2005年05月27日

メキシコ旅情【風雲編・1 ビエン】

 トニーの目覚ましが10時に鳴った。
 まぶたを開けると、彼がTVの前の目覚ましを止める姿が見えた。ゆうべ寝る前に「クーラーを効かせ過ぎないで」って頼んだのに、夜中にこっそり21℃まで下げてんだから…。
 また今朝も僕は凍えて目を覚ましてしまい、数時間前から(送風)に切り替えてやったんだが、彼はまだ気付いていないらしい。ハンモックの寝心地も、決して良いとは言えなかった。トニーが冷房の事に気付く前に、ビーチサンダルを突っ掛けてそそくさと部屋を出る。
「下に行って、ママのコミーダ食べてくるねー!」
 色ガラスの扉を開けると、玄関の軒先に何故か一脚の椅子が置かれている。そのプラスチックの型抜き一体成型でひじ掛けのついた白い椅子は、メキシコに来てやたらと見かけた。トニーの部屋の中にもあるし、街中のレストランでも使われている。見栄えはチープながら、隠れ南国アイテム(台湾の小琉球という島の海岸にもあったし)。

 日差しは強く暑かったが、階下のガレージは日陰のせいか意外とひんやりしていた。
「ブエノス・ディアス」
 ドアを入ってすぐダイニングテーブルがあり、パティが座ってTVを見ていた。テーブルの左にある戸棚の上のTVから、早口のスペイン語が聞こえる。いかにもワイドショーな明るい口調と笑い声、この時間帯の番組は世界共通なのかね。
 右側のカウンター奥から、ママの大きな声がした。多分、パティに「誰か来たのか」と訊ねたのだろう。と同時に、やけに険しい表情のママがキッチンから首を突き出した。かなり迫力満点でビビったが、僕だと分かると即座にいつもの笑顔で両手を拡げてみせた。
「ブエノス・ディアス、ママ」
 ママは手のしぐさで[何か食べるか]と、僕に話しかけてくる。食べる仕草はコメールで、飲むのはベベール。きっと僕達には、少なくとも基本的な生きる為の意思表示は世界中のどんな人とだって伝えあえる能力があるのだろう。…そんな発見なんて目新しくもない些事だけど、実感として肌で感じたのは初めてだ。いわゆる「目を見開かされる」ってやつ。
「コーラ? アグア?」
 アグアは水のことで、ポルトガル語といっしょだ。スペイン語と似通った単語が多い気がするのは、当然といえば当然か。イタリア語とも近いし、って全然知らないけど。
 僕はパティが注いでくれたグラスを深く傾け、気分良く喉に流し込んだ。気のせいか、僕が知っているコーラよりも炭酸が効いていて、昔のコーラの濃い味を思い出させる。
 ママのコミーダ[料理]は、今朝も昨日の朝とおんなじだった(実は違うのかな?)。お皿には小豆色のスープで煮込んだ骨付き肉、ご飯は添え物的に少々。飽くまで主食はトルティージャ、お米はパサパサしていて調理方法が違うのかもしれない。
 奥の部屋からロレーナが現れて、声を掛けるとダルそうに僕を見て返事を寄越した。
 彼女は25だとトニーに聞いていたが、もっと年上にも下にも感じられる。陽気で大笑い、というよりもシニカルなタイプだ。別に僕を嫌っているのではなくてシャイなのだと聞いていても、彼女は微妙に話しづらい感じ。とはいえ今は貴重な通訳、彼女はコンピュータの仕事に就いていて英語はバッチリなのだ。
 ロレーナも席について、コーラを飲みながら「おいしい?」と訊いてきた。僕がgoodと答えると、彼女はママに振り返って「ビエン」と言った。ママが、嬉しそうに僕を見て頷く。
「ごちそうさまでした」
 僕が手を合わせて日本語で呟くと、ロレーナが(何だって?)と言いたげな顔をした。僕は肩をすくめて、彼女に「今のは日本語なんだよ」と説明する。彼女と僕を見比べているママにロレーナが訳して話すと、ママは痛く感心した様子だった。
 彼女にとって「いただきます、ごちそうさま」という日本人の習慣は、カトリック教徒が食前の祈りを捧げる姿を連想させるらしかった。メキシコの97%はカトリックだ、とガイドブックには書かれていたな。敬虔なクリスチャンなのかは判らないけど、グラシエラとビアネイの部屋のベッドサイドにも旧約聖書とマリア像が置かれていたのを覚えている。
 いつのまにか、二匹の犬がテーブルの周りにやってきた。ジョディとトーティだ。
 僕が後片付けしようと立ち上がると、ママは僕を制してお皿を下げた。二匹の犬が勘付いてママの後ろを追いかける。キッチンの隅のごみ箱から、食べ残しの骨がこぼれ落ちた。ジョディもトーティも、それを待っていたのだ。大急ぎでかぶりついていた。
 中型犬のジョディが、体格の差でほぼ独り占めにしまった。白地に茶色の体毛は短く、尻尾も短いので猟犬の種類だろう。トーティはふさふさの栗毛をしているミニチュア・ダックスフンドだ。いつも黒目をウルウルさせている彼女は、まだジョディのまわりで右往左往していた。
 ママに食事の礼を言って、僕は二階に引き返す。

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メキシコ旅情【風雲編・2 洗濯とお迎え】

 食後の一服をつけるため、僕は更に階段を上がって屋上へと向かう。
 屋上には満艦飾の洗濯物が、張りめぐらされたロープに揺れている。二階の住人の分も干してあるのだろうが、それにしても大量だ。なにか、とても生命力の強さをおもわせる光景。
 太陽は、濃い青空のまんなかにあった。ランニングシャツの背中が早くも汗ばんで、足の裏もビーチサンダルが脱げそうな有様。
 旅の荷物を減らすため、服の枚数は僅かなものだった。くたびれた長袖シャツにジーンズと短パン、ランニングと半袖ポロが一枚ずつ。Tシャツ二枚、あとはパンツ少々。出発時に着ていた物も含め、これで全部だ。暑い国の旅行だと荷物が少なくて済む、とにかく洗えばすぐ乾く。但しパンツの替えも少ないので、こまめに洗わなければ。
 そう、洗濯こそが今日最優先の課題なのだ。一服後、早速とりかかる。階段下の洗い場は、ひと抱え位の石をくりぬいた様なもので、腰の上の高さに据えられていた。日本も、一昔前の台所はこんなだったように思う。
 ただ、それが目の前のサンディの部屋専用だとしたら、勝手に使っては失礼になる。まして彼女達にとって食器の流し台だった場合、パンツをごしごしするのはまずいだろう。僕は汚れ物を抱えたまま、しばし彷徨った。
 それでも、せめてパンツは洗いたいし…。むむっ、これは!
 二つ並んだシンクの右側は、やや浅い底面に僅かな筋状の突起加工が施してあるじゃないですか。これは洗濯板にすごく似ているじゃありませんか。恐らく、いや間違いないきっと大丈夫。意を決して左のシンクに服を入れ、水を貯めると固形の洗濯せっけんを泡立てて一枚づつ右に移し、底の突起にこすりつけ手早く洗う。あまり丁寧ではないけれど、汗臭くなければ構わないのだ。
 洗い場の疑念は程なく解決をみた。僕が洗濯を済ませて立ち去ろうとした時、ちょうどティミーがやって来たのだ。平静を装って屋上に上がりながら、ふと眼下のティミーに目をやると…。彼女も洗い場から僕を見上げ、目が合ったと思ったら慌てて何かを手で隠したのだった。
 間抜けな僕は、彼女が恥ずかしそうに洗濯している理由を見抜けずに(ああ、ティミーも洗濯するんだ)とだけ思って単純に安心してしまった。
 最後の関門は干す場所があるのかどうかだったが、幸いにしてロープの片隅に居所を確保することが出来た。この天気だから、小一時間で乾くかもしれない。

 そのあとトニーと一緒に、ロレーナにくっついて子供たちの学校へと出かけた。ジョアンナとディエゴの、お迎えにいくのだ。
 幹線道路を横切るので車が途切れるのを待っている時、セントロで見た赤い横断歩道がここにもあった事に気付いた。って、油断してたら彼女は一人で向こうを歩いてるじゃん。
「アグアス!」…はい? 何の事だよ、トニー。
「まだ教えてなかったっけ? 車に注意、というような意味だよ」ふぅん、水の複数形かと思った。
「覚えやすいでしょ。それに警告は一言で通じないとね」
 さらに付け足して、トニーは「多分、正確なスペイン語というよりスラングだろう」と教えてくれた。ってことは、かつて宗主国だったスペイン王国では通じないのかもしれない。メキシコ全土で通じるのか、それともカンクンだけで流行っている言葉なのか…? エドベン家だけだったりして。
 なーんて話をしている間にも、ロレーナは僕らなど眼中にないが如く歩いてゆく。僕らもとっとと、だだっ広い駐車場をすり抜けてゆくロレーナの後を足早に追う。
 この駐車場は、メルカドの買い物客が使うのだろう。三方を囲む二、三階建ての店々は「いかにもメキシコ」と思わせる色使いでワクワク気分にさせてくれる。サンタフェ調のサーモン・ピンク、窓辺の白い縁取り、ウェスタン調や元気はつらつな看板の文字が、まったりとしたローカルの空気に気持ち良く空振りしてるのが愉快だ。誰もいないし。
 ロレーナはまっすぐ駐車場を突っ切ると、正面に並ぶしなびた土産物屋の隙間道に姿を消した。慌てて駆け出したら、急に日陰に入ったせいで足を滑らせ、その拍子にビーサンの鼻緒が外れた上にコンクリの角に向こう脛をぶっつけちまった。
 ほー痛てぇー、こん畜生め! 暗がりで本当に目から火が出たじゃあねぇか。夏じゅう使い込んだビーサンは、裏がツルツルにすり減ってたんだな。でもロレーナは振り向きもしないし、トニーも同情しながら急かすしで、痛みを堪えながらビニールの鼻緒を押し込んで駆け出した。しかし一体ナニをやってるんだ、こんな思いまでして…?
「幸先が悪いから、やっぱ帰るわ」
 そう言って立ち止まる僕、それを引きずるように走るトニー。 トニーの腕を振り解く僕に、彼は息を荒げながら言い放った。
「子供たちが楽しみにしてるんだよ!?」
 そりゃ思い過ごしに決まってる、なんで僕がそんな期待を?? そう思いながらも彼の剣幕に気圧され、跳びはねるように片足を引きずって走る。
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メキシコ旅情【風雲編・3 学校】

 小さい子がはしゃぐ声が聞こえてきた。
 低いブロック塀の木々に隠れて、学校が見える。とても濃厚な、草いきれの匂いが鼻をふさぐ。小さかった頃に、空き地で遊んだ夏の匂いだ。懐かしい土埃の匂い。
 校門の前には出迎えのお母さん達に混ざって、下の妹を連れに来たのか女の子も何人かいた。みんな群がるようにして、校門の軒下で日差しを避けている。見るからに暑苦しそうだけど、僕ら3人もそこに加わった。無風状態で、日陰にいても汗が吹き出してくるのは堪らない。うだるような暑さに、たまに意識が飛ぶ。
 そこに折よく、自転車のアイスキャンデー売りが来た。あいにく、こちとら運悪く持ち合わせがないときた。まったく、いい商売だぜ。下校時刻に現れる物売りって、やっぱりどこの国でも同じなんだなぁ。よく売れている。
 トニーはすかさず買って、ロレーナに分けていた。僕は断ったが、彼が何度も勧めるので一口もらってしまった。これだけ喉が乾くと、この一口が却って逆効果になる。あー、なんで財布を置いて来ちまったんだろ…!
 それからまたしばらく経って、やっと係員が来た。観音開きの鉄の扉を引くと、しびれを切らした母親達が殺到してバーゲン初日のデパート状態。この暑さだ、気が立つのも分かるが…コワイ!

 校庭は二百メートルのトラックが描ける程度の大きさで、奥の二階建て校舎の規模を考えれば狭い感じでもない。その運動場をとりまくように低い建物がいくつかあって、鉄棒などの遊具は見当たらなかった。
 校庭の手前を右に折れて、教員室らしき平屋の建物に沿って歩く。教員室よりも引っ込んだ場所、運動場の隅っこにプレハブの長屋造りの教室が並んでいた。窓と入り口がテラス越しに校庭に開かれ、部屋の中は明るい雰囲気だ。
 帰り支度の生徒に混ざって、ディエゴが姿を見せた。青と白のボーイスカウトっぽい制服に、黄色いこぢんまりした肩掛けカバン。色のコントラストが爽やかで、彼をカッコ良い男の子に見せている。
 ディエゴは僕ら二人の名を呼んで、教室の入口に立っていた僕達のそばに来た。トニーに対して、何やら学校のことを話し続け、黄色いカバンを開いてみせたりしている。トニーを見つめるディエゴの顔は、家にいる時の甘ったれ坊主に戻ってしまっていた。
 彼の家に来て三日目だからな、まだ僕には気を許していない様子のディエゴだ。言葉が全然通じない事も、打ち解けにくい理由のようだった。
 二階建校舎のほうから、いつのまにかジョアンナもやって来て、僕らは5人で帰途に就いた。
 トニーが子供達にキャンディをあげると、ディエゴは包みを道ばたに投げ捨てた。トニーが軽く注意して拾うよう促し、ロレーナも振り向いて息子にこわい顔をして見せたが、それしきの事で動じる少年ではない。結局トニーが引き返して、ゴミを拾った。そして日本語でさりげなく言った。
「…しょうがないネ。考え方、違うョ。」
 価値観は、人の数だけ違っている。トニーはきっと、そう言いたかったのだろう。だけど僕は、こう解釈した。美化意識や環境問題なんて言っても、所詮は最悪の事態になってから気にし始めるものだ。アメリカも、日本もそうだったように。
 それにしても、この町はきれいだと思う。ゴミが落ちていない訳じゃないけど、さほど目に付く程でもない。歩道のコンクリートがあちこちひび割れたりデコボコしてるのに、この町並みには品の良さがある。わざとらしさの無い居心地の良さ、とでも言おうか。
 それは道幅の広さ交通量の少なさ、家の高さや色使いも関係している。けれど決定的なのは、俗に「捨て看」と呼ばれる置きっ放しの立て看板がない点かもしれない。そう、広告の少なさ。
 あふれかえる看板広告がなければ、かなり日本の町並みもすっきりするだろうな。って、安易な比較で批判をする気はないけれど、東京がこんな風景だったら面白いのに。個人的には、下手に近未来的な景観よりも。

 午後の町は静かだ。
 洗濯物は、さっき干したばかりなのにもう乾いた。しかし取り込むのは後回しにして、昨日の夕方に書いたポストカードを出しておこう。トニーに訊くと「ポストより郵便局の方が近い」という。あのだだっぴろい駐車場の並びか、じゃあ迷う筈がない。
 子供たちの出迎えで、転んで青あざを作った場所だ。あの薄暗い閑散としてた土産物屋が並ぶ区画は、ガイドブックには「民芸市場」と書いてある。皆は単に「メルカド」と呼んでいて、マーケットという意味だ。
 家からは目と鼻の先だ、それにメルカドへの道はセントロに行くのにも利用している。

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メキシコ旅情【風雲編・4 郵便局】

 あっ!…と、気が付いた時はすでに区画をぐるり一周していた。
 おっかしいなー、確かトニーは「メルカドの並びにある」と教えてくれたが…。などと頭をひねっても仕方ない、これはカタコトでも誰かに尋ねたほうが早い。そして今度は反対廻りに歩きだした。
 「郵便局はどこですか?」というのを、どのようにして伝えたらよいものか…。てくてくと、ひたすら考え続ける。考えるまでもなく、肝心の「郵便局」はおろか「どこ」も言えないのだから話にならないか…。いやいや、人間同士だ分かりあえるさ。
 まずは尋ねる相手を見つけないと…。風はそよとも吹かず、たまに走ってゆく車以外に動くものはない。シエスタにしては少し早い筈だけど、通りは人気が絶えて静かだった。何軒もの店が並んでいるのに、陽気な音楽どころか物音ひとつ聞こえない。
 歩き疲れた頃、やっと人影を発見しダッシュで追いかけると…!? そこが目当ての場所だったのだ、何度も通り過ぎた地味な建物が。こんな郵便局で分かるかよー! 
「オフィシーノ・デ・コレオス?」
 どうやら、これがスペイン語の郵便局らしい。外の看板に書いてあるとはいえ、これじゃ不案内だろ。カラフルで庶民的で、英語表記が当然の日本とは大違いだ。実にそっけない。
 通りに面した前面が総ガラス張りで、奥のカウンターまでは作業テーブルだけ。待合席もポスターもなし、がらんとして色彩の乏しいフロア。おそるおそるドアを開けると、全身の毛穴が(キューッ!)とすぼまる程の冷気だ。これはトニーのクーラーに対抗できる。
 局員とお客が二人ずついるのに、室内はまったくの無音状態だった。すごーく居心地が悪い。こっちもなぜだか足音を立てないようにカウンターへと進み、ポストカードを差し出して「パー・アビヨン、ハポン」と告げる。派手な女性の局員はカードと僕を一瞥すると枚数分の切手を出し、無表情のまま何か言った。小声で早口だったが、おそらく金額だろう。
 トニーから「エアメール・カードは5ペソぐらいだ」と聞いていたのに、女性が出した切手の額面は2ペソ70センタボ。安すぎる。これ、国内向けじゃないの? 僕のスペイン語が通じなかったのかな。もう一度「エアメールを日本に送るのだ」と言ってみるが、彼女は目線で切手を示しただけだった。むかつく。
 まぁいいや、10ペソの硬貨二枚をカウンターに置いた。僕の片言が通じていなくたって、切手が貼ってあれば届くはずだ。仮に着かなくたって、僕にとってひどく不都合な訳でもないしな。
 お釣りをもらって、ロビー中央のテーブルへ引き返す。切手に糊を塗って、貼るのだ。テーブルの上にあるのは、小さい缶が2個。試しに指をなめて、切手の裏を濡らしてみる。おぉ、糊が付いてない。トニーが僕をかつごうとしてるのかと思っていたが、本当に彼の言葉通りだった。
 空き缶を再利用して、糊の容器にしている。それはそれで良いと思うけれど、缶切りで開けた縁をきちんと潰していないので危なっかしい。それに、糊をすくい取るへらの代わりにボールペンを使っているので、非常に塗りにくかった。宛名の上にはみ出して汚くなるわ、指もベトベトになるわで不愉快になる。
 信じられない不親切さだが、他の客は気にも留めない様子だ。白い化粧板のテーブルには、指先の糊をなすり付けた痕跡が無数に残されている。なるほどな。僕は、サービス過剰な日本式に慣れてしまっている。ところが、ここでは郵便業務は政府の仕事であって、商売とは違うのだ。
 以前、トニーから「メキシコに、アメリカや日本から品物を送っても、絶対に届かないんだ」と聞かされたのを思い出した。ここはまだ、横領も不親切も許される役人天国なのだった。
 警察にしても、ちょっとやそっとじゃ相手にしてくれない。だからトニーは僕に「車に注意しろ」と言うのだし、エドベンの家も入口を鉄格子にして自衛しているのだ。ガイドブックにも(警官は権力を持つコワイ存在で、ワイロを強要したりする)とあった。
 うわさを鵜呑みにするつもりは無いが、そんな空気は感じられる。

 郵便局の横の細い路で、露店のおじさんから紙パックのジュースを買った。どういった果物の味なのか想像もつかない、特に美味しそうには見えないパッケージだったけど、ペプシの缶を買うよりもスリリングだ。飲んでみても正体不明の味で、思わず首をかしげたものの、ともかく喉を潤してくれた。
 せっかくカメラを持ってきたのだし、あのだだっぴろい駐車場の景色を写真に収めておこう。短パンのポケットにカメラを押し込んでいるせいで、歩くとすぐにずり下がってしまう。

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メキシコ旅情【風雲編・5 ギターおじさん】

 郵便局は区画の角にあり、セントロの方角を背にして右手の道路に沿って約50m前方が駐車場だ。駐車場前の赤い横断歩道を向こうに渡れば、もうエドベン家の区画だった。
 郵便局の裏手に、小路を挟んで隣接する建物はホテルのようだ。通りに張り出した植え込みの縁に、腰を降ろした二人の男性がいた。おじさんと若者、父子だろうか。二人とも、よく陽にさらされた肌色をしている。
 やっと町にも人が出てきた、と思った。おじさんは飾り気のないガットギターを抱いて、若者と穏やかに語らっていた。通りで休むふたりの姿は昼の空気になじんで、何となく絵になっている。僕はいったん通り過ぎそうになってから、二人に近付いて声を掛けてみた。
「マリアッチ?」
 さすがに自分でも(おいおい、いきなり不躾な物言いだなー)と思った、でも他の言葉が思い浮かばず咄嗟に口をついて出てしまったのだ。おじさんは、驚くでもなく静かに笑って首を振った。若者は口をぽかんと開けて、おじさんと僕を交互に見つめている。少し、僕を警戒しているかも知れない。
 僕は短パンのポケットから、ゆっくりとカメラを出して見せた。とりあえず英語で「撮ってもいいか」と言って、彼らにカメラを向けて首を斜めに曲げてみる。一瞬、おじさんは訝しげな表情をしたが黙って頷いた。パシャリ。
 礼を言ってから、僕はおじさんに「なんで、ギターを持ってここに座っているのか」と尋ねた。少し間が開いて、答えがスペイン語で返ってきた。僕が目をぱちぱちさせているのを見て、おじさんも若者もにこにこした。僕がスペイン語を話せない旅行者で、そして危害を加えるつもりなどない事が判ったらしい。
 隣に座ってもいいか、身振りで了解を求めて僕はおじさんの横に腰を下ろした。ギターを弾いてみて、というつもりでジェスチャーをする。「ギター、じょろろーん」と言いながら、おじさんを指してギターの弦を鳴らす仕草をしてみせたのだ。しかし彼の顔には、ありありと(お前さんは何が言いたいんだろうな)と書いてある。
 僕はギターにむかって両腕を拡げて、片手で自分を指差してみせる。僕に弾かせて、と言いたいのが通じたらしい。おじさんは僕にギターを手渡してくれた。まさかメキシコでギターを弾くとは、こんな事なら荷物の中に唄のノートも詰めときゃ良かった。
 僕はポケットの小銭入れからピックを選んだ。お金は日本円からペソのコインに入れ替えていたが、ピックはそのままにしてあったのだ。僕は小銭入れにピックを入れる習慣がある、それが意外なところで役に立った。でも曲までは持ち歩かないのだ、惜しい。
 ギターを抱えてはみたものの、実は暗記している曲なんてなかったのだ。2人はじっと見ているし、もはや適当にコードを鳴らして茶を濁す訳にもいかない。こうなったら度胸一発、ご当地ソングで仲良くなろう(歌詞も伴奏もうろ覚えだけど)。
 「あー、ラララララララ・バンバァー!」
 でたらめながら、調子良く声を張り上げた。分からない歌詞はうやむやに唄って、一フレーズ目でコードはそのまま「ツイスト&シャウト」に歌を変えちゃう。(受けた?)と思い、横目で二人を見やると…固まってるよ…。とほほ、尻すぼみにフェイドアウト。
 おじさんに返して、再度(おじさん弾いてよ)の手真似をすると今度は伝わった。彼は唄うでもなくかき鳴らすでもなく、そっと弦をはじく。親指の腹で太い弦の低い音、人差し指と中指を使ってナイロン弦の透き通る音色を鳴らし、静かにギターを弾き始めた。
 どうやって扱えばガットギターが喜ぶのか、最もいきいきと響かせる事が出来るのかを、彼の奏でる音が語っていた。紡がれてゆく丁寧な音が、穏やかな午後に流れ、それが目の前の空気を鮮やかに染めてゆく…。ギターを弾きながら、おじさんは目を軽く閉じている。
 3人で、音を味わった。
 短い曲だった気もするのだけれど、ずいぶんと長くそこに座っていたような不思議な感覚があった。ギターの深く澄んだ響きが消えると、喝采のごとく町のざわめきが戻ってきた。催眠術が解かれたみたいにして、すうっと僕の現実感もまたよみがえってくる。自分のお粗末な演奏を恥じる気持ちさえ、すっかり(ちゃっかり、か)忘れていた。
 それは合図というか、ちょうど微妙な区切れめ、といった感じだった。僕は、名残り惜しげに植え込みの縁から腰を上げて深呼吸をする。良いひとときだった。真昼の暑さを思い出したかのように、再び汗が吹き出してくる。
 僕は知っているスペイン語の賛辞を全部並べあげて、おじさんに感謝の意を表した。二人とも、にこやかに僕を見上げていた。若者が、白い歯をみせている。僕は(楽しかったね)と、心の中で彼に呼びかけた。若者の黒い瞳は、いたずらっ子の目の色だった。
 素敵な時間を体験した。
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メキシコ旅情【風雲編・6 メルカド】

 広い駐車場には、多くの車が並んでいる。しかし、動く気配は一台も無い。
 ピックアップのトラックに、ダッヂ・バン。ボンネットの塗装が焼けた、大振りな古いワゴン車とかセダンとか。それに、日本車を真似たコンパクトなファミリー・カーやワーゲン・ビートルが目立つ。
 この奥にはメルカドがあるけれど、この台数に見合うだけの人が来ているのか、それとも月極駐車場なのか? いいや、それはないな。近所の住宅街は路上駐車が多いし、交通事情も治安の概念も違う。そもそも警察としては駐車禁止で点数稼ぐより先に、まず車泥棒やひき逃げ犯を捕まえようという意識を持つ事が優先する仕事だろう。
 駐車場の先は落ちぶれた土産物屋だが、右手の方には色気があった。ピンク色を主とした小さなビルが軒を連ねている。ややコロニアルな造りも粋だ。雑貨屋とか、ブティックらしい。
 いかにも高級な感じに気が引けるものの、レストランの入り口には「ジャパニーズフード」とか書いてあるメニューが拡げられていて妙に親近感を覚える。「CLOSE」の札がなければ、どんな「スシ」だか一つ、つまんでみたいものだ。
 店の中央に、二階へ上がる階段があった。階上には別のテナントが入っているのだろうが、洒落た造りだ。真上から見て、凹を逆さまにした形をしている。階段の先には青空がのぞいていて、思わず行ってみたくなるじゃあないか。
 急な階段を上がると、二階の店はどれも扉を閉ざして無人だった。天井のない、細い回廊のタイルはワインレッドで壁の色に映える。オモチャの家のようにきれいで、シーンとしていた。それが余計によそよそしく感じられて、落ち着かない気分になる。
 裏手に回ると店々の影になって、細い廊下には直射日光が届かない。静まり返った回廊に吹き抜ける風も、妙に冷たい気がした。現実離れした、シュールな静寂。更に歩くと、階下から人の賑わいが感じられた。
 下から回り込み、アーケードの小路に入ってみよう。建物に囲まれた丁字路の突き当たりは吹き抜けで、可愛らしい噴水が眩しい陽光を撒き散らしている。そんなちょっとした中庭が左手の奥へと続いていて、旅行者ふうの人影がちらほら見えた。
 ここも店の大半は閉まっていたが、くつろいだ雰囲気が感じられる。噴水の水音と窓に映る光の動き、それに人の影があった。あの横道の土産物屋(午前中に子供達の出迎えで通った)に比べると、こちらは少し気取った店が並んでいる。小さなショッピングモール、といってもハワイやグアムにあった巨大モールが誇示していた、あざとい匂いがしない。その分だけ居心地良いけど、どっちにせよ僕には用のない場所だわな。
 ショーウィンドウに飾られたサマードレス。こういった場所には、婦人向けの店が多い。女性は旅行中であっても買い物が好き、というのは世界的傾向なのだろうか。僕は、後でチープな方の土産物屋に行こうと思った。革製品やメキシコらしい民芸品、それにポストカードを眺めていたい気持ちになるのは、割と男性的な欲求なのかな。
 目の前が開けてくると、強烈な光が襲いかかってきた。
 思わず顔を背け、建物の陰に目をやる。まっ白い残像が焼き付いて、舗装タイルもブティックの窓も見えない。僕はサングラスをかけながら右の脇道にそれて、迂回しながら目を慣らそうと考えた。あれは広場の椅子やテーブルが白一色で、思いっきり光を反射していたのだ。
 横道から左に折れ、広場と並行する路地を回り込もうとして足が止まる。数メートル先の路上に、数人の男達がたむろしていたからだ。なんと連中は、全身を白のウェスタン・ハットとスーツで決めているではないか。ちょっと怖いなー。
 他に人通りも無いし、物騒な事になったらお手上げだ。といって、きびすを返すには不自然な間合いだし…。若干ビビリ入りながらも、僕は自然体を装って進む事にした。顔をまっすぐ前に向けながら、凄い横目で様子を探る。
…やばい、目が合った! こうなったら先手を取って、アミーゴ精神で声を掛けてしまえー。
「オーラ! ブエノス・ディアース」
 片手を挙げて、僕は笑いながら歩み寄った。彼らが楽器を持っている事が判っていたので、最悪でも洒落になんない事態には及ぶまいと踏んだのだ。だからって、浅黒く険しいメキシコ男の群れが安全なのかは別だったが。
「何していますか? マリアッチですか? 英語は話せますか?」
 必死のスマイルで、僕は一方的に言葉を浴びせ倒す。思い返せば、その行為自体が不審かつ無礼だよなぁ。けどね、そんな余裕は持っていられなかったのだ。許せよセニョール。

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メキシコ旅情【風雲編・7 マリアッチ】

 男達は「何なんだ?」という顔をして僕を見ていた。
 英語は通じなかったが、彼らは僕の身振りを観察しては仲間同士言葉を交わし合っていた。少年のような目をした青年もいれば、しわの刻まれた目元の深く陰った男性もいる。それぞれが手にしているギターは、ウクレレみたいなのからチェロ並みの大きさまで様々だ。
 リーダーらしき年配の男性が、手振りを添えて僕の問いかけに答えてくれた。それによると、彼らはベラクルスからやって来たマリアッチで、夜は裏手のバーで演奏しているという。「今夜飲みに来なよ」と誘われ、僕は「行きたいけどノーマネーだ」と断った。だけど、その時なぜ僕が彼の誘いを理解出来たのか…? 後で考えると謎だ、そんなスペイン語を知るはずもないのに。
「どんな曲を演るの? やっぱりラ・バンバ?」
 僕が尋ねると、彼らの表情が一変した。
「オー!、ラ・バンバ!!」
 リーダーが仲間たちに声を掛けると、タバコの火を消して皆そこで楽器を構えた。僕は一体何が起きたのか、訳が分からなかった。しかし、まさか……。
 リーダーのカウントで、突然のストリート・パフォーマンスが始まったのだ。彼の粘り声に艶のあるコーラスが重なり、大小のギターは太くリズミカルに高く細やかに奏でられる。大きな箱みたいなギターも胸まで抱え上げられ、全員がはちきれんばかりの笑顔で音楽と一体化していた。
 写真を撮れば良かったが、すでに僕は手拍子足拍子で踊っていたんだから仕方ない。緊張も警戒も、いつの間にやら消し飛んでいた。曲が終わると僕はもう拍手してお辞儀して合掌という、興奮で意味不明の大絶賛。
 気が付けばメルカドの広場から遠巻きに、人々がこちらを見ている。ちょっとした人だかりの中心に僕とマリアッチがいる…と思うと、この信じられない展開に実感が湧いてきた。ところが彼らは僕の感謝の言葉も上の空で、いそいそと広場へと繰り出して行った。
 彼らにすれば、人の目が集まった今は絶好の稼ぎ時だ。もう僕に関わりあってる場合じゃない。テーブルの間に分け入って、ガーデンチェアでくつろぐ観光客たちに「一曲、如何です?」と陽気に声を掛けて回っている。颯爽として粋な、白いマリアッチ。その後姿に、しばし見とれる。
 後で聞いたが、普通は「マリアッチといえば黒」が相場らしい。その語源は結婚式(英語で言うとマリアージュ)に由来してるとかで、フォーマルなブラックスーツじゃない彼らは…観光専門なのかな?
 ともかく、彼らのおかげで僕が今どんなにハッピーなのかを伝えきれないのは心残りだった。

 メルカドの土産物屋でポストカードを買い込んで戻った。
 エドベン家の中のドアは開け放たれ、ガレージの格子は閉ざされている。外からのぞき込むと、ディエゴが僕の名を呼びながら飛び出してきた。彼は食事中だったのでロレーナにたしなめられ、ママが笑いながら格子戸を開けてくれた。
 みんなにメルカドでの出来事を伝えたかったが、ロレーナに英語で説明して通訳してもらうのは大変だった。そこに折良くトニー登場、彼とはノリだけで通じる部分があるから話が早い。
「マリアッチが路上で、しかもタダで歌ってくれたの?!」
 そんな感じで皆ビックリした様子だった。彼の英語訛りのスペイン語はママ達には分かりにくそうだったけど、それでもトニーの名調子に引き込まれていた。
「そうそう、彼もギターを弾くんだよ」とトニーが付け足して言うと、興奮交じりにディエゴが「ギターロ!」と叫んで走って消えた。ギターはギターロと言うのか? それにしてもどうしたんだか…。
 気が付くと、いつの間にかディエゴが無造作にガット・ギターを抱えて立っていた。どこから見つけて来た、っていうか誰か弾けるの? そこにいる誰もが、初めてギターを見たような顔をしていた。家にあるのに誰も弾かないギター、それは日本の家庭でも珍しくないが。
 ディエゴはギターを差し出すと、半ば強引に僕に持たせた。クラシックギターのナイロン弦は、とても美しい音がする。僕のようなロック系の弾き方では台無しだって思い知らされたばかりだが、笑ってごまかそうとしても彼はあきらめなかった。音楽よりもボール投げとかに夢中なヤンチャ坊主、そんな印象のディエゴにしては意外だ。
 ギターの調弦は、思った通り全然あってない。僕は大ざっぱにチューニングすると、ロックの有名な曲の触りを幾つか弾いてみた。けれどトニーを除いて、他は一人も知らなそうなので適当に止める。トニーが「ビートルズの有名な曲だ」と言っても、それすら分かってない様子だった。
 僕はすごすごと部屋に戻り、結構なカルチャー・ショックに凹んだ。僕個人としてビートルズに肩入れする気などないが、それにしたって…。みんな、本気でレットイットビーを知らないの?

メキシコ旅情【風雲編・8 スケート】

 トニーがシャワーを浴びて出てきた。これから子供たちと(というかベイビーベイブと)インライン・スケートで遊ぶのだ。
 彼は貸し出し用にと、安い物だがいくつも持っていた。それでも僕が自分のセットを持って来たのは、やっぱり使い慣れた道具じゃないと物足りないからだ。
 以前、ハワイイの公園をインライン・スケートで走った事がある(偶然レンタルしている店を見つけたからなんだけど)。それが自分のと同じモデルなのにガタガタで、手入れされてないから調子が悪いのなんの! その時、何度も(自分のを持って来れば良かった…)と思ったのだ。
 トニーがダッフルバッグに詰めている、子供達3人に貸す道具を見て(しばらく見ないうちに数が減ったな)と思った。そりゃあ安物だし、この辺は路面が悪いから壊れやすいのは分かる。歩いていてもと気付かない程度の舗装の粗さでもタイヤのゴムは早く減るし、激しい振動でパーツが抜け落ちたりするのだ。ここでは修理しようにも部品が手に入らない上、値段も割高だとか。
 しかし実のところは、この近所で失くした物の方が多いらしい。つまり、トニーが他の家の知らない子供にも貸してやって、そのまま戻ってこないって事。どの子も「トニーに返した」と言うので追求しなかったって、それも人が善過ぎるってもんだ。カモられてどうするのさ。

 夏の夕空は、日本と変わらない色合いをしている。ダイナミックな積乱雲に透き通るような淡い橙色、夕闇へと染まるグラデーション。僕が子供だった頃に見ていた、今の東京で見られるよりも鮮明な空。あるいは空を見る僕の心持ちが子供に近いのか。
 家から左に出ると運動場がある。昼間は、いつ通っても体操服を着た少年たちがバスケに興じている。うまく言えないが、いつ見ても(なんか変)という違和感があるコンクリートの台地だ。
 その手前のL字路を行くとマカレナを踊った公園があって、その先は幹線道路を挟んでメルカドの駐車場だ。最初、僕達はコート前の広い道路でスケートをしていた。ジョアンナ、ディエゴ、ベイビー・ベイブの三人と一緒に。
 そこへ、マカレナ軍団の一味が現れた。マカレナ公園の向かいの家からタチアナ達が走って来て、トニーや子供たちに何やら話しかけている。トニーは少し落ち着かない表情で「場所を変えよう」と僕に耳打ちした。
 子供好きの彼にしては意外な提案、でも僕としては大賛成だった。マカレナを踊ってからというもの、連中は僕を見つけると寄って来ては「マカレナ、マカレナ」と囃し立てるようになっちまったのだ。つられて道端で踊ってる僕も僕だが、心中はうっとうしさに根を上げそうな状態だった。
 こうなる事は、連中と公園に行った最初の時点から分かっていたのだ。今更考えても詮無いけれど、もっと慎重に関われば違っていたかもしれない。子供との間合いを決めるのは、出会いの時が肝心だ。一旦オモチャ扱いされたら、手綱を取り返すには相当な手管が要る。
 子供達と上手に付き合う、その距離感ってのは難しい。僕が言いたいのは(丁度良い関係を作る)という意味で、子供をコントロールする事じゃない。このマカレナ軍団とは初めに仲良くなり過ぎてしまい、もう僕の手には負えなかった。
 トニーは僕に〈脱出作戦〉のルートを指示した。運動場の脇から左に抜ける緑道の先に、連中を引き付けないようにして移動する。家の周りから離れれば追いかけてこない、そう彼は言うのだった。

 トニーは、手際よく3人を緑道へと誘導した。車道と歩道の段差や、緑道のスロープも上手にエスコートして通過させる。呆気なく作戦成功、もう後を追っては来なかった。トニー、見事な手並みじゃん。
 薄紅色の夕陽で光に照らされて染まる、背の低い木々の枝葉をすり抜けてゆく。タイルの継ぎ目でスケートのウィールがかたかた鳴っているが、アスファルトよりは滑らかでスピードが落ちない。どの木の幹も、なぜか根元から胸の高さまでが白く塗られているのが奇妙だ。
 道は、平行する二本の車道を垂直につなぐようにエドベンの家の背後の区画に続いている。緑道が終わりに近づいたところで、反対側からマウンテンバイクが走ってきた。思わぬ伏兵、ビクトールだ。どうする?! それでもトニーはいつもと変わらない調子で、さりげなく子供たちを緑道の向こう側に連れ出した。しばらく付いて来たビクトールも、やがて消えて行った。
 考えてみれば、別に近所の子供に怯えている訳じゃないんだ。今はただ(子供が集まると面倒を見切れない)から、連中から離れて遊んでいるだけだった。スケート初心者の三人に対して、トニーは責任がある。車にひかれたり、大ケガをしないように気を配る必要があった。
posted by tomsec at 17:05 | TrackBack(0) | メキシコ旅情4【風雲編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

メキシコ旅情【風雲編・9 分岐点】

 とっぷりと日が暮れる。30分位だったろうけど、ずっと滑っていたように体が重かった。長い一日の疲れが出てきた。
 子供たちと一緒にトニーの部屋に戻ると、早速ディエゴは散乱したテーブル上のキャンディを見つけて、トニーに甘え声を出した。
「食べてもいいよ」
 トニーはそう言ってTVをつけると、三人を部屋に残したまま僕を外へと連れ出した。何がなんだか分からない僕に、トニーは少し早口の英語で一方的に段取りを説明し始める。
「いいかい、これから僕らはタクシーでベイビー・ベイブの家まで…」
「待って、彼女だけタクシーに乗って帰ればいいんじゃないか。昨日と同じように…」
「違う、彼女の兄弟が会って礼を言いたいそうだ。断れるか? それに、彼女は君を気に入ってるから来て欲しいんだ」
 トニーは、彼女の帰宅が遅れた事に責任を感じているのだろう。それにしても珍しく有無を言わせない口調で、まるで僕の顔に「NO」と書いてあったのが不満だったみたいだ。だってこちとら疲れて今すぐ寝たいってのに、どうしてそこまで彼女の面倒をみる必要がある?
 ベイビー・ベイブというのは、エドベンが(トニーの好きなコだから)という意味で付けた内輪的な呼び名だった。親切にして仲良くなるのは結構だけど、そいつは彼自身の問題じゃないか。それに何となく、僕は彼女に係わりあいたくなかった。
 トニーは続けて言った。これから部屋には近所の子供がみんな来て「トイ・ストーリー」のビデオを観るんだ、寝てられないよ。僕らはその間に彼女を送って、帰って来る頃には子ども達も観終わっている。そしたら静かにのんびり出来るさ、何も問題ないだろう? と。
 OKと言うしかなかったが、その単純な一言を口にするのは大変な勇気が要った。ここではいつも彼に頼ってばかりだし、今こそ役に立つ良い機会なのだった。タクシーに乗ってあいさつして帰る…それだけだね? 僕は彼に念を押した。
「大丈夫だよ。すぐ帰って来るんだから」トニーは答えた。
 夏空は、薄暮に包まれてゆこうとしている。
 昨夜と何も変わらないはずだ、僕はそう考える事にした。
 その筈だったのだが。

 タクシーの中で、トニーは彼女の話を僕にも訳してくれていた。珍しく前の助手席に座っている僕は、後部座席で明るく言葉を交わす二人の調子に投げやりな相槌を打っていた。心ここにあらずで、どうでもいいのだ。
「君がギター弾くって言ったら、彼女が『じゃあ持って来れば良かったのに』ってさ!」
「はっはっは。へー、そぉ」
「家に行ったらマカレナ・ダンスを見せて欲しいって!」
「はっはっは。あっ、そぉ」
 タクシーは中型の日本車で、左ハンドルだった。信号が少ないからか、減速せずに勢いよく走る。自分達がどっちの方角に進んでいるのか覚えておきたかったが、さっぱり判らなくなった。
「彼女が『君の髪を切りたい』って!」
「…えっ? 何でまた」
「彼女はヘア・カットの学校に通っていて、練習したいんだって!」
「カッコ良く切ってくれるならね。カンクンで一番イカした髪型にしてくれ、って彼女に言って」
「大丈夫だってさ!『今よりは良くなる』って!」
 悪かったなー。実は自分でも、髪を切るつもりだったんだけど。昼間、メルカドをウロウロしていて床屋さんを見つけたので(明日にでも散髪に)と思っていたところだったのだ。不精ヒゲにぼさぼさ髪でメキシカン気取りでも、いざカンクンに着いてみたら逆に不審人物だった。
 この町の人は、清潔さを身上とするのだ。男性は大抵、短めの黒髪をぴったりとなでつけていた。少なくとも長髪はいなかったし、ヒゲを生やしている人もお目にかからない。そもそも無精ヒゲは、メキシコ人じゃなくて西部劇のならず者だ。
 カンクンの人達はみんな穏やかで押し付けがましくなく、ちょっと照れ屋だったりする。セントロの土産物売りさえも紳士的で、しつこく売りつけたりはしない。最初に声をかけられた時に無視したら、トニーにたしなめられてしまった。
「彼らは悪い奴じゃないんだからさー。ただ笑って『ノ・グラシァス[結構です]』って言えば、もうそれ以上は何も言ってこないヨ」
 トニーは、外国人が日本で味わう屈辱について、こんなふうに言っていた。
「通りかかった人に話しかけようとするでしょ、みんな逃げるヨ。道を尋ねるだけなのに、すごい無視するヨ。日本人どこでもそう。さっき、君は日本人だから普通に無視してたでしょ? でも土産物売る人は、ちょっとショックだったヨ、たぶん」
posted by tomsec at 17:05 | TrackBack(0) | メキシコ旅情4【風雲編】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする