2005年02月15日

70*毒を制するルール

 腰痛で痛み止めを処方してもらった時の事。
 錠剤2錠に散薬1包、この粉のほうが胃の薬だった。痛み止めを飲むと胃が荒れるから、という訳だ。だから何だと思うかもしれないけど、僕には引っ掛かったのね。(腰痛の薬で胃を悪くする、それって何なの?)って。
 飲まないに越した事はない、しかし腰の痛みとは時に耐え難いものだ。体に良くない、そう分かってはいても早く楽になりたくなる。苦しみから逃れるため、新たな苦しみの種を蒔くとしても…。

 上流にダムを作らなければならない、とするよ。
 それで干潟が涸れるとしても、干潟の魚貝で生計を立ててる人に補償をしたり、適当な場所に人工干潟を造成するとかしてまでダムの必要性に固執する。なぜなら上流にダムを作りたい人にとっては、新たに発生する問題なんて眼中ないから。
 そしてダム作りは上流の子供だけで決めた事で、下流の子供は蚊帳の外なの。他人の損得まで考えてたら、自分達の旨みが減るってね。
 そういう物の考え方と、自分が自分の体にしてる事とは何か似てる気がする。上流の子も下流の子も自分自身なのにね、大事にしてるようで実は粗末に扱ってる。

 実際は、余計な薬を飲むのに抵抗があって、痛み止めだけ服用してたんだわ。僕は胃弱体質なのに、それでも胃薬なしで平気だったのよ。つまりこの胃薬は、ごく稀にいる極めて胃弱な人の為に処方されていたのだろう。なんという無駄!
 でもまぁ、自分が処方する側でも同じように胃薬は出すわな。それより気になったのは(腰痛を抑える副作用が胃に来て、それを抑えると次の副作用はどこに行くのか?)って事。痛みのタライ回し程度の話なのかねコレは?
 もしもそうやって痛みのツケを溜め込んだら、いつか体が思いがけない支払い方をするのだろうか。年金問題みたいに?
 ちょっと関係ない気もするけどさ、でもやっぱ似てると思うよ。貰わなきゃ損とかいう発想って、これからの世代の事なんて考えてないもんね。自分たちが本来負うべき責任と痛みを、子供や孫に押し付けようってんだから…。今の年寄りは昔の年寄りと違うじゃん、こういうのも戦争の後遺症なのかねぇ。
 大人として情けないよ、ここで一旦チャラにしてフェアな仕組みを残そうぜ? 年金制度の仕組みなんてさ、小学校の社会科で習った人口ピラミッドの知識で分かるじゃん。つまり最初から破綻するのが目に見えてたのに、土壇場まで放っておいて今更「払い損」なんて言わせないっての。

 ひょっとしたら、病気ってのは体の毒だしなのかもしれないなぁ。
 たとえば熱が出ても、最近じゃ医者も無闇に薬を使わない方向になってきてるんだってね。熱が出るのは、体が治ろうとする自然の作用だから。むしろ今までは、苦痛を回避する事が優先されていたんだよなぁ。患者が「痛い」と言えば、とりあえず痛み止めを処方しちゃうような。とりあえず、って居酒屋かっての。
 その半分は医者にとって責任回避のポーズで、残り半分は患者の「自己責任」不足だと思うんだ。大体(他人にどうにかしてもらって当然)なんて間違いでしょ、医者なんて単なるアドバイザーかインストラクターなのに崇め奉るし。シャーマンならともかく…。
 病気は心の悪循環から引き起こされるから、苦痛に共感する優しさで緩和されたりもするんだろうけどね。なーんて考えを根拠もないのに口にすると反感を買うかな、でもそんなの(何を信じるか)だけの話だからねぇ。
 アメリカの一部では、今も「神が7日間で世界を創成した」と信じられてるらしいよ。学校の授業で、そう学ぶ権利だかが認められてるとか? でも何を信じるかは自由なんだもん、科学とかデータを鵜呑みにするのも根本的には一緒なのよ。宗教と。
 僕にとってタバコ自体は害じゃないし、電磁波は有害なのね。結果がどうだと言われても、本当に確かだと信じられるのは、唯一(僕が思っている)という想いだけなんだから。正義とか悪を信じるのも、それぞれの自由だし。
 みんな自分のルールを持っている、その最大公約数が常識ってやつだろう。そいつもまた、よくよく見れば個々の幻想なんだけど。

平成17年2月10日ku70.jpg


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2005年02月10日

69*昔ながらの

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 僕は案外と食べ物に執着しないほうだけど、なぜかラーメンだけは決まった店に行く。
 いわゆるコッテリ系で、20代の頃は週に一度は食べていた気がする。僕らが「道場」と呼んでいたスタジオの近くにあって、バンド練習の帰りに必ず寄っていたのだ。日本を1カ月位離れた時、このラーメンが風呂や和食よりも恋しかった。
 30代を過ぎてからは、月1ペースに落としている。食べ終わった直後は胃が重くなって、何だか具合が悪くなった感じがするし。だけど風邪を引いたと思ったら、真っ先に食べに行くのだ。
 割と人それぞれ自己流の、風邪の治し方ってあるんじゃないかなぁ。僕の場合、ここのミソネギチャーシュー(+おろしニンニク&豆板醤)が引き始めに効くのだ。さらに熱い風呂に浸かって、布団で大汗かいて寝れば治る。一種の民間信仰かもね。
 まぁそんな訳で、風邪薬の代わりに今年初ラーメンを食べに浅草まで出た。なに、チャリで15分だ。
 コンクリの床が油まみれになっているようなラーメン屋ってのは、どこも独自のやり方を持っているよね。口頭注文の後払いだったり、食券の先渡しだったりさ。言葉にしてみれば大した事じゃないけど、実際その店によって決まりが違うから、初めてだと戸惑ってしまうもんだ。
 その日は馴染みじゃない客が多かった様子で、ことごとく客と店員のやり取りがギクシャクしててね。ここの店員は(常連基準の客あしらいだな)って思ったんだ、決め事を分かってる前提で接客してるって。つまりファミレス応接の対極だな。
 でもラーメン屋の、店ごとのルールって(常連が作るんだなー)って気がしたのよ。店が最初から決めてるんじゃなく、馴染みの客が店の雰囲気を出してゆくのね。店員の無駄のない手順を磨いてるのは、大多数の客の動きなんだわ。だから、その手順を破綻させる客が来ると微妙に間が合わない。
 大抵のラーメン屋は「味で勝負」って感じで、売り物以外のサービスは省略傾向だからね。この店に関しては、接客サービスを向上させる方針に転換したような印象もあるけど。スープも万人受けする味になってきたし、お冷や&おしぼりもセルフじゃなくなったし。
 だからって悪い筈がないんだけど、何か詰まらなくなってきた感じがするんだ。とはいえ、僕は常連を気取るほど執着してないので。ただ、門外漢に丁寧すぎる過剰サービスって鼻に付くんだよなぁ。電車とかのアナウンスにしても、分からない人間に気を遣いすぎだよ。消費者の意見なんて、真に受けてたら「イワンのば〇」になっちゃうぜ?
 自分が他所者の立ち位置だと、そりゃあ便利だし楽だよ。でも方向性が違うと思う。

 ラーメン食って胃を重たくして、またちょっと具合悪くなってチャリで帰る途中(そういえばプラモ屋があったな)と思い出したの。で、久々に寄ってみたら「閉店につき特売」の貼り紙でさ。いつも婆さん2人が店番してたもんな、こんな日が来ると思ってはいたが…。
 ホコリと一緒に山積みだった棚が、あらかた売り切れて空っぽでさ。何も買わずに帰るのも気が引けて、ガンプラのカタログでも買おうと思ったら婆さんが「あげるよ、お金を払ったら忘れちゃうからね」って。
 これを見るたび、この店のオバチャンを思い出してくれれば…。なんて殊勝な事を言われて素直に貰ったが、僕は知っているんだ。客が帰ると、買おうが買うまいが婆2人で悪態付き合うのを。大体、非売品の販促カタログに値段なんてないじゃんか。
 きっと今頃「ナァニが『今までお世話になりました』だよ、たまに来たぐらいでサ!」ぐらいは平気な顔で言っているだろう、その元気があれば店を畳んでも長生きするわな。
 だけど、あの駄菓子屋みたいな店じゃないと、ガンプラ買う気になれないんだ。

平成17年2月10日ku69-2.jpg


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2005年02月04日

68*買えなかった欲しい物

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 はや正月も過ぎ去り、今年も(お年玉を遣る機会がなかったナ)と思う。親戚や友人の子供にも会わなかったし、上の妹の子供にはまだ早い。僕の小父さん的人生は、まだこれからだ。
 僕が子供の時分は、焦れったい正月だったな。貰っても、3が日中は店が閉まってて。やっとオモチャ屋さんに行ったはいいが、欲しかった物を買うには足りなくてガッカリしたりね。そういう思い出も、最近では貴重かもしれない。正月だというのに開けている店の多いこと、有り難みがないっていうか。一年中、街の空気に変化がないのね。

 買えなかった欲しい物といえば、レッドウィングのアイリッシュセッターにフライトジャケットのMA−1。アメカジ全盛期に20そこそこだった僕にとって、それは勇気が要る買い物だったんだよ。何故あの頃に買わなかったのか?…なんて後悔はしてない、時期が来れば手にするだろうからね。
 もっともブーツの方は、今の僕には買えない額でもない。それでも少しためらっちゃうのは、きっとまだその時期じゃないせいなんだろう。MA−1は、ますます値上がりしちゃったから…。現行品と違って、すごくゴワゴワしていて重たいんだよねー。

 ところで中学の時、なぜか周りは僕以外みんなスタジャンを着てた。その時は欲しくなかったのよ、流行への反発とか子供っぽく見えるからって。でも大人になって、ふらりと寄った店で目にした途端、当時の僕が自分自身を欺いていた事に気付いたの。自分だって着たかったのに、もっともらしい理由つけて我慢してただけだったのね。
 で、僕はその店でスタジャンを買った訳。春先に売れ残ってた最後の1着で、上質で割安だった。もう冬物はしまい込む季節だったけどね、それでも僕は大いに満足で、袖を通すと中学生の自分に戻った気がしたなぁ。
 大人になった自分の内側で、当時の自分が喜んでいる…そんな感じが嬉しかった。

 話は変わるけど、何年か前からレトロ玩具の復刻品が目に付くようになったね。ソフビ人形とか超合金といった代物を買ってゆく人は、きっと僕にとってのスタジャンと同じ思い入れを持っているんだろう。
 しかしながら、なんで台湾の地方都市にまで出回っているんだ? その手の専門店(というか、正確には日本のアニメ&特撮のフィギュア全般を扱っていた)に日本でもマイナーで古い番組の商品が置かれているのを見て、首を傾げてしまった。
 ひょっとしたら台湾で何年か遅れて放映されたりして、それを懐かしいと感じる世代が多かったりするのか。でなけりゃ、それを知らない最近の世代にとっては逆に新鮮味があるのかもなぁ。
 これも今じゃ昔の話になるけどさ、一時期、古いアニメ&特撮のSFが如何に有り得ないかを書いた本が売れたんだよ。要するに、怪獣とかロボットのデータを真に受けて検証する内容の。
 僕も笑って読んだ側なんだけど、子供の世界に大人が干渉しちゃったような気もしないでもないなぁ。だって、そういう本が売れてから子供向け番組が不自由になっちゃった気がして。大人気ない検証に耐え得る程度には、破綻が減ってしまったような。
 でなけりゃ破天荒で荒唐無稽で奇想天外な世界が不人気なのかなぁ…。とか言って実際に観た訳じゃないんだけどね。
 沢山のルールや法則を意識して作られるSFより、古い作品のデタラメな世界には希望とかロマンがある気はするんだ。…なーんてさ、こういった話は何も今更なんだろう。僕が思いつく以前に、どこかできっと同じように気が付いた人がいる筈だから。
 僕にとっては新しい発見でも、他の誰かは過去に経験済みだったりね。まぁ所詮は人間の発想だから、類型化できない新しい何かなどないわな。
 でも、レッドウィングで始めて昔の子供番組で終わる話を書いた人はいないんじゃないかな?
…いたりして。

平成17年2月3日

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2005年01月27日

67*健康である事の傲慢さ

 僕が生まれる年に、エチオピアに国立公園が作られようとしていた。C.W.ニ〇ルさんの目から見た、その現場をエッセイで読んだのね。
 岩盤に薄く積もったような地層だから、残された原生林を伐ってしまったら貴重な固有種も野生動物の生態系も二度と戻らない土地な訳よ。だからこそ国民の共有財産にしてゆこうとするんだけども、それには実際に暮らしている人達に必要性を分かってもらう事から始めなければならなかったそうだ。
 善良で心の暖かな人達ではあるが、貧しさから目先の利益しか見えなかったりする。あるいは「これが先祖代々から我々のやり方なのだ」と、現状を悪化させる事に無頓着なの。もちろん全員じゃないけど、多くの人達がね。
 それから37年が経った今、その計画がどうなったのかは脇に置こう。人の愚かさは、離れて見るほどよく分かる…っていう教訓だよなぁ。そして、ふと(もし同じような事が中国であったとしたら?)と思ったんだ。
 あるいは、すでにそれは現実化しつつあるのかもね。干上がった大河、進行する砂漠化など…一人々々の、善良な人の心ない振る舞いが数億人の規模で何を生むのか? あるいは、何を損なわせるのか。
 僕にとっての中国は、アメリカと大差ないのよ。どっちも自分の目で見てもいないで、イメージだけで言うんだけれど。大国主義って感じ? 文化として好きなところは多い、だけど政治的にはねェ。象の視点で蟻を踏み潰すようで。
 いわば「健康である事の傲慢さ」に似ている…そう思ったりして。

 痛みというのは、喉元過ぎれば忘れちゃうもんだよね。そして他者への共感というか想像力(同情とは違う)もリアルじゃなくなる。何もかも順調で上手くいっている時、それは往々にして陥りがちな傾向じゃないかな。
 いつか自分が挫折して絶望の淵に立ち、その感覚を分かち合えない人から平然と傷に触れられて。じゃなけりゃ眼中にないってな態度を取られた感じがしたりして、そんな時にかつての己の傲慢さを省みるんだよね。
 もちろん、ただ不満を訴え社会を非難するだけの人もいるだろうけどさ。
 どちらにせよ、そこにあるのは「失われた事で気付く何か」なような気がする。
 エチオピアの国立公園は、あと一歩のところで革命に消えたんだ。戦乱の後には一層の貧しさが拡がり、やがては復興の支えとなり資源ともなったろう(そこにしかないもの)は残らなかった訳だ。国立公園に反対していた、貧弱な大地から麦の最後の一粒まで絞り取ろうとする人間は結局、何かを得たのかな?
 それでも歴史は繰り返され、今も似たような(というか同根の)状況が進行してるんだよなぁ。それは文明の発達するパターンが、基本的には自然環境と共生できない流れだからなのかも。
 そういうパターンじゃなくても進展してゆく道はあって、そんな非西洋型に向かった文明は今もある筈。僕らとは異質すぎて見えないだけで…。

 養い切れないほどの国民を抱え、多少の無茶をしてでも経済大国を標榜する。国家の威信を賭けて、破綻する訳にはいかない…。先進国を目指す国なら、いつかは通る道なのかなって気がする。それはそれで、分かる気がするんだわ。
 ただ「健康である」というのは、その(無茶が利く)という思い込みにかかってるんじゃないかな。それはつまり(自分の体だけの問題だ)という考えで、だから周囲を意に介さない。
 でも無茶をする時の心境って、焦りとか意固地に突き動かされてるもんでね。そういった強引な執着心が、すでに「失われた後で気付く何か」を見失わせているっていう。
 もし仮に誰かが己の見失っている加減を教えてくれたとしても、そこで馬耳東風を決め込んじゃうのが「健康である事の傲慢さ」たる所以でもあるのだけど…。
 だからって弱者への大義名分なんぞ担ぎ出したら、それもまた筋が違うじゃん。

平成17年1月27日ku67.jpg

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2005年01月17日

66*新年と苦手の話

 今年は、今頃になって年賀状の返事を出した。昨年も自分からは出さなかったと思うが、それでも返礼がこんなに遅れはしなかった。
 実は今年だって、7日には書き終えていたのだ。しかし「寒中見舞い」と書いてしまったので、仕方なく松の内が明けるまで投函を見合わせていたというお粗末…。つまり時節を気にして、書いた返事を10日も放っておいたのだから我ながら呆れる。
 でも、そういう季節感って大事にしたいよね?…って(まーた心ない言い訳をしてるナ)なんて思われそうだなぁ。それに実際、普通のポストカードを年賀状に使っといて季節感もないか。
 これでも数年前までは毎年、気合を入れて年賀状を描いてたのだ。出す人すべてに手描きで違う絵柄を考えていたので、それこそ松の内を過ぎても仕上がらない年もあった。大晦日の夜中に描き終わって、町中の友達に配達して回った年もあったな。
 特に子供の頃は絵を描くのが好きだったし、大人になってからは絵筆のタッチを忘れないようにと思って欠かした年はなかった。つまり、それだけ僕の身内が健康だっていう証拠でもあるんだなー。そう思うと、有り難さに(初詣で行かなきゃ)って気にもなる。
 そう、今年は未だに初詣でも済ませてないの。別に一人でだって構わないんだが、何だろうな…? なんだか気の抜けたような、良く言えば執着のない心境ですかねェ。
 すれば、旧正月を今年の始まりと思って仕切り直すかな。
「あけおめ、ことよろ!」
…って、なんか例年になく見かけたよなぁ。
 その伝でいうと「昨年中はお世話になりました、本年もご厚意の程を賜りたく…」なーんてのも「さくおせ、ほんごこたま!」ですか?
 こういうのって、気が抜けてるっていうよりも間が抜けてる感じがするんだけど。だからって使いたい人に文句があるんじゃなくて、僕にとって良い語感とは思えないっていうだけの話ね。
 これと似たような感じで、外来語のひらがな表記も苦手なんだよなぁー。
 このサイトが、ある日突然「とむず・せくしょん」になっちまったら、もう更新どころか自分を出入り禁止にするね。しかもパステルカラーとかで。とかいうのも趣味の問題だから、飽くまで僕個人の感じ方としてね。

 ところで、食べ物でいうとラッキョウだけは苦手。あの臭いと歯応え、この世で他に食料がなかったら水で飲み下すしかない。クセの強い食べ物って好き嫌いが分かれるのに、ラッキョウ嫌いの人って少ないのが不思議だよなぁ。
 あと昔は、くさやも食べられなかったな。今は、むしろ旨いと思う。でも食べる機会は滅多にないけどね。
 経堂の駅前を通ると、居酒屋の軒先から強烈な臭いがしてきて(客がくさやを注文したな)って一発で分かったものだ。それも17年前の話、さすがに今じゃないだろう。たまに小田急で通過すると、高架になった駅の雰囲気からして様変わりしてるのが分かる。
 場末ムード満点のビリヤード場も、多分なくなってしまったろう。開け放した窓から吹く夏の夜風、コーラの小瓶。朝まで4つ玉をしてた、あの仕事仲間は何をしてるんだろう? くさやを初めて食べた日は、翌朝まで口臭に残ってゲンナリしたっけ…。
 あの居酒屋が今も潰れずにいたって、いつまでも夜毎に悪臭漂う商店街じゃあるまい。
 次に食べたのは、真鶴キャンプでの罰ゲームだったな。
 あれ、旨いじゃん! と思ったのは更に後の事だったが、いつどこでだったのか思い出せない。

 そういや今年も、お節料理を食べなかった。御屠蘇も飲んでないけどさ、あの組み合わせってお供えっぽいと思わない?

平成17年1月16日ku66.jpg

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2005年01月06日

65*風の匂い

 あだ名と名前の共通点ってさ、自分以外の誰かに付けらてしまう事だね。僕は友人から「トム」とか「アルト」とか「ジャン」とか呼ばれているけれど、未だに自分からあだ名で名乗る事には抵抗があるなぁ。
 自分の名前を自分で決めるのは悪くないアイデアだけど、そういやヘビメタ全盛期には割と初対面で「ジャッキーです」なんて名乗ってくる人がいたっけ…。やっぱ自分で付けた名前なら気恥ずかしくないのか、それとも実は内心(うわー言っちゃった!)って思ってたりしたのかな?
 気恥ずかしいといえば、作詞というのも一般的にはそういう事らしいね。作曲の話をしてたりして、よく言われるんだよなぁ。別に内面を吐露しなくたって良いのに「臭い台詞なんて書けない」とかって。
 だけど愛着かもしれないけどさ、自分の作った唄って(一番あってるのかも)って思う時があるんだ。他人の歌とか比較的に聴かなくなったし、カラオケに行きたいと思う事も減ったもん…っても自己陶酔じゃないよ! 人様に聴かせられる出来じゃなくても、自分の音楽のほうが和むって事。

 ところで最近、香水を1本捨てた。
 正確には芳香剤の替わりにしたんで、部屋に置いてるんだけど。トワレとコロンの中間だっけ? それだけ成分が濃いんだわ。買って4年ぐらい経ってるし、いかにも洋モノっぽい匂いに変わった気がしてね。
 甘い香水で、寝る時にちょこっと使うと寝付きが良かったんよ。外に出る時は別の種類と一緒に、付ける場所を分けて使ってた。たまにつける香水は気分転換の効果がある、いわば休日のリラックス用品で。
 学生の頃とか勤め人の時は、意気がったり格好付けで使ってた。それから長らく香水離れしてたんだけど、ある日ふいに(香水って良いな)って思ったんだよね。しばらくクサクサした気分が続いてて、そんな自分を変えたかったんだろう。
 ジュース1本に迷うようじゃ、動きも気持ちも小っこくなってくる。誰かから香ってきた匂いで、そんな状態に気付いたんだ。何かに気が付くって時は、すでにその枠組みから出てるんだよね。匂いが一瞬にして感覚を研いでくれた訳よ、アイスクリームのウェハースみたく。
 それで(香水にはBGMのような効果があるな)って思ってね、香水というよりCDを買うような感覚だったんだ。自分のテーマ曲というか、お気に入りのフレーズみたいなのをさ。…ま、衝動買いの言い訳ってヤツか。
 音が本当に鳴ってなくても、頭の中とか鼻唄で気分を変えたり盛り上げたりするでしょ? 浮かれた気持ちを落ち着かせたり、泣くに泣けない自分を慰めたりね。思い出の一曲、なんて大袈裟な話じゃないけどさ。でも行き詰まっていた時に、何気なく流れてた街頭の唄に背中を押してもらった事が何度かあるんだわ。
 音の力、言葉の力は偉大だね。周囲を変えようとして抗ってた、そんな自分を変えてくれる。それって自分自身で分かってたって出来ないのに、すうっと肩の力が抜けるような感じの力を与えてくれて。
 そこまでの匂いってのは、まだ知らない。でも同じような力があるって思うんだ、たとえば記憶を再現する匂いってあるじゃない? 子供の頃の、工場の臭いとか。商店街の揚げ物の、タクシーの真新しいシートの、古い病院の待合室の、スーパーカー消しゴムの…。嗅いだ瞬間、まるごと当時に戻るもんね。
 近頃、ふいに台湾の雑踏や屋台の匂いがしてさ。刹那くて恋しくなるんだ、戻れない過去じゃないのにね。だからって行けばまた、あの寂しい夜にあるのは孤独と自己嫌悪だったりするんだろうになぁ。そんなの最悪じゃんねー!
 その孤独を、今の自分が必要としてるのかなぁ…?

平成17年1月5日ku65.jpg


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2004年12月29日

64*図書館にて

 先日、人違いをしちまった。職場で、事務系の女のコ同士を取り違えちゃって。
 顔も名前も全然違うのに「例の件ですが…」なーんて普通に話しかけて、相手が「?」って顔してても気付かないなんて重症だよなぁ。顔と名前を覚えるのが早い僕にとって、かなりショックだった。しかも女性だぜ、あり得ない…!
 そして翌日、今度は自分が間違えられた。
 図書館で係員に話しかけられてさ、こっちは何の事やらさっぱりよ。でも昨日の今日なんで、すぐ状況は飲み込めたのね。で、どんな人と間違えられたのかと思えば…この係員め無礼千万! っていうか、相手も憤慨するかもしんないけどね。もし知ってたら。
 まぁ確かに、遠目じゃ似たような背格好と色味の服を着てたと思えなくもない。きっと昨日の女のコ達も、僕の人違いに気付いたら同様の不快さを抱くのだろうなぁ。自己イメージは、常に他人の想像以上だって事か。
 それにしても、僕の世界は分かりやすい。

 最近は図書館通いしてるって程じゃないよ、でも借りれば返却に行くからね。すると当然また新しく借りる、これってコンビニ通いと似てる連鎖だな。そしてコンビニの習慣化しやすさは、ジャンクフードにも当てはまるよね。
 買い食いしなくても平気だったのに、一度そういう店に入っちゃうとハマるでしょ? まるでTVドラマを見始めてしまうと欠かさず毎週見てしまう、あれと同じ軽い中毒症状。やっぱ人間は、何かにとらわれてしまうんだなぁ。程度の差はあれ、誰もがオタク化してるのかも。
「人類は常に迷信の中を生きている」っていうのは言い得て妙だな、実際。ただそれは本来、人間の根本的な依存についての言葉なんだけど。古い時代の宗教、現代では科学(あるいは科学っぽさ)を根拠も疑いもなく盲信してるって事ね。
 つまり原子力の安全性もタバコの害も、権威づけされたデータを出されると信じちゃったり反論出来なくなるっていう状態よ。まるで心理学のUFOっていうやつだ、願望とか逃避とか。

 返却時にコピーを取ろうとしたら先客がいて、年寄りの男性二人だったのね。老人で、しかも車椅子付きだ。人任せに慣れているようで、一向に自分達で手を出さずスタッフを見てる訳よ。
 確かに慣れない機械の操作は億劫だろうけど、図書館の人も忙しいし付きっきりで面倒見られないわな。気の毒なのは彼らより罪悪感を募らせるスタッフでさ、僕は思わず「な、教えてやるからやってみな」と声を掛けたの。別に待ってても良かったんだけど。
 手伝うといっても用紙を指定しておけば、後は原本を乗せてボタンを押すだけだからね。98ケ所もコピーする気らしかったんで、彼ら自身で出来るようになるまで立ち会った後は先を譲ってもらった。やればできるんだよ、時間はかかっても。
 慣れない事を覚える、周囲のスピードに臆する、そういったプレッシャーから人任せになってしまうのは、分かるんだ。それは自分が、都会で車を運転する緊張感にも似てると思うから。
 僕がドライブ嫌いなのは、若葉マークの時から交通量の多い街中で、楽しいよりも散々なドライブばかり経験してきたせいだったんだよね。見晴らしのよい海沿いの一本道、軽トラの後ろに付いて走っていた時に気が付いたんだよ。どうして運転が苦痛だったのか、って。
 その年寄り二人組は、僕が新たな本を借りる前に消えていた。さすがに100枚近くコピーするのには、そこは相応しい場所じゃなかった。女性スタッフが「一台しかないコピー機を占有されると、後がつかえて他の利用客に迷惑だから」とか言ってるのは切れ切れに聞こていたから、おそらく別室でプレッシャーから解放されて好きにコピーしてるんだろう。
 今回は図書館ネタで押し通しちゃうけど、もう一つ。
 独り言を言う女のコがいたのね、よく地下鉄なんかで見かける「車内アナウンスを真似る男の子」みたいな感じの。だけど彼女が真似る口調ってば、非常に古い譬えで恐縮だけれど「ねるとん」風の吐息&媚び混じりの声でさー。
 TVでは聞き慣れている女性ナレーションね、でも現実で聞くと凄くシュールだわ。

平成16年12月18日ku64.jpg

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2004年12月22日

63*年末のシンボル

 年末の風には、月日に疎い僕にも感じられる独特の慌ただしさがある。
 なんだかバタバタした空気に巻き込まれてると、ふと(誰かが言った大事な言葉を聞き逃してしまったんじゃないか?)というような寂寥感に捕らわれたりして。よく思い出せないんだけど、どさくさの中で有耶無耶にしちゃいけなかった何かがあった気がしてくるの。SI〇Nの「12月」という歌みたく、爽やかな後悔をする。
 ところで、職場の忘年会は「できればスーツで」という話だ。ホテルの宴会場だからか? しかし無い袖は触れぬ訳で、どう頑張ってもボタンダウンとチノパンにサイドゴアのブーツが関の山。僕はスニーカーとTシャツとトレーナーで事足りる、そういう世界なのだ。
 僕は常々、スーツという服装は日本の気候や風土にそぐわないと思っている。しかもスーツには革靴だ、これがまた非常にそぐわない。西欧ならいざ知らず、こんな湿気の多い土地だもの。いくら手入れを怠らなくても、梅雨時なんて靴底の革が悲惨な事になる。大枚はたいて2足も駄目にして、未だに捨てられずタンスの肥やしだ(泣)。

 そして年末と言えば大掃除。誰が言ったか「部屋の状態は、住む人の心の中を反映している」のだそうだ。部屋じゅうに物が溢れ散らかっているのは、その人が集中力を欠いていたり気が散っているからだと。
 逆に言えば、部屋が片付いてれば心も風通しが良い状態になるって事だ。そう考えると「シンプルライフ」という言葉も奥が深いね、シンプルな空間に健全な精神は宿る?
 そこから拡げて考えれば、パソコンというのも所有者の心の中を表しているように思えたりして。ソフトを無闇にインストールし過ぎたり、何がどこのフォルダにあるのか分からない状態になってくると動きが鈍るもんね。そこを解決せず無闇にキャパ拡張してしまえる、ってのも現実のメタファーっぽい。
 己の心を知る方法としての、部屋とパソコン。部屋の譬えでいうと中に自分が含まれている感じだけど、パソコンの譬えだと自分は俯瞰で箱庭を外側から覗き込んでるみたいだ。…なんて、どこかで聞いた「外側に見えるものは、すべて内側の反映である」というような言葉を思い出した。
 そうなると、自分の見てる全方位が己の暗喩って事になる。同じ景色を見ていても、僕と貴方じゃ違って見えてる、と。自分自身にしか見つけられない替わりに、答えは目の前に見出せるって訳だ。
 古代ハワイイのシャーマンは「額縁を後ろ向きに放り投げ、その落ちた場所や様子から未来を占った」だかいう話を、何かの本で読んだっけ。つまり肝心なのは、額縁でも後ろ向きに投げる事でもなく「読み取る力」にあるんだね。
 森羅万象すべては一つのものから生じたとするなら、自分の深層にある無意識から原初の記憶に到達できれば可能なのかもしれない。西の空に鳥が飛ぶ、雨上がりの虹が二つ重なる、知らない他人と何度も目があう…。意味などない、だけど何もかも自分に降り注ぐメッセージには違いないわな。
 主観や願望、あるいは憶測や策略でもない「起こりかけている流れ」を感じ取れるかどうか。結局は水晶玉や紋章やタロットなんかも説得力アップの小道具で、本当は下駄の表裏でだって分かっちゃうんだけど、おごそかでもっともらしいほうが有り難みが増すっていう人情? 要は他者からは理解不能の過程で得た答えの、見せ方でしかないような。
 実際、自分にとって生涯の一大事を、もしも鼻毛を抜いて簡単に言われてしまっちゃあ面白くないに決まってる。

 今年もまた「〇時だよ!全員集合」のコントみたく、どんでんが回るように終わってゆくのだろうな…。願わくば同様に、拍手と笑顔とフルオーケストラで…。

平成16年12月4日ku63.jpg

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2004年12月15日

62*サンクチュアリ

 そういえば「パイナップル食べ放題!」なんていう日々があったなぁー。
 その後、妹は謎の乳液ローション作りを止めてしまったのだ。でも最近は栄養士の勉強を始めたらしく、おかずや洋菓子を作ってみては気前よく食わせてくれる。なかなか旨いんだけど、妹自身の舌には合わないようだ。
 言い訳するかのように「栄養のバランス良く作ると、旨いモンなんか出来ないのよ」なんてこぼしてるのを聞いて、かつてバイトしてた先の営業マンを思い出した。というか、彼の何気ない一言をね。
「体に良くない物ってさー、旨いんだよねー」
 当時の僕は健康志向を否定するでもなく、でもそんな世の流れに何かがズレてる感じを漠然と抱いていたのね。そんな言葉にならないもどかしさを、簡単に言い当てられた気がしたんだな。

 しばらく前の話だけど、やたら新商品に「海洋深層水」って謳い文句が並んだ時期があったでしょ。あの時、なんだか僕は引っ掛かりを覚えたんだ。んで、それを友人宛てのFAXに「それは、地球の脊髄液を抜いちゃってる気がする」って書いたの。今も時々、そのフレーズが脳裏をかすめる。
 深い海の、生き物がいないに等しい場所。そこに「豊富なミネラル」だか何だか、生き物に良さそうな栄養素をタップリ含んだ水がある。…うん、ロマンチックな話じゃないか。ただねェ、それが地球の骨髄液なのよ。人間で言うと、免疫系の大本がある場所か?
 それを飲み干しちゃった日にゃー、何も変わらず天下太平平穏無事なーんて筈ないんじゃあありませんか?! って思う。むしろ取り返しのつかない、根本的な地球の生命環境をかき回しちゃうんじゃない? って。それって「パソコンのプログラムが出来る人じゃないと弄っちゃいけないファイル」みたいなモンでしょうが。
 そういった「聖域」ってのは、地球上でも身近にあるんじゃないかな? たとえば(←これ口癖だね)、世界遺産に指定された途端に荒らされる原生林とか。メディアに取り上げらて、希少なウミガメやら動物の営巣地に人が押し寄せるような。色んな健康食が流行る時、それが人の作る物じゃなかったりする度に僕は(同じ行動パターンだ)って思っちゃう。

 最近は定着したせいなのか「癒し」って言葉を聞かなくなったけど、癒される時に自分しか見えなくなっちゃうのって危険だよなぁ。いっぱいいっぱいなんだから仕方ないとしても、そんな柔らかな収奪や搾取が美しく咲く花を絶滅させたら心穏やかじゃ済まされないような。
 間氷期、人間の祖先がベーリンジアを伝って新大陸に拡散していったのと同時に既存の動物種がほとんど全滅したんだってね。アメリカにも象やら虎の祖先なんかが沢山いたのに、一気に狩り尽くされていったらしいの。人間ってば、知能は進歩しても精神的には何十万年経っても一緒なんだろうねー。つくづく思うよ。
 とはいえ、健康食とか自然志向の風潮が良いとか悪いじゃなくてね、そこに僕は業の深さを感じるのでありました。

 時々さ、(体が欲しがってる)っていう感じがするんだよ。
 詳しい理屈は知らないが、実感としてリアルなのね。たとえば柑橘類なんかは、僕がタバコ呑みだってのが関係してるのか、かなりそうなる。他にも梅干しとか納豆とか、別に嫌いって訳じゃないけど普段あんまり食べない物が無性に食べたくなったりする時があるんだわ。
 僕は出来るだけ、そういう(体からのリクエスト)は叶えてあげるようにしてるのね。で、それを口に入れた時の満足さは(味覚が喜んでる)って感じがするんだ。他人に優しくしたような、ちょっと良い気分で。

平成16年10月20日ku62.jpg


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2004年12月08日

61*アート、人の作りし物

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 いわゆる「ネットコラム」ってあるでしょ?…って、これもそうか。
 いわゆるプロの文筆家は、今まで出版業とは切っても切れない間柄だったじゃない(多分これからも)。作品の出版を担当する編集者がいて、半ば共同作業で仕上げていた訳だよね。そんな名編集者との蜜月から生み出された作品を数え上げればきりがないけど、逆に言えば作品に干渉されまくってたんだよなぁ。
 以前、僕の知り合いが大手出版社にアポなしで原稿を持ち込んで本を出したのね。アポなしも持ち込みも普通あり得ないけど、彼女のバイタリティは常識の限界点を超越するから。んで買って読んでみたら妙な違和感があってさ、別人かよ?! って位。
 彼女は昔からニュースレターを発行してたから、独特の文章は良く知っているのよ。なのに読み易く整えられちゃって、本人から聞いたりした感じと一致しないんだよね。内容も(らしくない)感じで、どうも編集者のピントがズレてた気がして仕方ない。
 それはまぁ出版社の都合で、不特定多数に受けそうな体裁にしたかったって事だよな。題名も本人の告知と違ってたし、担当者は相当頑張って手を入れちゃったんだろうね。見栄えのする文じゃなかったかもしんないが、オリジナル原稿のほうが絶対に面白かったに違いないのにねぇ。勿体ない。
 売れそうな素材としての彼女の体験を、分かりやすく編集しなくちゃいられなかったんだろうね。そういうのって、音楽で言えばモータウンのような作り方だよな。それに限った話じゃないし、制作者の意図に合わせて作詞家や作曲家や演奏者や歌手をコントロールする手法は今でも珍しくないが。
 売れたミュージシャンがプロデューサー業に手を出す時も、そういうのって常套手段で使うよね。セルフ・プロデュースなんていっても、常に腕利きのエンジニアと組んでいるし(僕の敬愛するプリンスは例外だけど)。本でも音楽でも、ビジネスとなると作品をコントロールするのは本人よりも売り手の方針だ。

 で、ネットコラムの話。何をやっても売れるような大物文筆家でなくたって、今はインターネット上でなら編集者という他人に邪魔されず作品をコントロール出来るようになってきた、と。
 でもね、何にせよ「全部一人で」ってのは結構しんどいと思うのよ。悩み出すと出口のない八方塞がりになるから、結局は他人からの客観的な意見があったほうが楽だったりもするんだよね。そこら辺の案配が、ビジネスとしての難しさだったりして。

 ところで、アートの世界で「ファイン」と言えば商業主義に染まってない物を指すのね。量産の利く版画を中心とした絵画ビジネスが流行る昨今、ファインの潮流はあんまり元気がない感じ。ま、不景気だし。
 そういう商業経済を逆手に取ったのがポップアートで、いわば絵画におけるパンク・ムーブメントだったのかもしれないね。とすれば、村上某のアニメ・フィギュアをデフォルメしたような作品群とは? と考えると、そりゃ一言で片が付く話でもないわな。もっとも、そうだったら美術が抽象化する意味がない。
 僕は常々(抽象芸術には作者の社会に対する思想がある)と思ってきたのね、だけどコマーシャリズムと入れ子になってるような村上某の作品は理解出来ないままでいる訳。その構造がファインとしての革新なのか、単なるビジネスだからなのか? 実物を観れば、また何か感じられるのかもしれないんだが…。
 美術作品は、じかに見るに限るからな。フランシス・ベーコンなんて、本で観ただけじゃ衝撃は伝わってこなかった好例だもん。映画とビデオの関係と、ファインアートにおけるオリジナルと絵画本を同列に考えたら大間違いなのよ。実物は鑑賞者と直接の関係を持つし、その場には独特のコミュニケーションが生まれているから。
 今や具象画の範疇に入ってしまいそうだけど、モネって作家がいたでしょ? あの人の、印象派の語源となった「印象・日の出」を実際に観た時は凄かったよ。それまで美術関連の本で見てた時は意味不明だったのに、まさか絵を見て泣くなんて思わなかったもん。
 あの茫漠とした淡い色彩に畳み込まれているのは、ある朝モネ自身が体験した意識の覚醒だったの。たとえばニューエイジ本で書かれていそうな(言葉にできない一種の悟り)に近い感覚か…。それを彼は絵画という媒体に変換し、人間に「視界と思考が相関関係にある」という認識をもたらしたんだ。
 もし(それがどうした?)と思うんだったら、それは既にモネによって意識の枠組みが拡がった世界に生きてるからなんだよ。…って事が、言葉なしで僕自身の体験として分かった訳。って言われても全然ピンと来ないかもね。この感覚を伝える言葉自体、まだ存在してないのかもしれない。
 それに実際、言葉は常に発言者を裏切るものだから。

平成16年11月3日

posted by tomsec at 01:19 | TrackBack(0) |  空想百景<61〜70> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする