割といきなり、旅に出ることになった。
思い立ったように夏場の一ヶ月足らずをバイトして、13万7千円の往復チケットを買い求め、滞在費は拝み倒して親に借りた10万円。これで十月半ばまでメキシコにいる予定なのである。
メキシコで僕を待つのは、友人トニーと彼の友人エドベン。何年か前に二人は東京で同居していて、その縁を伝って出掛けようという訳だ。こんな機会でもなければ、僕がメキシコになんて行きはしなかったろう。近場のパック旅行を除けば、僕にとっては初めての海外旅行になる。
トニーがエドベンの住む、カンクンという町に向けて日本を発ったのが四月だった。「君もおいで」と言ってくれてはいたが、半年前の僕にとっては現実味の薄い話でしかなかった。そりゃあ確かに、行けたらいいなぁーとは思っていたけど。
実際、僕が本気で考え始めたのは夏のバイトが決まってからだった。九月になってバイトが終わると、それから慌ただしくチケットを買ってT/Cを作って、失効していたパスポートをギリギリ再発行してもらって出発の日がやってきた。切羽詰まると騒ぎだすのは相変わらずの事だけど、おかげで「夢みたいだぁー」なんて悠長にほっぺたひねっている余裕もないまま成田に到着。
台風一過の秋晴れである。なにしろ旅馴れていないから「チケットは空港手渡しで」なんて小さいことでビビッてる。段取りが悪くて不安で一杯になっていると見事に欠航。そう聞いた瞬間、うっかり泣きそうになったけど、そこは格安チケットでも旅行取扱業である。航空会社に掛け合って、空港近くにホテルの手配をしてくれた。頼むよホント、こちとら海外小心初心者なんだからさ。
飛行機は台風の影響とかで、翌朝九時の便に変更された。タダで一泊できると得した気もするのだけれど、考えてみたら一日分メキシコでの暮らしが減ってしまったのだ。しかも、ホテルでは浴衣でレストランに入ろうとして怒られて散々である。ともかく、出迎えてくれるトニーに連絡しなくちゃ。しかし時差があるので、電話するにはまだ早すぎる。
にわか仕込みの知識によると、メキシコは南北に細長く、日本とは逆向きに反り返っている。つまり太平洋を隔てて、下手くそが八の字を書いたみたいなものだ。カンクンという聞いたこともない町は、カリブ海に突き出したユカタン半島の先にある。日本との時差はマイナス16時間。サマータイムだと17時間になるのかな、まぁそれぐらい違っているのだ。
時間潰しを兼ねて、日本の友人に一通目の手紙を書く。まだ日本国内にいるっていうのに、我ながら気の早いことだと思う。それでも、ホテルの便せんで手紙を書くっていうのが、なんだか旅馴れた雰囲気を醸し出してくれる気がして好きなのだ。こりゃまったくの自己満足だな、でもいいや。成田の夜景を見ながら床に就く、なんて滅多にないシチュエーションに浮かれ気味。
この旅行には、何の目的もない。唯一、自分で決めたのは「友達全員に便りを送る」ということだった。詰まらない土産など買うより安上がりだし、ハズレがないし、しかも荷物がかさ張らない。その上、僕の身に万が一のことがあった場合には、それが最期のあいさつにもなってくれるという寸法だった。まさか危険はないだろうけど、先のことなんて分かりっこない。国境近くでは、ゲリラも追いはぎも出るという話だから。
ともかく夜も更けて午前一時を回った。部屋の電話は割高なので、ロビーに降りてトニーに電話。
向こうはまだ朝の八時とかその位だろうが、もうこれ以上は起きていられない。やっかいなのは、エドベンの家族に取り次いでもらわなければならない事だ。英語は何とかなるものの、スペイン語なので手に負えない。本と首っぴきで単語を並べ、たどたどしいあいさつでトニーを呼び出してもらう。彼を待つ間にも、カードの度数がするする落ちてゆく。
トニーが留守だったら、と考えるとドキドキする。エドベンは仕事に出掛けたろうし、そうなるとスペイン語で用件を伝えなければならない。とてもじゃないが、そんなの無理だ。自慢じゃないが、電話代がいくらあっても足らないぜ。寝ぼけ声のトニーが電話に出た、と同時に僕は早口でまくし立てる。余分なテレカを手繰りながら、声のトーンが知らずにはね上がってしまう。
受話器を置いて、どっと疲れが出てきた。まだ旅はこれからだってのに……。
2005年05月27日
メキシコ旅情【旅路編・2 事情】
メキシコと聞いて即座に思い浮かべるのは、タコスにテキーラにソンブレロ? あとはせいぜいマリアッチとルチャ・リブレ…。イメージとしてはその程度だ。実際のところ、僕は何も知らなかった。
僕の向かったカンクンは、そんな予想と違っていた。
メキシコは南北に細長く、文化的にも南と北では大きく異なるようだ。
大雑把な言い方をしてしまえば、北が荒野のサボテン地帯で、南は古代文明の眠る密林地帯って感じか。一般的にメキシコと言えば、アメリカ寄りの北部がそれに近い。南のほうは、マヤ文明とインディオとジャングル! とはいえ、カンクンが辺境の土地かと思ったら大間違い。
〈地球の歩き方・メキシコ編〉によると「特にビーチのきれいなカンクンは、高級ホテルの林立する国際的リゾート」と書かれていた。メキシコで最も物価の高い場所かも知れない。僕はもっと、のどかでこぢんまりとした田舎町を期待していたのに。マリンスポーツだとかレジャー施設なんて、旅の雰囲気を台無しにする物は邪魔なだけだ。いかにも観光地ってのも、それ目当てに集まる人種にも用は無い。
トニーがくれた絵はがきには「ディスコとビキニ・コンテストに行こう!」と書いてあった。もちろん、それぐらいは行くさね。でも、エドベンは一体どんな所に住んでいるんだ?
まさか目抜き通りにジュリアナ御殿!…なんてことはないよな、いくら彼が「ジュリアナ東京」大好きだったからって。だけど、そんな高級リゾート地なんかに住んでるとしたら有り得なくもないか。まったく想像が付かないけど。
ま、予算の都合からいってもノンビリ何もしないのが一番。この際だからと夢ふくらませて「遺跡ツアー&カリブ・クルーズ!」ってな気持ちは山々であるが。
この旅は、とにもかくにも所持金=全財産なのだった。毎日の食費+αと、帰国後の暮らしを無視するわけにはいかない。湯水のように使い切ったら、後が辛くなる事は目に見えている。
帰国予定日は、来月の18日。帰ってくれば家はある、実家暮らしは気が楽だ。僕はすでに無職なのだから…。
一日遅れで、いよいよ空の旅だ。アメリカのテキサス州ダラス経由で、目的地カンクンへ。
飛行機は日本人をいっぱい乗せて、ダラス・フォートワース空港に向かっている。到着予定は7時半頃で、出発時刻から2時間の逆戻りになる訳だ。ところが実質上は半日も、狭い機内に縛り付けられるってんだからややっこしい。まるで、割のあわないタイムマシンだな。
クルーはみんな日本人か、と思ったら聞き慣れない発音の日本語だ。エコノミー最前列右端の、窓のない一人掛けに座る。機内スクリーンは見えないが、なんてったって相席じゃないから気が楽で良い。しかし禁煙席なので、僕は喫煙場所とを行ったり来たりする羽目になった。億劫だけど一服できるだけ有り難い、それに喫煙席で12時間も煙に巻かれているのに比べれば上等だろう。ただでさえ機内は空気が乾いているのだ。
シートのすきまから振り返り、後ろの席の窓から見えた景色は海と空だけ。僕が何度も顔を出すので、窓際の人はさぞかし薄気味悪いことだろう。申し訳ないとは思うのだが、こちらとしてもやむを得ない退避処置なのだよ。というのも、この席の前はトイレなのだ。正面を向いていると、ついトイレを出入りする人と目を合わせてしまってバツが悪い。その上ふて寝しようにもバタバタ落ち着かないし、読書するには気が散って集中できなかった。
ただし、気休めがまったくなかった訳でもない。トイレ手前の壁に、僕と向かい合わせに乗務員シートがあった。アジア系の男性クルーが座ったので、退屈しのぎに話しかけて英語思考の訓練に付き合ってもらう。座席は一対一のお見合い状態、逃げ場のない彼は延々と日本男児の主張を相手する事になってしまったのであった。
僕の向かったカンクンは、そんな予想と違っていた。
メキシコは南北に細長く、文化的にも南と北では大きく異なるようだ。
大雑把な言い方をしてしまえば、北が荒野のサボテン地帯で、南は古代文明の眠る密林地帯って感じか。一般的にメキシコと言えば、アメリカ寄りの北部がそれに近い。南のほうは、マヤ文明とインディオとジャングル! とはいえ、カンクンが辺境の土地かと思ったら大間違い。
〈地球の歩き方・メキシコ編〉によると「特にビーチのきれいなカンクンは、高級ホテルの林立する国際的リゾート」と書かれていた。メキシコで最も物価の高い場所かも知れない。僕はもっと、のどかでこぢんまりとした田舎町を期待していたのに。マリンスポーツだとかレジャー施設なんて、旅の雰囲気を台無しにする物は邪魔なだけだ。いかにも観光地ってのも、それ目当てに集まる人種にも用は無い。
トニーがくれた絵はがきには「ディスコとビキニ・コンテストに行こう!」と書いてあった。もちろん、それぐらいは行くさね。でも、エドベンは一体どんな所に住んでいるんだ?
まさか目抜き通りにジュリアナ御殿!…なんてことはないよな、いくら彼が「ジュリアナ東京」大好きだったからって。だけど、そんな高級リゾート地なんかに住んでるとしたら有り得なくもないか。まったく想像が付かないけど。
ま、予算の都合からいってもノンビリ何もしないのが一番。この際だからと夢ふくらませて「遺跡ツアー&カリブ・クルーズ!」ってな気持ちは山々であるが。
この旅は、とにもかくにも所持金=全財産なのだった。毎日の食費+αと、帰国後の暮らしを無視するわけにはいかない。湯水のように使い切ったら、後が辛くなる事は目に見えている。
帰国予定日は、来月の18日。帰ってくれば家はある、実家暮らしは気が楽だ。僕はすでに無職なのだから…。
一日遅れで、いよいよ空の旅だ。アメリカのテキサス州ダラス経由で、目的地カンクンへ。
飛行機は日本人をいっぱい乗せて、ダラス・フォートワース空港に向かっている。到着予定は7時半頃で、出発時刻から2時間の逆戻りになる訳だ。ところが実質上は半日も、狭い機内に縛り付けられるってんだからややっこしい。まるで、割のあわないタイムマシンだな。
クルーはみんな日本人か、と思ったら聞き慣れない発音の日本語だ。エコノミー最前列右端の、窓のない一人掛けに座る。機内スクリーンは見えないが、なんてったって相席じゃないから気が楽で良い。しかし禁煙席なので、僕は喫煙場所とを行ったり来たりする羽目になった。億劫だけど一服できるだけ有り難い、それに喫煙席で12時間も煙に巻かれているのに比べれば上等だろう。ただでさえ機内は空気が乾いているのだ。
シートのすきまから振り返り、後ろの席の窓から見えた景色は海と空だけ。僕が何度も顔を出すので、窓際の人はさぞかし薄気味悪いことだろう。申し訳ないとは思うのだが、こちらとしてもやむを得ない退避処置なのだよ。というのも、この席の前はトイレなのだ。正面を向いていると、ついトイレを出入りする人と目を合わせてしまってバツが悪い。その上ふて寝しようにもバタバタ落ち着かないし、読書するには気が散って集中できなかった。
ただし、気休めがまったくなかった訳でもない。トイレ手前の壁に、僕と向かい合わせに乗務員シートがあった。アジア系の男性クルーが座ったので、退屈しのぎに話しかけて英語思考の訓練に付き合ってもらう。座席は一対一のお見合い状態、逃げ場のない彼は延々と日本男児の主張を相手する事になってしまったのであった。
メキシコ旅情【旅路編・3 束の間のアメリカ】
ダラス空港に着陸して、トランジット・ルームに案内される。カンクン行きに乗り換える為、ここで二時間待ちだそうだ。分かった顔して英語のアナウンスに耳を立て、単語レベルで何とか見当をつける理解力では不安になる。気安く話しかける連れあいがいないのって、こんなに疲れるものなんだなー。
それにしても大勢の日本人だ。カンクンなんて耳慣れない土地に行こうとしている日本人が、しかもほぼ全員(ハワイに行くヤング・カップル)みたいな若者ばかり。各々のスーツケースに腰掛けて、仲間同士で楽しそうに談笑している。独りでポツンとして、おっきなリュックを背負った自分は場違いに思えた。
おぉ、他にも怪しげな男がいるじゃないか。ブルー・ジーンの上下にテンガロン・ハット、ウェスタン・ブーツでキメてる男が。そのバタ臭い感じ、このテキサスに用がある格好にしか見えない(というか真夜中のカウボーイか?)。それともメキシコの格闘技ルチャ・リブレの武者修行を志す、みちのくレスラー……。なーんて他人を嗤える自分じゃないが、妙にほっとする。
間もなく係官がドアをあけた。退屈しきった旅行客が詰め寄って、口々に尋ねた。トイレはどこだ、喫煙所はないか、水はないか、ずうっとここで待つのか、などなど。そうだそうだ、僕らは難民ではない。ヤングの代表が場を制し、聞き取りづらいスパニッシュ訛りの女性係官と問答している。
彼は振り向くと、仲間たちとトランジット・ルームを出て行ってしまった。どうやら入国手続きをして、空港内の施設で時間を潰すらしい。そうか、この部屋はアメリカ領土内にあってもアメリカ国内ではないんだな。税関の向こうで飲んだり食ったり買ったりする、というのは悪くない考えだ。
「他に希望者はいないか」係官はそう言っているようだ。僕もひとまず国外脱出を図る。
搭乗券の半券には[21A]と書かれてあった。入国手続きで、軍人みたいな監査官が書き入れてくれたのだ。若くして態度がXLの白人男性にゃ、海外ドラマの安いセットのような税関がお似合いさ。よそ者をにらみつけて、そうやって番犬役で一生を送りやがれっての。
そうしてアメリカ入国、ダラス空港は信じられないほど大きかった。国内外の航空便が、六十あまりのゲートを使って離発着している。各ゲート間の移動用に、構内に電車を走らせている程だ。僕は(アメリカ大陸に来たんだ)と実感した。どこまでも伸びる広い通路は、沢山の人々と様々な店と音楽で賑わっている。その合間を縫うように、電気自動車のトロリーバスが走ってゆく。
あれだけいた日本人は、いつの間にか僕ひとりだ。出発ギリギリになって迷わないよう、先にゲート付近まで移動しとこくのが賢明だろう。21Aは、予想以上に遠かったのだ。着いてからも念のため、案内係に確認しておく。その女性の親切な応答で、やっと緊張の糸がほぐれた。とりあえず、建物の外で一服しよう。
なまあたたかい風が気持ちよく吹いている。けだるい夏の午前、まさに異国の空気だった。タバコを「旨い」と感じる。それからゲート周辺の店を見て歩き、カードと切手を買って友人にエアメールを送った。思えば大陸初上陸だ。カフェテリアには、ヤング日本人のグループが固まっていた。その光景は(ディズニーランドっぽい)と思った。
実は行った事なんてないのだが、それは要するにアメリカ文化のエッセンスなのかもしれない。ショッピング・モール、ハンバーガー・ショップ、リゾート・ホテル、そういう類は世界中どこでも同じ臭いがする。地面と切り離されたような。
成田を朝の9時半に発ち、同じ日のダラスで9時半の便を待っている。なんとも奇妙だ、そんな数字こそ幻想なのに。陽はまた昇り、沈んでゆく。
案内係の声が搭乗待合室に響き、顔を上げると僕を見つけて手招きしている。あの親切な女性が自分の腰に両手をあてて「君はこれに乗るのよ」と言って微笑んだ。なんだ、搭乗開始を教えてくれたのか。僕が笑いながら「あなたの親切に感謝します。」と応えると、彼女は「一番乗りね!」とウィンクを寄越した。
そんなやりとりを、日本人の男女が怪訝そうに見ていた。
それにしても大勢の日本人だ。カンクンなんて耳慣れない土地に行こうとしている日本人が、しかもほぼ全員(ハワイに行くヤング・カップル)みたいな若者ばかり。各々のスーツケースに腰掛けて、仲間同士で楽しそうに談笑している。独りでポツンとして、おっきなリュックを背負った自分は場違いに思えた。
おぉ、他にも怪しげな男がいるじゃないか。ブルー・ジーンの上下にテンガロン・ハット、ウェスタン・ブーツでキメてる男が。そのバタ臭い感じ、このテキサスに用がある格好にしか見えない(というか真夜中のカウボーイか?)。それともメキシコの格闘技ルチャ・リブレの武者修行を志す、みちのくレスラー……。なーんて他人を嗤える自分じゃないが、妙にほっとする。
間もなく係官がドアをあけた。退屈しきった旅行客が詰め寄って、口々に尋ねた。トイレはどこだ、喫煙所はないか、水はないか、ずうっとここで待つのか、などなど。そうだそうだ、僕らは難民ではない。ヤングの代表が場を制し、聞き取りづらいスパニッシュ訛りの女性係官と問答している。
彼は振り向くと、仲間たちとトランジット・ルームを出て行ってしまった。どうやら入国手続きをして、空港内の施設で時間を潰すらしい。そうか、この部屋はアメリカ領土内にあってもアメリカ国内ではないんだな。税関の向こうで飲んだり食ったり買ったりする、というのは悪くない考えだ。
「他に希望者はいないか」係官はそう言っているようだ。僕もひとまず国外脱出を図る。
搭乗券の半券には[21A]と書かれてあった。入国手続きで、軍人みたいな監査官が書き入れてくれたのだ。若くして態度がXLの白人男性にゃ、海外ドラマの安いセットのような税関がお似合いさ。よそ者をにらみつけて、そうやって番犬役で一生を送りやがれっての。
そうしてアメリカ入国、ダラス空港は信じられないほど大きかった。国内外の航空便が、六十あまりのゲートを使って離発着している。各ゲート間の移動用に、構内に電車を走らせている程だ。僕は(アメリカ大陸に来たんだ)と実感した。どこまでも伸びる広い通路は、沢山の人々と様々な店と音楽で賑わっている。その合間を縫うように、電気自動車のトロリーバスが走ってゆく。
あれだけいた日本人は、いつの間にか僕ひとりだ。出発ギリギリになって迷わないよう、先にゲート付近まで移動しとこくのが賢明だろう。21Aは、予想以上に遠かったのだ。着いてからも念のため、案内係に確認しておく。その女性の親切な応答で、やっと緊張の糸がほぐれた。とりあえず、建物の外で一服しよう。
なまあたたかい風が気持ちよく吹いている。けだるい夏の午前、まさに異国の空気だった。タバコを「旨い」と感じる。それからゲート周辺の店を見て歩き、カードと切手を買って友人にエアメールを送った。思えば大陸初上陸だ。カフェテリアには、ヤング日本人のグループが固まっていた。その光景は(ディズニーランドっぽい)と思った。
実は行った事なんてないのだが、それは要するにアメリカ文化のエッセンスなのかもしれない。ショッピング・モール、ハンバーガー・ショップ、リゾート・ホテル、そういう類は世界中どこでも同じ臭いがする。地面と切り離されたような。
成田を朝の9時半に発ち、同じ日のダラスで9時半の便を待っている。なんとも奇妙だ、そんな数字こそ幻想なのに。陽はまた昇り、沈んでゆく。
案内係の声が搭乗待合室に響き、顔を上げると僕を見つけて手招きしている。あの親切な女性が自分の腰に両手をあてて「君はこれに乗るのよ」と言って微笑んだ。なんだ、搭乗開始を教えてくれたのか。僕が笑いながら「あなたの親切に感謝します。」と応えると、彼女は「一番乗りね!」とウィンクを寄越した。
そんなやりとりを、日本人の男女が怪訝そうに見ていた。
メキシコ旅情【旅路編・4 ダラスからカンクンへ】
僕は、あんまり飛行機に乗った経験がない。搭乗ゲートの先は、そのまま真っすぐ機内に通じているものと思い込んでいた。しかしノーズの先は階段になっていて、降りたところは滑走路の端っこ……はて?
ダクトの熱風と、穏やかな風が混じりあって吹き抜けていく。思案に暮れていると、でっぷりとした風体の白人のおじさんが、僕のあとを付いて階段を降りてきてしまった。まずいなぁ、どうしよう? ところがおじさんは僕に目もくれず、足早に前方のマイクロバスに向かっていく。僕も後に従って乗り込むと、バスは滑走路の見上げるようなジャンボ・ジェットの下を走り抜けてゆく。
バスが停まったのは、拍子抜けするくらい小さな飛行機の前だった。滑走路からタラップをくっつけて、しかもジャンボ以外に乗るなんて初体験の二乗だ。不安げに搭乗券を差し出して見せると、制服の男は黙って頷いた。
小さな飛行機は、鳥のように軽やかに舞い上がってゆく。古いアメリカのドラマ「ダラス」のオープニングよろしく、ハイウェイの立体交差が四つ葉のクローバーに見える。本当ならここでナレーションが入るところだが、視界はぐいぐい上昇を続けて二層目の雲を突き抜けた。大都市が、冷気に包まれた集積回路に見える。コンデンサーが見えなくなると、白い水玉が鮮やかに映える緑の大地が拡がった。ぽっかり浮かぶ雲を見下ろし、やっぱり窓際の席はいいなぁーと思う。
窓の外を眺めてる人って、最初の飛行機でも僕ぐらいしかいなかった。せいぜい離陸までだ、あとは着陸まで見向きもしない。地上を見下ろすと、なんだか天国にいる気持ちになる。更に高度が上がり、三段目の雲の天井が迫ってきた。突き抜けるとそこは―。
神の国だ!
深いインディゴの空、思いもよらない雲海の造形美に圧倒される。彼方には壮大な雲の柱、あれはハリケーンの横顔だろうか? やがて一面の海になり、ビロードに残った海流と航路の模様に見とれていた。夢中になって窓の外を眺めていると、島が見えてきた。と思ったら、僅かに陸とつながっている……。カンクンだ!
飛行機は大きく弧を描きながら、ゆっくりと着陸体制に入った。
青緑の海面下に透けるサンゴ礁と、地平線いっぱいまで敷き詰められた濃い緑。なんて美しい、虹のような楽園だ。映画やTVなんかじゃ味わえない、肉眼で直に感じる色彩の調和だ。しあわせな気分に、僕は感激して声も出なかった。これが大袈裟だと思うなら、実際に経験してもらいたい。
カンクン空港はシンプルで小綺麗な造りだった。無機質な税関を出ると、徐々に南国メキシコの空気に変わり始めた。行き交う人や色あざやかな売店には開放的な気配が漂っていて、まるで長旅を終えたような心持ちになってしまう。到着ロビーで出迎える人々の中にトニーがいた。
先に僕を見つけて手を振っている、彼の隣では長身のエドベンが穏やかに微笑んでいた。かつて一緒に遊んだ頃と変わらない、ひとなつっこい笑顔だ。彼の手が、僕の肩をバシバシと叩いた。
「ハロー、モト!」そのひとなつっこい笑顔を見上げて、
「オーラ!」僕も笑った。
空港の外は真昼の日差しを照り返し、僕は目を細めて歩く。サングラス越しでさえ、なにもかもが白っぽく発光して見える。その熱は、オーブン・レンジに突っ込まれたようだ! 着いて早々、熱帯の手荒い出迎えかよ。日本の夏とは根っこから違う。
風はなかったが、空気が乾いているせいか爽やかに感じられる。それでも慣れないせいなのか、やけに息が詰まって苦しい。気温差が関係しているのだろう、サウナ風呂に入った時の呼吸困難に似た空気圧だ。それとも酸素が濃いのか?
エドベンが、駐車場から車を回してきた。
ダクトの熱風と、穏やかな風が混じりあって吹き抜けていく。思案に暮れていると、でっぷりとした風体の白人のおじさんが、僕のあとを付いて階段を降りてきてしまった。まずいなぁ、どうしよう? ところがおじさんは僕に目もくれず、足早に前方のマイクロバスに向かっていく。僕も後に従って乗り込むと、バスは滑走路の見上げるようなジャンボ・ジェットの下を走り抜けてゆく。
バスが停まったのは、拍子抜けするくらい小さな飛行機の前だった。滑走路からタラップをくっつけて、しかもジャンボ以外に乗るなんて初体験の二乗だ。不安げに搭乗券を差し出して見せると、制服の男は黙って頷いた。
小さな飛行機は、鳥のように軽やかに舞い上がってゆく。古いアメリカのドラマ「ダラス」のオープニングよろしく、ハイウェイの立体交差が四つ葉のクローバーに見える。本当ならここでナレーションが入るところだが、視界はぐいぐい上昇を続けて二層目の雲を突き抜けた。大都市が、冷気に包まれた集積回路に見える。コンデンサーが見えなくなると、白い水玉が鮮やかに映える緑の大地が拡がった。ぽっかり浮かぶ雲を見下ろし、やっぱり窓際の席はいいなぁーと思う。
窓の外を眺めてる人って、最初の飛行機でも僕ぐらいしかいなかった。せいぜい離陸までだ、あとは着陸まで見向きもしない。地上を見下ろすと、なんだか天国にいる気持ちになる。更に高度が上がり、三段目の雲の天井が迫ってきた。突き抜けるとそこは―。
神の国だ!
深いインディゴの空、思いもよらない雲海の造形美に圧倒される。彼方には壮大な雲の柱、あれはハリケーンの横顔だろうか? やがて一面の海になり、ビロードに残った海流と航路の模様に見とれていた。夢中になって窓の外を眺めていると、島が見えてきた。と思ったら、僅かに陸とつながっている……。カンクンだ!
飛行機は大きく弧を描きながら、ゆっくりと着陸体制に入った。
青緑の海面下に透けるサンゴ礁と、地平線いっぱいまで敷き詰められた濃い緑。なんて美しい、虹のような楽園だ。映画やTVなんかじゃ味わえない、肉眼で直に感じる色彩の調和だ。しあわせな気分に、僕は感激して声も出なかった。これが大袈裟だと思うなら、実際に経験してもらいたい。
カンクン空港はシンプルで小綺麗な造りだった。無機質な税関を出ると、徐々に南国メキシコの空気に変わり始めた。行き交う人や色あざやかな売店には開放的な気配が漂っていて、まるで長旅を終えたような心持ちになってしまう。到着ロビーで出迎える人々の中にトニーがいた。
先に僕を見つけて手を振っている、彼の隣では長身のエドベンが穏やかに微笑んでいた。かつて一緒に遊んだ頃と変わらない、ひとなつっこい笑顔だ。彼の手が、僕の肩をバシバシと叩いた。
「ハロー、モト!」そのひとなつっこい笑顔を見上げて、
「オーラ!」僕も笑った。
空港の外は真昼の日差しを照り返し、僕は目を細めて歩く。サングラス越しでさえ、なにもかもが白っぽく発光して見える。その熱は、オーブン・レンジに突っ込まれたようだ! 着いて早々、熱帯の手荒い出迎えかよ。日本の夏とは根っこから違う。
風はなかったが、空気が乾いているせいか爽やかに感じられる。それでも慣れないせいなのか、やけに息が詰まって苦しい。気温差が関係しているのだろう、サウナ風呂に入った時の呼吸困難に似た空気圧だ。それとも酸素が濃いのか?
エドベンが、駐車場から車を回してきた。
メキシコ旅情【旅路編・5 カーサ・ブランカ】
この白いワーゲン、エドベンには申し訳ないが思わず笑ってしまった。そして背筋が、ちょっと冷たくなった。カーステレオもエアコンもない、それどころか内張りすら無いという極め付きのシンプルさ。シブ過ぎ。というか、窓の開閉レバーもなくて床の鉄板に穴が開いてるんだけど?
ともかく2人は意にに介さず普通に乗ってるし、僕も(ここで乗らなきゃ一生乗れないぜ、こんな車)と思い直した。ま、どっちにしろ乗るしかないんだけど。
これはエドベンのパパの車で、エドベン自身の車はまだ部品が揃っていないのだそうだ。どうやら給料日毎にパーツを買い集め、こつこつ組み上げている途中らしい。って、プラモかよっ! とツッコミ入れたくなるけれど、これに乗ってりゃあ納得するしかないよな。
機能本位と言えなくもないが、これをアクセル全開で走らせるとは恐れ入る。僕を怖がらせる冗談ではなく、本当にこれで彼の家に向かうのだと言われて一気に熱が引いた。洒落なんかじゃなくて、マジに風圧で車体バラバラになりそうだ。最初は硬直していた僕も、じきにアドレナリン出過ぎて気持ち良くなってきた。
ワーゲン・ビートルという車は、地を這うような乗り心地がするものだ。そして、ちっとも速くないくせにやかましい。エドベンパパの白い車は、それにもまして「頑張れー」と祈りたくなるほどの揺れと騒音で走るのだった。老いぼれた野良犬のようで、かわいい。
何車線もある真っ直ぐな道を飛ばしていると、路肩の森が途切れて海が見えた。窓を全開にしているので、後部座席にいると前の2人の声が風にかき消されて何がなにやら。なんとか聞き取ろうとして気を取られているうちに、いつの間にか窓の景色は静かな住宅街に変わっていた。
スピードを落とし、細い路地に入る。湾曲するアスファルトの両側にサンタ・フェ調の家々が並んでいて、いかにもメキシコらしくなってきた。やがて白い建物が見えてきて、突然トニーが「カサブランカ」と僕に言った。カーサは家でブランカは白、つまりホワイト・ハウスがエドベンの家だったのだ。
僕らを車から降ろすと、エドベンは鉄格子を開いてガレージに車を停めた。
一階の正面は、重々しい黒い鉄格子で覆われている。ガレージ奥の右側に重厚な木の扉があり、僕はエドベンの後から入った。そこは玄関も何もなく、いきなりリビングとダイニングを併せたような部屋になっていた。暗くて様子が判らなかったけれど、むしろ表の日差しが強すぎたのだ。トンネル効果って奴だ。すぐに目が慣れて、そこにいたエドベンのママとお姉さんに紹介された。
「ブエノス・タルデス、メ・ジャモ・モト、ハポネス、ミ・アミーゴ、エドベン、トニー……」
訳さなくても想像つくと思うけど、僕はたどたどしいスペイン語で自己紹介をした。
冷や汗ものである。もっと練習しておくんだった、と今ごろ悔やんでも仕方ない。ともかく気持ちは通じたらしく、ママは顔いっぱいの笑顔で応えてくれた。ふたりに通訳してもらうと、彼女は「トニーよりもスペイン語の発音が上手だね」とほめてくれたようだ。
そんな筈がない、彼は7月頃から来て家庭教師を雇っているのに。でもトニーが言うには、スペイン語の発音は英語よりも日本語に近いそうだ。ともかく、気に入ってもらえたなら嬉しい。
あいさつを済ませると、トニーは僕を部屋へ案内してくれた。ガレージ左側にあるコンクリートの階段を上ると子犬が二匹、転がるように駆け降りてゆく。トーティはエドベン家の犬でミニチュア・ダックス、黒いムクムクした犬はティキーだ。
意外なことに二階は吹きさらしで、そこに独立して幾つかの部屋が建っているという、不思議な造りになっていた。う〜ん、さすが異国の発想は違う。ガレージの真上と階段の正面に一棟づつ、正面がトニーの部屋だった。入口は右手にあり、回り込んだら右端から屋上への階段があった。奥にもまだ部屋があり、人に貸しているらしい。
「モト、足元に注意しろよ!」
急に言われてびっくりした。ドアの前に足跡付きのウンチがあって、間一髪で避ける。3匹目の犬、ヨーディの仕業らしい。なぜか必ずこの位置に残していくレガーロ[お土産]らしい。今回は運が良かった、今日から僕はこの部屋に居候するのだ。気を付けよう…。
ともかく2人は意にに介さず普通に乗ってるし、僕も(ここで乗らなきゃ一生乗れないぜ、こんな車)と思い直した。ま、どっちにしろ乗るしかないんだけど。
これはエドベンのパパの車で、エドベン自身の車はまだ部品が揃っていないのだそうだ。どうやら給料日毎にパーツを買い集め、こつこつ組み上げている途中らしい。って、プラモかよっ! とツッコミ入れたくなるけれど、これに乗ってりゃあ納得するしかないよな。
機能本位と言えなくもないが、これをアクセル全開で走らせるとは恐れ入る。僕を怖がらせる冗談ではなく、本当にこれで彼の家に向かうのだと言われて一気に熱が引いた。洒落なんかじゃなくて、マジに風圧で車体バラバラになりそうだ。最初は硬直していた僕も、じきにアドレナリン出過ぎて気持ち良くなってきた。
ワーゲン・ビートルという車は、地を這うような乗り心地がするものだ。そして、ちっとも速くないくせにやかましい。エドベンパパの白い車は、それにもまして「頑張れー」と祈りたくなるほどの揺れと騒音で走るのだった。老いぼれた野良犬のようで、かわいい。
何車線もある真っ直ぐな道を飛ばしていると、路肩の森が途切れて海が見えた。窓を全開にしているので、後部座席にいると前の2人の声が風にかき消されて何がなにやら。なんとか聞き取ろうとして気を取られているうちに、いつの間にか窓の景色は静かな住宅街に変わっていた。
スピードを落とし、細い路地に入る。湾曲するアスファルトの両側にサンタ・フェ調の家々が並んでいて、いかにもメキシコらしくなってきた。やがて白い建物が見えてきて、突然トニーが「カサブランカ」と僕に言った。カーサは家でブランカは白、つまりホワイト・ハウスがエドベンの家だったのだ。
僕らを車から降ろすと、エドベンは鉄格子を開いてガレージに車を停めた。
一階の正面は、重々しい黒い鉄格子で覆われている。ガレージ奥の右側に重厚な木の扉があり、僕はエドベンの後から入った。そこは玄関も何もなく、いきなりリビングとダイニングを併せたような部屋になっていた。暗くて様子が判らなかったけれど、むしろ表の日差しが強すぎたのだ。トンネル効果って奴だ。すぐに目が慣れて、そこにいたエドベンのママとお姉さんに紹介された。
「ブエノス・タルデス、メ・ジャモ・モト、ハポネス、ミ・アミーゴ、エドベン、トニー……」
訳さなくても想像つくと思うけど、僕はたどたどしいスペイン語で自己紹介をした。
冷や汗ものである。もっと練習しておくんだった、と今ごろ悔やんでも仕方ない。ともかく気持ちは通じたらしく、ママは顔いっぱいの笑顔で応えてくれた。ふたりに通訳してもらうと、彼女は「トニーよりもスペイン語の発音が上手だね」とほめてくれたようだ。
そんな筈がない、彼は7月頃から来て家庭教師を雇っているのに。でもトニーが言うには、スペイン語の発音は英語よりも日本語に近いそうだ。ともかく、気に入ってもらえたなら嬉しい。
あいさつを済ませると、トニーは僕を部屋へ案内してくれた。ガレージ左側にあるコンクリートの階段を上ると子犬が二匹、転がるように駆け降りてゆく。トーティはエドベン家の犬でミニチュア・ダックス、黒いムクムクした犬はティキーだ。
意外なことに二階は吹きさらしで、そこに独立して幾つかの部屋が建っているという、不思議な造りになっていた。う〜ん、さすが異国の発想は違う。ガレージの真上と階段の正面に一棟づつ、正面がトニーの部屋だった。入口は右手にあり、回り込んだら右端から屋上への階段があった。奥にもまだ部屋があり、人に貸しているらしい。
「モト、足元に注意しろよ!」
急に言われてびっくりした。ドアの前に足跡付きのウンチがあって、間一髪で避ける。3匹目の犬、ヨーディの仕業らしい。なぜか必ずこの位置に残していくレガーロ[お土産]らしい。今回は運が良かった、今日から僕はこの部屋に居候するのだ。気を付けよう…。