2003年12月09日

30*過密(短編1)

 ちょっと今回、話のボリュームを減らしてみようと思います。今までの文章量だと、携帯端末で読むには多すぎたみたいなのね。で、そういった御意見を実験的に反映させてみようという試みなんですわ。まあ単に小分けに出してく、それだけなんですが。
 皆様の御意見、ご感想などお待ち申し上げてます。では以下本文で。

 小学生の頃、団地の隣の塀から落ちて頭を打ったの。記憶がないんだけど、救急車に乗って3日間ぐらい昏睡状態だったらしいんだわ。その時に腰骨を痛めて以来、腰痛は持病のようになっちゃってて。治ってからも季節の変わり目なんかに動けなくなったりしてさ。
 とはいえ、ついにコルセットを装着する羽目になるとは…。さすがに原因は、そんな大昔のケガと違うんだけど。体を使う仕事が好きだから仕方ないにしても、もうちょっと普段のメンテナンスに気を遣っていれば長持ちしたのかもしれないな。ともかくこうなってしまった以上、腰痛と共存してゆく人生というものを考えてゆこうと思う近頃。

 ところで最近て、医療事故の話題が目に付くね。治療の方法も機材も薬品も次々と新しくなるのに、現場にいながら全部に熟知しろと言うのも無茶な要求だよなあ。だからって「仕方ない」の一言で済まして良かぁないけどさ、割と間近で見てると誰が悪いとかいう話じゃないって感じるんだ。
 一年前、大学病院てところで診察を受けた事があるのね。大きいしハイテクな感じにも圧倒されたけれど、ギッシリ! っていう位の混雑ぶりの方が凄かった。大体、初診から手術して抜糸まで、いっつも違う医者でさ。とにかく患者を捌かなきゃならない、それは分かるにしても、あんなふうじゃあ不信感も募るってもんだわ。
 あの殺人的な慌ただしさ、ヒューマンエラーどころじゃないって。細分化/専門化する医療、それに慢性的人員不足が招く意欲低下。面倒を見切れない程の患者を抱えなければ、成り立たない病院経営(一般企業みたく売り上げ伸ばすとか出来ないし)、そして普通に死ぬ事を許さないような生命倫理。

 すべての問題は、過密だ。…ある時、そう気が付いて腑に落ちたんだ。
 戦争も環境破壊も、結局は人間が多すぎるせいなんだよね。実際それが唯一、あらゆる問題を解決出来る手段ではないかとさえ思う。だって、文明の進歩(というか便利さ)には歯止めなどかけられないもん。理性なんかより、やっぱ快楽の方が強いんだから。社会共産主義が腐敗したのも、エデンの園から追放されたのも理屈じゃないからね〜。
 ロジックじゃ上手くやれないのは分かった、でも快適さに流されてるような現状もヤバい。だからって戦争で人減らしするような暴力性の時代からはオサラバしたいしなぁ…。

平成15年12月9日
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2003年12月02日

29*雑貨屋Sと味の世界

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 家の、すぐ近所にSという雑貨屋がある。昔ながらの雑貨屋だから、もちろん舶来品なんて置いてはいない。駄菓子からタワシまで、ベタベタに身近な小物であふれている店だ。ここに越してきて20年以上経ち、周囲の景観は変わってゆく中で相変わらずイナタイ店構えでやってる。
 それはそれで味があり好きなのだが、以前から店の主人が苦手だった。顔を合わせると「よお、今日はどうしたぃ?」と話しかけてくる。といって別にこちらを見知っているからでなく、さりげなく情報収集をしているのだ。とぼけた口調で所在を聞き出し、中途半端な時間帯に行けば「仕事、何やってんだっけ」と探りを入れてくる。下心なんてないのは分かる、下町に生まれ育ったオヤジの性なのだろう。ウザい上にゲスを絵に描いたような風貌で、母や妹なんかは一切利用しないが。

 しかし便利には違いなく、ちょっとした空腹とかタバコを切らした時に重宝しているのも事実。夜中に電球が切れた時も、11時過ぎまで開けてるのは有り難い。それでも最近は僕も(あそこで買う位なら、駅前まで行くか)と思うようになってきた。その原因は、みかんの不味さだった。
 口の悪い妹に言わせると「あそこの青果は昔っから腐ってた」という事らしいのだが、確かに品が悪いとはいえ食えない程ではなかった。それが近頃、買うたび後悔させられる事ばかりなのだ。袋に1個ぐらい痛んでるのがあっても仕方ないと思うけど、中身が干からびてたり皮が中身に張り付いて剥けなくなってるのばかりでは腹が立つ。20個入りで5個しか食えない! 妹いわく「仕様がないじゃん、それがSなんだってば」

 雨の日に傘差して帰り道、通りすがりの八百屋の店先に、カーバイト光に照らされて美味そうな果物…。いやいや、手荷物が増えると傘が持てないし。そう言い聞かせながらも、間もなく家の明かりが見えようかという場所に雑貨屋Sがある。降参々々、こりゃあ買うしかないよなぁ。このところ毎回、そういう思考ルーチンで不味いミカンばかり食っている。今度こそと期待して手に取る1個、3袋も購入したから45個の期待を裏切られ続けたら(頑張れ小売店)という思いはあれど0勝45敗15引き分けのミカンではいけない。
 食べたい気持ちがイメージする美味しさに遠ければ遠いほど、欲求不満は高まり不味いと感じるものだ。CMで肩透かしを食らうのが、このパターンだろう。そして、それとは微妙にズレるのだけれども「イメージした味と実際が違っているほど不味いと感じる」という事もある。Sで買った、グレープフルーツの缶詰が正にそれだった。ま、買う方も買う方なんだが。

 どうも僕は目新しい物に弱い。というか、どこかで心地良い裏切りを期待しているのかもしれない。中学の時にオシャレ雑誌でカンパリソーダなる飲み物を知り、酒屋の安売りでまとめ買いをしたのが始まりだった。僕が勝手に思い描いた(マイアミビーチの午後の味)と全然違っていて、その時からカンパリ=不味いと決まった。その後も、コーヒーの炭酸割り的なジュースで失敗していたりする。
 それはともかく、グレープフルーツの缶詰。缶切りで開けたら、出てきたのは煮しめたカズノコみたいな代物だった。缶ミカンの鮮やかさと比べて、何故こんな色を付けてしまったのか理解に苦しむ。しかも独特の苦み走ったシロップで胃がムカムカした。この場合は見た目が美味そうだった訳ではないが、はるかに予想を上回る不味さだったのだ。

 もっと分かりやすいケースでいうと、メキシコ旅行の「チョコだと思ったらモーレ・ソース事件」がある。モーレ・ソースは、世界3大ソース(なんかトムヤムクンみたいにウソくさいが)の一つと言われている、メキシコ料理に欠かせない調味ソ−スらしい。それを板状のルーに固めた物が、現地のスーパーで売られていた。それは一見、知らない人間にはどう見てもプレーンなチョコレートケーキだったのだ。
 一緒にいたメキシコ人に「指で取ってなめてみろ」と言われたのだが(そういう事は問題ないようだ)、僕は当然のように甘い物だと認識して躊躇なく口に入れてしまった。あれほど、見た目と実際の味覚にギャップがある経験は二度とないだろう…願わくは。最初に物凄い違和感だけがあり、次の一瞬には咳き込みながら「おえ〜!!」と叫んでしまった。超甘口カレーのルーを、親指一本分ぐらい食べちゃったのだ。しかもチョコケーキだと思い込んで。

 で、何の話だっけ? そう、見た目と味のギャップについて。ついでだから書くが、山口県のスシの話。ちょうど持ち帰り寿司が流行り出した頃で、小学生の僕は好物のマグロを最後に残して折り詰めを食べていた。いよいよメインディッシュ! と思ったそれは、口に入れたら赤身ではなく奈良漬けの握りだった。まだアボガド巻きなどというニューウェーブ寿司が話題になるより数年早く、山口県の持ち帰り寿司店で。漬物を握るなっての、オニギリじゃねえかよ。
 あと、韓国の高麗人参ガムね。これは逆に案外いけた、さすが奥地の恋人ロッテだけはある。ゴボウみたいな独特の土臭さを美味いと感じる、そんな意外さも含めて。パッケージは板ガムのコーヒー味に似た色で、ちゃんと高麗人参のイラスト入りだった。
 とまぁ、とりとめなくも趣旨一貫した話題ということで。

平成15年12月2日

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2003年11月17日

28*メキシコ旅情・予告編

 間もなく(といっても少し先だろうけど)、新たな旅日記が始まります。
 まぁ古い話ではありますが、以前の原稿を書き直し「メキシコ旅情」と銘打って(命名byP氏)連載していく予定。自分で言うのも何ですがね、これが実話見聞録!?って疑いたくなる位に非現実的な旅でした。って、旅をすること自体が非日常なんだけど。後は、それを伝えられる筆力があるかどうかにかかってくる訳だなあ。それは…読んでのお楽しみという事にしといて。
 で、今回は予定を変更して「メキシコ旅情・予告編」なのです。一口にメキシコといっても大方のイメージとは違うので、前知識として読んでいただこうかと。実を言うと、まだこんな発表の場が出来るなんて想像もしなかった1年以上前の文章でして(故に題名も違ってます)。手抜きしたい訳じゃないんだけど、原文ママで載せちゃおうと…。いえいえ本当に、怠けたいとかじゃなくてアレですから何というか。
では以下本文。

「25days of Cancun(&Havana)」
はじめに
 1996年の9月から10月にかけて、僕はメキシコのカンクンに行ったのよ。キューバの首都ハバナにも3泊4日したけど、まぁこっちはオマケの小旅行だね。
 かなり古い思い出話になるんだけども、なかなか面白かった。今になってみて、自分でも(マジで?)と思っちゃうような事ばかり。省略と脚色もあるけど、僕自身の体験に基づいているんで作り話じゃないですよ。別にネタ作りに無茶した訳じゃないのに。
 しかし、なんでまた?
 ハバナは小旅行だから置いといて、なぜカンクンに行ったのかを説明しときます。
 いきさつは、過去に数年さかのぼって、僕が英会話を習いに行ってた頃。そこで、トニーというアメリカ人の先生と知り合いになったの。で、気が合って一緒に遊ぶようになって、メキシコ人のエドベンとも仲良くなったってな訳。
 エドベンは、トニーのルームメイトで、しばらくして実家に帰ったのね。で、忘れた頃にトニーから「今度メキシコ行くんだけど?」と誘われたの。エドベンちに。それが、この年の春先だったんだ。
 トニーは4月に「日本での就労ビザが切れるから」って先に出発、僕は金ないし数カ月遅れて現地入りと相成った次第。でも我ながら図々しいよな、本当に行っちゃうんだから。
 それまでも、トニーは海外行く旅に誘ってくれてたんだけど、やっぱ社交辞令だと思うよね普通。でも今回は洒落で「じゃあ行くよ」って言ってみたんだわ、したらエドベンも「早く来い」って。こういうのってアリなのねー! 信じらんなかったけどバイトして親にも借金して行っちゃった。そんでエドベンちの2階に間借りしてたトニーの部屋に、居候。
 ま、そんな経緯でカンクン。
 それはどこか? と言いますと、メキシコ南部のユカタン半島の先っちょ。最近じゃ日本でもチョイと知られるリゾート地、白い砂浜と青いサンゴ礁でハネムーナーも御用達だとか。ホテル地区だけでもアクティビティ充実だし、近場には世界的なダイビング・スポットや、マヤ文明の遺跡もゴロゴロ。
 当然ながら、暑い! 特に7〜8月は非常に暑い、とトニーが言っていた。秋はジュビアと呼ばれる雨季に入るので、比較的マシなほうらしい。赤道よりは北にあるけど、それでも充分暑いのは確か。
 物価は、観光地だから地方より高いけど、まぁ日本と比べりゃ安いんじゃないかな。高級ホテルにいた訳じゃないから分からないけど。
 治安も、他の町よりは全然良いみたい。貴重な外貨収入の拠点だし。ただ郊外に行くなら覚悟はしといたら? っていうか、暗い夜道だって保障はできませんが。
 それから文化は、北部のメキシコシティとかのとは全然違うみたい。テキーラよりもラム酒、まさしくそんな感じ。スペイン人よりマヤ人の血が濃いから、間違いなく不精ヒゲは嫌われる。というか、怪しまれるので止めましょう。
 あとは読んでみてね〜。
 英語も日本語も堪能なエドベンと,彼の家族の好意に感謝。グラシアス!
 もちろん、トニーにもね。

…という訳で新春大公開! というのはウソ、近日中に(という気持ちで)。

平成15年11月13日
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27*無いが有って生きる物

 台湾で飲んだ烏龍茶は美味かったなぁ。今まで飲んでいた缶のそれとは、まったくの別物だったの。
 急須でいれた茶の味には、広々とした風景があると思う。今までで一番美味かったのは、薩摩琵琶の師匠に出された緑茶。折り込まれた風景の豊かさ、とでも言いましょうか。
「一杯の茶を味わうには、心が今ここに留まっている事だ」…折に触れ思い出す、ベトナムの詩人の言葉。心が遠くにある事に気付かなくたって、いつも感じていると錯覚したまま過ごしていられる。しかしながら本当に(うまい)と思える、そんなコーヒーやタバコが一日にどれくらいあるだろう?

 引きこもり、に関するトークセッションのような番組を観たのね。
 そこにいた多くの人は自身の状態を自覚して、その状態を変えたいと思っている人だった。そんな彼らの一日の過ごし方は、超インドア派の僕と大差ないの。ただ僕がそうする時は好きで選択している訳で、彼らは自身の選択としては選んでないんだな。他の選択肢が分かっていても選べない、と。好きじゃない事をしてると、自分の心を傷つけるよね。
 誰の心にも、不確実な自分自身を定義しようとする意志があるとする。それは外界と自分とを測る、自分自身が便宜的に創造した座標プログラムなの。なのに自分以上の価値を与えてしまい、すべての権限を譲り渡してしまう。方位磁針で包囲自身(…冷)。

 ところで、町なかの傍若無人な人が目立つようになったと思わない? どっちも根っこは同じだったりして。何でも真正面でキャッチして応えようとすれば、誰でもキャパオーバーになってしまうと思う。としたらさ、手前勝手な振る舞いってのは案外「自分のキャパ内で何とかしよう」っていう必死さの一種だったりしないかな?
 ある意味「普通の生活」というのは、心を閉じてないと保てないのかもね。自分にとって関係ない(と思っている)事柄には感覚をマヒさせる、その能力を「健全」と定義してるのかも。だけど何かの弾みで重要性の遠近感が一緒くたになったり、そりゃあ目詰まりを起こしたりもするだろう。

 もしかしたら、現代人(なんか古いね)の心境に「現実に閉ざされるより、心を開け放っておきたーい!」という欲求があるんじゃないかな。つまり社会の窒息状態に対する意思表示・・・というより人の心ってデフォルト設定はフルオープンで、閉じている事の負荷が重いのかも。もしも本当にそうなら、引きこもる感覚が社会に還元されれば相互にとって良いのに。だって部屋の外に出られる人も出られない人も、どちらも広い世界で息をしているとは思えないんだわ。
 もっとも、社会のほうが隔離しようとしているという考え方も出来るかな。この世界の仕組みにとって、機能しない要素は排除しようとする意識。ポジティブである事、結果を出す事を求められる。向上を善とする、その他に選択肢のない空気…。と、突然アテネオリンピックの話に。

 巷の噂では、現地が呑気に準備してて開催が危ぶまれているって? なんか良いなぁ〜、そういう俗に言うローカル・タイムって奴。効率なんかと無縁でさ、GMT(標準時)でキッチリやってる世界とは対極な感じ。必ずしも(楽しく働いてまぁす)って訳じゃないにしろ、使役されてる感てのは少なさそう。もちろんGMTの良さも恩恵も分かってる、だから共存してゆける余地があればと思うんだ。
 最近、面白い話を読んだ。働きアリの中には、まったく仕事をしないアリというのが一定の割合で存在しているらしいのよ。それで思ったのは、老子の「有るというのは、無いがあるから役に立つ」というような言葉。
 もしも健全な人達が変化を恐れないのなら、排除されていた人の彩りを加えてゆけるのなら、この視界は更に豊かになりそうな気がする。そういう余裕が心にあれば。
 一杯の茶を味わう、という困難さ。

平成15年11月17日
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2003年11月11日

26*YFS&NQ

 YFS&NQ。これは僕の造語で、しかも大した意味はないの。YESでもなくNOでもない・・・まさに見たまんまなんですけどね、つまり(肯定する条件には足りないし、否定するには多すぎる)という。
 なんかね、世間ってのは実際そんな感じがするの。まぁ現実って理想どおりいかないけどさ、それにしてもパズルのピースが全部ガタガタなのってのもねえ。

 たとえば社員食堂なんかでTVでも付いてて、あちこちのテーブルで食事しながら話をしているとするでしょ。選挙とか中東和平プロセスとか、身近な犯罪とか事件の裁判とかのニュースをやってたりして。まぁ軽い話題というノリで、割と普通に「クビにしろ」とか「死刑だ」とかいう物騒な言葉が飛び交ったりする。
 だけど、ふと考えてしまうのは(今ここで話されている、無責任なジャッジは何か?)って事。色々な場所で同じように、色々な人達がTVに向かって投げかける言葉。そんな軽々しい言葉でも、総量としては相当なものだろう。町中の空気が、それらの言葉で一杯だとしたら。その中で起こっている、そうした出来事って何なのかな? って。
 というのも「物質の最小単位はエネルギーであり、観察者の期待が物体の動きに反映される」という話を思い出すからなんだ。それが真実かは別問題で、ただ自分の言葉にある力が目に見える事象にリンクしてないとは思わないのね。

 常に暴力的な発言を繰り返す人と、そうでない人は同じ場所にいても別の世界を生きている。初対面で「キライ」と思ったら、相手も同じ印象を持っているらしい。わざと人を不愉快にさせるより、逆のほうが自分自身の居心地も良くなる…。より具体的に言うなら、こんな感じで個人の内と外はリンクしてると思うの。
 抵抗だけなら動物でも出来る、非難だけなら幼児でも言える。…そんなフレーズが頭に浮かぶんだわ、競争原理に染まった姿勢では「勝ち負けのないゲーム」なんて楽しめそうにないもん。だけど僕も、勢いで口走ってから思わず口をつぐんだりしてるんで、偉そうに言える義理じゃないんだな。で、YFS&NQという訳。

 だって僕には平和とか平等って漠然とし過ぎてリアルじゃないし、暴力を否定する気もないのね。薬も過ぎれば毒になるって段じゃないけどさ、何かと比較して強すぎたエネルギーでしょ? その余計な分の力を打ち消して無力化すれば無駄じゃないだけで。もし仮に暴力を地上から撲滅したとして、それで得られる平和とかが幸福とは思えないんだな。
 暴力に直面するのは苦しいに違いない。でもその状況を強制排除できるチカラは、苦しみ以上に強力な何か…いわゆるパワーかフォースのどちらか。即効性があって目に見えるパワーのほうばかりで、別な要素について語れる人がメディアから消えてしまう現実って残念に思うよ。

 ではYFS&NQを、フィクションとノンフィクションの世界で考えてみましょう。というのは、どこかで読んだ「通貨や時間などは虚構の制度」という文章が引っ掛かっているからなんだけど。
 お金なんかは単なる決まり事で、所詮は社会集団の幻想なんだって。本当は存在しないけど、必要を感じてYESのスイッチを入れているに過ぎないと。それで一本の木よりも、ゼロ(無存在)に価値が生まれてる。なるほど、そう考えて見渡すと日々の暮らしはフィクションの中だ。海に浮かべたボトルシップみたいだ。
 では何がリアルなのか? そこで思い出すのは、ある作家が使っていた「体の言葉」という言い回し。話す人自身が自分の体で身につけた、体験から生まれた言葉。他人の引用や意味ありげな常套句より、理屈じゃなく気持ちに収まるような。言葉が生きている人になんて、滅多に出会えるもんじゃないかもしれないが。
 我想う、故に我有り。始めに音ありき。…そして世界は満ちたり。

平成15年11月11日
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2003年11月07日

25*町の匂い、土の記憶

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 八丁堀のビジネスホテルに泊まったのですよ。
 時代劇の捕り物で知られる町名だけど、東京駅から程近いオフィス街なのね。とりたてて何があるでもない、直線道路に箱を並べたような町。家から銀座までの途中にあるので、車やチャリなんかで通りがかった事は何度もある。まあ、割と見慣れた町並みな訳よ。

 でも面白いもんで、今まで通過点としか思っていなかった場所も、たかが一泊とはいえ宿を取り食事処を選ぶとなると、初めて来た町のように見え方が全然違ってくるのよ。店構えは今風なビルの一階でも、昔ながらの看板を掲げてるのに気が付いたりとか。そういった隅々に染み込んでる、他のどこでもない時間の積み重ねが浮き出て見えてきたんだわ。
 なんかねー、どうも小綺麗な区画にそぐわないんだ。オフィスビル街になってても、なぜか未だに古い家並みの気配がするんだよ。しもたやと敷石と板塀の、ヤツデと苔とイチジクの匂い。八丁堀という土地柄、江戸の門前町として商売や卸売問屋が軒を連ねた頃の名残か? そんなのは、もはや裏通りの道端に、微かな形跡を留める程度なのに。

 それは自分が生まれるより昔の匂いで、本当は知ってる筈がないんだよなぁ。だから実は妄想とか錯覚なんだろうね、でも「土地の記憶」みたいなものが感じられる時ってあるよね? 自分が見ている景色と、感覚的な情報が一致しないような違和感。
…という話題と矛盾しちゃうんだけど、都市近郊の風景って無機質じゃない? 産業道路と安っぽいレストランと中古車センター、みたいな。シアトルでも台湾でも、そういうのって同じなのよ。たとえば北綾瀬とか、国道一号線沿いの眺めと一緒。まるでベタ塗りで、土地の匂いを拭い去ってしまいたいのかって思う。

 こうやって考えるのは目茶苦茶こじつけだとは思うんだけど、やっぱり人が住み暮らしてきた歳月と関連してるのかねぇ? 八丁堀なんかだと江戸時代から500年位は往来の行き来があってさ、それに比べりゃあ町外れの閑散とした場所は人の汗が染み込んでるとは思えない。仮に大昔から道があって家も建ってたにしても、土地の匂いが感じられない場所ってのは昔も寂れてたのかもね。
 そう。僕がいう土地の匂いは、つまり気配みたいなものの事なんだな。人間の息遣いじゃなく、その場所に残っている記憶というか。もしかしたら八丁堀の地面は、ここ30年ほどで作られた風景に未だ順応してないのかもしれない。まだビル街に変わる以前の残り香が、どこか抜け切ってないような。

 ところで、大阪を車で走った時の話。電車とかで行って、現地を歩く目線で見てるのと全然違うのね。運転しながら眺める大阪の町は(東京とは別の文化で成り立っている)って実感したのよ。歩いてても、東京じゃ日本橋近辺の問屋街でも有り得ない「大通りの4車線が全部一方通行」なんて光景を見かけたし。
 車を走らせて感じた違和感は、そうやって説明するのが難しいんだな。変な譬えだけど、トワイライトゾーンに紛れ込んだ感覚というか。SF用語で「パラレルワールド」って言うんだけどさ、過去に別の選択をしたら存在したかもしれない世界に入り込んでしまったみたいな。自分の見知っている、東京と似ているのに何かがオカシイ。

 同じ道路、街路樹、標示板、交差点…。なのに、何か決定的に違う感じがするの。個々のアイテムは共通してるけど、別の知らない発想に基づいて配置されてたような。思うに行政が明治以降に全国統一の道路整備を開始する時、すでにインフラ基盤があった大都市は旧来のフォーマットを活かしたんだろうね。
 だからきっと、その都市の思想みたいなのが違和感を生むんじゃないかな。東京の下町は昔、江戸城の門前町として他藩から侵攻をくい止めるような道路設計にされたそうな。平たく言えば、わざと見通し悪くてゴチャゴチャした道にしてたのね。戦後の区画整理もあって、今は良くなってきたろうけど。

 それから、これは大阪に限った話じゃないんだけどさ、やっぱ関東平野を見慣れていると「ずっと視界に山がある」ってのは不思議な感じ。まだ田園地帯だったら平気でも、都会じみた背景に山があるのは圧迫感を覚えるなぁ。とはいえ、ユカタン半島(メキシコ)の果てしなくフラットな光景も異様だったがね。
 なんかオチがないけど、まぁいいか。…って、前にもあったかな?

平成15年11月7日


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2003年10月29日

24*孤独と踊る者

 先程、母親から将来の心配をされてしまった。

 ま、客観的にも当然といえるかもしれない僕の生きざま。今まで何度も繰り返し話し合い、その度に僕は気持ちを新たに思うのですよ。道なき道をゆく覚悟、といいますか。

 しかし年を取ると心配性になるというが、母親が子供の心配を生きがいにしてるのなら一種の親孝行かもしれないね。祖母の話なんだけどさ、昔より母親の事を心配するようになってきてるの。僕から見てると(ばあちゃんはおふくろをダメな大人だと思ってるの?)って言いたくなったりして。母親は黙って言わせているんだけど、ああいう親子関係を僕と再現しようとは思ってない筈なのに。やっぱ見え過ぎる距離だから口を挟みたくなるのかね。

 年寄り全般、心配が好きだなって思う。それは相手が頼りないからじゃなく、構って欲しいからなのかなぁ。干渉にかこつけて、まだ自分が必要とされていると認めてもらいたがってたり。要するに寂しいのか、素直じゃないんだから。年と共に遠回しになってくものなのかね? アレ困るよ、気が利かない僕には。

 僕は、故・天本英世氏のように老いたいと思ってるんだ。あの人はクリーニング店の隅に寝起きして、開店前の早朝から店が閉まる夜まで外を歩き回って暮らしたのだそうだ。そして大好きなスペインに出掛けて、また日本で仕事して。そんな逸話を聞いた時、僕はドキッした。僕は、そんな朝の天本氏に出会っていたんだよ。

 その頃の僕は親元を離れて暮らし、初台で遺跡発掘バイトをしていたの。ちょっと野暮で前夜の居所を早く追われてしまい、冬の早朝から始業時間まで行く当てもなく公園のベンチに座っててさ。霧の濃い早朝で人気もなく、背の高い痩せぎすの男が音も立てずに歩いていたんだ。結構シュールでしょ? 僕も薄気味悪くて非現実的な想像に駆られたもの。

 そう。ユダヤ教みたいな帽子の下は白髪で、その人の不思議な静けさを湛えた表情は今も妙に思い出せる。だけど実際の天本氏については、実はよく知らない。ただ僕の中では、あの光景と彼の逸話がリンクしたんだ。年を取るというのは孤独な事だとしても、あの表情には一種の強さがあった気がしてくるんだよ。

 周りの友人は家庭を持ち遠ざかってゆくし、やがて家族は死んでゆく。そうなってから絶対的な孤独に気付いたりしたら、それは何て耐え難い事だろう。結婚して仕事して子育てしてさ、忙しくて感じずに済ませていても孤独が消えた訳じゃなかったって。

 最近、年寄りと接する機会が増えた。小姑みたいで煙たがられてる人なんかは「このこのぉ〜」って、こっちからベタベタ触ってると孫に甘えられてるような顔になるから面白い。どっちが甘えてんだか。僕が顔を合わせるのは昼間だけど、分別ありそうな人なのに夜中になると暴れ出したり錯乱したりするって話を聞くんだわ。やはり不安が不安を呼んでパニックになるのだろうか…? 

 それはもちろん環境のせいでもあるけれど(病院というのは患者を管理し制御する仕組みだから、ある程度の個人の尊厳は剥奪されてしまうのだ)、老いるとは「死に近い場所を生きる事」なのかと思う。わがままも痴呆も、死という絶対的な孤独への恐れと抵抗の手段かもしれないって。

 あらゆるものが去ってゆくのを肌で感じながら、それを受け入れる以外ない日常。分かり合える人も身につけた知恵も失われてゆく、だから人の手を求めたくなり、非現実へ目を逸らしたくなったりするのかな。誰も自分の話は聞いてくれないし、自分のために立ち止まる人もいない。

 彼らの目に光を見た時、見知らぬ異国で話し相手を見つけた時の目付きだと思った。そして逆に、互いの焦点が繋がる瞬間まで、向き合ってる筈の僕らの心が絶縁体のように離れてた事も解ったんだ。どんなに太陽を眩しく暖かく感じてたって、それも光速8分の一方通行でしかないように…。って、分かりにくい譬えだなぁ! そんな孤独があるって事さ。

 今の僕に打つ手はないし、それに孤独を手なずけるなんて無理だとしても、その手ごわい相手と仲良くやっていく道はある。それが僕の中の、天本氏の静かな表情なんだ。

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2003年10月18日

23*内省的な初冬の気配

 あ、もう夜中だ…。なんとなく喉が渇いて、飲み物を買いに外に出る。
 毎年の事のような気もするけど、冬の星座と夜の匂いは(父親とマラソンしてた小学生の僕)にさせるなぁ。今年も早々と、そんな季節になりましたか。
 しかし真夜中に外出するの、割と久々だわ。高校生から20になる時期に続いた、行き場のない夜と変わらない。空気が澄んでいるせいか星が良く見えて、明るい下弦の月が眠そうに僕を見下ろしていてさ。
 ところで、自販機の下に必ず下水のフタがあるのは何故かしら? やはり店主は、そこに誰かが落とした釣銭を回収してるのかなぁ?

 最近になって突然、友人Nが古い文庫本を返却してきたのね。
 僕が中学2年に転校してきてからの付き合いで、一人旅とMTBの師匠で現在は唯一のバンドメンバー。で、先日のスタジオ練習の後で彼が「部屋の中を片付けてて…」と言いながらセカンドバッグ(しかもニセモノの!)を取り出してきたのよ。
 どこかで見覚えのある、と思ったら僕の物でさ。中に入っていたのは、フリージャズのピアニストが書いたエッセイ。なんだよ、それも僕のじゃん。すっかり忘れてた、でも今になって…?
 本屋の付けたカバーに、若かりし僕の文字で「昭和57年9月10日」と書いてあった。という事は、まだ14歳だった訳か。ちょうど祖母のアパートで一人暮らしを始めた時期だ、というか彼と知り合った年だ。一人で映画や美術展に行き、初めてのライブに行き、フリージャズを聴きに行ったりしてたっけ(だって他に興味が一致する人がいなかったんだもん)。

 そうだ、筒井某の全集を買い揃えていたのもこの頃だ。その作家の熱烈な信奉者だった僕は、彼の影響で山下某というピアニストのエッセイを読んだのだった。そして、六本木のPというライブハウスにまで聴きに行ったんだわ。
 そうそう。アメリカンニューシネマの影響で米軍のフィールドジャケットを着て行ったが、なぜか恥ずかしい事に髪形はアイパーだったんだぞ。チャージという新しい概念の入場料を支払って、外で初めて酒を飲んだのだ。あれはジンライムだった。あと、演奏が始まる前に、スーツ姿のヤサ男に話しかけられて気が動転したのも覚えてる。
 初めて聴いたフリージャズは、ナベサダやオーレックス・ジャズフェスしか知らない僕には理解不能な約束事と緊張感の洪水だった。ガキだった僕には異質すぎて、気取った背伸びを即座に後悔した。だけど徐々に混乱と興奮で訳が分からなくなってしまったのは、単なるデタラメじゃない(何か)があったからなんだろう。

 その(何か)としか言えないものが、僕をハイにしたんだ。混沌とした渦の中に溶け出した時、自分もプレイヤーの一人のようになった。キメや、主題に入るタイミングが霊感のように降り注いでくる感じ。フリージャズは、集中して向き合う事を求められる音楽だと思う。真剣にならなけりゃ何も聴こえてこないんじゃないかな、って。
 その頃の自分は何かに飢えていたし、音楽にしろ現代芸術にしろ貪欲に向き合っていた気がする。物の譬えに「レコードを擦り切れるまで聴いた」というが、まさにそういう状態だったんだわ。80年代前半にはまだそんな時代の空気が残っていたし、当時の自分もまた必死になって何かを掴みたがっていた。それがうまく重なった時に、僕はフリージャズと出会っていたのかな。

 もしも今の自分がフリージャズと初めて出会っても、それほどまでには感じられない気がする。新奇な要素を受け止める熱が、自分の中に確かめられないというか。あんまり認めたくはないけれど、多分そういった理由で僕はフリージャズから離れてしまったのだろうなぁ。心地よいものに魅かれる事自体は、自然だと思うんだけどね…。
 センチメンタルと微妙に異なる、そんな内省的な気分にさせる初冬の気配でした。

平成15年10月18日
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2003年10月12日

22*唄と天気雨

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 久しぶりに、気持ちの良い雨上がりに出会えたな。
 仄かに温かく、しっとりとして澄んだ空気。なんと言いますかね、空も鳥も木々も耳をすましているような感じがする雰囲気。おまけに、ドラマチックな夕空。呼吸が新鮮。
 改めて思ったのは、やっぱり僕は天気雨と雨上がりと虹が好きだって事。正確には(それが好き!)っていうより、その状況の一瞬にシアワセな気持ちがあるんだと思う。僕の幸福って、遠くを捜さなくても間に合ってしまうのね。永続性はないけれど。

 逆に考えてみると、これから先の人生に何が起ころうと(そういう些細な日常の中に潜むシアワセは、不幸に感じる時も救ってくれるんだなぁ)という気がする。僕の選ぶ頼りない行き方の中で、それは心強い支えにも思えたりして。
 僕は時々、自分の唄を作るのね。で、最近の詞のモチーフが割と(その辺)にある気がするんだ。以前の詞が押し付けがましく聞こえるようになってきて、僕は(自分の外側に向かって何を言ってるのか?)って思ったんだ。言うべき事など、何もなかったんだわ。
 誰でも、大切な事を知らない訳じゃないんだよね。何かを訴えたり、説明したりするコトバでは伝わらない要素を。そういう何かを思い出す一瞬って、たとえば僕にとっての雨上がりみたいな空気があるんだろう。すべての輪郭が白く輝いている事、自然の物も人工的な物も等しく光を放っている事に改めて感じ入るような。

 ところで、自分で作詞作曲した唄だけで250近くあった。他の人に詞を提供して編曲した物と、唄のない曲は除外した数でね。ノートやテープに残ってないのも、もう唄えなかったりするのも含めて。ハタチから作曲を始めて、単純計算で1年に約15曲かぁ。一番古い唄の歌詞は20年前の物だから、13歳の時に書いた詞だわ。
 こんだけやっててプロを目指さなかったのは、自分でも不思議。好きな事して飯を食うのは、もちろん望むところよ。だけど自己満足というか、自分の中で完結してるから好きなんじゃないかなぁ。別にプロじゃなくても、僕は唄うたいな訳だし。
 たとえば絵を描くのがそうだった、と思うのね。課題のために描いているうち、あざとさが目について楽しめなくなっちゃった。描く事そのものは嫌いじゃないんだけど、何かが違ってしまったから。僕は自分のビートで踊らなきゃなぁ、と。

 小さい頃に学校で「将来の夢」というのがあって、僕は「作家」と答えたのね。何かを創る、という意味で。その点に関してなら、もう夢は叶い続けているんだなあ。誰かに認められなくても、自分自身が太鼓判を押してんだから間違いじゃないでしょ。
 あとは声の出し方なのよ。自分の作りたい唄が、自分の唄い方と合わなくなっちゃったんで。今までは(上手くなろう)とか全然なかったのね、ギターの弾き方にしてもそうだけど…。という事は、以前よりも僕の自己完結の範囲が拡がったって事かな? 相変わらず自分のためではあるけども、自分の唄をイメージどおりに表現したくなってきたとか。
 っていう理由もあって、ちょこちょこと近所の空き地なんかで練習してたの。仕事の後、日が落ちるまでの何十分でもね。ここしばらくは日が短くなってきたしサボリ気味、秋が深まるにつれ指がかじかんだりして余計に腰が重くなるんだろうな〜。南国指向の僕としては、寒い季節は今一つ精彩を欠くというかインドア志向に拍車がかかるので。

 それでも冬の匂いだって嫌いじゃない。おいしい水のような風、内側が凛としてくる感じは寒さの中でしか味わえないね。運よく雪の朝に出歩いたりすると、尚更に。寒い国に憧れる人の気持ちも分かるな、僕は行かないにしても…。ま、旅というのは色々な人との出会いに尽きるけど。
 こないだ大阪に行った時、梅田のタリーズコーヒーで異国の空気を感じたのよ。雨雲が去った薄日、穏やかな風と空気感が時間の流れ方を変えたみたいだったな。僕の好きな、ゆったりとした南国の時間。それは案外と近場にもゴロゴロしてるのかもしれなかったんだ、南国じゃなきゃダメだと思い込んでいただけで。
 まさにトラベリング・ウィズアウト・ムービング!…って、そういえばジャミ○クアイどうしてるんだろ?

平成15年10月12日


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2003年10月06日

21*不思議な物体

 芸術の秋…という言い回しも使い古された感のある昨今ですが、久しぶりに展覧会というものを見てきました。といっても、展示されてるのは「アート」なんてベタベタしたもんじゃなくて「物体としての人間」なの。生前に了承を得ている遺体を特殊加工で固めて、それを様々な切り口で見せる趣向だったんですね。何だか、すご〜く楽しそうでしょ?

 って、そんなキワモノ見たがる人が多すぎて驚いちゃったよ。うっかりすると格調高い油絵なんかのよりも混んでた、でも大方を占める若者は医療系の学生さんだったみたい。医学的な専門用語で鑑賞してたし。つまり僕みたいな興味半分というノリに合わせたエンタテイメントではなかったのね。それでも毛細血管だけの肺を見て(サンゴみたい)とか思ったり、生後3カ月と4カ月の胎児では大違いって事に感嘆したり。

 受精した卵子が、人間になるために細胞分裂してくのは2→4→8→16→32…って、まるで音楽のビートなのね。更に64→128→256…って増え方、コンピューターのメモリ容量? みたい。面白い符号だよね、なぜ倍々なのかなぁ。そんなの別に面白くもないって? 実は僕もなんだけさぁ、しかし誰もそれを不思議に思わないくらい当たり前って、どういう事なんだろう。一見して当然なのは、それが人間にとって(あるいは生物にとって)普遍的な要素だからかもね。

 ところでジョージ・シーガルというアーティストがいて、彼の作品が僕とアートの最初の出会いだったの。まぁ80年代初めの話だから、今ではもう現代美術の中でも古典に属するのかもしれない。人を石膏で型取りして提示する、近頃は「フィギュア・アート」なんて呼ばれ方をされたりしてるタイプの原型といってもいいんじゃないかな。立像のサラリーマンとか、額に飾られた妊婦の腹部とか、レリーフ状の性器とか…。僕はそれを思い出したりもしてたな。

 たとえ学術的な目的だろうが死体だろうが、飾ってしまえばショウ(見世物)なんだなぁって思った。神経組織の人体、骨格の人体、血管の人体、筋肉の人体…。表皮と皮下組織で縞になって、皮膚の各部がハッチ状に跳ね上がって、片側の付け根を切り離された筋肉を放射状に拡げて…。あまりに芸術的な職人技なもんで、ここまでくると人体を鑑賞するかテクニックを鑑賞するか迷っちゃう。フグの刺し身なんかでさ、見事な包丁さばきで盛り付けられてたりするじゃない?

 そんな不埒な僕の傍らで、眉をひそめながら「モデルになった人がいるんでしょうに…」と言った御婦人がいたの。確かに、その人が御存命なら侮辱に値するわな。でもこれが本人だし、こうやって見やすく加工するのに何体もの試作品があったんだよね。失敗作として、日の目を見なかった人体の山が。

 免罪符の如き「学術的な展示だから」という名目を取っ払ってしまえば、そこにあるのはグロテスクな好奇心なんだな。場内の、医学的関心を意識した真剣な視線。その中に、きっと皆(死者への冒涜)という罪悪感から逃れる言い訳を抱えていたんじゃないかと思う。でもさ、免罪符なしに楽しめない事のほうがグロテスクな気もするよね。何かの理由で人は死ぬんだし、死体は死体なんだしさ。

 この文化では「食人族」ってグロテスクの権化のように言われたりするけども、もしも彼らがこの状況を見たら(何!?)って思うだろうね。彼らが食べるのは人の肉ではなくて、特定の誰かである事が重要なのだそうだから。この会場に飾られているのは死体と呼ぶ以外に名前を持たない物で、そこに群がる人々は異様に映るに違いない。死体なんて滅多に見られないような世の中も含めて。この過密社会で生きてるのは決して不死の人間じゃないのに、死体は町のどこにもない。今じゃあ、西洋医学に看取ってもらわなきゃ往生もできない社会…。

 でも一番面白かったのは、会場の外かも。

 どうやらビジュアル系のライブがあって開場待ちしてたらしいんだけど、周囲がコスプレ少女で埋め尽くされていたのね。なんとも皮肉めいた偶然! 片や「素の状態」というか究極のミニマムな人体で、それと比すれば装飾過多な「自分ではない自分へと肥大しようとする指向」が外を取り巻いている訳さ。出来過ぎてる。

 物としての人体に、これほど執着する奇妙な心理よ。皮を剥がれた人体に群がるのも、何の格好だか着ぐるみを被ったようなのも、何かが共通してるような。

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posted by tomsec at 22:34 | TrackBack(0) |  空想百景<21〜30> | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする