2008年04月04日

100*ネオテニーとカタルシス

 ついに百話目ですが、まぁ総集編的に振り返ったりもせず近ごろ思っていることを。
 それは、この社会の幼児化について。
 今回も相変わらず担保めいた文は削いで、思いのままに飛躍していきますのでご了承の程を。


 ふと、最近のエレベーターの押しボタンが幼稚園みたいだと思ったのね。
 やたら大きくなって、色遣いもポップな感じ。
 数字や文字がエンボス状に浮き出ていて、ひらがな表記の開閉ボタン。
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 ユニバーサル・デザイン、だっけ? お年寄りや視覚障害の方々にも高視認性の、ユーザビリティって訳だ。
 だからって、それだけじゃない気がしたのね。小さい子が独りで乗り降りする、って事も前提なんだと思ったのよ。
 幼児化こそが成熟だ、というようなネオテニー的発想もあるのかな。

 どんぐらい昔の話だか分からないけど、少なくとも自分が子どもだった頃までは世界が大人向けに作られていた印象がある。
 子どもだけで、大人の付き添いなしで出来る事なんて高が知れたもんだったような。
 もっともっと時代を遡れば、子どもには多くの事が限定されていたんじゃないか? 言い方を換えるなら、大人と子どもの社会領域が明確に分けられていたと。

 児童の社会進出、かもしれない。
 子供向けテレビ番組の多さ(今や主要な購買層だ)、夜中まで電車に乗っていたり町中で見かけるようになったし、ネットでは大人と対等に意見を交わせる。
 子どもはガキ扱いされないし、自分たちが浸かっているのはガキ向けの流行文化。

 最近読んだ現代日本アートの本で、いわゆる「ジャパニーズ・ポップ」という潮流と同化した作品性を持つ作家が非常に目立っていた。
 それらは海外からの、アキバ系などへの(幼児性を維持したクールさ)といった評価で成立した観がある。
 大人と子どもの、いや未熟化する大人と早熟な子どもの混在する社会が誕生したのかもしれない。
 絶対的な強者として、大人が社会の中で子どもを躾けたりする事もなくなってるし。
 今時の若者よりも年配の方々が、些細な我慢ができずに感情を爆発させる光景にも慣れてきつつある昨今ですし。

 ここでまた、先のエレベーターに話を戻しますが。
 たとえば開閉の表示が、かな表記になっている事の違和感ね。
 そんなふうにして何でも簡便にしてったら、実体験で身に付ける機会が減っちゃうじゃん?
 まぁ自分がそうやって覚えたからって訳じゃなく、なんか表面的な親切設計みたいでさ。

 先回りするだけじゃ仇になるっていう匙加減も、子どもじゃ思い至れない気働きだよなぁ。
 ストレス・パージな風潮が、逆にストレスの二極化に拍車を掛けてはいないかって。
 一種の悪玉論みたいにストレスを排除するのとね、たとえばバリア・フリーを一緒くたにしたくない。

 思い起こすのは、抗菌グッズが流行り出した時期の不安。
 潔癖さへの強迫観念に縛られてると、ガンジス川の水を飲める人の人生と比べれば不自由極まりない・・・ってのは極論だけど。
 ボトルの水しか飲めなくなり、殺菌や抗菌に敏感になり、限られたもの以外は汚く見える視界の狭さ。
 明治以降の西欧化、戦後アメリカナイズの洗礼を超えてしまった今、清潔で安全な場所なんてこの狭い社会だけじゃない?

 目指す理想や憧れを達成し、なんでもいいから目標を探して競い合ってるようでもあり。
 僅かな手間が耐え難いストレスに感じるほど、思いやりの自家中毒を起こしてないかなって。
 そんな優しさを消費する受け手としての依存や他者への要求は、一歩も動けなくなるような心理的障害と表裏一体にも思える。
 階段を上り下りするのも、券売機で切符を買うのも、もし自分が本当に困ったら声を上げて助けを求めるけどな。
 命や健康といった大事に関わるトラブルでもない限り、海外で感じる不便さの新鮮さよ。
 元々は、自分の生まれ育った社会だってそうだったのにね。

 作劇論というものには、物語の結末にカタルシスとホメオパシスがあるそうだ。
 浄化と異化、大団円とアンハッピー・エンディング。
 場合によっては「めでたしめでたし」で終わるよりも、不安定な幕切れのほうが印象的ではある。
 それから彼らはどうなったろうか、どうしてゆくのだろうかと心の中で考え続けてしまう。
「ハイ、では次の話〜」と流してしまわずに、自分の物語として決着を模索することの豊かさ。

平成20年4月4日


posted by tomsec at 23:49|  空想百景<91〜100> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月24日

99*水の如く

「水の低きに流れるが如く」という言い回しがありますな。
 人の心の怠惰さを戒め、楽な方へと逃げたがる姿勢を揶揄して使われるのだろう。
 でも僕は、むしろ進んでそうありたいと心がけている節がなくもないのね。
 何かに迷った時、まず思い浮かぶのがこの言葉なのだ。逃げられる時は逃げたって構わない、自分から砂や苦虫を噛む事もないではないか?・・・って。
 できるだけ面白く楽しく過ごせるように、と思う。

 ましてや、水は流れて海になります。清濁併せ呑む、大海へと下ってゆく。
 もちろん、そこから熱帯性低気圧なんかから雨になって野山へ降り注ぐのかもしれない。でもまぁ、それはそれとしてまずは海を目指そう。
 海に出たなら、より深い愛へと針路を取って。僕は「自分に甘く、他人にも甘い」という人になりたい。

 しかし、それは欺瞞だという人もいます。
 自分に厳しくできない事を、もっともらしく正当化しているだけだとか。そういう考え方は、自己管理能力の劣った下流の思想だとか。
 でもね、そういうゲームは退屈になっちゃったのですよ。

 競争社会は意味なく疲れるし、これ以上「人類の発展」が重要だとも思えないし。勤勉さと向上心は、資源を消費する文明から方向転換できるまで抑えた方がいいとさえ思うんですね。
・・・と、これでは話の順序が逆なので言い訳っぽいかな?
 でも実際、世界がよくなるためには「できるだけ何もしない事」が僕にとっての答えなのです。
 いろいろ僕なりに考えて、突き詰めていったらね。何かをすべきで、損得抜きでは他者を受け容れないような世の中には貢献しないようにと。
 他人の世界は変えられなてくても、自分の世界は変えられるから。

 美の領域を拡げることは、どれだけ赦していけるかという事に通じているのかもしれない。
 キライだった物事、醜いと感じてた事から自由になるほど自分が許されていくような。
 いろんな不快さを遠ざけて、日本は潔癖症な社会を目指してるのだろうか? ガンジス川の水だって飲めれば、どこでだって暮らせるだろうにね。・・・って、これは飽くまで比喩表現だけど。
 そりゃあ澄んだ水が好きだし、そう心がける努力は素晴らしい。
 だからって澄んでない水を隠蔽したり排除したり、それって結果は一緒に見えてもコンセプトから全然ちがう。

 とはいえ、どこまで行っても苦手な事はなくならないだろうなぁ。
 たとえば酒は好きでも、迷惑な酔っ払いは好きになれないし。
 もっといえば、酔いを口実に甘ったれる人間は虫唾が走るんですよ。
 そういうのは常に「自分に甘く、他人にも甘い」人間ではないんじゃないかな、どちらかといえば普段は厳しい系の人間が自分勝手なオンオフで羽目を外してるように見えるんですね。
 まぁ仕方ない、許してやるけどさ・・・!

「酒の席では無礼講」とは、飽くまで年長者が目下の者にかける言葉です。
 本来は主催者からの、粗相を気にして宴席が白けることのないようにという、粋な計らいなんですよね。それを格が低い人間から言ってしまっては、ますます格を下げるのに分かっていないから哀れになっちゃう。
 そもそも、武士の心得を説くという「葉隠」に無礼講はないそうです。むしろ酒の席こそ無礼のないように、と書かれてあったかは定かでないけど。
(酔って性格が変わる)と言う時、善い方に変わる人はいない。
 僕の場合、酔っ払うと寝るか理屈っぽくなるか。なので、あんまり普段と変わらない。

 そうそう、ついでにね。
「学歴なんて関係ないよ」と言えるのは、関係ない筈の学歴が高い人だけ。
「お金なんて問題じゃない」と言えるのも、本当は金持ちの人だけ。
 それは家柄であれ国籍であれ、何かを「関係ない」と言える人には限りがあるんです。つまり「関係ない」筈のステータス(あるいは豊かさと言い換えてもいいか)それ自体を獲得した人間によってのみ、否定できるのね。
 持たざるものが言うと、それは逆説的に己を陳腐に貶めるだけで。まぁ一過性のお笑いにもなるみたいだけど?

「関係ない」と言えるのは、余裕ですなぁ。
 たとえ発する側には悪気などなくても、発せられる側にとっては、その台詞が出た瞬間に返しようのない格差となるもんでもあります。
 自分の豊かさを無意味だと評する時、その価値に対するジャッジメントは相手を沈黙させるかもしれない。何故かといえば、それは同格の間では生じない言葉だから。
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平成19年10月2日


posted by tomsec at 21:21|  空想百景<91〜100> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月14日

98*物分りのよさ

 僕は時々、ユーザー・フレンドリーって何だろうと思う。
 これって常識外れな住人から苦情を受けた役所が始める、無益なサービスみたいなものか?

 たとえば最近の携帯電話や乗用車などに、当たり前に付加された機能。
 その中で(あぁ、まさにユーザー・フレンドリーだな)と、1つでも実感できるものがあれば上等。ほとんど無くても困らないし、その分だけ壊れにくく安く作ってくれよと思う。
 全部オプションで別売りにするのが、ユーザー・フレンドリーじゃないのかって。

 お店に入って「いらっしゃいませ」でなく「こんにちは」とか言われる、それ位なら構わない。
 そんな頻繁に色々な店に出入りしないので、滅多には感じないけれど。
 なんでもかんでも、先回りされたりすると鬱陶しくなる。友人でもない、赤の他人から馴れ馴れしくされる居心地の悪さも。
 子ども扱いされてるみたいだし、それを望む客がいるとしても基準をずらさないでほしいと思う。

 かつて「田舎者」という蔑みの言葉があった。
 でもそれは決して地方出身者という意味ではなく、最近いわれる「KY」というニュアンスに結構近いのではないかと思う。

 狭い道で行き違う時の会釈、エレベーターに乗り合わせる時の目礼、そういった仕草に気付かない人。
 並んでいる列を追い抜いて割り込もうとする車のように、見れば分かりそうな事を無視できる厚かましさ。
 そういうのを総じて「田舎者」と呼んでいたのだった。

 ちなみに「KY」という場合、そこには地理的な限定がない。
 数人で井戸端会議でもしてるとすれば、そこに話の腰を折るような人間が首を突っ込んでくるようなものだろう。
 暗黙の了解を壊してしまう点では「田舎者」とも共通しているが、よりパーソナルで狭い了解であると思う。
 ゲームでいう、ローカル・ルールのようなものだ。

 たとえば都会に引っ越してきた子どもが、近所で遊んでる子ども達の仲間に入れてもらうとする。
 ところが、自分が知っているケイドロとは全然ルールが違っていたとする。
 当然、周りから馬鹿にされたりからかわれたりするだろう。
 ただし、そのエリアに団地が多かったりして転入してくる子どもが珍しくなければ、転校生の儀式も長くは続かない気がする。
 少なくとも、初めて外部の人間が越してくるような状況ほど引きずりはしないだろう。

「田舎者」と呼ばれる場合でも、自分から揉め事の種になったり我を通したりしなければ、徐々に周囲の了解事項が呑み込めて円滑に近所づきあいできるようになってゆく筈だ。
「KY」という言葉には、どこかそういった寛容性が感じられなかったりする。拒絶や排除のニュアンスが強くて、却って痛々しく思えてしまうのだ。
 とはいえ、僕自身が「KY」という言葉が交わされる場所にいないから実際には分からない。

 ずいぶん前になるが、あるバイト先に年下で学生の同僚がいた。
 名の通った大学から立派な会社へ内定が決まっていて、穏やかで腰の低い青年だった。
 そういう非の付け所のない外面とは裏腹に、彼は常に陰湿な事を企んでいる人間でもあった。
 無闇に体を鍛えていて関節技の相手をさせられ、僕は古い大藪晴彦の映画を思い出した。
 中学時代に味わった屈折した感情を、彼は成人式を過ぎても未だ脱け出せないのか・・・?

 その頃にも、やはり「MG5」とか「MMC」といった流行語が「チョベリグ」の陰で囁かれていた気がする。
 しかしそれは半分テレビのネタであって、実際に聞いたこともない渋谷界隈の内輪用語だった。だから、なぜそんな言葉が今になって喧伝されるのかが不思議でならない。
 でも結局は当時のように短命で消えてしまうだろう。いくらメディアなりネットなりで話題にしても、所詮は残らなかった言葉だ。

 今、この国の子どもたちは大人と対等に扱われているようだ。
 僕が子どもだった頃ほどには、抑圧されていない感じがする。
 反抗しても立ちはだかる壁はなくて、自分たちの言葉もスタイルも簡単にすくい上げられてしまう。
 それが気の毒に思えてしまうのは、単なる感傷なのかもしれない。

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平成20年3月14日


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2008年03月04日

97*十年一昔

 いつの間にか、頻繁に「ここ10年」といった区切りで何かを喩えたりする事が多くなった。
 それも自覚するようになってから、だいぶ経つ。なんだか懐古主義みたいで気恥ずかしくもあるのだが、どうにも止まらないようだ。

 具体的には「ここ10年」で携帯を持つようになり、パソコンも持つようになった。そこには当然ながら、メールやホームページやブログといった事柄も含まれる。
 それから作詞作曲や描画といった、割と創作的な趣味も熱意と共に失われた10年という気がしている。それに代わってガンプラだったりゲームだったり、まぁそういった消費の度合いが高い趣味に走った。
 それ以外にもキャンプなどから縁遠くなったとか、理想主義者的な考え方が鳴りを潜めたとか、少なくとも自分で感じる「ここ10年」の変化というのが結構あるのだ。
 体重が増える一方になってしまった、というのもある。

 老化、いや老成の始まりなのかもしれない。
 そう思ってみて、ほろ苦い気持ちになる。
 体力や体質の変化に抗おうという気はないし、精神的にも淡々としてくるのだって分からなくはない。まぁ他愛のない事ばかりであれど、いろんなことがあったものな。

 先週、このブログにて1年ほど更新してきた「'05台湾×2」が終了した。
 いわゆる旅モノも、これで一段落といった感じがする。行ってみたい場所というのも、それほど思い浮かばないし。
 それに自分にとっての旅というものが、何というか少し分かったような気がして。
 変な喩えだけど、メーテル・リンクの青い鳥みたいなね。

 10年前、自分の表現を公表できる環境があったら好いなと思っていた。
 要するに「プロになるかならないか」といった選択肢でなく、それまでのように親しい人にカセットテープやワープロ出力した紙の束を渡すよりも広い手段がないものかって。

 5年ほど前に自分のサイトを立ち上げてもらう時、真っ先に思いついたのは「メキシコ旅情」だった。それまで友人に読んでもらっていた自家本を、更にネット向けに手直しした。
 同時に「台湾日記(ブログ移行時に「台湾の7日間」に改題)も、旅行時の日記から書き起こしながら更新していった。
 そしてテキストのコーナーがこのブログに移行され、旅日記よりも後回しにされながら続けてきた「空想百景」も、ついに100回目の更新が近付いてきている。
 いつだか(これが終わったら、その後どうしよう?)と考えていて、ふと気が付いた。
 すべて過去形だったのだと。

 少なくともいくつかの話のネタと、この「空想百景」の基本的なコンセプトを書き留めていたメモは、ホームページという形態すら知らない時点から生まれている。
 つまり、自分のサイトもブログも、すべて10年以上前の表現物だったのだ。

 そして「ここ10年」とは、過去の願いを叶える時間だったのかもしれない・・・なんて思ったりもする。
 10年前までの自分が表現したことや、表現したかったことに一段落つける時が来た訳だ。
 20代の自分に対する落とし前、だったのかもしれない。

 ところで今、僕は髪を伸ばしている。
 とりあえずは自分史上で最長、といえるまで達した。
 こんなのは後付けの理由だけれども、ある意味で新たな自分を象徴している気もする。

平成20年3月4日
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2007年10月18日

96*そして誰かが途方に暮れる

 世の中に「女性専用車両」というのが登場して、しばらく経ちましたな。
 あれって、障害者も乗れるのだそうだ。でも僕だけじゃなくて、やはり世間でも認知度は低いようで。
 特に外見で障害を持っているか分かりにくい男性は、車内で白眼視されたり詰問されるみたい。

 思えば障害者用のトイレや駐車場だって、四肢に不自由がなくても何らかの障害で止むを得ない事情は起こり得るんですよね。
 電車で優先席に座っていた妊婦が怒られたとか、エレベーターで右麻痺の人を支えていたら後ろから「右側通行だ」とどやされた・・・といった勘違い話も。
 なるほど、駅のエレベーターに群がる人々を(横着者め)と決め込んでいた自分も同じ穴の狢であります。あれだって健常者とは限らなかったのだなぁ?

 障害者が、健常者に分かりやすい障害者でいなければならない・・・としたらですよ。その方が、考えてみれば怖い。
 そういう意味でも、見た目ってのが大事な社会なんだよなー。
 というか、こう考えたりしちゃう自分の「余裕のなさ」に問題の根っこがあるのか・・・。

 ちなみに軽々しく「障害者」という表現を用いて不快に思われる方がいたら失礼、ただ僕は腫れ物に触るみたいな語感は避けたいと思っているだけで他意はありません。
 そういえば僕は「インディアン」を「ネイティブ・アメリカン」とは言わないし、インドの「ヒジュラ」を「聖なる手」とも呼んでませんな。
 それもまた、どちらで呼んでも傷つく人はいるのだと思ったからなのです。まぁ気持ちの上でね、活字では伝わらないので念のため。

 また話は違うんですけど、たとえば晴れた日に腕を布で覆っている女性。
 てっきり(美白と紫外線対策の過剰反応ね)とばかり思っていたんですよ、もちろん他人の勝手ですけどね。まぁ(モテない女性の男嫌い)と同レベルの貴婦人気取りに見ていたんです。

 でも母にそう言ったら、意外な話を聞きました。
 ホルモン治療を受けている人は、肌が過剰に反応しやすいので「日焼けと虫刺されに注意しないといけない」のだそうです(甲状腺の治療だったか、専門的な部分は忘れましたが)。
 なので母は、僕とは違って(ホルモン治療を受けている女性がこんなに増えてる)と思っていたそうで。
 他人の事情とは、計り知れないものなのですなぁ。

 世間では様々な問題が取り沙汰されていて、でも時々ヒヤッとするんです。いや別に後ろめたいからでなくてね、正論の切れ味とは恐ろしいものだと思って・・・。
 そもそも本来は「裏なコト」が(生活の裏ワザ)とか(渋滞の裏みち)なんて、処世の知恵みたくまかり通っているのと表裏一体な気もするんですけどね。
 だからって抜け穴をなくすように緻密な罰則を決めるとか、分厚い契約書みたいな方向性にも薄気味の悪さを感じるし。それが却って、明文化されていなければ都合よく解釈しても何らはばかる事ない構造を肯定してるみたいだし。

 ところで水泳のフォームって、自分が思ってるよりも情けないんですよねー。
 小学生の頃、指導員の泳ぎを見ていて(ゆっくり泳ぐと速いんだ)という大発見をしたんです。無論とんでもない勘違いなのですが。
 それをクラス対抗リレーで実践してしまいましてね、息継ぎの合間に聞こえる大歓声!・・・と思ったのは大差で敗れたブーイングの嵐でした。
 その夏休みは特訓を受ける羽目になりましたが、最後はコーチにほめらるまで上達したんです。
 で、その10年後。その間に泳法は大きく進化していて、プール監視員になった僕は先輩から「お風呂のオモチャだ」と失笑を浴びたのでした。

 たとえば、どこかのブログに書き込みする時。しごく真っ当に思える意見に、嬉しさのあまり激しく賛同するコメントを送信しかけてヒヤッとするんです。
 猛省を促す、配慮を求める、あるいは自重せよ・・・なぁ〜んてコトは言いませんけど。なんというか、妙に空々しくて聖人君子めいた自分の言葉にね。
 たとい(その件に関しては潔白である)としても、だから強気に出るってのは違うかって気がしたんですよ。
 まるで自分が常にベストの状態みたいな、苛々してたりボーッとして間違える事がないみたいな語感に。
 メディアが掲げる(市民の声)の中にも、同じ怖さを感じてしまう時があるんです。
 謙虚さを口にしながら、一向にそれが身に付かない僕なのですが。

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平成19年10月10日


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2007年09月01日

95*未熟の美学

 もう夏もオシマイですなー、いやぁ今年は暑かった!
・・・って、まだまだ暑いでしょうけど、蝉だってカナカナ言ってるしヒマワリだって下向いちゃってますから。
 なにより我が家でも「今日で今年のスイカは終わり!」と宣言されちゃいましたからねぇ。

 僕は果物全般が大の好物で、夏といえばスイカなしには越せません。そして比較的、果物全般において完熟よりも少し未熟な方が好きなんです。
 だから洋ナシみたいに(時間をおいて充分に熟してからが美味い)なんてのは、ちょっと困る。買ってきたそばからガブリと食らいつくような、何の支度も要らないカジュアルさがまた好ましいのです。

 たとえばバナナですと、いわゆるスイート・スポットが浮き出した甘いのは苦手でして。むしろ皮の表面が青味がかって実が締まった、そんな野趣のある風味が堪らないのです。
 でもバナナは本来、皮が黒みを帯びて実も柔らかくトロトロになって食すものだったそうですな。「バナナの皮で滑って転ぶ」には、それ位じゃないとダメらしい。

 ところでこの夏は、あちこちでヒマワリを見かけました。
 公園や道端に、いつからこんなに植わっているようになったのかって感じで。こういうのも流行り廃りですかね?
 それになんだか花が小ぶりになった気がするのも流行なのでしょうか。子供の時分と比べれば、すっかり目線だって違うんでしょうけど、それを差し引いても昔とは品種が違う気がするんです。花屋でだって切花として扱えるようになってますし・・・。

 そしたら先日、自分の中で思い描いていたまんまのヒマワリを見ました。
 草とは思えない太い茎が空高く伸びて、その先に黒々と種が詰まった大きな顔をもたげてね。子供心に、初めて植物のグロテスクさを感じた、そんなヒマワリでしたよ。
 毛羽立って肉厚な怪物じみた葉、花弁の中心にみっしりと凝集された昆虫のような種の頭!
 草花というには可憐さのかけらもない、近くで見上げるほどに怖気を感じるようなね。
 おもちゃの刀を振り回すと太い茎が容易く折れて、大きな黒い顔が覆い被さるように落ちてきた思い出。午後の日差しでしおれかけた夏草の上に、埃っぽい草の汁の匂いと生温かい湿気を巻き上げて・・・。
 そんな格闘と放心の記憶がよみがえりまして、すると小さいヒマワリが何故か気の毒に思えたりもしたんです。

 思えば小ヒマワリの増加は、割と近所の再開発エリアに目立っていたような気もします。
 戦後の復興から、地味ながら自然な曲線で伸びてきた営みを思わせる一帯だったんですけどね。バブル期に途中で投げ出され、それが近頃(夢よ再び)って感じで盛り返しまして。
 道幅は広いし街路樹も茂って、あちこちの公園に若い親子がいて。それこそ流行のドラマに出てきそうな、洒落た高層マンション街なんです。
 こういう(統一感のある景観)ってのは、こうやって根こそぎひっくり返してドカンと造らないと出来ませんね。実際、美しいと思うし心も安らぐ訳です。
 ハバナの街並みを眺めた時も、僕は同じように思ったんです。
 コロニアル、というのは(かつて計画的に建設されたという意味なんだよなぁ)って。その美しさは人為的な上にあるのだなぁって。

 そういえば湾岸の方には、もっと景観の美しい町があるんですよ。200万以下の車と40歳以上の人間がいない、ヨーロッパの石畳ごと移築したような町が! あれだけ徹底して造られると、歩いてるだけで観光気分になっちゃいます。
 まぁいくら美しく造られた町でも、世代交代と共に変わってゆく筈なんですよね。見えないところにゴミくずが捨てられたりスプレーで落書きされたり、というような何かがなかったら怖いなとも思うんです。
 というのも、ハバナの街の美しさには(人の営みが街の作為性を呑み込んでしまったからではないか)と感じられたからなんです。当時のまま清潔に手付かずに管理保存されても、やっぱり世界遺産には登録されたのでしょうけどね。

 子供の頃、美術の授業で「調和の取れた構図」や「遠近法」といった言葉を習いました。絵の描き方で、安定感や美しさを感じさせる視覚効果の技法です。
 でもそれを表面に出しすぎると、かえって野暮ったいというか妙な不自然さを覚えてしまう・・・。そんな感じと似たような、あんまり出来すぎた無味無臭さというのも物足りないよぁってね。
 こればかりは、誰かが一気にドカンと造り出せるものではないと思うんです。

平成19年8月31日
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2007年08月23日

94*写メれなくもない

 時と場所を選ばない、まさにケータイはユビキタス。
 でも、それで却って(出来るけどしない)とか葛藤しそう・・・って今更な話です。
 分かりやすくいえば飲食店や電車の中など、手持ち無沙汰な一瞬にふと思い立ったりした時ね。その用件と自分の置かれた状況を秤にかけるような、ケータイのポテンシャルが高まるほど(してはいけないけど、出来なくはない)という時と場所が普遍化してゆく気がして。

 たとえばゲーム機能やワンセグTVなどで、目の前の今が退けられてしまう瞬間。
 僕もゲームは好きで、家にいて時間があるとついゲームをやってしまう手合いなの。自室での優先順位が変わっちゃうゲーム機能、それが僕のケータイに付けてたら困った事になるね。
 仮に恋人とデートしてても、少しでも中だるみした瞬間に思わずゲームの事を考えてしまうとか。そんなユビキタスな葛藤で、してはいけない時と場所で悶々とするかも・・・?

 電車に乗っていたりして、隣の空席にどかんと座り込んでゲームを始める勤め人。
 すぐ脇の他人が見えないし、ぶつかろうが関係ない。移動時間めいっぱいゲームに浸る、その快感だけで脳みそが痺れているみたい。
 ロールプレイング系のゲームには、いわゆる「フラグ立て」という段取りがあるのね。順序が絡み合っている部分は一気に進めないと、それこそ(たかがゲーム)がストレスになりそう。

 ケータイの機能で、たまに違和感あるのはカメラ機能だな。
 気にしすぎなんだろうけどさ、どうも(こういうものだ)として育ってきたから、いきなりケータイを突きつけられると心外に思っちゃう。
 いうまでもなく、僕が育つ過程にはケータイなんて存在しなかった。だからかな、たとえ知人であろうとなかろうと(いやむしろ他人であれば尚更)カメラを向ける時は遠慮会釈があったものだ。それが「すいません」と苦笑のような照れ笑いのようなポーズであったり、目礼であってもね。
 大昔の迷信じみた「箱に命を吸い取られる」といった意味でなく、不用意にカメラを向けない無意識の了解があったのだと思う。

 でも今は、断りなしに写真を撮ることは常識(多数派)な訳で。
 直前まで親しく言葉を交わしていた人も、急に真顔でケータイを構えだす。
 フレーム越しに僕を見ている筈が、まるで取るに足らない石ころでも見ているような表情で。
 たとえば電話で話していても、笑い声の向こう側ではこんな顔してるかもしれないけど。そんなの見せないでよ、その親しさが虚構だったように錯覚するじゃないのさ・・・。

 ましてや赤の他人ともなれば、本当に何のためらいもなく「写メ」る。
 呪文なしで邪心を封じ込めるような、魔物退治でもするような勢いよ。無頓着に突きつけられる金属板、あそこから何かが向けられているのではなかろうか?
 いきなり見知らぬ人から指差されるような、いわれなき非難じみた気味悪さが少しある。

 あれを平気でやってる人たちは、自分がされても気にならないんだろう。そこに年齢の差はなく、だから若者が礼儀知らずといった話じゃないやね。
 それとも「知らない人が笑いながら無言でケータイを突きつけてくる」といった経験がないのだろうか?
 その人数が多いほど、不思議と無邪気に踏みにじられるような気分になるのだけど・・・。

 町中で、ちょっとした事件が起こる。
 それが交通事故であれ、通行人どうしの揉め事であれ、気付いた順に通行人が立ち止まり腕を突き出す。傍若無人な振る舞いが、傍若無人に取り囲まれ、結界で封印される非日常。
 見えないビームが発射され、撮られた側の魂の一部が飛び散ってゆく。ネットに繋いでそれを眺めていると、撮られた方が悪いような気軽ささえ共有してしまう。
 もはや(心の中だけに留めておく)なんて事など、誰にもできない。この世から隠し事がなくなるのは、それほど悪い事でもない気はする。
 けれども。

 食事に出かけてさ、料理が並ぶと一斉にケータイ(あるいはデジカメ)を取り出す。
 いつの間にか「いただきます」よりも当たり前な光景になってるらしいね、自分の家ならば新聞読みながらでも片ヒザ立てても構わないとは思うよ。
 まぁ実際さ、旅の思い出には(いつ何を食べたか)を写真に残すって悪くないアイデアだなって思うのね。
 それにしても、何をするにも先ずケータイ(あるいはデジカメ)だもんなー。
 ユビキタスな葛藤なんて、気にする必要もなさそうだ。

平成19年6月18日
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2007年04月04日

93*心証風景

 某ケータイのCMで、ちょっと気になってたんだよね。中年男性の客に操作を教えて、上手く出来たって喜んで手を叩く女性従業員にさ。まぁ見てないと分からないだろうけど、なんかおかしいのよ。

ku93.JPG いや取り立てて言うほどじゃないの、まぁフレンドリーで気さくな店員ですよって演出でしょ? 目上の、しかも客に向かってする事じゃないんだけどねぇ。これって幼稚なのか、さもなきゃ客を見下してる態度よ。

 こんな野暮を承知で書くのは、この微かな違和感を共有しようと思ってね。そりゃあ実際に目の前でやられたって、僕だって気にしやしないさ。
 ただ(何が気に入らないんだか)って思ったりしてる人がいたら、こういう見方も覚えておいて損はないよ。これは多分、外国に行っても同じだからさ。客商売だとか、目上の他人に対しては小さな無作法だって事はね。怒られやしないにしても、心証は違ってくるから。

 車を運転する機会が、このところ増えたのよ。僕のじゃないけど小っちゃい子供を乗せて走るからさ、より安全運転になってきたのね。発進や加速、ブレーキングや曲がり角の操作には一段と気を遣うようになったなー。ある意味、初心者みたいに丁寧っていう感じ。
 そうして気が付いたんだけど、歩行者や自転車とは車の目線って別次元だなぁって事ね。こうして言葉にすると当たり前すぎて、具体例でも挙げないとニュアンスが伝わらないか・・・。でも細かいコトは、長くなっちゃうから割愛。免許更新のパンフレットみたいな話じゃなくてね。

 たとえば自転車で、夜中にライト点けないで走ってたりするでしょ。そんなに真っ暗でもないし、別に問題ないじゃんって思う訳だ。歩行者の鼻先を横切る時でも、物理的に接触しなければセーフっていうね。相手がどう感じるか、じゃなくて自分が危険かどうか考えて。
 それは歩行者でも同じでね、車がバックしようとしてもパッと駆け出すのよ。信号を渡ってる歩行者の前で曲がってくる車も少なくない。それぞれが、それぞれの速度の中で別の世界を認識してる・・・そんな感じって分かるかなぁ〜?

 無意識にだけど、自分が属している世界というか物の見方があるんだよね。運転中、通勤中、デート中などなど、時間とか場所で世界は変わるのだけど。他の世界に属していた時に見えていた認識は消えて、それぞれ今いる世界の判断基準だけしかないの。
 更に大袈裟な言葉を使っちゃうと、異種間コミュニケーションの不在、そして潜在的な緊張。そこには人がいる事を、物理的な意味だけではなく受け容れてゆけるのだろうか!?・・・ なんちゃって。

 オッサンが慣れないケータイを上手く操作できた、嬉しくて手を叩く・・・。個別に捉えると、何の違和感もない。そういう点では「学校教育に保護者からの視点を提案する」というのも、同じ意味で間違っていない。
「経済至上主義の国で、市場原理をコモンセンスと同義に扱う」というのも、同じ意味で間違っていない訳だ。小さな正論を積み上げても、大きな正論になるかは別っていうね。

 ところで。某県の元タレント知事、失言報道というのがありましたなー。今話題になってる抗インフルエンザ薬、タミフルを服用してるから、異常な行動や発言をするかもしれないと。それに対してケチがついて、どこから出たのか「不適切だ」の声が上がって陳謝に至るという展開。
 退屈な冗談に退屈な発想、この発想というのは「不適切だ」と言っちゃう安易さね。一頃流行った「猛省を促す」ばりにチープでしょ、まぁ(会見に相応しくない前フリでけしからん)と感じるのは自由なんだけどさ。
 今後「不適切」と発言する人は、どこの誰なのか分かるようにしてほしいなぁ。だってもしもよ、自分が投票しようと思ってる都議選の立候補者だったら別の人に変えたいし(笑)。まぁ石原氏だったら言いそうにもないけどね、そんな野党根性なしって丸分かりな性格は好きだな。

 それよりタミフルね、あれの国内導入が解禁になる頃って副作用が言われてなかったっけ? その辺の事は新聞で読んだ位しか知らなかったけど、医者が「風邪薬じゃない」と言っるのに「熱出た=タミフルくれ」みたいな患者は結構いたもんなー。
 それに何でもタミフルってさ、高熱が出れば意識が朦朧としたり言動が正常でなくなるじゃん? そんな個々の状況を十把一絡げに喝破できる筈がないし、いろんな顛末がどうなっていくのかと思いつつ自分の襟だけ気を付けよう。いや個人主義って意味じゃなくね。

平成19年04月03日


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2007年01月24日

92*よくよくごうごう

 この1ヶ月ほど集中してパソコンに向かっている訳なんですけどね、まぁ時々は息抜きにネット見たりもしてるんですが。半月ほど前に、ちょっとフリゲーというので遊んでまして。

 まぁ無料でダウンロードできるゲームですな、前からたまに遊んでたゲームなんですがね。まずは冒険者という設定のキャラクターを作るんです。好きな名前を決めて、絵柄と性格を選んで組み合わせるようになってるんですね。
 そこで力押しでいくのか頭脳プレーでいくのか、そういった能力値のパターンがある訳なんですが・・・。実は、本来なら一長一短ある能力が完璧に備わったキャラを作る方法があったんです。

 それには冒険者を育ててから引退させて、次世代キャラに能力を引き継がせて、って4世代も繰り返して生まれるんですけどね。そこは裏で調節できたりもして、2世代目の天才君たちまではトントン拍子。だけど3世代目の英雄君となると、祖父母に当たる初代キャラの影響で複雑になってくる。最終世代となれば、尚更ですわな。
 かくしてネズミのように増えた孫達を、総当たり戦で子作りに励ませたんです。それこそ3日3晩・・・とは大袈裟ですがね、本当に一気呵成の勢いで。じゃないと組み合わせ順がこんがらがっちゃうからなんですが、もう英雄君あたりから名前なんて記号でしたよ。両親の組み合わせで「1a」とかね、後から変更が利くから顔も初期設定のまま。

 ですけど、さすがに切なくなってきちゃいましたよ。望んだ能力者でないと、生まれた途端に削除です。ただでさえ誰が誰やら分からない有様ですからね、それに必要なのは最高能力の神仙君だけですから。なんて、自分で言い訳しながらのキャラ作成ですよ。本来は子作りゲームじゃないってのに、ねえ?
 もう気分はクローン実験してる科学者か、しきたりに囚われた村長の心境です。すべては最終世代のため、それだけ考えて他の感情を持たないようにして・・・。で、ようやく男女2組の神仙君が誕生しました。それから増えすぎた中間世代の抹消作業ですよ、やっと一段落したらもう冒険なんて気分じゃなくなりましたね。

 なんか、波乱万丈の冒険前に重厚な血族のドラマを堪能しちゃった感じ。海外受精まで考える人の気持ちが、やっと分かったような・・・とまで言うのは欺瞞というものですけど。それでもね、本当に様々な事を考えさせられた気がするんですよ。たとえパソコン上の電気的情報でも命を感じましたし、役割というか共同体の中で生まれる価値とかも。
 人間は、人間の事を思ったり動いたりするだけで充分だというかね。いや実際、それしか出来ないんだろうなって。それが時には全体のために個を犠牲にしたり、個を尊重して全体を機能不全にしたりしながらも。

 ところで話は変わりまして、最近は音楽や映像なんかでも簡単に取り込めてしまうんですな。自分のパソコンに、ダウンロードいうやつで。しかもサンプル品とはいうものの、いくらでも無料で手に入っちゃう。しかも物体のように、目に見えて家じゅうが狭くなるなんて心配もない。結構な話ですなー。
 しかし気が付けば、興味本位で取り込んだデータが無秩序に散乱してまして。思い付いたように大掃除にかかるんですが、思わぬ所に思いがけないものが入ってたりしてね。その時々によって一応は取り込み場所を決めてたつもりなんですが、また一々開けて確かめなきゃいけないのも厄介で。

 最近は音楽や映像などは取り込めないよう、ストリーミングという形式だったりもしますがね。これが妙なもので、取り込めないのを手元に置きたくなったりしてくる訳なんです。するとまた上手くできてるといいますか、やっぱり誰かがストリーミングだろうが取り込める仕組みを作っておいてくれたりするんですよね。
 それで減らした端から新しい取り込みものが溜まってしまう、でもよく見てみりゃ、何度も見聞きするほどのデータなんて滅多にない。それじゃあスッパリ捨てちまおうかってなると、やっぱ惜しい気もしてね。あーまったく執着というのは消したそばから伸びてくるもんですなぁ。
 そもそも取り込めなくしてあるんだから、取り込む方がどうかしてるんですよね。出来ると思ったらやらずにいられない、これは業なのでしょうかねー。先の子作りゲームもそうですし、まぁ○ィニー問題にしても・・・。
 あ、僕はそこまでしてませんけども。

平成19年1月24日
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2007年01月05日

91*半身浴、という生き方

 ぬるま湯って、たびたび自堕落でメリハリのない暮らしの喩えにされるでしょ。でも実際、ぬるい風呂ならではの心地よさって堪らないんだよね〜。
 ただ一旦ぬるま湯に浸かると(出た時に周囲の空気が冷たいと風邪引くかもしれない)とか思っちゃって、腰が重くなって機を逸するって事もあるわなぁ。

 そこで思いついたのが「半身浴、という生き方」ですよ。要は全身どっぷり浸からずにハーフ&ハーフ・・・って単なる折衷案だから、既に考えた方もいらっしゃるでしょうがね。
 ぬるま湯は下半分だけでも、じわじわと上半分が汗かいてくる。これが半身浴おどろきパワー、ぬるいのに血の巡りが良くなっちまうなんて大したモンだね! まぁ現実には、どっぷり浸かりたくなる気持ちとの葛藤も起こりそうだけど?

 ところで、ケータイで大声で話す人。いまだに結構いますなー、それも(今その場所で・・・?)っていうような。
「いい年して、なんて無粋なんだろう!」
 そんなふうに腹の底では思ってたんだよね、まぁ言いやしないけどさ。だけど、ふと(あれって英語を話してる時の自分じゃないか)って思ったりして。
 お恥ずかしい話、なぜだか僕って英語だと知らず知らずに声が大きくなってるんだよね。まぁ一応は話せるんだけど、本当は全然通じてないかもしれないってレベルなもんで。焦っちゃうんだか、なーんかチカラ入れ過ぎちゃう事ってのがあるのよ。

 とにかく単語と基本文だけで勝負してるからさ、相手の言ってる事なんて手加減なしだと分かんないし。ただね、そこで(分かんない!)ってビビッたら終わりなの。受身になったらダメ、切り返していかないと。考え込んじゃって、そこに言葉を重ねられちまうと火だるま状態だから。
 分からないければすぐ聞き返す、でなければ話の流れで分かる事にして聞き流す。大概は旅先で困った状況を打開するための英語だからさ、こっちが会話のイニシアチブを取ってないと相手に振り回される・・・っていう考え方が、僕の英語会話の基本なんだよ。
 そうして喋ってると、いつの間にか声の調子が跳ね上がっちゃう訳。

 以前、海外便の機内でフライトアテンダントと向かい合わせの席になってさ。その中国系の男性は流暢な英語で話しかけてきたんだけど、少し訛りがあって聞き取りづらかったのね。僕も日本語訛りがあるし英語なんて久々だったし、それで気が付けば機内がシーンとしちゃってて・・・。
(話さなきゃ)って夢中になり過ぎてたんだわなー、相手が少し引いちゃってるのも見えなくなってて。他愛ない話だった筈なのに関係ない事まで熱く語ってさ、思い出すだけで顔から火が出るおもいだよ。

 まぁそこまで周りが目に入らなくなってる訳でもないんだろうけど、大声でケータイ使ってる人の心境も実は相当テンパッてるのかもなぁ〜ってね。

 最近TVで、老若サラリーマンの掛け合いやってる缶コーヒーのCM観てさ。朝礼の最中にケータイが鳴り出したのに、老サラリーマンが(出たらマズイ)って切ろうとしないシチュエーションなのね。それ観てた父親が大笑いして「あれは分かる」と言ったの。
(電話が鳴ってて出ないのも失礼だけど、上役の訓示中に電話に出るのはマズイし・・・)って内心アタフタしてる心理が、父親には他人事じゃなかったんだろう。マナーモードも理解できてない時期だってあったからなぁ、ちょっと身につまされる感じがツボだったみたい。
 それって、つまり誰でもが同じように(状況次第で、速攻で切って後から掛け直せば?)って考える訳じゃないって事なんだよね。

 シルバー・シートや病院で鳴り響く変な着メロ、そして少し怒ったような行き場のないような顔して大声で話し始める見知らぬオジサンの胸中は分からないけどさ。まさか本気で(オレはオマエらと違って、ビッグな取引いくつも抱えて忙しいんだぜ)とか思っちゃってたら、それは別の風呂にどっぷり浸かっちゃってる感じかも。
 僕が大声で英語スピーキングしちゃってる時も、周囲に(俺ぁ英語バリバリなんだぜぃ)と意気がってるように見られてたかもしんないしなぁ。

 もう本人的にはキャパ限界の白目寸前で、自分の暴走も止められなくて居たたまれない心境でもね。
 ああいう状況って、ぬるま湯っていうよりは釜茹でかな? それよりも、うっかり焼けた靴を履いちゃった感じかも。

 あれ、ちっとも「半身浴、という生き方」じゃないじゃん・・・!

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平成19年1月5日


posted by tomsec at 13:54 | TrackBack(0) |  空想百景<91〜100> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする