2008年04月04日

100*ネオテニーとカタルシス

 ついに百話目ですが、まぁ総集編的に振り返ったりもせず近ごろ思っていることを。
 それは、この社会の幼児化について。
 今回も相変わらず担保めいた文は削いで、思いのままに飛躍していきますのでご了承の程を。


 ふと、最近のエレベーターの押しボタンが幼稚園みたいだと思ったのね。
 やたら大きくなって、色遣いもポップな感じ。
 数字や文字がエンボス状に浮き出ていて、ひらがな表記の開閉ボタン。
ku00


 ユニバーサル・デザイン、だっけ? お年寄りや視覚障害の方々にも高視認性の、ユーザビリティって訳だ。
 だからって、それだけじゃない気がしたのね。小さい子が独りで乗り降りする、って事も前提なんだと思ったのよ。
 幼児化こそが成熟だ、というようなネオテニー的発想もあるのかな。


 どんぐらい昔の話だか分からないけど、少なくとも自分が子どもだった頃までは世界が大人向けに作られていた印象がある。
 子どもだけで、大人の付き添いなしで出来る事なんて高が知れたもんだったような。
 もっともっと時代を遡れば、子どもには多くの事が限定されていたんじゃないか? 言い方を換えるなら、大人と子どもの社会領域が明確に分けられていたと。


 児童の社会進出、かもしれない。
 子供向けテレビ番組の多さ(今や主要な購買層だ)、夜中まで電車に乗っていたり町中で見かけるようになったし、ネットでは大人と対等に意見を交わせる。
 子どもはガキ扱いされないし、自分たちが浸かっているのはガキ向けの流行文化。


 最近読んだ現代日本アートの本で、いわゆる「ジャパニーズ・ポップ」という潮流と同化した作品性を持つ作家が非常に目立っていた。
 それらは海外からの、アキバ系などへの(幼児性を維持したクールさ)といった評価で成立した観がある。
 大人と子どもの、いや未熟化する大人と早熟な子どもの混在する社会が誕生したのかもしれない。
 絶対的な強者として、大人が社会の中で子どもを躾けたりする事もなくなってるし。
 今時の若者よりも年配の方々が、些細な我慢ができずに感情を爆発させる光景にも慣れてきつつある昨今ですし。


 ここでまた、先のエレベーターに話を戻しますが。
 たとえば開閉の表示が、かな表記になっている事の違和感ね。
 そんなふうにして何でも簡便にしてったら、実体験で身に付ける機会が減っちゃうじゃん?
 まぁ自分がそうやって覚えたからって訳じゃなく、なんか表面的な親切設計みたいでさ。


 先回りするだけじゃ仇になるっていう匙加減も、子どもじゃ思い至れない気働きだよなぁ。
 ストレス・パージな風潮が、逆にストレスの二極化に拍車を掛けてはいないかって。
 一種の悪玉論みたいにストレスを排除するのとね、たとえばバリア・フリーを一緒くたにしたくない。


 思い起こすのは、抗菌グッズが流行り出した時期の不安。
 潔癖さへの強迫観念に縛られてると、ガンジス川の水を飲める人の人生と比べれば不自由極まりない・・・ってのは極論だけど。
 ボトルの水しか飲めなくなり、殺菌や抗菌に敏感になり、限られたもの以外は汚く見える視界の狭さ。
 明治以降の西欧化、戦後アメリカナイズの洗礼を超えてしまった今、清潔で安全な場所なんてこの狭い社会だけじゃない?


 目指す理想や憧れを達成し、なんでもいいから目標を探して競い合ってるようでもあり。
 僅かな手間が耐え難いストレスに感じるほど、思いやりの自家中毒を起こしてないかなって。
 そんな優しさを消費する受け手としての依存や他者への要求は、一歩も動けなくなるような心理的障害と表裏一体にも思える。
 階段を上り下りするのも、券売機で切符を買うのも、もし自分が本当に困ったら声を上げて助けを求めるけどな。
 命や健康といった大事に関わるトラブルでもない限り、海外で感じる不便さの新鮮さよ。
 元々は、自分の生まれ育った社会だってそうだったのにね。


 作劇論というものには、物語の結末にカタルシスとホメオパシスがあるそうだ。
 浄化と異化、大団円とアンハッピー・エンディング。
 場合によっては「めでたしめでたし」で終わるよりも、不安定な幕切れのほうが印象的ではある。
 それから彼らはどうなったろうか、どうしてゆくのだろうかと心の中で考え続けてしまう。
「ハイ、では次の話〜」と流してしまわずに、自分の物語として決着を模索することの豊かさ。


平成20年4月4日
posted by tomsec at 23:49| 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月24日

99*水の如く

「水の低きに流れるが如く」という言い回しがありますな。

 人の心の怠惰さを戒め、楽な方へと逃げたがる姿勢を揶揄して使われるのだろう。

 でも僕は、むしろ進んでそうありたいと心がけている節がなくもないのね。

 何かに迷った時、まず思い浮かぶのがこの言葉なのだ。逃げられる時は逃げたって構わない、自分から砂や苦虫を噛む事もないではないか?・・・って。

 できるだけ面白く楽しく過ごせるように、と思う。



 ましてや、水は流れて海になります。清濁併せ呑む、大海へと下ってゆく。

 もちろん、そこから熱帯性低気圧なんかから雨になって野山へ降り注ぐのかもしれない。でもまぁ、それはそれとしてまずは海を目指そう。

 海に出たなら、より深い愛へと針路を取って。僕は「自分に甘く、他人にも甘い」という人になりたい。



 しかし、それは欺瞞だという人もいます。

 自分に厳しくできない事を、もっともらしく正当化しているだけだとか。そういう考え方は、自己管理能力の劣った下流の思想だとか。

 でもね、そういうゲームは退屈になっちゃったのですよ。



 競争社会は意味なく疲れるし、これ以上「人類の発展」が重要だとも思えないし。勤勉さと向上心は、資源を消費する文明から方向転換できるまで抑えた方がいいとさえ思うんですね。

・・・と、これでは話の順序が逆なので言い訳っぽいかな?

 でも実際、世界がよくなるためには「できるだけ何もしない事」が僕にとっての答えなのです。

 いろいろ僕なりに考えて、突き詰めていったらね。何かをすべきで、損得抜きでは他者を受け容れないような世の中には貢献しないようにと。

 他人の世界は変えられなてくても、自分の世界は変えられるから。



 美の領域を拡げることは、どれだけ赦していけるかという事に通じているのかもしれない。

 キライだった物事、醜いと感じてた事から自由になるほど自分が許されていくような。

 いろんな不快さを遠ざけて、日本は潔癖症な社会を目指してるのだろうか? ガンジス川の水だって飲めれば、どこでだって暮らせるだろうにね。・・・って、これは飽くまで比喩表現だけど。

 そりゃあ澄んだ水が好きだし、そう心がける努力は素晴らしい。

 だからって澄んでない水を隠蔽したり排除したり、それって結果は一緒に見えてもコンセプトから全然ちがう。



 とはいえ、どこまで行っても苦手な事はなくならないだろうなぁ。

 たとえば酒は好きでも、迷惑な酔っ払いは好きになれないし。

 もっといえば、酔いを口実に甘ったれる人間は虫唾が走るんですよ。

 そういうのは常に「自分に甘く、他人にも甘い」人間ではないんじゃないかな、どちらかといえば普段は厳しい系の人間が自分勝手なオンオフで羽目を外してるように見えるんですね。

 まぁ仕方ない、許してやるけどさ・・・!



「酒の席では無礼講」とは、飽くまで年長者が目下の者にかける言葉です。

 本来は主催者からの、粗相を気にして宴席が白けることのないようにという、粋な計らいなんですよね。それを格が低い人間から言ってしまっては、ますます格を下げるのに分かっていないから哀れになっちゃう。

 そもそも、武士の心得を説くという「葉隠」に無礼講はないそうです。むしろ酒の席こそ無礼のないように、と書かれてあったかは定かでないけど。

(酔って性格が変わる)と言う時、善い方に変わる人はいない。

 僕の場合、酔っ払うと寝るか理屈っぽくなるか。なので、あんまり普段と変わらない。



 そうそう、ついでにね。

「学歴なんて関係ないよ」と言えるのは、関係ない筈の学歴が高い人だけ。

「お金なんて問題じゃない」と言えるのも、本当は金持ちの人だけ。

 それは家柄であれ国籍であれ、何かを「関係ない」と言える人には限りがあるんです。つまり「関係ない」筈のステータス(あるいは豊かさと言い換えてもいいか)それ自体を獲得した人間によってのみ、否定できるのね。

 持たざるものが言うと、それは逆説的に己を陳腐に貶めるだけで。まぁ一過性のお笑いにもなるみたいだけど?

「関係ない」と言えるのは、余裕ですなぁ。
 たとえ発する側には悪気などなくても、発せられる側にとっては、その台詞が出た瞬間に返しようのない格差となるもんでもあります。

 自分の豊かさを無意味だと評する時、その価値に対するジャッジメントは相手を沈黙させるかもしれない。何故かといえば、それは同格の間では生じない言葉だから。

ku99
平成19年10月2日
posted by tomsec at 21:21| 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月14日

98*物分りのよさ

 僕は時々、ユーザー・フレンドリーって何だろうと思う。
 これって常識外れな住人から苦情を受けた役所が始める、無益なサービスみたいなものか?
 たとえば最近の携帯電話や乗用車などに、当たり前に付加された機能。
 その中で(あぁ、まさにユーザー・フレンドリーだな)と、1つでも実感できるものがあれば上等。ほとんど無くても困らないし、その分だけ壊れにくく安く作ってくれよと思う。
 全部オプションで別売りにするのが、ユーザー・フレンドリーじゃないのかって。


 お店に入って「いらっしゃいませ」でなく「こんにちは」とか言われる、それ位なら構わない。
 そんな頻繁に色々な店に出入りしないので、滅多には感じないけれど。
 なんでもかんでも、先回りされたりすると鬱陶しくなる。友人でもない、赤の他人から馴れ馴れしくされる居心地の悪さも。
 子ども扱いされてるみたいだし、それを望む客がいるとしても基準をずらさないでほしいと思う。


 かつて「田舎者」という蔑みの言葉があった。
 でもそれは決して地方出身者という意味ではなく、最近いわれる「KY」というニュアンスに結構近いのではないかと思う。


 狭い道で行き違う時の会釈、エレベーターに乗り合わせる時の目礼、そういった仕草に気付かない人。
 並んでいる列を追い抜いて割り込もうとする車のように、見れば分かりそうな事を無視できる厚かましさ。
 そういうのを総じて「田舎者」と呼んでいたのだった。


 ちなみに「KY」という場合、そこには地理的な限定がない。
 数人で井戸端会議でもしてるとすれば、そこに話の腰を折るような人間が首を突っ込んでくるようなものだろう。
 暗黙の了解を壊してしまう点では「田舎者」とも共通しているが、よりパーソナルで狭い了解であると思う。
 ゲームでいう、ローカル・ルールのようなものだ。


 たとえば都会に引っ越してきた子どもが、近所で遊んでる子ども達の仲間に入れてもらうとする。
 ところが、自分が知っているケイドロとは全然ルールが違っていたとする。
 当然、周りから馬鹿にされたりからかわれたりするだろう。
 ただし、そのエリアに団地が多かったりして転入してくる子どもが珍しくなければ、転校生の儀式も長くは続かない気がする。
 少なくとも、初めて外部の人間が越してくるような状況ほど引きずりはしないだろう。


「田舎者」と呼ばれる場合でも、自分から揉め事の種になったり我を通したりしなければ、徐々に周囲の了解事項が呑み込めて円滑に近所づきあいできるようになってゆく筈だ。
「KY」という言葉には、どこかそういった寛容性が感じられなかったりする。拒絶や排除のニュアンスが強くて、却って痛々しく思えてしまうのだ。
 とはいえ、僕自身が「KY」という言葉が交わされる場所にいないから実際には分からない。


 ずいぶん前になるが、あるバイト先に年下で学生の同僚がいた。
 名の通った大学から立派な会社へ内定が決まっていて、穏やかで腰の低い青年だった。
 そういう非の付け所のない外面とは裏腹に、彼は常に陰湿な事を企んでいる人間でもあった。
 無闇に体を鍛えていて関節技の相手をさせられ、僕は古い大藪晴彦の映画を思い出した。
 中学時代に味わった屈折した感情を、彼は成人式を過ぎても未だ脱け出せないのか・・・?


 その頃にも、やはり「MG5」とか「MMC」といった流行語が「チョベリグ」の陰で囁かれていた気がする。
 しかしそれは半分テレビのネタであって、実際に聞いたこともない渋谷界隈の内輪用語だった。だから、なぜそんな言葉が今になって喧伝されるのかが不思議でならない。
 でも結局は当時のように短命で消えてしまうだろう。いくらメディアなりネットなりで話題にしても、所詮は残らなかった言葉だ。


 今、この国の子どもたちは大人と対等に扱われているようだ。
 僕が子どもだった頃ほどには、抑圧されていない感じがする。
 反抗しても立ちはだかる壁はなくて、自分たちの言葉もスタイルも簡単にすくい上げられてしまう。
 それが気の毒に思えてしまうのは、単なる感傷なのかもしれない。

ku98
平成20年3月14日
posted by tomsec at 19:54| 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月04日

97*十年一昔

 いつの間にか、頻繁に「ここ10年」といった区切りで何かを喩えたりする事が多くなった。

 それも自覚するようになってから、だいぶ経つ。なんだか懐古主義みたいで気恥ずかしくもあるのだが、どうにも止まらないようだ。



 具体的には「ここ10年」で携帯を持つようになり、パソコンも持つようになった。そこには当然ながら、メールやホームページやブログといった事柄も含まれる。

 それから作詞作曲や描画といった、割と創作的な趣味も熱意と共に失われた10年という気がしている。それに代わってガンプラだったりゲームだったり、まぁそういった消費の度合いが高い趣味に走った。

 それ以外にもキャンプなどから縁遠くなったとか、理想主義者的な考え方が鳴りを潜めたとか、少なくとも自分で感じる「ここ10年」の変化というのが結構あるのだ。

 体重が増える一方になってしまった、というのもある。



 老化、いや老成の始まりなのかもしれない。

 そう思ってみて、ほろ苦い気持ちになる。

 体力や体質の変化に抗おうという気はないし、精神的にも淡々としてくるのだって分からなくはない。まぁ他愛のない事ばかりであれど、いろんなことがあったものな。



 先週、このブログにて1年ほど更新してきた「'05台湾×2」が終了した。

 いわゆる旅モノも、これで一段落といった感じがする。行ってみたい場所というのも、それほど思い浮かばないし。

 それに自分にとっての旅というものが、何というか少し分かったような気がして。

 変な喩えだけど、メーテル・リンクの青い鳥みたいなね。



 10年前、自分の表現を公表できる環境があったら好いなと思っていた。

 要するに「プロになるかならないか」といった選択肢でなく、それまでのように親しい人にカセットテープやワープロ出力した紙の束を渡すよりも広い手段がないものかって。



 5年ほど前に自分のサイトを立ち上げてもらう時、真っ先に思いついたのは「メキシコ旅情」だった。それまで友人に読んでもらっていた自家本を、更にネット向けに手直しした。

 同時に「台湾日記(ブログ移行時に「台湾の7日間」に改題)も、旅行時の日記から書き起こしながら更新していった。

 そしてテキストのコーナーがこのブログに移行され、旅日記よりも後回しにされながら続けてきた「空想百景」も、ついに100回目の更新が近付いてきている。

 いつだか(これが終わったら、その後どうしよう?)と考えていて、ふと気が付いた。

 すべて過去形だったのだと。



 少なくともいくつかの話のネタと、この「空想百景」の基本的なコンセプトを書き留めていたメモは、ホームページという形態すら知らない時点から生まれている。

 つまり、自分のサイトもブログも、すべて10年以上前の表現物だったのだ。



 そして「ここ10年」とは、過去の願いを叶える時間だったのかもしれない・・・なんて思ったりもする。

 10年前までの自分が表現したことや、表現したかったことに一段落つける時が来た訳だ。

 20代の自分に対する落とし前、だったのかもしれない。



 ところで今、僕は髪を伸ばしている。

 とりあえずは自分史上で最長、といえるまで達した。

 こんなのは後付けの理由だけれども、ある意味で新たな自分を象徴している気もする。



平成20年3月4日
ku97
posted by tomsec at 23:52| 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月18日

96*そして誰かが途方に暮れる

 世の中に「女性専用車両」というのが登場して、しばらく経ちましたな。
 あれって、障害者も乗れるのだそうだ。でも僕だけじゃなくて、やはり世間でも認知度は低いようで。
 特に外見で障害を持っているか分かりにくい男性は、車内で白眼視されたり詰問されるみたい。
 思えば障害者用のトイレや駐車場だって、四肢に不自由がなくても何らかの障害で止むを得ない事情は起こり得るんですよね。
 電車で優先席に座っていた妊婦が怒られたとか、エレベーターで右麻痺の人を支えていたら後ろから「右側通行だ」とどやされた・・・といった勘違い話も。
 なるほど、駅のエレベーターに群がる人々を(横着者め)と決め込んでいた自分も同じ穴の狢であります。あれだって健常者とは限らなかったのだなぁ?
 障害者が、健常者に分かりやすい障害者でいなければならない・・・としたらですよ。その方が、考えてみれば怖い。
 そういう意味でも、見た目ってのが大事な社会なんだよなー。
 というか、こう考えたりしちゃう自分の「余裕のなさ」に問題の根っこがあるのか・・・。

 ちなみに軽々しく「障害者」という表現を用いて不快に思われる方がいたら失礼、ただ僕は腫れ物に触るみたいな語感は避けたいと思っているだけで他意はありません。
 そういえば僕は「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」とは言わないし、インドの「ヒジュラ」を「聖なる手」とも呼んでませんな。
 それもまた、どちらで呼んでも傷つく人はいるのだと思ったからなのです。まぁ気持ちの上でね、活字では伝わらないので念のため。

 また話は違うんですけど、たとえば晴れた日に腕を布で覆っている女性。
 てっきり(美白と紫外線対策の過剰反応ね)とばかり思っていたんですよ、もちろん他人の勝手ですけどね。まぁ(モテない女性の男嫌い)と同レベルの貴婦人気取りに見ていたんです。
 でも母にそう言ったら、意外な話を聞きました。
 ホルモン治療を受けている人は、肌が過剰に反応しやすいので「日焼けと虫刺されに注意しないといけない」のだそうです(甲状腺の治療だったか、専門的な部分は忘れましたが)。
 なので母は、僕とは違って(ホルモン治療を受けている女性がこんなに増えてる)と思っていたそうで。
 他人の事情とは、計り知れないものなのですなぁ。

 世間では様々な問題が取り沙汰されていて、でも時々ヒヤッとするんです。いや別に後ろめたいからでなくてね、正論の切れ味とは恐ろしいものだと思って・・・。
 そもそも本来は「裏なコト」が(生活の裏ワザ)とか(渋滞の裏みち)なんて、処世の知恵みたくまかり通っているのと表裏一体な気もするんですけどね。
 だからって抜け穴をなくすように緻密な罰則を決めるとか、分厚い契約書みたいな方向性にも薄気味の悪さを感じるし。それが却って、明文化されていなければ都合よく解釈しても何らはばかる事ない構造を肯定してるみたいだし。

 ところで水泳のフォームって、自分が思ってるよりも情けないんですよねー。
 小学生の頃、指導員の泳ぎを見ていて(ゆっくり泳ぐと速いんだ)という大発見をしたんです。無論とんでもない勘違いなのですが。
 それをクラス対抗リレーで実践してしまいましてね、息継ぎの合間に聞こえる大歓声!・・・と思ったのは大差で敗れたブーイングの嵐でした。
 その夏休みは特訓を受ける羽目になりましたが、最後はコーチにほめらるまで上達したんです。
 で、その10年後。その間に泳法は大きく進化していて、プール監視員になった僕は先輩から「お風呂のオモチャだ」と失笑を浴びたのでした。

 たとえば、どこかのブログに書き込みする時。しごく真っ当に思える意見に、嬉しさのあまり激しく賛同するコメントを送信しかけてヒヤッとするんです。
 猛省を促す、配慮を求める、あるいは自重せよ・・・なぁ〜んてコトは言いませんけど。なんというか、妙に空々しくて聖人君子めいた自分の言葉にね。
 ただ(その件に関しては潔白である)としても、だから強気に出るってのは違うかって気がしたんですよ。
 まるで自分が常にベストの状態みたいな、苛々してたりボーッとして間違える事がないみたいな語感に。
 メディアが掲げる(市民の声)の中にも、同じ怖さを感じてしまう時があるんです。
 謙虚さを口にしながら、一向にそれが身に付かない僕なのですが。

ku96
平成19年10月10日
posted by tomsec at 19:53 | TrackBack(0) | 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月01日

95*未熟の美学

 もう夏もオシマイですなー、いやぁ今年は暑かった!
・・・って、まだまだ暑いでしょうけど、蝉だってカナカナ言ってるしヒマワリだって下向いちゃってますから。
 なにより我が家でも「今日で今年のスイカは終わり!」と宣言されちゃいましたからねぇ。

 僕は果物全般が大の好物で、夏といえばスイカなしには越せません。そして比較的、果物全般において完熟よりも少し未熟な方が好きなんです。
 だから洋ナシみたいに(時間をおいて充分に熟してからが美味い)なんてのは、ちょっと困る。買ってきたそばからガブリと食らいつくような、何の支度も要らないカジュアルさがまた好ましいのです。
 たとえばバナナですと、いわゆるスイート・スポットが浮き出した甘いのは苦手でして。むしろ皮の表面が青味がかって実が締まった、そんな野趣のある風味が堪らないのです。
 でもバナナは本来、皮が黒みを帯びて実も柔らかくトロトロになって食すものだったそうですな。「バナナの皮で滑って転ぶ」には、それ位じゃないとダメらしい。

 ところでこの夏は、あちこちでヒマワリを見かけました。
 公園や道端に、いつからこんなに植わっているようになったのかって感じで。こういうのも流行り廃りですかね?
 それになんだか花が小ぶりになった気がするのも流行なのでしょうか。子供の時分と比べれば、すっかり目線だって違うんでしょうけど、それを差し引いても昔とは品種が違う気がするんです。花屋でだって切花として扱えるようになってますし・・・。

 そしたら先日、自分の中で思い描いていたまんまのヒマワリを見ました。
 草とは思えない太い茎が空高く伸びて、その先に黒々と種が詰まった大きな顔をもたげてね。子供心に、初めて植物のグロテスクさを感じた、そんなヒマワリでしたよ。
 毛羽立って肉厚な怪物じみた葉、花弁の中心にみっしりと凝集された昆虫のような種の頭!
 草花というには可憐さのかけらもない、近くで見上げるほどに怖気を感じるようなね。
 おもちゃの刀を振り回すと太い茎が容易く折れて、大きな黒い顔が覆い被さるように落ちてきた思い出。午後の日差しでしおれかけた夏草の上に、埃っぽい草の汁の匂いと生温かい湿気を巻き上げて・・・。
 そんな格闘と放心の記憶がよみがえりまして、すると小さいヒマワリが何故か気の毒に思えたりもしたんです。

 思えば小ヒマワリの増加は、割と近所の再開発エリアに目立っていたような気もします。
 戦後の復興から、地味ながら自然な曲線で伸びてきた営みを思わせる一帯だったんですけどね。バブル期に途中で投げ出され、それが近頃(夢よ再び)って感じで盛り返しまして。
 道幅は広いし街路樹も茂って、あちこちの公園に若い親子がいて。それこそ流行のドラマに出てきそうな、洒落た高層マンション街なんです。
 統一感のある景観の美しさは、こうやって根こそぎひっくり返してドカンと造らないと出来ませんね。実際、美しいと思うし心も安らぐ訳です。
 ハバナの街並みを眺めた時も、僕は同じように思ったんです。
 コロニアル、というのは(かつて計画的に建設されたという意味なんだよなぁ)って。その美しさは人為的な上にあるのだなぁって。

 そういえば湾岸の方には、もっと景観の美しい町があるんですよ。200万以下の車と40歳以上の人間がいない、ヨーロッパの石畳ごと移築したような町が! あれだけ徹底して造られると、歩いてるだけで観光気分になっちゃいます。
 まぁいくら美しく造られた町でも、世代交代と共に変わってゆく筈なんですよね。見えないところにゴミくずが捨てられたりスプレーで落書きされたり、というような何かがなかったら怖いなとも思うんです。
 というのも、ハバナの街の美しさには(人の営みが街の作為性を呑み込んでしまったからではないか)と感じられたからなんです。当時のまま清潔に手付かずに管理保存されても、やっぱり世界遺産には登録されたのでしょうけどね。

 子供の頃、美術の授業で「調和の取れた構図」や「遠近法」といった言葉を習いました。絵の描き方で、安定感や美しさを感じさせる視覚効果の技法です。
 でもそれを表面に出しすぎると、かえって野暮ったいというか妙な不自然さを覚えてしまう・・・。そんな感じと似たような、あんまり出来すぎた無味無臭さというのも物足りないよぁってね。
 こればかりは、誰かが一気にドカンと造り出せるものではないと思うんです。

平成19年8月31日
ku95

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2007年08月23日

94*写メれなくもない

 時と場所を選ばない、まさにケータイはユビキタス。
 でも、それで却って(出来るけどしない)とか葛藤しそう・・・って今更な話です。
 分かりやすくいえば飲食店や電車の中など、手持ち無沙汰な一瞬にふと思い立ったりした時ね。その用件と自分の置かれた状況を秤にかけるような、ケータイのポテンシャルが高まるほど(してはいけないけど、出来なくはない)という時と場所が普遍化してゆく気がして。

 たとえばゲーム機能やワンセグTVなどで、目の前の今が退けられてしまう瞬間。
 僕もゲームは好きで、家にいて時間があるとついゲームをやってしまう手合いなの。自室での優先順位が変わっちゃうゲーム機能、それが僕のケータイに付けてたら困った事になるね。
 仮に恋人とデートしてても、少しでも中だるみした瞬間に思わずゲームの事を考えてしまうとか。そんなユビキタスな葛藤で、してはいけない時と場所で悶々とするかも・・・?

 電車に乗っていたりして、隣の空席にどかんと座り込んでゲームを始める勤め人。
 すぐ脇の他人が見えないし、ぶつかろうが関係ない。移動時間めいっぱいゲームに浸る、その快感だけで脳みそが痺れているみたい。
 ロールプレイング系のゲームには、いわゆる「フラグ立て」という段取りがあるのね。順序が絡み合っている部分は一気に進めないと、それこそ(たかがゲーム)がストレスになりそう。

 ケータイの機能で、たまに違和感あるのはカメラ機能だな。
 気にしすぎなんだろうけどさ、どうも(こういうものだ)として育ってきたから、いきなりケータイを突きつけられると心外に思っちゃう。
 いうまでもなく、僕が育つ過程にはケータイなんて存在しなかった。だからかな、たとえ知人であろうとなかろうと(いやむしろ他人であれば尚更)カメラを向ける時は遠慮会釈があったものだ。それが「すいません」と苦笑のような照れ笑いのようなポーズであったり、目礼であってもね。
 大昔の迷信じみた「箱に命を吸い取られる」といった意味でなく、不用意にカメラを向けない無意識の了解があったのだと思う。

 でも今は、断りなしに写真を撮ることは常識(多数派)な訳で。
 直前まで親しく言葉を交わしていた人も、急に真顔でケータイを構えだす。
 フレーム越しに僕を見ている筈が、まるで取るに足らない石ころでも見ているような表情で。
 たとえば電話で話していても、笑い声の向こう側ではこんな顔してるかもしれないけど。そんなの見せないでよ、その親しさが虚構だったように錯覚するじゃないのさ・・・。

 ましてや赤の他人ともなれば、本当に何のためらいもなく「写メ」る。
 呪文なしで邪心を封じ込めるような、魔物退治でもするような勢いよ。無頓着に突きつけられる金属板、あそこから何かが向けられているのではなかろうか?
 いきなり見知らぬ人から指差されるような、いわれなき非難じみた気味悪さが少しある。
 あれを平気でやってる人たちは、自分がされても気にならないんだろう。そこに年齢の差はなく、だから若者が礼儀知らずといった話じゃないやね。
 それとも「知らない人が笑いながら無言でケータイを突きつけてくる」といった経験がないのだろうか?
 その人数が多いほど、不思議と無邪気に踏みにじられるような気分になるのだけど・・・。

 町中で、ちょっとした事件が起こる。
 それが交通事故であれ、通行人どうしの揉め事であれ、気付いた順に通行人が立ち止まり腕を突き出す。傍若無人な振る舞いが、傍若無人に取り囲まれ、結界で封印される非日常。
 見えないビームが発射され、撮られた側の魂の一部が飛び散ってゆく。ネットに繋いでそれを眺めていると、撮られた方が悪いような気軽ささえ共有してしまう。
 もはや(心の中だけに留めておく)なんて事など、誰にもできない。この世から隠し事がなくなるのは、それほど悪い事でもない気はする。
 けれども。

 食事に出かけてさ、料理が並ぶと一斉にケータイ(あるいはデジカメ)を取り出す。
 いつの間にか「いただきます」よりも当たり前な光景になってるらしいね、自分の家ならば新聞読みながらでも片ヒザ立てても構わないとは思うよ。
 まぁ実際さ、旅の思い出には(いつ何を食べたか)を写真に残すって悪くないアイデアだなって思うのね。
 それにしても、何をするにも先ずケータイ(あるいはデジカメ)だもんなー。
 ユビキタスな葛藤なんて、気にする必要もなさそうだ。

平成19年6月18日
ku94

posted by tomsec at 15:23 | TrackBack(0) | 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月04日

93*心証風景

 某ケータイのCMで、ちょっと気になってたんだよね。中年男性の客に操作を教えて、上手く出来たって喜んで手を叩く女性従業員にさ。まぁ見てないと分からないだろうけど、なんかおかしいのよ。

ku93 いや取り立てて言うほどじゃないの、まぁフレンドリーで気さくな店員ですよって演出でしょ? 目上の、しかも客に向かってする事じゃないんだけどねぇ。これって幼稚なのか、さもなきゃ客を見下してる態度よ。

 こんな野暮を承知で書くのは、この微かな違和感を共有しようと思ってね。そりゃあ実際に目の前でやられたって、僕だって気にしやしないさ。
 ただ(何が気に入らないんだか)って思ったりしてる人がいたら、こういう見方も覚えておいて損はないよ。これは多分、外国に行っても同じだからさ。客商売だとか、目上の他人に対しては小さな無作法だって事はね。怒られやしないにしても、心証は違ってくるから。

 車を運転する機会が、このところ増えたのよ。僕のじゃないけど小っちゃい子供を乗せて走るからさ、より安全運転になってきたのね。発進や加速、ブレーキングや曲がり角の操作には一段と気を遣うようになったなー。ある意味、初心者みたいに丁寧っていう感じ。
 そうして気が付いたんだけど、歩行者や自転車とは車の目線って別次元だなぁって事ね。こうして言葉にすると当たり前すぎて、具体例でも挙げないとニュアンスが伝わらないか・・・。でも細かいコトは、長くなっちゃうから割愛。免許更新のパンフレットみたいな話じゃなくてね。
 たとえば自転車で、夜中にライト点けないで走ってたりするでしょ。そんなに真っ暗でもないし、別に問題ないじゃんって思う訳だ。歩行者の鼻先を横切る時でも、物理的に接触しなければセーフっていうね。相手がどう感じるか、じゃなくて自分が危険かどうか考えて。
 それは歩行者でも同じでね、車がバックしようとしてもパッと駆け出すのよ。信号を渡ってる歩行者の前で曲がってくる車も少なくない。それぞれが、それぞれの速度の中で別の世界を認識してる・・・そんな感じって分かるかなぁ〜?
 無意識にだけど、自分が属している世界というか物の見方があるんだよね。運転中、通勤中、デート中などなど、時間とか場所で世界は変わるのだけど。他の世界に属していた時に見えていた認識は消えて、それぞれ今いる世界の判断基準だけしかないの。
 更に大袈裟な言葉を使っちゃうと、異種間コミュニケーションの不在、そして潜在的な緊張。そこには人がいる事を、物理的な意味だけではなく受け容れてゆけるのだろうか!?・・・ なんちゃって。

 オッサンが慣れないケータイを上手く操作できた、嬉しくて手を叩く・・・。個別に捉えると、何の違和感もない。そういう点では「学校教育に保護者からの視点を提案する」というのも、同じ意味で間違っていない。
「経済至上主義の国で、市場原理をコモンセンスと同義に扱う」というのも、同じ意味で間違っていない訳だ。小さな正論を積み上げても、大きな正論になるかは別っていうね。

 ところで。某県の元タレント知事、失言報道というのがありましたなー。今話題になってる抗インフルエンザ薬、タミフルを服用してるから、異常な行動や発言をするかもしれないと。それに対してケチがついて、どこから出たのか「不適切だ」の声が上がって陳謝に至るという展開。
 退屈な冗談に退屈な発想、この発想というのは「不適切だ」と言っちゃう安易さね。一頃流行った「猛省を促す」ばりにチープでしょ、まぁ(会見に相応しくない前フリでけしからん)と感じるのは自由なんだけどさ。
 今後「不適切」と発言する人は、どこの誰なのか分かるようにしてほしいなぁ。だってもしもよ、自分が投票しようと思ってる都議選の立候補者だったら別の人に変えたいし(笑)。まぁ石原氏だったら言いそうにもないけどね、そんな野党根性なしって丸分かりな性格は好きだな。

 それよりタミフルね、あれの国内導入が解禁になる頃って副作用が言われてなかったっけ? その辺の事は新聞で読んだ位しか知らなかったけど、医者が「風邪薬じゃない」と言っるのに「熱出た=タミフルくれ」みたいな患者は結構いたもんなー。
 それに何でもタミフルってさ、高熱が出れば意識が朦朧としたり言動が正常でなくなるじゃん? そんな個々の状況を十把一絡げに喝破できる筈がないし、いろんな顛末がどうなっていくのかと思いつつ自分の襟だけ気を付けよう。いや個人主義って意味じゃなくね。

平成19年04月03日
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2007年01月24日

92*よくよくごうごう

 この1ヶ月ほど集中してパソコンに向かっている訳なんですけどね、まぁ時々は息抜きにネット見たりもしてるんですが。半月ほど前に、ちょっとフリゲーというので遊んでまして。
 まぁ無料でダウンロードできるゲームですな、前からたまに遊んでたゲームなんですがね。まずは冒険者という設定のキャラクターを作るんです。好きな名前を決めて、絵柄と性格を選んで組み合わせるようになってるんですね。
 そこで力押しでいくのか頭脳プレーでいくのか、そういった能力値のパターンがある訳なんですが・・・。実は、本来なら一長一短ある能力が完璧に備わったキャラを作る方法があったんです。
 それには冒険者を育ててから引退させて、次世代キャラに能力を引き継がせて、って4世代も繰り返して生まれるんですけどね。そこは裏で調節できたりもして、2世代目の天才君たちまではトントン拍子。だけど3世代目の英雄君となると、祖父母に当たる初代キャラの影響で複雑になってくる。最終世代となれば、尚更ですわな。
 かくしてネズミのように増えた孫達を、総当たり戦で子作りに励ませたんです。それこそ3日3晩・・・とは大袈裟ですがね、本当に一気呵成の勢いで。じゃないと組み合わせ順がこんがらがっちゃうからなんですが、もう英雄君あたりから名前なんて記号でしたよ。両親の組み合わせで「1a」とかね、後から変更が利くから顔も初期設定のまま。
 ですけど、さすがに切なくなってきちゃいましたよ。望んだ能力者でないと、生まれた途端に削除です。ただでさえ誰が誰やら分からない有様ですからね、それに必要なのは最高能力の神仙君だけですから。なんて、自分で言い訳しながらのキャラ作成ですよ。本来は子作りゲームじゃないってのに、ねえ?
 もう気分はクローン実験してる科学者か、しきたりに囚われた村長の心境です。すべては最終世代のため、それだけ考えて他の感情を持たないようにして・・・。で、ようやく男女2組の神仙君が誕生しました。それから増えすぎた中間世代の抹消作業ですよ、やっと一段落したらもう冒険なんて気分じゃなくなりましたね。
 なんか、波乱万丈の冒険前に重厚な血族のドラマを堪能しちゃった感じ。海外受精まで考える人の気持ちが、やっと分かったような・・・とまで言うのは欺瞞というものですけど。それでもね、本当に様々な事を考えさせられた気がするんですよ。たとえパソコン上の電気的情報でも命を感じましたし、役割というか共同体の中で生まれる価値とかも。
 人間は、人間の事を思ったり動いたりするだけで充分だというかね。いや実際、それしか出来ないんだろうなって。それが時には全体のために個を犠牲にしたり、個を尊重して全体を機能不全にしたりしながらも。

 ところで話は変わりまして、最近は音楽や映像なんかでも簡単に取り込めてしまうんですな。自分のパソコンに、ダウンロードいうやつで。しかもサンプル品とはいうものの、いくらでも無料で手に入っちゃう。しかも物体のように、目に見えて家じゅうが狭くなるなんて心配もない。結構な話ですなー。
 しかし気が付けば、興味本位で取り込んだデータが無秩序に散乱してまして。思い付いたように大掃除にかかるんですが、思わぬ所に思いがけないものが入ってたりしてね。その時々によって一応は取り込み場所を決めてたつもりなんですが、また一々開けて確かめなきゃいけないのも厄介で。
 最近は音楽や映像などは取り込めないよう、ストリーミングという形式だったりもしますがね。これが妙なもので、取り込めないのを手元に置きたくなったりしてくる訳なんです。するとまた上手くできてるといいますか、やっぱり誰かがストリーミングだろうが取り込める仕組みを作っておいてくれたりするんですよね。
 それで減らした端から新しい取り込みものが溜まってしまう、でもよく見てみりゃ、何度も見聞きするほどのデータなんて滅多にない。それじゃあスッパリ捨てちまおうかってなると、やっぱ惜しい気もしてね。あーまったく執着というのは消したそばから伸びてくるもんですなぁ。
 そもそも取り込めなくしてあるんだから、取り込む方がどうかしてるんですよね。出来ると思ったらやらずにいられない、これは業なのでしょうかねー。先の子作りゲームもそうですし、まぁ○ィニー問題にしても・・・。
 あ、僕はそこまでしてませんけども。

平成19年1月24日
ku92

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2007年01月05日

91*半身浴、という生き方

 ぬるま湯って、たびたび自堕落でメリハリのない暮らしの喩えにされるでしょ。でも実際、ぬるい風呂ならではの心地よさって堪らないんだよね〜。
 ただ一旦ぬるま湯に浸かると(出た時に周囲の空気が冷たいと風邪引くかもしれない)とか思っちゃって、腰が重くなって機を逸するって事もあるわなぁ。
 そこで思いついたのが「半身浴、という生き方」ですよ。要は全身どっぷり浸からずにハーフ&ハーフ・・・って単なる折衷案だから、既に考えた方もいらっしゃるでしょうがね。
 ぬるま湯は下半分だけでも、じわじわと上半分が汗かいてくる。これが半身浴おどろきパワー、ぬるいのに血の巡りが良くなっちまうなんて大したモンだね! まぁ現実には、どっぷり浸かりたくなる気持ちとの葛藤も起こりそうだけど?

 ところで、ケータイで大声で話す人。いまだに結構いますなー、それも(今その場所で・・・?)っていうような。
「いい年して、なんて無粋なんだろう!」
 そんなふうに腹の底では思ってたんだよね、まぁ言いやしないけどさ。だけど、ふと(あれって英語を話してる時の自分じゃないか)って思ったりして。
 お恥ずかしい話、なぜだか僕って英語だと知らず知らずに声が大きくなってるんだよね。まぁ一応は話せるんだけど、本当は全然通じてないかもしれないってレベルなもんで。焦っちゃうんだか、なーんかチカラ入れ過ぎちゃう事ってのがあるのよ。
 とにかく単語と基本文だけで勝負してるからさ、相手の言ってる事なんて手加減なしだと分かんないし。ただね、そこで(分かんない!)ってビビッたら終わりなの。受身になったらダメ、切り返していかないと。考え込んじゃって、そこに言葉を重ねられちまうと火だるま状態だから。
 分からないければすぐ聞き返す、でなければ話の流れで分かる事にして聞き流す。大概は旅先で困った状況を打開するための英語だからさ、こっちが会話のイニシアチブを取ってないと相手に振り回される・・・っていう考え方が、僕の英語会話の基本なんだよ。
 そうして喋ってると、いつの間にか声の調子が跳ね上がっちゃう訳。

 以前、海外便の機内でフライトアテンダントと向かい合わせの席になってさ。その中国系の男性は流暢な英語で話しかけてきたんだけど、少し訛りがあって聞き取りづらかったのね。僕も日本語訛りがあるし英語なんて久々だったし、それで気が付けば機内がシーンとしちゃってて・・・。
(話さなきゃ)って夢中になり過ぎてたんだわなー、相手が少し引いちゃってるのも見えなくなってて。他愛ない話だった筈なのに関係ない事まで熱く語ってさ、思い出すだけで顔から火が出るおもいだよ。
 まぁそこまで周りが目に入らなくなってる訳でもないんだろうけど、大声でケータイ使ってる人の心境も実は相当テンパッてるのかもなぁ〜ってね。

 最近TVで、老若サラリーマンの掛け合いやってる缶コーヒーのCM観てさ。朝礼の最中にケータイが鳴り出したのに、老サラリーマンが(出たらマズイ)って切ろうとしないシチュエーションなのね。それ観てた父親が大笑いして「あれは分かる」と言ったの。
(電話が鳴ってて出ないのも失礼だけど、上役の訓示中に電話に出るのはマズイし・・・)って内心アタフタしてる心理が、父親には他人事じゃなかったんだろう。マナーモードも理解できてない時期だってあったからなぁ、ちょっと身につまされる感じがツボだったみたい。
 それって、つまり誰でもが同じように(状況次第で、速攻で切って後から掛け直せば?)って考える訳じゃないって事なんだよね。

 シルバー・シートや病院で鳴り響く変な着メロ、そして少し怒ったような行き場のないような顔して大声で話し始める見知らぬオジサンの胸中は分からないけどさ。まさか本気で(オレはオマエらと違って、ビッグな取引いくつも抱えて忙しいんだぜ)とか思っちゃってたら、それは別の風呂にどっぷり浸かっちゃってる感じかも。
 僕が大声で英語スピーキングしちゃってる時も、周囲に(俺ぁ英語バリバリなんだぜぃ)と意気がってるように見られてたかもしんないしなぁ。もう本人的にはキャパ限界の白目寸前で、自分の暴走も止められなくて居たたまれない心境でもね。
 ああいう状況って、ぬるま湯っていうよりは釜茹でかな? それよりも、うっかり焼けた靴を履いちゃった感じかも。

 あれ、ちっとも「半身浴、という生き方」じゃないじゃん・・・!

ku91


平成19年1月5日
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2006年12月28日

90*誰かの責任

 人間というのは、絶えず考え事をしてるらしいねぇ。一日平均で何万だか何十万だか、たとえ無意味な妄想レベルだとしてもね。つまり起きてる間ずっと、脳みそってのは休まないんだなー。
 他の人は知らないけどさ、僕には何もしない時間てのが結構あるのね。そんな時は見かけによらず、ものすごーく考え事をしてるのだと胸張って言える場合もなくはないけど、大抵はその前段階にいたりする。ぼんやりと。
 そうやってぼんやりしてると、いろんな事を思い出したり気になったりして、でもそれが自分に関わりのある事柄だったりする事は少なくてさ。本当に毒にも薬にもならないような、まぁとりとめもないないような。だからこそ、純粋に楽しんでいられるのかなって思ったりもして。
 ともかくそうして過ごすのを好むあまり、用もないのにトイレで座り込んでみたり、やたら長風呂してみたり、すぐ横になったりする。部屋の隅っこ眺めてるだけで何か思いついた気になって、その辺のメモ用紙に書き込んでみたりして。

 大樹の種には100年後、
 大きく枝を張るために必要不可欠な要素が詰まっている。
 こんなに小さい種の中に。
 だけどそれを大きな樹に変えるには、
 水と土と、光と風が大切なのだ。
 虫や鳥やけものが、助けてくれるのだ。
 一粒の種が生まれるには、他の木だって必要だった。
 取るに足らないものだって、
 種が秘めた大樹の未来のためには、
 いつか出逢う水や土や、光や風や、虫や鳥やけものにとって大事なものだ。
 そして大樹は、捻じ曲がろうが朽ち果てようが、
 それらのすべてに役立つのだ。
 だから種は芽を伸ばさねばならない。
 根を張らねばならない。
 水に流され、風に吹かれ、虫に運ばれ鳥に呑まれても、
 広い世界には然るべき余地が残されているものだ。
 種は小さいが、殻はかたい
 その殻を打ち破る力こそが、大樹の源になっている。

 2006年を象徴する言葉が、命なのだそうだ。ふぅ〜ん、なぜだろう?
 いじめも凶悪犯罪も本当に「史上最悪」ではなくても、その言葉は報道の世界でいとも簡単に使われてるね。その文字が踊れば踊るほど、数字は跳ね上がるようにも見えたりして。
 それは単に平和だから、他に紙面を埋めようがないだけかもなぁ。でも不安をあおりながら何かの口実にしてんじゃないかってね、なんとなく物事の観点を誘導されているような感じがするんだよね。別に陰謀論って訳じゃなくてさ、慎重に見定めたいってコト。
 いじめ加害者に対する罰則を設けたり、犯罪防止に監視と管理を増やしたり。それって医学が患者を薬漬けにしたりチューブで生かしたりするようなね、違うかもしんないけど。根本を見誤ってるような、責任ってのがたらい回しされてるような。
 あと経済システムの在りようが、人との間でも当たり前のように通用しちゃってるけれど・・・。なんちゃって、実はまったく疎いから戯言として受け取っておいて頂戴ね。でも端からは金融取引が(合法的に理屈が通れば無礼講)ってな仕掛けにしか思えないのさ、資本金が大きいほど有利に出来てるし額面の大きさが発言力に比例するっていうね。
 その論法でいけば旧来の社会道徳やら人間性とかに価値はない訳で、すると某IT企業の社長さんだかの方が筋道立ってる道理になるじゃない? 調子に乗りすぎてお灸を据えられちゃったけど、それだっていじめとか凶悪犯罪への答なき対処と似てないかなー。
 日本に入ってきた外資系の雇用ってのも、土台が違ってる上に都合よく乗っかってる気がしてさ。昔っからの親方日の丸なんざ効率悪い、会社経営でいえば合理的じゃない。って、そうやって目先で手前ばかり見てるから全体で辻褄あわなくなってるのかもよって。
 おっと生意気が過ぎましたね、見当違いの放言をお詫びします。ただ「問題を世の中のせいにしたら解決しない」って言い方を聞くとさ、結論だけ欲しがってるというか他人事なんだよね。自分のケツ拭かないで「臭い!」って騒いでる・・・って喩えがキタナイねぇ。じゃあ誰に責任取らせるかって急きたてるなら、その人のせいでもあるとは思いませんか? って事ですよ。

 そうなのよ、本当は責めたいんじゃないんだよね。言葉の調子じゃ非難がましく受け取られたとしても、そいつは本意じゃあないのよ。あーまったく難しいねぇ、どうも上手い言い方ってのが出てこないと舌鋒鋭くなる嫌いがあるな。
 池の鯉を見やるよに、人の世を思えたら・・・なぁんて、つらつら思う年の暮れ。

平成18年12月28日
ku90

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2006年12月19日

89*1年ぶり、10年越し

 この「空想百景」の更新が、1年以上も空くとは自分でも思ってなかったんですよ。
 ただね、僕としては「メキシコ旅情」のほうを優先したかったの。だって去年(2005年)の時点で、あれから丁度9年が経っていたんだもの。行ったのが1996年の秋だったから、できれば10年という区切りの中で収めたいって思ってね。まぁ人情というか。
 それに「空想百景」も、やや息切れネタ切れ気味だったし(笑)。
 ところで去年あたりから、なんだか僕はこの10年というフレーズを多用してるんだよね。あっちやこっちで書いてる駄文で、やたら10年前を基準に何かを測ってるような。そりゃ確かに1996年前後ってのが、僕にとっての大きな分水嶺だったんですよ。それにしても(どうしちゃたんだ?)って感じ。
 考えてみたんだけど、あの頃って特に(あと10年、経ったら・・・?)って思う事が多かった気がするのね。当時は自分でも転換期にいるって感じてたからかな、過渡的な状況での決定事項が吉と出るか凶と出るか気懸かりだったんだと思う。それで今の僕は、過去の呼び掛けが届くたびに振り向いているっていう感じなのかも。
 でも遠すぎて聞き分けられないんだよね、その声が期待なのか不安なのかも。逆に言えば、あの頃にとっての未来(つまり今)が茫洋として見分けられなかったのと同じで。ただこれは例えじゃなく、過去に思い浮かべたのは今の僕だった感じはあるし、ピント外れな相槌程度でも当時の僕にアウトラインは伝わってた気はするんだよなぁ。
 まさか僕が、この年でガンプラやTVゲームを手に取ってたり、自分を満足させるような唄を作っていたりするなんて思わなかったろうけどね! ははは。
 だけど当時はこんなにネットが普及する事も想像できなかったし、自分が携帯電話なんて使う筈ないと思ってたもんなぁー。それを思えば、あれから汲々としつつワープロに向かってた旅の記録や、自己満足で作ってた楽曲までがホームページ上で公開されてるのなんて夢のようですが・・・。
ku89





 さてさて「メキシコ旅情」も終わって、この「空想百景」も残り10話となる訳です。
 とりあえず次なる旅日記として、台湾への2度目と3度目の一人旅を予定しております。そしてこの酔っ払いの繰言みたいなコラムとは違う「空想百景」というのも、頭の中で構想中ではあります。どうなることやら、ですけれども。
 そういえば今回、これはワープロ原稿じゃないんです。これまでは、わざわざワープロで打った文章をにフロッピーDOS変換入力して、パソコンに保存してから更新してたんですよ。それはなぜかというと、初めてワープロで作った「メキシコ旅情」の元となる文章が、紙とペンで書くニュアンスと全然違っていたから、更に新しい道具に替える事に慎重になってまして。
 たかが出力方式の違いでも、書きあがった文章は自分の言葉じゃないみたいでね。同様に、今でも長いメールになると手紙のようには書けない。ワープロからパソコンというのは物理的に大差ないようですけど、それでも僕には大違いだったんですよ。
 キーの触感も大きいし、パソコンの禁則処理は入力エラーを弾いてくれないから感覚的に操作できなくて。だから一番最初の「台湾日記」から、パソコンは(ワープロ原稿を手直ししてアップロードする場所)だったんです。
 そもそも道具ってのは、多機能すぎると単純な道具より使い勝手が悪くなる傾向ってあるでしょ。いろんな作業がひとつで済む便利さも捨てがたいのですが、やっぱり餅は餅屋というか。でも物事の動きって、分散して特化する方向から統合に向かっていくのかなって気はします。それは餅だけ売ってる餅屋とか、茹で麺だけ扱ってる店も今じゃ珍しいのと・・・関係ないかな?
 まぁそんな次第で、次の旅日記「台湾日記2005(仮題)」からは僕もパソコンで原稿作成していきます。それでも文章が変わっていないとすれば、僕もパソコンで作文するのに慣れたって事かもしれません。あるいは僕がイメージしてる(自分の言葉)というものが、所詮は個人的なこだわりに過ぎないって事でしょうなぁ。
 もちろん個人的なこだわりを捨てようって気はないんですよ、たとえば僕は電気バリカンで自分の髪を刈っているけれど、他人からどう見えるのかまで気にしていないっていうか。ちょっとばかり不揃いだとか多少いびつになってても、そういう細部にこだわるんじゃなくってという意味ね。
 僕は自分の性格を道具に譬えるとすれば、使い込まれた刺身包丁というよりは十得ナイフに近いと思ったりするので、まぁその器に沿った勘所を研いでいこうじゃないかって。かといって絵とか写真とか音楽までパソコン使いこないして、アナログ/デジタル両刀遣いでっていう了見までは持たないですけど。
 ともかく来年も、ブログ・サイト「日々是人生」メイン・サイト「tom's section」共々よろしくおねがいします。

平成18年12月12日
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2005年09月13日

88*2005年の9・10〜11

 一週間前、マウンテン・バイクで初めてダウンヒルのコースを走った。要するに、狭く曲がりくねった山道を自転車で駆け降りた訳だ。あっと言う間に脚はガクガク、手はパンパン! 転ばなかったのは前後を走ってくれた先輩方のおかげ、とはいえ奇跡に近い。僕は舗装されてない道はおろか、あんな急勾・や急カーブも初体験だったのだ。
 その後、久しぶりの露天風呂で夏山の空気に浸り、これまた久々のキャンプでは三宅島以来の豪雨に見舞われた。寝袋まで浸水したし、帰りにも滝のような雨に降られたのには閉口したが…それでも・晴らしい休日だったのは間違いない。
 そして荷解きをする気力もないまま、性懲りもなく次の休日もキャンプ&山を走りに出掛けたのだった。

 中央高速を相模湖で下りて、富士吉田から忍野八海をまわって藤野のキャンプ場へ…一日中ドライブだ、こんなにハンドルを握っていたなんて自己最長記録更新だろう。元々は車の運転が好きではなかったのに、まったく苦痛ではなかったのが我ながら驚きだった。
 変化というのは、必ずしも緩やかではないんだなぁ。そして、そんな一日は新鮮さに満ちていた。
「かけうどん300円」という、富士吉田名物のシンプルで滋味深い味。ユカタン半島のセノーテ(泉)に似た青さの忍野八海、そこで食べた菩提樹や桜のハチミツも奥深い味わいがあった。…って食べ歩きみたいだけど、言葉にして一番伝わりやすい事柄を挙げてみただけなのよ。様々な眺めの中で感じた事は、言葉にすると長くなる上に陳腐化してしまうからね。
 キャンプ場では、10年振りくらいに焚き火をして満天の星空を見た。ずっと空いていた心の穴が埋まったような、静かな充足感は言葉にならない。敢えて言うなら、魂レベルで生きている感覚!

 ところで、この日は「 9・10ホワイトバンド・デーほっとけない 世界のまずしさ」だったらしい。
 僕がそれを知ったのは、幼馴染みの友人から「ホワイトバンド」なる贈り物が届いたからだ。この「ほっとけない世界のまずしさキャンペーン」というのは、どうも(みんな一緒に頑張る)という雰囲気に思えて避けたくなる。ただ(意志の力で世界を変える)という基本姿勢は好きなので、僕は僕なりに意思表示をする事にした。
 そして寄寓にも、結果的にそんな時間を過ごせた気がする。まず自分で自分を救うというか、この深く満ち足りた感覚を遠くまで贈りたい。

 その翌日は「9・11」という、アメリカにとってのテロ記念日…。って、単に8月6日を原爆記念日と呼ぶのになぞらえてみただけで他意は一切ありませんので悪しからず。
 そして衆院選の投票日だが、当然ながら不在者投票済み。僕は以前「日本をぶっ壊す」と言った(ちょっと違うかもしれないが)小泉氏を支持するし、以来きちんと公約を守り続けている(と僕は思う)彼を信任する。
 きっと「痛みを伴う改革」は、これから痛みの正念場を迎えるだろう。でもここで引き受けなければ、これからの世代に申し訳が立たない。
 インディアンが何かをする時は、9世代後の子供達の事を考えて動くと聞いた。
 改革路線もホワイトバンドも、僕の中ではそういう風に受け止めている。

 さて、清々しい朝の時間を慌ただしく待ち合わせ場所に。先週のダウンヒルに引き続き、今回はクロスカントリーのコース。つまり、まさに休む間もなく山を走っているんだなぁ。
 ダウンヒルは急坂の連続デコボコ、石と根っこと路面を凝視し、息つく間もなく駆け降りる。それに比べれて今回は、アップダウンの減り張りがあるし眺めを感じる程度の余裕はあった。ただ、いかんせん急な上り坂は…正直言って腹が立つ!
 クロカン好きには、そういう苦痛も下りの快感と同義らしい。だけど僕にとって苦痛は苦痛でしかなく、快感は純粋に快感だけで事足りる。とはいえ、ダウンヒルの快感はクラッシュする恐怖の一歩手前という感じだし、どちらも「痛みを伴う快楽」かもしれない。
 けれど「挫折無くして成功なし」ともいうし、転ぶ限界まで行かないと身につかない技術があるような気はしている。いわゆる場数を踏むってやつだ。今回も最後は雨に降られ、ぬかるみの中を走ったのも経験値に数えておこうか。
 2日続けて温泉に浸かり、露天風呂で山の空気を味わう。晴れた昨日の夕景も、雨に煙った山肌も心安らぐ気持ち良さだった。

 ちなみに明日9・14から16まで「ホワイトバンドサミット」がN.Y.にて開催されるそうだが、本当の名称は「国連2005ワールドサミット」という。
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平成17年9月13日
posted by tomsec at 21:09 | TrackBack(0) | 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年08月23日

87*野生の飼育と間合い

 猫か犬かと訊かれれば、僕は「飼うなら犬かな」と答えるだろう。たぶん。
 きっと飼った事がないせいだね、猫ってイメージは「居着く」動物であって「飼う」という感覚じゃなさそう。その点では犬のほうが、メンバーとしての守備位置を考えそうで。
 動物との間合いは、仲間以外は警戒対象だと思うんだ。相棒とかチームを組むとすれば、僕は猫を相棒にはできないなぁ。

 そういえば電子制御のペット、あの発想って(種なしブドウ)っぽくない? 愛知万博とか興味はないけど、近頃はロボットが話題になる時って「アイボ的」な雰囲気を感じるんだよね。
 ただ貴方に都合のよい愛想だけを、煩わしくない無償の愛だけを…。それは娼婦の仕事であり、奴隷の役割だった事をすり替えてるだけじゃないのかぁ? ディズニーが動物達を「良き友人」として描き、アシモフがロボットを「忠実な下僕」と規定した時代から一歩も前に出ていないじゃん。
 結局は(自分達に奉仕して当然の存在)を夢見た、とはいえ両氏の発想が古い制度を超えなくたって当然だよね。でもさ、もう21世紀なんだし。

 しばらく前にね、近所の公園でイスラエル人の男性に会ったのよ。お互い犬の散歩中で、ウチのは小型犬が嫌いだから他の犬を避けるようにしてたんだけど、向こうから話しかけてきたの。
 その男性は「まだ日本に来て1週間だけど、あと1週間したら祖国に帰る」と言っててさ、妻子を現地に残して2週間も仕事しないで物見遊山とは意外だったよ。9・11テロ以前だか以降だったか、とにかくパレスチナとの問題で戒厳令が敷かれていたのに。
 特に裕福そうでもないし、まったく呑気な口調だったなぁ。遠い国で報じられている噂が、あの国のすべてを語っている訳じゃないっていう感じがしたんだ。
 きっと普通に働き暮らす、他の国と変わりない家庭があふれている。そして、すぐ近くで自爆テロが起きて町中に戦車と銃声があふれている…。それはもしかしたら、戦時下よりも却って名状し難い日常なのかも。
 ローマ帝国の侵略からイギリスの3枚舌外交による建国と紛争、他民族による翻弄の歴史は僕の手に余るので止めとこう。パレスチナという名前の由来は、聖書のペリシテ人に由来するというから溝は深い。

 しかし教育というか刷り込みというか、そういう事を考えると僕もまた日本という社会集団に相応しい育てられ方をされたのだろうな。入力する情報の選択は、集団社会やそれを統括する側の意向次第だからね。
 原爆投下も、中国のチベット侵攻も、中東に対するアメリカの外交姿勢も。
 大昔の人間が生き延びるには、自然を観察し学び取る事が必須だった。その結果が今じゃ…謙虚に学んでる場合じゃないのかねぇ。

 ところで我が家の犬は可哀想に、しつけも何も知らない家に転がり込んできてさ。手に負えなくなって、成犬になる手前からトレーニングが始まったのね。子犬のうちならともかく、人間社会に順化させるのは難しい。でも彼が生きて行く道は、それ以外に選べなかった。
 しつけを始めた当初、家族全員でトレーニングに参加してたのよ。動物をコントロールするためには「飼う側が、動物の言語をマスターする」という訓練が必要なんだよね。つまり、しつけられてたのは僕らのほうだった訳。
 その事は、まったく理解できるんだ。馬に乗るのも鳥を操るのも、それが基本になけりゃ嘘だと思ってる。でも躍らされる側の気持ちになるとね、それを犬に押し付けるしかないのも…。で、耐えられなくなって僕は降りちゃったんだよ。
「野生の飼育→飼い慣らせると思うなよ」
 これは、最初に就いた仕事を辞める前に書き留めた言葉。
 それから何年も経って勤め人になった僕は、上司から「理不尽だと思っても我慢してれば、いつか報われる時がくる」というような慰めを言われたの。
 そんなこんなを、犬のしつけ訓練で思い出しちゃったんだわ。
 飼い犬のためでも、やっぱり僕自身が調教されるのは受け入れられなかった。物心つかないうちじゃないと、ね。守ることを強いられる、自分以外に根拠があるルールってのは。

 動物の言語だったら攻撃とか威嚇でしかないのに、いいオトナまで(動物は優しい下僕)だと勘違いして…。
 癒しってのは、逆から見たら搾取と虐待だったりして。

平成17年8月23日
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2005年07月26日

86*曖昧加減に用がある


20050726228aa4ef.jpg 男のコというのは、一概に車好きという傾向があるようで。
 だけど僕は、案外そうでもなかったな。70年代のスーパーカー・ブーム世代だから、それなりに夢中になったのだけどね。
 あの時代はまた高度成長のもたらした副作用が取り沙汰されて、教科書には公害やら石油ショックなんかが取り上げられていたのを覚えている。子供ながらに(自動車=地球環境を損なう)というイメージがあって、それが先に刷り込まれちゃってたら車好きになるほうが難しいかもね。やっぱ教育って…。
 それに第一、父親が免許を取ったのは僕が中学に入ってからだった、というのも関係してるんだろうな。つまり子供時代にマイカーのない家庭だったから、車に対して強い関心を持たなかったのかもしれない。
 そう考えてみれば、僕が自転車を好ましく思うのも必然だった気がしてくるよ。とはいってもマニアックな執着はないのね、単に乗り物として理想的な手段だなって。もちろん現実的には車の利便性に及ぶべくもないから、どちらかというと思想的な意味合いで自転車を支持しているような感じで。
 結局は乗り手の、人力の範囲でしか動けない。そのスピードも移動距離も、心が追いつけないほど身体性から離れていない。…というか、道具っぽいじゃない? ただマウンテン・バイクに乗るようになって、自転車も精密な機械に属するんだなーって実感したけど。それでも、まだ内燃機関に比べれば理屈は単純だから。

 ところで腕時計というのも、携帯電話を持ち歩くようになって実用性が薄くなっちゃったけど、僕は自動巻きが好きだったりする。
 なにしろ電池交換不要だもの!…って別に、エコロジーとか興味ないタチなんだけどさ。でも自分の庭で処分できないような物って、何だか身の丈を越えてるようでねぇ。そこに先祖の墓があっても構わないのよ、でも産廃処理場とか原発は厭だもん。
 まぁ最近では、ソーラー・パワーとかいった方式もあるんだけど、より自立している感じとアナログっぽさが自動巻きの良い所。1日に2〜3秒は遅れてしまう、その大らかさも思想的に好きなんだよなぁ。
 自動巻きの腕時計は、それ自体の振動によってネジが巻かれる仕組みらしい。だから置きっ放しにしたりして、動かしてないと止まってしまう。といって常に時計を揺すってやる必要はないのだが、なぜか自動巻き腕時計をすると腕を軽く振るクセがついてちゃってね。
 たまに、町なかで無意識的に軽く腕を振っている人を見かけたりするのよ。そうすると(あ、自動巻き派なんだなぁ)って、勝手にシンパシー感じたりして。まぁ滅多にいないけど。

 無意識の仕草で不思議なのが、女性の食事中の空き手。
 何かを食べてる時の女性って、利き腕じゃないほうが面白い事になってるのね。よくあるのが、半分ガッツポーズで手の甲を後ろに向けてるタイプ。これを僕は、心の中で「猫パンチ型」と呼んでるんだけどね。
 他には、中途半端に手を挙げて指が仏像みたいになってる場合もある。これは「アルカイック型」で、大体どちらかに分類されるんだよ。こういう仕草も何か理由があるのかなぁ? 見かけるたびに、手のやり場に困ってるような印象を受けるんだよね。試しにやってみたら、却って気がそがれて食べにくかったが…。
 そういえば、これは真似した事はないけど、寝る時に両手を胸で軽く握ってる人ね(胸を、じゃなくて)。まるでボクサーがガード姿勢を取っているような、マンガの女性キャラが可愛さを強調してるようなポーズ。男性でも稀に、こういう人を見かけるんだが…寝にくくないのか? ま、いいんだけどさ。
 あと、歯を磨く時の姿勢も不思議。
 腰に手を当ててる人が、自分も含めて多い気がする。なぜか銭湯でコーヒー牛乳を飲んでるように、左腕がS字を描いている訳ですよ。そして妙に背筋がピンと伸びてるのね、まぁ髪の毛が気になったり背中が痒かったりした場合は別として。

 もしも、食事時と歯磨き時のポーズを、それぞれ逆にやってみるとどうなんだろう?
 きっと(しっくりいかない)感じかもなぁー。
 という事は、まったく無意味って訳じゃないって事かもね。
 そう思うと(真に無意味な物事などない)のかもしれないなぁ、主観的な意味とは違う意味でね。

平成17年7月12日
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2005年06月29日

85*愛のコリーダ

 この頃、よく「愛のコリーダ」が頭の中を駆け巡るんだよなぁ。
 かなり昔の曲だけど、最近よくCMで流れててさ。図書館でCD見つけたから、歌詞カードをコピーして歌ったりしてるのね。部屋ン中でだけど。
 もうすっかりカラオケなんざ行かないけどさ、こういうのって隠し球的に役立つ事もあるんだよ。だって職場の歓送迎会なんかで、急に「オマエも一曲やれ」みたいになったりするじゃん?
 まぁ、そういう初っ端では「上を向いて歩こう」に決めてんだけどね。居酒屋で「とりあえずビール」と言うように、バーで「まずはジントニック」を頼むように。どんな年齢層でも大抵は知ってるし、これが十八番って人は滅多にいないだろうという選曲。
 それで一巡して、またリモコンを振られたら隠し球の出番なのよ。以前「〇ルマゲドン」という映画が封切られた時期には、その主題歌だった曲を泣きむせぶ勢いで歌ったりもしたなぁ。他にも(裏声で山本リンダ)っていうのもあるけど、その辺は隠し球というより変化球か。
 あと、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」もそうだなぁ。あの曲を知らない人には、引かれちゃうかウケるか紙一重。バンドのライブ打ち上げでも、メンバーの連れてきた女性客の前で熱唱したら迷惑顔だったし…。
 時々「クレイジー・キャッツ」を持ち歌にしてるい人がいて、あれも一種の隠し球だろうなって思う。僕にとっての「大ちゃん数え歌」も…って、アレ? なんか僕って意外とカラオケ熱心なのかも。
 でも、カラオケって所詮(他人の歌)なのよ。自分の唄じゃないからさ、上手下手より適当に面白がってる感じ。作詞作曲する人ってのは、結構そういうもんじゃないのかって思ったりしてるんだけどね。

 かなり前に、カラオケ屋でもバイトしたのよ。そういえば20種近くバイトしたけど、夜中の仕事ってそれだけだったなぁ…というのはともかく。
 その店では、ヒマになると(休憩)と称して順番に空室で歌ってたのね。まだ当時は流行のJ−POPというのも知ってたんだけどさ、やっぱ毎回だと飽きてきちゃうんだわ。それで訳分かんないのを歌ってるうち、件の「上を向いて歩こう」やら隠し球を覚えたんだけど。
 ところで、そこの最上階は「出る」と噂されてたの。誰も見た訳じゃないけど、もちろん休憩には行かなかったね。でも閉店して片付けてると、店長が有線の音楽を読経に変えやがるんだよなー。ああいう部屋って窓がないから余計に怖かった、というかエレベーターの中が最悪。
 そこで新人のバイトが、来た早々「最上階だけは行きたくない」って辞めちゃったの。霊感が強いコだったみたいでさ、それで誰も行きたがらなくなっちまって。なんだか店長と僕が交替で片付けしてたような気も。
 ちょうどその頃に、初めて金縛りを体験したんだ。あれってさ、急に目が覚めるんだよね。それと同時に(動かない!)って分かるの、不思議と。恐る恐る目を開けたら、一見変わりないんだけど空間が歪んでて。高熱出した時に見える感じ、だけど何か違うの。
 当時は親元を離れて、友人と2LDKのアパートを借りてたんだよ。隣室を友人が使ってて、ドアの向こうにキッチンがあって玄関という造りの。で、ドアの外に誰かがいる気配があってさ。そんで(やっと帰ってきたのか)と思ったら、板張りのギシギシいう音がしてないんだよね。
 耳を澄ますと、それはドア越しにこっちの様子を伺いながら揺れてる気配なの。もう必死にあらゆる念仏唱えてさ、丹田(ヘソの下)に気合を入れて「どりゃー!」って叫んだら金縛りが解けた。相変わらず目の前の空気は歪んでたけど…。
 やっぱカラオケ屋から連れ帰って来ちまったんだろうか、でも数年後に通ったら店は潰れてたけど。

 大昔は人間も、動植物みたいに自然と同調するチカラがあったっていうじゃない? だけどその感覚を手放しちゃったのも分かるよ、だって敏感すぎると怖いじゃんね。
 夜道を歩いてると、前方の女性が駆け出していっちゃう時があるの。まさか霊感とかで、僕に憑いてる何かが見えたりしてないよね…? 単に怖がりで、小動物のように戦々恐々として生きてるなら構わないんだけど。

「愛のコリーダ」って、なんだかストーカーっぽい歌詞なんだってね。意外。

平成17年6月29日
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(写真は、ほぼ本文と関係ありません)
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2005年06月23日

84*禁止と提示と9年日記

 友人から、久しぶりに手紙を貰ったのですよ。僕の誕生日ということもあって、贈り物と共に。
 その手紙の初めに、とある女性から彼に「10年前の貴方は、何をしていましたか?」というような質問をされた事が書かれていたの。そうして、僕らが出会った9年前へと話は続いてゆくんだけどさ。なるほどなぁー、と思ったね。
 ひとつには、普通に(そうか、もうそんなに経つのだなぁ)という感慨めいた気持ち。そして思ったのは(こうきたか)という、筋運びの妙に対する感嘆だったんだわ。話を展開していく上での、僕の言い方でいえば「フック」みたいなものですな。
 以前、別の知人が「今やストーリーのパターンは出尽くしています、要は『如何に語るか』という点ですよ」とか言っていたのね。映画についてだったんだけど、これは近頃の音楽シーンにも当てはまる気がするんだよなぁ。
 物語の筋書きってのは、もはや基本要素の組み合わせで生み出されている感じがする。悲劇的、あるいは喜劇的な展開のバリエーションに、新しい舞台や人物を入れ替える手口。それでも人には物語が必要で、つまり内容以上に語り口…ストーリー・テリングの力が重要なんだなって。
 そういえばTV番組の「ト〇ビアの泉」ってのもさ、あれなんか(いかに見せるか)なんだよね。それを言ったら「タ〇リ倶楽部」の空耳アワーなんて、本当に見せ方だけで笑わせられてるもん。同じ内容をラジオで放送しても、あんなに面白くならないでしょ(分からない方、ゴメンナサイ)。

 話を戻して10年前。今までの人生では最悪の数年間だったよ、朝のラッシュで誰かを殴りつけたりして。激情に駆られるまま他人を攻撃して、それですぐ自己嫌悪に落ち込んでね。
 とにかく一般的な勤め人になる以外、大人として生きる選択肢は見えてなかったのよ。自分が何をしたいのか、何か違うと感じながらも立ち止まるには遅すぎた。…と思い込んで、うっかり定年までそうやって生きて行くところだった。父の背中を追うっていうのは、悲しいくらい向いてなかったんだわ。
 で、9年前。彼と僕は出会ったの、他の友人達とも。ついに会社勤めを辞めてしまい、さりとて資格も肩書もなく何をしようというでもない時期に。そして、そこで会った別の人に「10年日記」というのを見せてもらってね。僕も(日記をつけてみるか!)と思い立って9年日記を作ってみたんだよ。
 昔っから注意力散漫と通信簿に書かれ続けただけあって、日記なんて夏休みの宿題が最長記録だったのね。でも長いこと続いたなぁ、我ながら見事に。本当なら今年の5/15で満了していた筈なんだけどねぇ…。でも7〜8年は継続したもん、立派。

 ま、とかくこのように自分に甘い僕なのです。だけど他人にも甘い、と自負してるんだけどね〜。実際どうなの? ってのは置いといて。だって自分に厳しい人ってさー、他人に優しく出来る訳ないって思ってるのよ。僕は自分の味方でいよう、それについての罪悪感も大目に見ようって。
 優しい素振りでオーラが怖い、そういう人っているでしょ。自分を律している人は、無意識に他人も同じルールで見ちゃうんじゃないのかなぁ。逆に言うと、誰かに禁じてしまった事で自分が縛られていたりね。たとえば「〇〇すんなよ」とか言ってると、その言葉が自分の足かせになるような。
 僕は(人に優しくしなくちゃいけない)という規範で生きてる人の側にいると、相手を苛立たせたり自分が参っちゃったりするのよ。だからって、かつての(自分の味方にならない)みたいな人にもエネルギーを吸い取られちゃう感じで。
 なかなか心地よく共鳴できる人っていなくて、それで人込みが苦手なのかもなぁ。すぐ地が出ちゃうというか、気が立ってくるのを抑えてるのも疲れるし。
 そう思うと、こんな今の僕が付き合っていられる友人達って希少種だわ。ありがたいありがたい、お互い絶滅しないよう手を取り合って今後とも末長く宜しく。

平成17年6月22日
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(写真提供=ぴょん)
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2005年06月15日

83*'68アンテナ

 僕はスポーツ中継を観ないので、サッカーボールの変化に気付かなかった。
 すでに白黒の亀甲模様なんかじゃなくなっていたんだよね。あの柄も、実は1968年のメキシコ五輪から普及していったのだとか。それ以前は、バレーボールみたいに単色で細長い縫い目が入っていたらしい。
 そして、そのバレーもサッカーも何回前かの五輪から訳が分からないボールになってしまっていたそうで。はぁー、時代ってやつですか

 1968年。いつからか、僕のアンテナはその年を意識するようになっている。自分が生まれた年ってのもあるんだろうけど、それ以上に気になってしまう年代で。
 明治維新から、まる100年後。高度経済成長、学生運動、日米安保理、フリー・ジャズ、アクション・ペインティング、ベトナム戦争、ヒッピー、サイケデリック…などなど。年代的な幅はあるけれど、そういった時代のキーワードには敏感かもしれないって思う。
 そしてなんとなく、そこには現代の分水嶺があったんじゃないかってね。根拠はないけど、そんなふうに思ったりして。
 で、時々ふと思うのよ。その辺の時代性に反応しやすい、自分の('68アンテナ)が出来ちゃった根っこについて。そうすると、どうしても「〇パン三世」というTVアニメに辿りつくんだよなぁ。
 僕は、物心付いた頃にはその番組を観ていたの。幼稚園の頃から、再放送も欠かさず観ていた記憶があるし。それで小学校高学年で最初のアニメブームに当たって、少ない小遣いで本やらレコードを集めてね。

 一説によると、あの主人公は元フーテンだったという。闇のシンジケートによって一族の後継者として見出されるまでは、ヒッピーまがいの若者だったのだ…。そんな企画当時の裏話を知って、当時の時代風俗に関心を抱くようになったのが('68アンテナ)の萌芽だろうな。
 そこで出合った知らない言葉を追いかけていくうち、子供ながらに(70年代の空気とは違う何か)を感じてね。この物心付いた時から平穏無事な日常が、ちょっと前まで目茶苦茶だったという…。それはたとえば肉親の別の顔を見ちゃったような衝撃で、一種コペルニクス的展開だった訳よ。世の中の営みは、幼い身の丈を越えてたというか。

 ちなみに〇パン三世は読心術(読唇術?)の達人という設定もあって、そっちに伸ばしたアンテナが心理学につながっていったのね。フロイトからユングを経て西欧のキリスト教的世界観(神秘主義・オカルト)に拡がって、しまいには構造哲学や文化人類学やニューエイジもアンテナの範疇に…。って、もちろん専門知識は皆無よ?
 所詮は素人の浅学、ただの好奇心だから大した事ぁない。
 それに、すべてはこじつけかもしんない。そう思っていても、何かしら興味を持った事柄ってのは関連してくるんだよなぁ。大抵は、その年代にフックがある気がしてね。まぁ人間の性質って先天的な要素は大きいから、もともと自分の内にあった傾向が偶然「〇パン三世」を観て引き寄せられたのかも。
 風が吹くと桶屋が儲かる、という諺がある。巷には、色々な風が吹いてるんだよなぁ〜。

 ところで(明治維新から100年しか経っていない)というのも、改めてそう考えると驚きだよ。今年で137年か、でも当時のザンギリ頭で想像してた程じゃなかったりしてね。ハードはともかく、ハートの面では。
 だって未だに西洋偏重主義が幅を利かせてるじゃん、クールビズとか言ってみてもさぁ。案外100年昔のほうが、梅雨はしのぎやすかったりしてね。
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平成17年6月15日
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2005年06月08日

82*すべての山に登れ

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 これは、とある有名なミュージカル映画の挿入歌(の訳詞)。
「夢はあなたが与える全ての愛情に必要です/あなたが生きている限り、あなたの人生の毎日は すべての山を登ることです/すべての流れをわたり/すべての虹を追って/あなたの夢を見出しなさい」
 良い詞だなぁ〜って、まるで(ワタリウム美術館で観た、シュタイナーの黒板絵に添えられた言葉のようだ)と思ったの。他に譬えようがない、シンプルで明確な感じが。

 先日、友人と会っていて思い出した事があるのね。その彼と、三宅島で1カ月くらいキャンプをしてた時の事なんだけど。
 雄山が噴火する前年か、その1年前だったか。夏の終わりから秋の半ばまで、特に何か具体的な予定も期限もなく…といっても、無論テントは別々でね。一緒にメシの支度をしたり別行動を取ったりして、台風の時以外は毎晩たき火して。
 そうして日々は単調に流れるかと思いきや、入れかわり立ちかわり新たな登場人物が現れて、盛り上がったり翻弄されたりする毎日でね。精神的にもシンプルライフを望む、というより混乱した状況を自分達なりに把握したくて、僕らは折あらば話をしていたんだ。
 そんな話の最中に、僕は「あ、今カラスが後ろの電線に止まった」などと言ってた…らしいの。すっかり忘れていたけれど、そういえば僕は何でも(あれは何の予兆だろう?)と考えていたんだよなぁ。その頃の僕は「予兆を読む」という事に凝っていて。いや、憧れていたんだよな。
 そのキャンプよりも数カ月前からの事だけど、特に(動物の送ってくるメッセージ)を読み取ろうとして敏感になってたんだ。たまたま読んだ何冊かの本に、そういった内容が書かれていたから気になってね。
 自分の周囲に起きている事と、内面の動きには関連している…それは今でも僕にとってリアルな考え方ではあるのよ。だけど当時は、とにかく(予兆を読み解く)事そのものに焦点が合っていたみたい。それは今だって憧れてるんだけどさ、あんな熱病のように神経を尖らせてはいないもんなぁ。

 その時期の僕は、よく「分水嶺」という言葉を口にしていたっけ。まぁ今になって振り返ると確かに、当時思ってた以上に幅広い「分水嶺」の期間にいた気はする。
 勤め人という生き方を諦めた1年後、僕はユカタン半島の幻想的な浜辺で月光浴なんてして、更にその1年後には三宅島で「1カ月1万円で」とか言ってテント暮らしをしてたんだからな。
…という書き方をすると、まるで(じゃあ今は分水嶺以降の下り坂なのね)って印象になっちゃうか? ま、どっちだっていいや。たとえ人生の折り返し地点を過ぎたんだとしてもね、それ以降が別に欺瞞と不満にまみれているって感じじゃないし。むしろ毎日が、より楽しめる方向になってる気がするからなぁ。
 そうねー、ゆるやかに下ってゆくような脱力加減とかね。しかも目の前に開がるのは一大パノラマ、そのままフワリと宙に浮いちゃえ〜!…てな感じで。
 ものは言いようですからね、好いように(笑)。

 ただ、微妙に寂しくもあるのは、脱力と同時に「熱」も失っちゃったような気もしたりして。何かに熱中している高揚感っていうのが、ふと懐かしく思える時もあるのね。
 元来、集中力は高く短いほうなのよ。だから一般的な熱量と比べれば、そんなの微熱程度だったのかもしれない。それに、一種の無風状態というのも悪くはないなって思えるんだよ。ただねぇ…。
 あの20代の集中力で世間並の地位や財を得た上での滑空ならば、もしかしたら巷の30代後半男性に共通の安定感なのかもって思えるのね。だけど僕ときたら、そんな高い山は越えてないんだよな〜。

 先日の、友人と会って話したのは標高800メートルの山で、だった。
 キャンプに出掛ける切っ掛けは、彼が見た「御蔵島の断崖で何かをしてた僕ら」という夢だったんだ。初夏の高尾山で、そんな話を聞いてるうちに(それじゃあ夢の場所へ行ってみようか)と言っていた訳よ。
「夢はあなたが与える全ての愛情に必要です/あなたが生きている限り、あなたの人生の毎日は すべての山を登ることです/すべての流れをわたり/すべての虹を追って/あなたの夢を見出しなさい」

平成17年6月8日
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2005年05月31日

81*リゾネイター

 こないだ、DVDを衝動買いしたのね。タイトルは「ワッツタックス」ってんだけど、その辺の詳しい内容はレビュー書いちゃったから置いとく。その中で、何度か「共鳴」って表現が出てきたのよ。で、思ったの。
 人間ってさ、外部からの振動に心を震わせて喜怒哀楽を表してるんだな…って。
 悲しい話に沈み込み、明るい雰囲気に開放感を味わう。ある意味、それだけなのかもしれないよなぁ。というかむしろ、それだけでいいんじゃないかってね。心なんて空っぽの、たとえばギターの胴体みたいだとしても。
 ちょっと飛躍し過ぎてて、伝わらないかな? まぁ魂の定義は色々だから、とりあえず(人間=心と体で出来てる何か)と考えた場合ね。体ってのは自分と外側の境界で情報を伝達する道具で、その体から送られた情報に対して心が対応を判断してる…と。こういうのは「唯心論」とかいうのに近いのかな、それはともかく。

 そんで今度は人生論入っちゃうけど、たとえば(自分の名が語り継がれるような足跡を歴史に残す)という行き方もあると思うのよ。まぁそういった功名心とか目的意識ってのも何かしら「共鳴」の結果だったりするのかな、でも僕の思った事とは範囲がスレるので「反映」という区切りに分けておこう。
 僕のイメージで言うとね、その共鳴した瞬間で完結してる感じなのよ。種が芽吹いて大樹に育つような連続性のある話じゃなく、ひとつの事柄への反応が次の事柄に対する反応に連鎖してゆくような…。
 もうちょっと具体的に言えば、事実かどうかは知らないが「インディアンの生き方」というのに譬えてもいい。元からの環境を変えないようにして、また去った後も痕跡を残さないような暮らし方。母なる大地の上に生まれ死んでゆく事に、人もケモノも変わりがないからね。
 残るのは、誰かの心に刻まれる思い出だけ。ならば僕は、相手とが互いに良い思い出となるように出会ったり別れたりしよう。そう思う。

 時々、僕は(どうして死ぬのは悲しい事なのか?)って考えてみたりするんだ。そりゃあ未練や依存もあるだろうけど、きっと何か悔いを残してるからなんじゃないかな?…などと思ったりもして。やり残した感じ、というか。
 死にゆく者は「納得の行く思い出を、大切な人との間に作れなかった」と不甲斐なく思い、見届ける側は「大切な事を伝え切れていなかった」と感じたりして…。だけどこれは想像に過ぎないんだけどね、まだ僕が身近な人と死に別れてないから。
 所詮、きちんと伝え合ったって「今生の別れ」が楽しい思い出にはならないだろう。でもいつか(全力投球できた)と思えたり、そう出来なかった自分と相手とを容赦したら、その死から得る何かは違ってくるよなぁ〜って気がするんだ。
 それにはね、怒りや憎しみの言動に共振して何かを壊したりするのと違う反応をしてようって思うのよ。実際どうかは分からない、けど「ひとつひとつの輪を閉じる」っていうインディアン的な言い回しに通じてるんじゃないのかなぁ。
 だからって僕は悪感情を否定する気はないのよ? 仙人じゃないし未熟者だからさ、むしろ出てくる気持ちを押し殺す方が毒になるもん。ただ、出し方を変えてみるだけでね。ものは言いようだから、いかに響かせるか? って部分で。

 じゃあ、どんな響きを善しとするか…となれば、やっぱ最もリアルな基準は自分自身だから「箱鳴り」だよなぁ。共鳴体である自分が、気持ち良く震動してるかどうか。自分から響かせた音が、ある範囲の空間を充たしてゆくような感じ?
 もし誰かのビートが気持ち良くなくっても、それを自分好みに変換して震わせてたら気にならなくなるかもなぁ。隣に座った人のヘッドフォンから、シャカシャカ音が聞こえてきてもね。
 僕は(自分のビートで踊っていよう)と思うんだ、そして(それを身に付けよう)って。そんな自分鳴りしてる音が、周囲の共鳴体を経由して変換された音を聴いてみたいな。
 ま、音響的には単なる「ハウリング」にしかならなくてもね。

平成17年5月31日
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posted by tomsec at 23:48 | TrackBack(0) | 空想百景(ALL) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする