2004年11月29日

60*当たり前の事

 また図書館の話です。「チーズバーガーズ」という本を借りたのね。B.グリーンというコラムニストの。
 あれは10年以上も昔なんだなー、人生で最初で最後の原書体験。原書で読むってのに憧れてね、買った唯一のペーパーバックがこの本だったのよ。タイトルからして堅そうじゃないし、同じ棚には英訳「窓際のトッ〇ちゃん」なんてのがあったから。
 しかし知らない熟語とか言い回しが多すぎたんだ、何とか最初のコラムを訳してお蔵入り。だって一行目から辞書と首っぴきだもの、そりゃもう読書になってないって! だから今回、日本語版を借りて初めて内容が分かったのよ。

 かつて訳した分のコラムは、読んでいて当時を思い出したね。それは「パーティ・ライン」という題名で、日本語版では「電話でパーティ」とされてたの。もうここから間違ってた! 僕は、これを(気軽な集まりでの気の利いた台詞)などと勝手に解釈しちゃってたのだ。タイトルで誤訳してたら、中身が辻褄あわないのも当然だわ。
 この本には作者が36歳の時に書かれたコラムが収められていて、日本語訳の初版は1986年。約20年前に書かれたコラムなのに古臭くないし、同じ36歳になった僕の文章とは比べ物にならない…。嗚呼!
 ま、それはもう仕方ないとして。

 コラムといっても内容は、ちょっとした短編映画を観ているようなの。一昔前のハリウッドにも、こういった淡々とした映画があったんじゃないかな。そうだな、思いつくところじゃ「カントリー」なんかもそうだ。邦題は「アイオワの大地に」だったかな? ウィ〇ダムヒルが音楽を担当してて、確か'86年頃に観た覚えがある。
 ジャンル的には社会派かな、クライマックスで農家が一致団結してたもんなぁ。高校生の僕には、まだ遠い世界すぎて印象が薄かったけど。そういえば日本では散々なブ〇シュさんを支持してるのも、こういう温厚実直に暮らしてる人々なんだよねー。

 思うのだけど、世界中の9割方は温厚実直といえる人々なのではないかな? そして残り1割の中の、更に9割は(良くない事をしているなー)って思って暮らしてる…。つまり本当にどうしようもない悪党がいるとしても、全体の1%未満じゃないかって気がするの。根拠はないけど。
 これは一つの考えで、一般的には(比率が逆だろ?)と思うのかもね。実際「悪貨は良貨を駆逐する」とも言うし、悪い影響ほど早く深く広がるものだ。そういう大人が1人いれば、それ見た子供はみんな真似するからね。信号無視する人がいると十中八九、そこにいる子供は目で追うんだよ。

 先日、却って新鮮に感じるくらい久々に「近頃の若い人は…」っていう決まり文句を耳にしたのね。それが狭い歩道を塞ぐように立ち話してる、老齢のご婦人方で。こういう光景って当たり前に見るんだけどさぁ、なーんか善悪の縮図? そんな感じがしたな。泥仕合、というか立ち位置の違い。
 温厚実直な9割がたの人々が気付かないでやってる良くない事、そんなの言うだけ詮無いとはいえ「1発の右ストレートよりも、10発のボディーブローのほうが致命的」だったりしないかなぁって。

 ボクシングで伝説となったアリという男性、彼の講演旅行に同行したエピソードは興味深かった(…あ、また先程のコラム本ね)。
 物静かで、神について話し、祈る王者。どこに行っても人々は彼を見逃さないの、もうサインとか握手とか色々と求めてくる訳。その描写で段々と飲み込めてくるのよ、なぜ彼は周囲に人が多ければ多いほど無感覚状態に入っていったのか。
 浴びたパンチの数よりも(絶え間無い注目と一方的な接触)が彼を変えたのだと、コラムニストは書いてるのね。アリの目線で眺める世界って、僕には地獄だわ。彼の日々は己を捧げ出す苦行のようで、チャンプってだけで務まるもんじゃないよ。人々が抱え込んだ憧れや妬みを一方的に投影され、拒まないのは。
 やっぱり自分は(何かの象徴)にだけはなりたくないね。そして誰の事も、そんなふうに扱わないようにしないと。…とか言いつつ、前述の(道を塞いで愚痴る老婦人)に「善悪の縮図」を見たりしてますが。

 先日、こんな投書が新聞に載っていたんだ。地震の被災地を天皇が訪問し、ひざをついて被災者に話しかけるその様子を携帯で写真に撮っている人達がいたとか。そりゃあ天皇陛下が至近距離に存在するんだもん、撮りたい動機も分かる気がする。だけど舞台で浴びる注目とは違う、それはアリが耐えたのと同質の暴力だ。
 そんな光景、今や珍しくないよね? いつの間にか当たり前になりかけているけど、自分が同じ目に遭わないと分からないんだろうな。いや案外、やられたって平気なのかもね。あの注目というか凝視、僕は気持ち悪いんだけど。そりゃあ別に痛くも痒くもないさ、でも…堪えるね。あの、携帯のレンズを向ける人の表情。
 つまり良くない事、10発のボディブローってのはこういうコトなのさ。
 でもきっと9割がた(はぁ?)って思われるんだろうね、それこそが僕の言いたかった事なんだけど。

平成16年11月19日ku60.jpg


posted by tomsec at 21:01 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月25日

59*旅の終わり

 久しぶりに図書館に行ったのです。で、誰かが言った「本屋は森だ」っていう言葉は(なかなか言い得て妙だわ)って感じたね。やっぱり人間の感覚として、素材から受ける印象なり影響なりって関係してるのかな。
 本の持つ質感、インクの感じ…。本は結晶化した知識というか、知のアイコンなんだ。画面の上で一時的に映し出す、そういった情報とは質が違う。それは読むだけじゃなく、書く事にも言えるよなぁ。キーを叩いて文を作っていると、紙に書いていた頃とは微妙なズレが感じられる。

 たとえば手紙とメールだと、僕には手紙の方がリアルなのね。メールって全体が俯瞰できないし、手書きじゃなくても紙そのものに感じられる何かが欠けてるというか。頭の中でモヤモヤしてた何かを言葉に換える、その着地点にギャップがあるというか。本にあって画面上には足りない、話し言葉と書き言葉くらいの違いが。
 もし本当にペーパーレス社会が現実化したなら、そこに生きる人々と今までの世界は根本的な理解の断絶が生まれるのではないかと思ったりする。というと大袈裟だけどさ、顔も知らないメル友っていう感じ? 慣れの問題かもしれないけどさ。

 そうそう、ようやく最近になって(パソコンで検索する)というのを覚えたのよ。そこで何か芋づる式に、田〇ランディという作家に対する非好意的なサイトに辿り着いた訳。彼女のコラムは好きなのね、でも小説は読む気が起こらなくて。そこに飛び交う誹謗中傷が的を得ているのか外しているのか、というか個人に関する便所の落書きなんだけど。
 ただ「ある状態の人々から熱狂的に支持されているだけ」というような意見があって、その譬えが久々に行った図書館で急によみがえってきたんだよね。

 一時期、この図書館を攻略するよな勢いで色々と読み漁っていたっけ。その頃に借りた「荒野へ」は、表紙のモノクロ写真が印象的だったな。無人のアラスカ山脈、雪に埋もれたマイクロバスの中で見つかった死体。将来を約束された境遇だった青年の、死に至る足取りを辿るノンフィクション。
 その孤独な死は新聞の片隅に載り、やはり一般的には「世間知らずの青二才が…」と受け止められたらしい。まぁ結局は理想主義の未熟者だったと、そうだったとしても僕は今も時々、ふと思い出すんだ。最近では、異国で捕らわれた若者のニュースでも。
 そりゃあ身勝手で不快にさせる生き方だったのかもしれないし、もう年末特番の「今年の十大ニュース」で思い出すのが関の山か? 確かにそうなんだろうけど…。

 人って本来、小さな選択ミスで死に至るものなのだ。それは都市生活でも変わらないが、無自覚のまま過ごしていられるだけで。
 遠く離れた出来事に、なぜか僕は(彼は自分だったかもしれない)というような気持ちになってしまう。
 荒野で死んだ彼は、致命的な間違いを除けば上手くやっていたそうだ。異国で殺された彼だって、後付けの非難で結論付けるのは簡単な事だ。辺境でクマに襲われたり、地雷を踏んで死んだ写真家達と何が違うんだろう? 政治的に利用されたとか、そんなの命には関係ないのにね。
 この社会ってのはさ、割と(人は誰でも過ちを犯す)というのを許さないように出来ている気がするんだ。結果主義って土俵の上で、立派な大人の仲間入りをする人は大抵が一度は鼻っ柱を折られてるんじゃないかなぁ。人によっては、逆転負けとか落選だったりというカタチで。

 マホメットは知らないが、キリストも釈迦も辺境に行ったそうだ。色々な部族の社会には、通過儀礼とかクエストがあるという。そういうのって、本質的な旅だと思うのね。多分どんな社会でもそれぞれのクエストを経て、納得ずくで戻ってきて大人の役割を果たすたのだと思う。
 旅の終わりは、決めていなくても時が来れば自然に分かる。(あ、戻ろう)という瞬間より先に命を落とす事もあるし、逆に(ここが自分の居場所だ)と見つけてしまったりもするだろう。
 旅を終えた人が、その過程で(自分には選択ミスなどなかった)と考えはしないと思いたい。ほとんど命取りな失敗にも気付かずに帰還したからって、その手の旅は必ず誰かが支えてくれた瞬間があった筈なのだから。
 
 D.クープランドの「ライフアフターゴッド」という小説は、あの頃の僕にとっては間違いなく衝撃的だったんだよ。なのに改めて手に取ってみて、あまりの退屈さに愕然としちゃったんだわ。
 あの劇的な癒しは何だったの…?! なんだか騙されてたような、美しい夢から醒めた時のセンチメンタルさ。今となっては見当も付かないが、すべての文章が胸に沁みたのに。この本も「ある状態の人々から熱狂的に支持されているだけ」だったのかもなぁ、だとしたら僕は「ある状態」だった訳か。
 ものは考えようだけどさ、たとえば(様々な「ある状態」の心にだけ呼応して、そこに書かれている本質を表す)という魔法みたいな本があるとして、そんなのが澄ました顔して図書館に並んでいるんだよ。僕はね、そう思うと愉快になる。今は何も語らなくても…。
 そう考えてみると(僕の生きてる世界もまた物語なんだ)と思えたりして。
 うん、悪くないじゃないか。そんな気がして笑える今の僕、めでたい事だ。

平成16年11月19日
ku59.jpg

posted by tomsec at 22:22 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月15日

58*ギターorピアノ

 久しぶりに、自分が昔作った唄を聴いている。しばらく曲作りから遠ざかっているせいか、割と客観的に聞けた。
 仕上げの粗さは相変わらずの事、何をやっても作り込みが甘いのが身上なので。絵にしても縫い物にしても、どこか(オレがチョチョイとやってみた)という感じを残したくてね。
 しかし、それにしても(こんな曲がホイホイとまぁよく出てきてたものだ)と我ながら感心したわ。今の自分には、こんなに次から次へと色々な着想が浮かんでこないし。あと温度差ね、こんな事やる熱があった自分もいたのかーって。

 大体は、詞のノート見ながらギター片手に鼻歌で作ってるのね。でも一時期はDR−5という、ギタリスト向けに作られた安価なシーケンサーみたいな機械に音を打ち込んでいたんだよ。そいつ一台で、スコアが起こせなくてもオーケストラっぽい曲だって作ろうと思えば出来ちまうてんだから利口な機械だ。僕的には名機と思うが後継機種も出ずに、今じゃ中古の相場は1万円台ってとこか。
 それはともかく、僕は(作曲なんて誰だって出来る)と思っている訳。みんな思い付きみたく鼻歌が出てくる時ってあるじゃん? それを形にしようって気がないか、手段を知らないだけなんだろうって。

 僕の場合は始めに、心に浮かんだ音のタマゴをギターを使って現実の音階に置き換える。ついでに時間と情熱次第で、それにリズムを付けたり楽器毎に音を振り分けたりして録音してゆくのね。
 唄を作る時は先に詞があって、コードが決まると同時にメロディが浮かんでくる事が多いなぁ。それから色々なリズムを試していく過程で、ベースラインの骨組みができる。やってるうちにベースラインが変わってゆくのは珍しくないし、いきなりフレーズが生まれる事もあるけど。
 まぁつまり内側から外側に音を変換する媒体はギターなんだけど、替わりにDR−5を使うとギターと違った感じの曲に仕上がるから面白い。どう違うかっていうと、ピアノで作った曲みたいな気がするんだよね。

 音楽って、大半がギターかピアノで生まれてくるように思う。というか、作曲者がギター弾きかピアノ弾きかって見当がつく場合が多いのよ。
 ギターはメロディと伴奏を同時にこなすのが難しい楽器だから、どうしても唄声に対する伴奏になりがちでさ。小節毎に和音が鳴るような、印象として整然とした音のカタマリが続いてく感じなの。これがピアノ弾きの発想と大きく違うところだと思う。
 ピアノ弾きは、ギターの仕事を左手だけでやっているのね。そんで空いてる右手で和音の足し引きをして、お手玉みたく両手に分散させてコード感を組み立ててる感じ。だからピアノ弾きの作る曲は、僕の耳には曖昧に流れてゆく和音で特定しにくく聞こえるの。

 そう、考えてみればギター弾きの唄を聴いてると分析してるかも。どっかで無意識にコード進行を比べたり参考にして、自分の曲作りを気にしちゃってて純粋に楽しめてないような…? だからかな、案外ピアノ音楽って好きなんだ。鍵盤の響きも好きだし、ギターじゃ出来ないボイシング(和音の展開)とかも新鮮で。
 ピアノは一種の神秘かもなぁー、自分が弾けないからかもしんないけど。

平成16年11月3日 ku58.jpg


posted by tomsec at 01:57 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年11月04日

57*ベースの自由

 道具という物は、目的が同じでも性能の優劣と個性がある。昔は単に(値の張る道具=素材や加工に希少性がある)程度に思ってたけど、実際に高級な楽器を触ってみて初めて分かったんだ。良い楽器は、ちゃんと上手になった気にさせてくれる。
エレキベースを、半永久的に預かった。といっても、あるベース弾きから「もう弾かないが手放すのは惜しい品だから、是非とも弾いてやってほしい」と頼まれたのだ。決して阿漕な理由じゃない。
 さすがにクラシックの楽器とは桁が違うにしろ、ウン十万円の特注品だ。今まで自分が所有したベースに比べれば5〜10倍もする…というか演奏歴20年強で2〜3万の楽器しか知らないんだから、技術的に大した事ないのは想像に難くない筈。それでも託されてしまうのだから、文字通り有り難い話だよなー。

 確かに素材や加工の違いもあるだろう、しかしやっぱ弾き易さが段違いに良いのね。格好つけて言えば「潜在的プレイアビリティを引き出してくれる」という訳だ、そいつが真の実力って奴なのかは置いといて。
 んで改めて、14の時に中古で1万2千円したベースを弾いてみた。これが頑張っても悲しいまでに情けない音しか出ない…。こりゃもう「サヨナラ昔の自分!」って位の気持ちになっちゃうよ、まぁ安物なりに個性があるんで大事にするけどさ(改造してるし)。

 ところで僕はギターも弾くし、中学時代は管楽器も吹いていた。だけど音楽をベースラインで聴いてしまうのは、ベース弾きの習性かもしれない。他の楽器を演奏する人も似たような癖があるのかな? でもピアノやギターはメロディに対して和音的な弾き方が多くなるし、案外そうでもないのかもな。
 和音楽器と違って、ベースが一度に鳴らすのは一つの音だけだ。そこがベースの裏メロ的な面白さで、かなり好き勝手に色合いを添える事が出来る。といっても仮に和音から外れた音を混ぜ込むには、曲の階調を踏まえてないと台なしにする危険があるけど。

 そしてベースは、ドラムと一緒に「リズム隊」なんて呼ばれたりするような役割もあるのね。つまり打楽器的なポジションで、リズムに抑揚を付けるのもベースの隠し味な訳よ。そうやって和音とリズムを調整する(どの音をどのタイミングで鳴らすのか)という案配の、さじ加減次第で同じ曲でも印象が違ってしまう。
 予定調和に外しを加え、一発で全体のニュアンスを変える…。案外、ベース弾きからプロデューサーになる人が多いのも分かる気がするね。バンドとして外から見ると、派手さでアピールする面はないに等しいから(パシリの立ち位置)に見えるかもしんないけど。

 ベースを始めるのは簡単だ、単調に音を鳴らしていても格好がつく。段々と手数が増やせるようになると、小洒落た技を並べ立てる自己満足の罠に陥ったりもする。だけどタイトなベースラインに目覚めると、そこには侘び寂とか禅に通じるような減数美的境地が待っているんだな。そして最初に覚えた単調かつダサいフレーズが(これを思いついた奴ぁ凄いな!)なーんて感じたりして。
 ただ、いかんせん僕にはリズム感が欠けているようだ。プレイするのが楽しくて堪らない時は大抵ズレてるし、リズムに対して正確に弾こうとすると疲れてしまう。そこで基礎練習だ!…といきたいが、それをしない僕は気持ちの良さを優先して弾いている。別に巧くならなくても、それも味だという事で。
 ベースって自由で楽しいなぁ、そう思わない?

平成16年11月3日
ku57.jpg

posted by tomsec at 14:14 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月24日

56*ロックンロール

ku56.jpg
 寒くなってきて、ついバーボンを買ってしまった。バラが4つの、グリーンラベルのほう。何年ぶりかな? 酒瓶を横に置いて、布団でゴロゴロする夜は…。
 僕は元々、外より部屋で飲む方が多いのだ。電車の心配も要らないし、すぐ横になれるもんね。大抵オンザロックなんだけど、今回は珍しくストレートで飲んでたのよ。グラスは手元にあって、氷を取りに行くのが億劫でさ。冷えてないからチビリチビリとね、これが良い感じだったんだわ。高い酒じゃないんだよ、でも味わい深いというか。

 大体、酒の味って不思議じゃない? 苦いような辛いような、舌先を焼くような香ばしさ。口に含むたび、匂いなのか味なのか判別つかない芳醇な感覚に意識が向くのね。これ、何かで割って飲んでた時には気付かなかったなぁ。
 バーボンは、音楽が聴きたくなる酒だ。特に、ジャズとかハードロックを(R&Bとかブラックミュージック全般も範囲内だけど)。そうなると、つい聴き馴れた古い物を選んじゃうんだよねー。最近、新しいのって全然だし。

 なんだか長いこと、巷ではパンク系が流行っている様子。しかもナツメロを荒っぽく演ってたりして、そんでもって楽器は高級品で。曲調も直球というよりは変拍子だったり、ハモリが妙に上手だったりして凝ってるし。ま、色々なんだろうけどさ。
 ラップも、ずいぶん長く続いてるね。でも段々とダレ気味〜ってな感じもして、ややネタ切れっぽくない? それはそれで構わないけど、そういうのって一時期のパラパラって踊りを思い出しちゃう。手先だけ踊ってて腰も表情も動かない、80年代後半のユーロ以上に味気無い感じの。
 当時のユーロビートは、曲によってディスコ毎の振り付けがあったりしたのね。笛吹いて扇動する人に合わせてさ、全員で手旗信号みたいに決めるの。そういう「みんな一緒」的ノリが、昨今のJ−POP内パンク&ラップ部門に感じられたりしてね…。
 ロックンロールは、本来そういう予定調和を指向しない筈なんだが。

「プラ〇ーン」という戦争映画に「ロックンロール」という台詞が出てくるの。規律第一の軍隊とロックじゃ矛盾してるよね? だけどあの場面はロックしてるんだ。言葉のニュアンスとしては「気合を入れろ」じゃなくて、「魂を奮い立たせろ」とか「クレイジーになりやがれ」という含みを持った使い方なのよ。

「セックス、ドラッグ&ロックンロール」ってフレーズは、ロックンロールの代名詞である前にイアン・〇ューリーの名曲でさ。僕が来日公演を観た時はもう、ブロックヘッズを率いる彼はすでに老人だったの。杖をついてステージ上に立ち、時には椅子に座って。それなのに本当にロックンロールしてたんだよ、あんな年寄りになりたいもんだぜ!
 でもさ、その代名詞に何故アルコールが入ってなかったんだろう? って、ずっと不思議だったの。だってロックのイメージ3大要素じゃん? 伝説的ロッカーに付き物じゃん(尾〇豊はフォークだから除外としても)?!

 だけど最近、それは正解だったのかもしれないって気がしてきた。
 もしも早死にしないで「酒が三度の飯代わり」なんつって酒浸りの日々を送っていると、下手すれば50代を前にアルコールによる痴呆と歩行障害&大小便の垂れ流しになったりするのよねー。糖尿病を併発すれば、更に四肢のマヒ/切断+失明などに至る可能性が高くなるって。実際、そういうのを何人も見ちゃうと(洒落になんねーな)って思う。
 老いてなおロケンロー、そこにはセックスもドラッグもアルコールも必要なかった訳だ。少なくとも、重要じゃない。だから未だ現役を張ってる大物ロッカー達はジム通いとかベジタリアンに転向したりするのか? うーん、それも何だか寂しいけれど。

 ロックンロールにも「継続は力なり」という言葉が当てはまるとして、でもそれじゃあ魂が奮い立つような感じじゃないんじゃないかなぁ…。それより「セックス、ドラッグ&ロックンロール」っていう型にはまらない意味で、ロックには「孤独は力なり」という言葉があってもいいよね。
 ロックンロールという何かは、そこにかかってくるんだと思う。っていうか、思いたい…。

平成16年10月18日


posted by tomsec at 15:54 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年10月17日

55*裏カワイイ!

 熊が住宅地に出没するようになった(それが社会問題視されるようになった)のは、いつ頃からなんだろう?
 都心に住み暮らす生き物は、人間の営み抜きでは生きてゆけない。そして、そんな関東平野の真ん中で熊に同情する風潮も、浅く薄いよなぁ。
 しかし野生との接点と思われる場所も、今じゃあ都市近郊と変わりないんだよね。タイムカードとレシートで、山野との関わりを持たずに生きている人々に牛耳られている。つまり都市生活者だけでなく、熊の被害に遭っている地域でも、裏庭の手入れなんて荒れ放題になっても知った事じゃないんだ。

 猿の餌付けが問題になっている、そんなニュースがあったよね。問題になってるのは地域住民の間だけで、餌やり目当ての観光客は相変わらず押しかける状態。そこには餌付けで困っている人と儲けてる人がいて、要するに(パワーバランスの膠着)って奴か?
 ところで、病院の患者が屋上で鳩に餌をやるとするでしょ。老い先短い年寄りの楽しみとはいえ、衛生上かなり問題ある訳よ。公園で野良猫に餌付けをする人と一緒でさ、決して自分の家じゃしないんだよね。自分の場所は汚したくない、そんな偽善が見えかくれする自慰行為って何だろう?…思わず胸に手を当てちゃったりして。

 小動物に餌を与えるのと、孫に小遣いを与えるのって感覚的にニアじゃないかって気がするのね。可愛らしさって罪だわ、イイ女に貢ぐのも同じ心理なのかなぁ。それはともかく、可愛らしさを図式にして考えてみたのよ。
[小動物>子供>学生>オトナ人間(?)]
 これは「カワイイ!」の序列だね、つまり可愛い=環境に適合してない存在という仮定の。けど、人間の成熟と保護者的な態度が比例するとは限らなくて、その伝でいえばこういう図式も成り立つんだよね。
[赤ちゃん>オトナ的人間<老人]
 少し説明すると、つまり…「子供は小動物を可愛い対象として見るし、オトナとして成熟すると生意気なガキや年寄りも(カワイイ!)と思ったりする時がある。しかし老人がオトナを可愛い対象として見る事はなく、むしろオトナに反抗的ですらある」て事。

 環境に適合していない不器用さに「可愛い」があるんだとしたら、なんか「他人の不幸は蜜の味」って話みたいだな! って、そういう展開じゃなくて、自分が適合していると感じる状態(=順調で幸福な状態)なら、様々な事柄が愛らしく思えたりしないだろうか?…って事よ。
 たとえば、自分が世界の王様だと思いながら眺めてみると、他人の愚かさや非礼さにも寛容な気持ちになったりしないかなぁ。より高位な存在は無知を笑わないよね、それが無慈悲ゆえの寛大さだったとしても。
 広い日本庭園の池で、鯉に餌を投げてやる。鯉は口をパクパクさせて、互いを押しのけあいながら殺到してくる。それを見て、僕は目を細めながら呟くのさ。「池の鯉でも見やるように、人の世を眺めたいものだ」と。それが出来ればねぇ…。

 関係ないけど、ちっちゃい存在って狭い所が好きだよね。ハムスターも、人間の子供にしても。そういうの見てて、時折ふと(可愛さ余って憎さ二千倍!)とか思っちゃう。無性に意地悪したくなっちゃう、そういった残酷性ってのも不思議。
 キャラグッズの可愛らしい幼児性にも、うっすらと残酷性が感じられたりするよね。まるで色を塗る時に、下地に補色を塗っておくほうが鮮やかに発色するように。ある色をじーっと見て目を離すと、その補色が残像に残るように。うまく言えないんだけど、それも錯覚なんだろうか…?

 猿の群れでボスが交替すると、古いボスの子供は母猿に殺されるんだって。自然界にも子殺しがあり、やっぱ人間も暴力抜きに語れないよなぁ。…って、その辺の事を感情抜きに話し合うのは非常に困難だよね。特に女性に強い傾向だけど、男性でも結構いる気がするな。男性の場合は却って、自分で考えず仕入れた知識に頼るタイプだけど。

「女性性の傾向として、安らぎ(不快でない限り)=充足」
「男性性の傾向として、自由(不快でない限り)=充足」

平成15年2月11日ku55.jpg

posted by tomsec at 18:59 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月29日

54*快感の背骨

「男の料理」というと、何か野趣あふれる豪快なイメージがあるね。ジェンダーフリーといわれる昨今ではあれど、男性ならムチャクチャな調理をしたって大目に見てもらえるのは有り難い。
 僕の父親は料理上手だ。単身赴任の自炊に始まり、既に20年近く経った今も派手さはないが旨いものを出す。NOレシピが信条の母親が作る波瀾万丈な献立より手堅いのは、やはり気質というやつか? 僕も料理は作らなくはないが、己の腹を満たすレベルを越えて上達する見込みは薄いな。

(いつまで経っても親父には敵わないな)と思う。散髪なら僕も自分の頭ぐらい(バリカン刈りではあるが)出来るようになった、けど魚を下ろしたり捌いたりする自分なんて想像も及ばない。
 ところで、父がホットプレートで作った広島風お好み焼きを食べながら思ったんだ。(男性の集中力というか凝り性なところは、表れ方として洗練と発展の2方向があるのではないか?)ってね。
 洗練型・指向性は完成と収束。型を極めてゆくタイプ。料理では美味しくなってゆく。
 発展型・指向性は開拓か拡散。型を崩してゆくタイプ。料理では奇抜になってゆく。

 僕が寝不足に陥るのは、夜は集中力が高まるからなのだ。といって、その高い集中力でゲームしたり唄を作ったりしてるので、家族の不眠に貢献する事もしばしば。ゲームに関しては、食事抜きで三日三晩ぶっ通して気を失った事もあったなぁ。
 作曲も同様で、降って湧くイメージを何とか定着させるまで中断できないんだよねー。忘れてしまう前に形に留めなきゃ二度と思い出せなくなるからさ、僕は絶対音感もないし音符も書けないから仮録りしておくんだわ。まずギターでイメージ通りの音を捜して、仮録りできる程度まで練習して録音するうち夜が明ける…。

 唄ってさ、でも実は誰でも作ってるんだよね。知らず知らずに口づさんだり鼻歌にしてる、あのヒラメキを覚えておくのが大変なだけでさ。それを「ドジョウすくい」に例えるなら、五線譜はドジョウを手渡しする手段な訳だ。ドジョウをすくうだけなら、別に安木節スタイルじゃなくても構わない訳で。
 僕の場合は詞が先にある事が多くてさ、昔のヤンソン(歌本)形式で歌詞の上にコード(和音の記号)を書いておくだけなの。伴奏となる和音の展開が決まっていれば、とにかく主旋律は付いてくるからね。ってコトは、僕の唄ってコード進行が背骨なんだなぁ。
 メロディとかビートの善し悪しより、コードの気持ち良さ。たまに歌詞抜きで曲のイメージが出てきたりする時もあるけど、コードさえ覚えていればメロディも思い出せるし。

「E.V.C〇fe」という本で、〇本龍一が「コード感は、100年周期で変わっているのでは」というような事を言っていた。クラシックで(ある年代まではコード進行の中にある快感が分かるんだけど、ある時期よりも古い音楽になるとその感覚が断絶してて、気持ち良さが分からなくなる)って。
 人が音楽から受ける快感というのは、大きな意味での時代の変化に影響されている…。うーん、理屈は判らんけど妙に腑に落ちる感じ。そして時代によってコードに感じたり、リズムに感じたり、メロディに感じたりするというニュアンスも。

 聴覚と味覚の快感には同じような仕組みがある…、そんな気がしない? 味にも時代性があって、料理にも快感の背骨があるんじゃなかろうか。
 食材と調味料と、調理方法…? そんな区分けでもないんだろうけど。

平成16年9月29日ku54.jpg

posted by tomsec at 22:57 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月18日

53*ハッピーエンドの分水嶺

 昨夜、家にあった「もののけ姫」のビデオを観たの。封切り時に劇場で観て以来(いつかまた観よう)とは思ってたんだよね、でも最近になって特に脳裏をよぎる機会が増えて気になってたんだ。
 ところで「地獄の黙示録」って映画、あるでしょ? あれは自分にとって思春期から今に至るまで、最も脳裏をよぎる映画なの。近年公開された「完全版」と、どっちもビデオで一度ずつ程度しか観てないのに…。
 そんで「地獄の黙示録」の解説本を読んでみたんだ、単なる戦争娯楽大作じゃないって事は解ってたんだけど。計算された哲学的要素とベトナム戦争の実話に基づいた、戦争という行為そのものの本質を描く作品だったんだよねー。深い、というか情報量が濃い!

 戦いとは勝つために行使される手段であり、そのセオリーを追求してゆくとカーツ大佐という人物像に辿り着く。それは全世界的テロの首謀者とも重なるし、現在のアメリカもまた、未だに四半世紀前の映画を超えていない…。
 話は昨夜の事に戻るけど、実は「もののけ姫」のビデオを観た後で眠れなくて本を読んだのよ。ラフカディオ・ハーン著「怪談・奇談」。別にホラー好きとかじゃなく、南〇坊の「李白の月」と「仙人の壷」で神仙譚や怪異譚に興味を持ってね。
 でも随筆にハッとさせられたの、特に「焼津にて」を締めくくる文章。この新学社の昭和52年版は引用を禁じていないので、その辺の件を転載しちゃおう。

[人生は神々の音楽だという言葉を何処かで聞いたことがある。その説によれば、この世の啜り泣きも笑いも、その歌も叫びも祈りも、歓喜と絶望の生の声も、それらが立ち昇って神々の耳にとどく時分には必ず完全な調和のとれたものになっている。それゆえ神は苦痛の音色を押し消そうとはなさらない。そんなことをすれば天上の音楽は台無しになってしまうから。苦悶の音調を欠いた音の組み合わせは神々の耳には堪えがたい不協和音に聞こえることであろう。
 或る意味では私たち自身が神々のようなものである。なぜならば、生まれる前から続いている記憶を通して音楽の恍惚境を私たちにもたらすのは、数限り無い過去の生者たちの痛みと喜びの総和そのものに他ならないから。死んだ代々の人たちのすべての嬉しい感情と悲しみの感情と同じように私たちが日の光が目に映らなくなるだろう時から百万年経ってから、私たち自身の生涯の喜びと悲しみはもっと豊かな音楽となって他の人々の心に入ってゆくだろう。(森 亮・訳)]

 ソローが「森の生活」で記した言葉と似た眼差しを持ってたんだなぁーって思ったね、この小泉八雲として知られる人。9世代先の子供達を見てるような視点、というか。
 神々の音楽の中では、いわゆる(つい願ったり叶ったりしてるようなハッピーエンド)なんて、壮大な交響曲の小さな節目みたいなもんだ。そんな予定調和で段落を着けてくのも好きなんだけど、全体の眺めは見失わなわずにいたいと思う。
 アシタカは「曇りなき眼で見定め、決める」と言うんだ。森の民と里の民、その二つの力の共存を探るという困難な場所に留まり続けようとするの。それでも争いは避けられず、神は人に殺されてしまったけど、それでも。

 密林の民に神と崇められた男を殺すウィラード大尉は、軍命に従わずに自分の意志で物語を終わらせたのよ。そして新たな神を得た民は、彼に倣って武器を捨てる。でも彼は、コッポラ監督が示そうとした「未来へのヴィジョン」へと闇に消える…。
 たとえば(水の流れが二つに別れる場所)を意味する「分水嶺」という言葉は、決断の時を指したりする。しかし僕はね、この分水嶺からの眺めを見届けたいって思うんだわ。決して優柔不断でなく、流れ落ちるどちらにも身を委ねないような姿勢で。

 最近、仕事で使う薬品のせいで右手が荒れるようになってきたんだわ。よく知らないけどアトピーみたいで、その湿疹が出来るたび「もののけ姫」を思い出したの。でもそれって何の関係もないんだよね、タタリ神の呪いとは。
 それとこれとは話が別、って所に関連性を見いだしたりするのが「個人の神話」なんだな、善くも悪くも。でもそれはひょっとして、ジョーゼ〇・キャンベルの「生きるよすがとしての神話」にも繋がってるような…。
 だからどうだ、という話でもないけどさ。

平成16年9月11日ku53.jpg

posted by tomsec at 21:00 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年09月05日

52*返す言葉

 良くない知らせは、早く遠くまで伝わるものだ。それが生き物の摂理だとは分かっていても、やっぱり(当たり前にバッドニュースが降り注ぐ世の中で良かったのか?)と立ち止まってみたくなる時があったりして。そうじゃない世界なんて、もはや想像もつかないんだけどね。
 巷間を騒がす話題が、非常に身近な危機だった時代とは違う。だけど、ひょっとしたら身近さの範囲が、自分が感じてるより拡大してるのかもしれないなぁ。世界情勢が及ぼす経済的な影響なーんて意味じゃなく「すべては象徴として現れてる予兆だ」として眺めると、この身に迫り来る警告としては相当深刻な気がしてくる昨今。

 世界では色々な事が起こってる、というか主に人同士が争ってる。それを知って思うのは(人間って、心は進歩しないんだよなー)って事。大抵が過去の不満に起因して(あるいは口実にして)てさ、あらゆる文明的な進歩は争いに勝つため生まれたといっても過言ではないくらいだもんなぁ…。
 俗に「9・11」と称される事故か事件があって、勧善懲悪の人と反戦の人が日本じゅうで盛り上がってた頃。コンビニで買い物したら、店員の態度が微妙に刺々しかった事があるのね。その実直そうな青年の目が政治的意図を語ってたんだよ、思い違いでなく誰が見ても明らかに分かるように。こっちがL‐2B(薄手のMA‐1)着てっからってさぁ、アーミー色してたら戦争っていう短絡さかよ…。坊主と袈裟を同じレベルで憎まんでくれ。

 その正義に燃える若さは仕方ない、身の回りに戦争の恩恵を被っていない事柄を捜すほうが難しいんだから。つまり僕らの足元は負け犬の血で濡れてるのに、目の前の脅威だけしか見えてないんだな。誰の日常も、勝ち残るために編み出された技術にまみれてる。そんな事を矛盾に思ってる人間が、彼に何を言えただろう?
 イージー・ターゲットに気を取られがちだけど、問題の根っこは分かりやすい物の中にはないんじゃないかって気がするよ。それは例えば少年凶悪犯罪なら、あの宮崎勤事件の時にそう思ったんだけどね。犯人を糾弾したりオタク文化が犯罪の温床だと見なしたり、毎回その繰り返しで同様の事件は根が深くなる一方に思えるんだよ。オウム真理教の件でも、背景にある社会を探ろうとする論者を「教祖擁護だ」と論壇から引きずり下ろしたりしてさ。

 確かに「被害者の立場になって考える」と言うのは間違いじゃないよ、ただ何もかも感情的に流されてる感じも危なっかしいんだよなー。だって「弱者」って言葉は最強じゃん、圧倒的優位に立ちたい時に使われたら敵わないもん。そして弱者の味方は善意を持ってるし、善意も割と最強に厄介だからね。良かれと思っている人の態度や言葉って、時に他者を容赦なく刺すから。
 ところで「テロは悪だ」という断定表現は、今や常識なのかねぇ。この「テロは悪だ」ってのと「戦争反対」って、なんだか近い匂いがしません? そう言われて何の疑念もなく(当然だ)って思ってる人、やっぱり多いのかなぁ…。てなこと口走ってて要らぬ誤解を招かぬ為にも「私は、あらゆる人殺しに同意しない」と明言しときます。それから「どんな大義名分にも加担しない」というのも明確にしとこうか。

 もちろん悲観はしたくないのよ。小さな声で語られる小さな取り組みが、次の世代を変えてゆくんだと信じてる。それはまだ滅多に聞こえてこないけど、僕は小さなエールを送るのです。それがメディアに騒がれないように、着実に根を延ばしてゆけるようにと。
 大声で語られる言葉に沈黙するしかない昨今、僕に返せる言葉は少ないのです。

平成16年9月2日ku52.jpg

posted by tomsec at 21:55 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2004年08月19日

51*山と川の思い出

 前回のオチを引きずるようだけどさ、ポストカードで見た水爆のキノコ雲って入道雲に似てるんだよねぇ。
 日曜の昼下がり、表を歩いてたら山のような入道雲が!…というのは見間違いで、どんよりとした雲に薄日が差してただけだった。今日は珍しく雨だったもんね、それにあれは都会の真ん中じゃあ滅多に見られるもんじゃないか(いえ、下町ですがね)。海とか山にでもあるまいし、だからこんな町中だと違和感あるんだ、思い違いにしてもね。

 大体、山みたいな大きなものって見慣れてないんだわ。山が見える場所に住んでたのって、山口県での2年間だけだもんなー。それも低い丘に毛が生えたような山だったから、家並みの向こうにそびえる…って程じゃなかったし。
 あとは関東平野の、どちらかといえば海寄りで育ったからね。大阪近辺の人にとっては、この辺は逆に「山が見えなくて、なんか落ち着かない」って感じらしいけど。
 僕だけかもしんないけどさ、東京の人間から見た関西って印象は東京〜横浜みたいなもんなんだよ。だけど案外、というかやっぱ積み重ねられてきた文化の成り立ちが別物なんだね。それ以上に、山の話を聞いて(世界の見え方が違うんだな)って気がしたの。良い悪い関係なしに、ただ同じ眺めを想像もつかない感じ方をしてるなんて面白いじゃん?

 僕だったら、山が覆いかぶさってくる圧迫感の方が却って落ち着かないのね。温泉地とか旧街道の宿場町とか、そういう山の方に行った時の感じは異郷に身を置いてる気分なんだよ。心地よい疎外感がね、僕にとっての山に近い土地の空気。
 そう、山口県にいた時だってそうだった。言っちゃ悪いが実際イナカでさ、建物や道は整備されててもTVが4局しかなくて(番組も古いし)電車は近くに走ってないし(しかも何分も待たされる)お店と平らな道が少なかったのね。学校の給食がなくて、外でパン買って公園行ったりしてたなぁ。
 呑気な土地柄というか、相手にされてなかっただけだとしても僅かに温かい感じ。まぁ教師からも(東京モン)という目で見られてたし、当然そんなガキは他にいなかった訳で、それでも何も言われなかったのは妙だよね。あの時期の記憶だけ、起きぬけの夢みたいにイマイチ中途半端なんだけど…。何かトラウマでもあるのか?

 ところでその公園、そりゃあもう桁外れに広いんだわ。道から外れた子供が迷ったとか、野犬の群れが住んでるだとか聞かされてたけど、代々木公園サイズから数倍の公園があってさ。すでに手の入った自然ではあっても、誰も来ない自分だけの世界を身近に感じられたのは貴重だったと思う。
 時折、ふいに思い出すんだ。誰にも見つからない高台で、学ラン着たまま何するでもなく過ごしてた事を。そんな場所が欲しいから記憶を辿ってしまうのかなぁ、なんて考えてみると山の見えない町には気持ち的に逃げ場がないね。海も見えないし。

 僕は、ずっと川のそばで生きてるなーって思う。友達と一緒に部屋を借りてた頃を別にして、の話だけど。生まれた場所から、ひとつの川を下流に向かって移動してるだけなんだよね。これも何かの縁なのか、二つの川に挟まれて暮らしてる。
 台湾でも、土手に上って川を見た時、妙に安心したんだ。そんで(あー、やっぱり川なんだ)って思ったの、人の気配がある川ね。そういえばハワイイでも、ローラーブレード履いたまま橋の上で放心してたなぁ! って、こうなると結構こじつけっぽいか。
 メキシコは例外で、ユカタン半島の大地は石灰岩だから川がなかったのよ。でも真っ平らで山もなかったから割と馴染めたのかも。ハバナでも川沿いを走ったっけなぁ…(まだこじつけてる)。

平成16年8月15日
ku51.jpg

posted by tomsec at 22:19 | TrackBack(0) |  空想百景<51〜60> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする