのは切っても切れない関係なのかもしれない。
だけど毎度ながら、なんで私的な女性関係などが職務に関係してくるのか不思議だ。
それが職権濫用とか汚職というなら分かるのだけど。

これは喩えとしては不適切だろうけど、学校の風紀委員が算数で0点だろうと、徒競走でビリだろうと問題ない筈で。
それが社会的立場として偉い人になると、浮気をしたとかで資質を問われるんだな。
倫理観が常識としては外れている、だから重要なポストを任せる訳にはいかない・・・?
別に関係ないじゃん。

仕事の結果に問題があるのではなく、期待している能力でもなんでもない部分を問題視するのは何故なのだろう。
たとえば、これが会社の上司が部下と不倫とかしてて円滑に業務が回らないとか空気を悪くしているならマズイとしても。
別に飲み屋のねーちゃんを口説いて家庭が崩壊したとしても、普通に有能だったらクビにも減給にもならないんじゃないかなぁ。

みんな政治家に何を求めているのだろう?
人格者なのか、無能だけど無害な人なのか。
どこの国でも、まぁゴシップとしては面白いネタだとろうけどさ。
それが国会で取り沙汰されたりするのは、よっぽど話すべき問題がないのかしら。

違うよね。
進めたくない議題があるから、話を逸らして会期を無駄にしてるんだよね?
そんな下らない駆け引きが21世紀になっても通用してるし、そういう手段を批判されもしない。
どうせ政治家同士で潰し合いをするのなら、もっと本質的な話題でやればいいのに。
それをやっちゃうと、あらぬ火の粉がかかるから、お互い職務に関わる資質には触れない。

個人的には、どこぞのオッサンの色恋なんて一切興味はないんですがね。
posted by tomsec at 00:44 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月24日

思い尽きたが好日・今までも、これからも

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



裁判員制度が始まった。
人が人を裁く、その大それた事が義務として課せられる。
そりゃあ誰だって厭だよ、他人をとやかく言える自分じゃない事は知っているし。

でも、これからは自分たちが判決に関わらなければならない。
今まではテレビの前で好き勝手に、軽々しくジャッジしていたけれど。

昔、キャンプで鶏を絞めた。
それは仲間同士でのアウトドアと違って、非政府団体が主催するイベントのようなものだった。
子どもや10代の若者に交じって、真夜中の山中を明かりなしで歩いたりした。

そのプログラムの中に、自分たちで鶏を絞めて調理する食事があった。
もちろん菜食主義の人や、残酷な行為に加担したくない人は別メニューが用意されていた。

僕は自分で鶏を選び、その日ずっと可愛がって過ごし、夕食で殺して食べた。
夕食の時間が近づくにつれて怖くなったし、鉈を持つまで手が震えていた。
だけど覚悟を決め、心を込めて絞めて捌いた。

本当は、こういう事だったのにね。

いつもスーパーで買っている、パックされた加工済みの食料も。
自分の見えないところで、誰かが代わりに動物を食料にしている。
この手を汚さずに、頭では分かっているけれど実感として命の重さを感じる事もなく。

あのキャンプは貴重な、ありがたい経験だった。

制度に反対する人たちに対して言いたい事はないし、諸手を挙げて賛成でもない。
ただ、ふと思い出した事があったという話だ。

肉を食べる僕らは、日々あの手の感触を知らずに彼らを食べている。
実際に体験してしてみて、心から(いただきます)という気持ちになった。

今まで僕らはテレビや新聞越しに事件を知るだけで、無責任な事ばかり言ってきた。
本当の事なんか分からないのに、もしも自分がなんて考えもしないでね。
だったら外野からヤジ飛ばしてないで、自分らで裁いてみろと。

誰もが突然、当事者になるかもしれない・・・。
そんなふうに考えて口に出すようになるのは、そう悪い事でもない。

世の中は複雑になり、いろんな事を他人任せにしてきたけれど。
これ以上、豊かになる事よりも身近な現実について、もっと思いを深める機会かとも。

やっぱり大人がね、簡単に「死ねばいいのに」なんて言わない社会がいいな僕は。
posted by tomsec at 15:51 | TrackBack(0) | 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月20日

思い尽きたが好日・みんな一緒に

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



大勢でワアワアが苦手なのは、集団だと莫迦になるからだ。
どうしても声が大きくなるし、まず自分の話を聞かせようとする。
せっかく知り合った人との話が盛り上がってきたのに、必ず邪魔される。
ひょっとしたら全体の輪を乱したとか、そういう場違いな自分をたしなめてくれてたのかな?

そんな訳がない。
仮にそうならば、せめて前置きがあるものだ。
「話の腰を折るようで悪いが・・・」とか。

大勢だと気が大きくなるのか、色々と図々しくなる。
身内意識に甘えているのか、シャッターを叩いてみたり枝を圧し折る輩が出てくる。
そんな幼稚なストレスなんて、自分の部屋で解決してきてほしいものだ。
だから花見の季節は、桜の見所には近付かないようにしている。

別に羽目を外すのが間違いだとかではなく、花見という口実で一斉に起こるのが気持ち悪いのだ。
もちろん、世の中には(花見は天下御免の無礼講だから)と楽しんでいる人が多い。
言うまでもなく無礼講とは、無礼をはたらく側が口にした時点で間違っているのだけど。

まぁこういう性格だから、あんまり誘われるという機会もない。
大体は「大勢なら行かないけど少人数なら行きます」と言うと、そのうち理解してもらえる。
だけど世の中には、稀に(なんでもみんな一緒でなければ)というような信念の持ち主もいる。

みんな一緒というのは、なんとなく美しい。
自分が(そうしたい)と思っていて、周りの人たちも(そうしたい)と思った結果で一緒というのがね。
それは全員の気持ちが1つに重なるという、ちょっとした奇跡だからであって。
できれば働く場所でも、公共の場所でも、それが叶ったら素的だろう。

ただ、誰もがそれを望むとしても、自分で判断して決めるだけの自由がないとね。
とかいって。
なんでも規制に走る「市民の声」とやらも、もしも自分に他人の権限が左右できるなら強要するのかもな。
posted by tomsec at 00:52| 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年04月15日

思い尽きたが好日・花見のこと

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



さて、ソメイヨシノも葉桜となりましたね。
っていうか、もう単なる葉っぱか! 目にまぶしい新緑ですな。

他人事だからどうでもいいんですが、しかし花見って何が楽しいのかね。
まだまだ地べたは冷たいのに、しかも往来で酔っ払ってる気が知れないです。
女性は冷え性が多いって聞くけど、よく平気だよなぁ。

多分、僕自身が大勢でワアワアしてるのが苦手なせいもあるのでしょう。
人付き合いに関しては、広く浅くっていうのが上手く出来ない気がするし。
だから、せいぜい2〜3人でブラブラ歩きながら・・・っていうのが性に合ってるのでしょう。

小さい頃って、もっと地味な花付きの桜だった気がする。
たまに名所なんか行って見ると、ソメイヨシノの華やかさに(うわぁ)って嬉しくなったものだけど。
今は、どこもかしこも品がない位の咲きっぷりだなって。

なんだろうね、人寄せのつもりで植え替えちゃったのかしら。
ま、それでも八重桜よりは好きなんですが。
posted by tomsec at 18:49| 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月26日

思い尽きたが好日・その一

 約半年ですかね、すっかり無沙汰をしておりました。
 そろそろ、こう何か再開していきたいなと思いつつ・・・。 しかしテーマがね、どうしても決まらなくて。 なので先に書いていた「空想百景」の逆でいってみる事にしました。
 要約すれば1行で済みそうな話を、50倍ぐらいに伸ばしてみようかと。

 ちなみに「空想百景」は、ワープロ内の書式を元に1ページ半を目安にしていました。
 今ではワープロなんて懐かしいですけどね、結局90話ぐらいまでフロッピー変換して取り込んでたのです。
 そう、あの頃はパソコンが煩わしくって・・・。 起動が遅い上に、他のキーを一緒に押しちゃっても禁則処理できないから使い辛くて堪らなかった!
 とかブーブー言ってても慣れちゃって、ワープロは久しく起こしてなかったりしますが。 笑

 先日、未使用だった「空想百景」の原稿が見つかったんですよ。
 パソコン内部の意外なフォルダに紛れ込んでいて、偶然それに気が付いたんです。

 アップ直前だったようで、日付は平成19年の2月となっていました。 ほぼ2年前で覚えていないんですが、読み返してみたら超ガッカリ。
 大幅に手直しを加えてみたものの、そこまで削り込む前の文章がイメージできないんです。 まるで元の状態が分からない、加工しすぎた画像や音源を修復するようで・・・。 苦心惨憺の挙句、断念しました。

 言い訳じみてしまいますが、元から「空想百景」は2つのネタを1本にする方法で書いていました。 それは冗長になりがちな自分の書く文章を削いでゆく、自己満足なチャレンジでもあったのですが・・・。
 文体も(飲み屋で隣に居合わせたオッサン風)という方向を狙ったんですけどね、無理やり枠の中に押し込めた文章との相乗効果で、本当にヨッパライの支離滅裂な与太話(略)。 

 ま、あれはあれで思えば楽しんでいたんですよ。
 これからは身の丈に合わせて、他の人にも理解できるよう書いてみたいと思ってるのですね。 少なくとも、読んでいて話が通じる程度には・・・。 笑

 よろしかったら、時々のぞいてみてください。 不定期更新で再開してみます。

平成20年12月25日
posted by tomsec at 01:26| 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする