2005年05月27日

メキシコ旅情【分水嶺・1 始まり】

 ベイビー・ベイブの家は近くないので、トニーが電話でタクシーを呼んだ。で結局、僕も同乗する羽目になってしまった
 距離もそうだけど、16歳の彼女が歩くには街灯が少な過ぎる。トニーは「危険区域だから」と言ってたが、確かにエドベンの家の辺りからちょっと走っただけで通りの雰囲気が変わった。
 タクシーを降りるとカンクンの町外れで、陽が落ちただけで真夜中のように深閑としている。郊外の幹線道路沿いだから、昼間ならもっと開放的な家並みだと感じたかもしれない。
 何か引っ掛かる…。タクシーから降りて、僕は訳もなく緊張していた。実は車中でも道順を覚えておこうとしていたのだが、もう大雑把な見当も付かなかった。
 門も柵もない白壁の平屋建て、アメリカの片田舎にでもありそうな家だ。ベイビー・ベイブは扉を開けて、僕たちを中へと促した。この家の中に足を踏み入れるのには、なんというか、勇気とか覚悟が必要だった。何に腰が引けてるのか自分でも不思議だけど、今すぐ逃げ出したい気持ちは一向に収まらなかった。

 リノリウム張りの床の一角に毛布が敷かれ、その上にアマカが吊ってある。危険を示す兆候は、どこにもない。毛布の上で四つん這いになっている赤ちゃんを抱き上げ、ベイビー・ベイブは奥の部屋に声を掛けた。顔を見せたマッチョな兄に僕らを紹介してくれる。筋肉質で焼けた肌の、リーゼントの似合うお兄さん。
 その背後から次々と荒くれ者が、ぞろぞろ出て来て僕らを取り囲み…というのは考えすぎというものだ。僕は、どうやら取り越し苦労が好きなのだろう。こっちは今すぐサヨナラしたいのに、トニーはマッチョ兄と世間話を始めて、しかも家の前で待たせていたタクシーを帰してしまいやがったのだ。ナニ考えてるんだ?! もはや逃げようもなかった。
 ここでも僕は、例のマカレナを踊る羽目になった。これも浮世のしがらみよ、旅の恩人トニーへの義理を果たすためならば。でも、マッチョ兄はこれから仕事に出掛けなければならないのだという。もうすぐ帰れるぞ! 顔では残念そうにしておく。トニーと僕は、マッチョ兄と握手をした。
「ゆっくりしていってくれよ、アミーゴ」
 多分、彼はそんなことを言ったのだと思う。白のランニング・シャツにジーンズ、リーゼント・ヘアの兄は、その格好で出勤だ。どんな種類の仕事なんだい?…なんて訊ねる気はない。
「アディオス」とトニーが言って、僕が「アスタ・ラ・ヴィスタ[またね]」と言った途端、兄は急に振り返って僕を指差し不敵な笑みを浮かべた。
 何かまずかったか? 死ぬかな…。
「ベイビー?」
 兄は、そう言った。語尾が上がったのは、疑問形だからではなく「ターミネーター2」ラスト・シーンの名台詞だったのだ。トニーと彼女に言われるまで、そうと気づかなかったが。
 日本語字幕では「地獄であおうぜ」と訳されていた。アスタ・ラ・ヴィスタ・ベイビー!
 兄は力強く親指を立ててみせ、満足げにドアを閉めたのだった。
 冷や汗をかいた。悪い冗談だぜ、誰が地獄で逢うもんかい。

 さて、人心地ついたところで帰りますか! と切り出そうとしたら、ベイビー・ベイブが「僕の髪を切る」などと言い出しやがった。まぁまぁ今夜は何だから、と一笑に付してしまおうとすると間髪入れずにトニーも同意した。もぉー、みんなバカバカッ!
 タクシーの中では「すぐに終わるから」と言われてOKしちまったが、やっぱ気が変わったので帰ります…と言う前に彼女は素早く支度に掛かり、半ば押さえ付けられるようにして僕を椅子に座らせた。準備、なんてものじゃあなかった。僕の首に白布を結んで、食卓の前にハサミを並べただけの事だ。
 トニーが、テーブルの向かい側に座って楽しそうにこちらを眺めていた。すぐに終わる、と言う。どうにでもなれ、だ。これじゃあまったく体のいいオモチャだ、っていうか当て馬か。どこまで彼に義理立てすりゃあいいんですかね?
 時々、トニーはスペイン語を通訳しながら彼女と僕との間に会話を作る。気を使ってくれているのかも知れないし、彼自身が退屈なのかもしれない。他人の恋路を邪魔してないのに、馬に蹴られてしまった気分だ。
 左側に赤ちゃんとアマカが、右にキッチンがある。トニーの背中越しに玄関、僕の正面は奥の部屋に通じているらしい。あまりほめられた習慣ではないが、僕は頭の中で最悪の筋書きを幾つも思い描いていた。いざとなったら力づくでも逃げる気で、あらゆる方法を考えているのだ。
 やがて左奥の部屋から誰かが出てきた。太った女性で、彼女の母親だろうか。寝起きみたいで、不機嫌そうに見える。ベイビー・ベイブが振り向いて話しかけたが、その声の調子が上ずっているように聞こえた。思い過ごしだろうか。

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メキシコ旅情【分水嶺・2 恐怖】

 僕の不可解な胸騒ぎは、一向に収まらない。
 その女性はベイビー・ベイブの呼びかけを無視するように、渋い表情のままトニーの隣に腰を降ろした。そうしてしばらく僕らの様子を観察していると、顔色を変えずにトニーと話をし始めた。
 僕はその女性を見つめ、いつでもすぐに応じた動きが取れるようにそっと身構えていた。
 ベイビー・ベイブは僕の髪を切りながらトニーに話しかけて、彼は僕に「この女性はお姉さんで、21才なんだって」と説明してくれた。21だって!?…とても信じられなかった。〈魂の抜けがら〉という言葉があるけれど、まさにそうなのだ。得体の知れない悪寒が、背筋を駆けのぼってきた。
 この姉は奇妙な動作を繰り返していて、それが余計に薄気味悪かった。手に持ったプラスチック容器のふたを開けては鼻に近づけ、うっとりと匂いを嗅いでいるのだ。その容器は白い、薬品のビンの形をしている。僕は、姉の目線が何も見ていない事に気付いていた。アルコールか?
(トルエンか…)そう思い至って、僕はぞっとした。あの表情の無い、うっとりとした目付きに激しい恐怖を覚えた。ひざが震えてきて、ベイビーベイブに気づかれないよう必死に抑え込む。
 この人は、廃人だ。
 有機化合物の中毒者ならば歯を見れば分かるはずだけど、その時の僕はそんな冷静さよりも、どうやって冷静でいるかで頭が一杯だった。一刻も早く、そして無事に帰りたかった。

 トニーと姉の会話が続いていたが、彼の様子はどこかぎこちなさそうだ。スペイン語が解らない僕からも、たたみかける姉に苦戦している彼の表情は読める。僕の不安げな視線や顔色に気付いたのか、彼は弁解でもするように言った。
「あのね、『君は日本人か』って訊いてくるんだよ」
 そんなこと、わざわざ僕に尋ねるまでもなく教えてやればいいのに。僕が「ハポネス」と返事すると、姉は異様に興奮してトニーに向かって何やらまくし立て始めた。ベイビー・ベイブまで手がおろそかになってきて、よく判らないけど決して良くはないムードが盛り上がっているのが分かった。トニーの微笑は、もはや顔に張り付いた仮面のようだ。
 彼に通訳してもらって、僕はベイビー・ベイブに「きちんと切ってくれ」と頼んだ。すると彼女は僕を一瞥し、無造作に白布を手渡してきた。顔や首筋に付いた細かい毛を、自分で払い落とせって事かよ。…って、何かと思えば丸めた肌着じゃあねぇのかコレ?! 彼女は洗濯カゴから、そいつを拾い出したのだ。おいおい、そりゃないだろお嬢ちゃんよー。
 手動バリカンで切り落とした髪が、首から上に張り付いている。こすり取るようにして毛を払っていると、肌着の汗臭さにげんなりしてきた。毛穴から雑菌が入らないように祈ろう。しかしまぁいいさ、今回だけは勘弁してやるとも。今はそれどころじゃなかった。
 テーブルに身を乗り出した彼女の、カラフルなストライプのスカートが右手の前で揺れている。僕は、すっかり会話に加わっているベイビー・ベイブの尻を撫で上げた。
「ハリー・アップ、ベイビー!?」
 そう言って軽く睨むと、彼女は顔色ひとつ変えずに無言で僕を見下ろした。(結構したたかな女だ)と舌を巻きつつ、口実を見つけてから尻に触る自分にも嫌気が差してきた。

 藪から棒に、トニーが日本語で話しかけてきた。
「ちょっと困ったヨ、お姉さん『お金欲しい』て言ってる。日本人、お金持ってるから、と思ってるから…。彼女、ちょっとおかしいみたい…。」
 トニーと僕は、周囲に知られたくない話をする時には日本語を使うのだった。彼女達が英語を知らなくても、単語によっては伝わる恐れがある。声色や顔色を読まれないように、僕は作り笑いで応じた。
「うん、そうだねぇ。どうしたらいいかなぁ、わはは。」
「よくないネ。断ったけど、お姉さんしつこいヨ。ちょっと、怖い。」
「じゃあさ、少しあげるー? 髪切ったお礼に。」
「それすると、もっと大変。僕達ガイジンだから、問題、良くない。それにお金ないでしょ、あんまり。」
 笑いながら深刻な話をするのは、なかなか難しいもんだ。それでも陽気な声を出していると、なぜか自分の置かれている立場がさほど厳しくもないと思えてきた。僕らは日本語で秘密の会話が出来るし、協力して解決の糸口を見つけられるのだ。このことが、僕のこわばった体をほぐしていってくれる気がした。
 とにかく実際に持ち合わせが無いのだから正直に言うしかない。トニーは、なんとか笑顔を装って姉を説得している。彼のジェスチャーが普段よりも大振りなので、それを見ているだけで話の持っていき方がよく分かった。何の役にも立てない自分を不甲斐なく感じながらも、僕は無性に腹立たしくなってきた。
 だって考えてみれば、彼に頼まれたから付いて来てあげたのだ。しかもマカレナ踊って髪切りの練習台になり、その挙句にこの騒ぎときた。とはいえ、彼の孤軍奮闘を黙って見てるだけというのはもどかしかった。
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メキシコ旅情【分水嶺・3 月蝕】

 再び姉が興奮気味に何か訴え始めたが、今度はちょっと楽しそうだ。僕は警戒する。
「明日パーティしないかと言ってるヨ。」
「うーん、任せるよ。トニーはどうしたいのさ。」
 やっとリラックスした雰囲気になってきたな、どうやら彼はOKしたんだろう。そりゃあ何か考えがあっての事とは思うが、余計にマズイ事になるんじゃないのか…? まぁいっか、次こそ僕には関係ない話だ。
 やがてベイビー・ベイブはハサミを置き、僕の首から下を覆っていたケープを外した。シャワールームを指さしてバスタオルを寄越す。どうやら終わったらしいが、当初の「10分で」という話が2時間以上もオーバーしていた。
 ドアを閉め、そっとタオルの匂いを嗅いでみた。よかった、洗いたてだ。やっぱりこの家も水シャワーだったが、冷や汗も脂汗も洗い流して一息ついた。リビングに戻ると、ベイビー・ベイブが手鏡で出来上がりを見せてくれたが…僕は絶叫したくなった。
「こらーっ! コレのどこが〈カンクンで一番クールな髪形〉なんだよっ!!」
 みんな、上出来だと言いたげな顔をしていやがる。ふざけるな、だ。他人の頭だと思ってさー。これならまだボサボサなほうが全然ましだった。古代マヤ人はともかく、現代世界でこんな頭は僕ひとりに決まってる。
「やり直しー!!」
…って言ってやりたかったけど、これ以上ここにいる気は毛頭ないのだ。
 この際もう髪形なんて後回し、僕は帰るもんねー。そうだ帰るのだ。そんで二度と来ないもんね。玄関で見送るベイビー・ベイブを尻目に、僕らは早々と立ち去った。

 夜中の、車通りの少ない幹線道路を横切りながら僕は尋ねた。
「トニーは本気で明日のパーティに来るつもりなの?」
「冗談じゃないョ。行くもんか」
 トニーは、微笑の下に抑え込んでいた感情をぶちまけ始めた。
「知らなかったョ。お姉さん、すごーいアブナイ! 明日もし行ったら、お兄さんも、近所の連中も待ち構えてる。『ディネロ[お金]、ディネロ』って、まるでゾンビみたいに!」
「おーコワ! それにしても、あのアブナイ姉さん、まだ21だって?」
「そう、信じられなーい! モンスターみたいだった」
「トニーの(可愛いベイビー)も、あと4年でモンスター…」
「うわぁおぉ! そうだ、四年後には♀×○△□♂?!」
「あっはっはっはっはっははは!」
 恐怖とか緊張が無事に通り過ぎて行くと、中和作用なのだろうか、その後に訳もなく笑えたりするらしい。へべれけに酔っ払ったように大声で無茶苦茶な事を言って、僕達二人は腹が苦しくなるまで延々と笑い続けたのだった。
 ふと気付くと夜空には、不気味な球体が浮かんでいた。

「トニー、見てよ。ありゃ一体なんだろうね」
「おぉ、そうだった。今夜はエクリプスだ」
 エクリプス? 何だっけ、月蝕か…これが?…。
 あまりにも奇妙な光景だった。それは月なのだろうけど、にしちゃあ異様に大きかった。輝きのない、のっぺりと灰色味がかった巨大な球体が宙に浮かんでいる。マグリットの描いたシュールな絵の世界そのままだ。
 僕は生まれて初めて、月蝕を観た。
 しかし、TVや写真で見たのとは大違いだ。大体、こんなの月じゃない。握りこぶしよりも大きくて、ウソみたいに表面の地形まではっきり見えている。これが偽物じゃないとすれば、ひょっとして…月の軌道が狂ったんじゃないのか?!
 どうしてトニーは驚きもせず、平然とそれを無視していられるのだろう…? これは幻覚なのか、僕は自分が狂ってしまったんじゃないかと不安になる。それくらい圧倒的に生々しくも静かに提示された、現実を超越した神秘の象徴。

 車通りの少ない夜のセントロ郊外にしては運良く、僕らはタクシーを拾うことが出来た。
 乗り込んだ途端、思わず無口になってしまう。今起こった事、これから起こるかもしれない事…。頭の中が収集つかなくて、何も考えたくないのに。
 エドベンの家に近くなってきて、トニーが道筋を運転手に指図している。ところが、肝心な所をなぜか日本語で言ってるのだ。彼も相当、参ってしまったのだろう。けど笑える。
「トニー! 今、スペイン語と日本語を使って話していたよ」
「そうか? どっちも似てるから、とっさに使い分けられないんだよ」
「似てないよー! スペイン語の中に、日本語で『左に曲がって』とか言うからさぁ、運転手が変な顔してたぜ?」
 余計に可笑しかったのは、運転手が訝しげに首をひねりながらも道を間違えなかった事だ。明らかに通じてなかったのに、不思議だ。
 僕らはメルカドを越えたあたりでタクシーを降り、10時を過ぎて眠りについた住宅街を歩いた。誰もいないし、何の音もしない。僕らの虚ろな声だけが響いている。
 そして月はやっぱり奇妙に、ペッタリと町を照らしているのだった。

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メキシコ旅情【分水嶺・4 ドミノ】

 やっと戻ってきた。
 なんだか長くここを離れていた気分だ、まるで自宅のような懐かしさを感じる。そんな居心地良さを満喫する間もなく、トニーは僕を屋上へと誘った。
 危なっかしい階段を上ると、エドベン一家が「お月見」をしていた。といっても日本式の喧しい宴会じゃなくて、静かに語り合ったりして月蝕を眺めているだけだ。ディエゴが大声で「ギターロ」と言いながら、階下からガット・ギターを持ってきた。僕は、なんとなく月を見上げながらギターを適当に爪弾いてみる。
 そよそよと漂う風、夏の夜の匂い。
 ママの笑い声、落ち着きのないディエゴの影。パティが月を指差して、僕に話しかける。スペイン語だから分からないけど、月蝕に関してなのだろうと思って(僕は、初めて見るんだよ?)そう仕草で応えた。
 こうしていると、さっきまでの恐怖も空虚さも悪い夢だったように思えてくる。そっと頭に手をやると、やっぱり坊主頭に2ミリ厚の鉢をかぶせたような髪の感触があった。あれが夢であってくれたらなぁー、でも済んだ事だ。とにかく僕は、こちら側に戻って来れたのだからな。
 それにしても、月はいつまであの姿なのだろう。
 どうして、誰ひとり驚かないのだろう?

 エドベンの運転でセントロに繰り出すと、静まり返った真夜中の一角に明るい賑わいを見つけた。さすが地元だ、表通りを捜したって分からないな。今度は白いフォルクスワーゲンじゃなく、青いゴルフに乗っている。助手席にロレーナが座り、後ろはトニーとビアネイと僕でぎゅうぎゅうだ。そしてパパの愛車と同様、この車もまた結構なパーツが足りてない。
 やっと一軒のレストランの前に駐車スペースを見つけた時、すごい勢いで雨が落ちてきた。
「ジュビア[雨]!」と誰かが言った。水滴の機銃掃射をかいくぐり、みんなでレストランの玄関へと走り込む。
 店内には大きな音で70年代ソウル・ミュージックが流れていたが、外の轟音に客達は振り返っていた。この奇抜な頭髪に注目してる訳じゃない、そう判っていても衆目にさらされているような気分になる。
 多くは観光客なのだろう。ほぼ満席だったが、なんとかボックス・シートに陣取って各自ビールを注文した。「サルベッサ」というのは有名なビールの銘柄なんだろうと思っていたけれど、実際にはビール自体を指す言葉だった。好みはあれど、人気銘柄は「スペリオール」らしい。
「サルー[乾杯]!」
 エドベンがドミノを持ってきたので、遊び方を教えてもらう。この店には幾つかのテーブル・ゲームが置いてあって、カウンター席の白人カップルはモノポリーを楽しんでいた。大抵の日本人は(倒すもの)としか思ってないよな、本式のドミノは僕も初めてだ。
 この夜、エドベン達から教わったドミノの遊び方は、こういうものだった。
 ドミノは長方形で、ちょうどサイコロを二つ並べた状態で片面のみ1〜6個の点が二ヶ一組に打ってある。それを裏返してかき混ぜ、プレーヤーに均等に配分する。それぞれ手持ちの中から一つを表にして、その数の合計が最も大きいプレーヤーから時計回りで並べていく。
 最初のプレーヤーは何を置いても良いが、次からは両端どちらかにつながる数を置かなければならない。両端が仮に3と5で、自分の手にしているドミノが1と6なら、5の縦か横に6を付けて並べるしかない。つなげられなければパスして、とにかく自分のドミノを早く並べ切ったプレーヤーの勝ちだ。
 手ほどきを受けたばかりの僕は勝てなかったが、グラス片手にゲームに興じるのは楽しい。ビアネイは目を輝かせ、エドベンは余裕しゃくしゃくで、ロレーナはポーカー・フェイスを気取っている。テーブルに縦横に並んだドミノは、黒い斑点をまとった蛇に見える。
 二杯目のサルベッサを空けて、僕はトイレに立った。

 エドベンに教えられたとおり、U字形のカウンターを回り込む。店内から奥まった通路は、内装が途切れてコンクリートがむきだしになっていた。不気味だ、すぐにでも後ろに飛びずさる覚悟で角を曲がる。
 音楽がかき消される程の雨音がした。びっくりして天井を見上げると、どうしてなのか謎だけど、約2m先で廊下が寸断され、雨がぼしゃぼしゃ垂れて音が反響していたのだ。タイル張りの明るいトイレは、離れのように奥まった場所にあった。何なのだ、この造りは?
 うるさく響く雨の音を聞きながら(そういえばメキシコに来て初めての雨だ)と思った。

 何回目かのドミノ・ゲームの後で、エドベン達は、ニヤニヤしながらイカサマを白状した。
 僕はそういったテクニック以前にルールさえしっかり理解出来ていなかったので、言われたところで気にも留めずに一緒になって笑っていたのだった。だけど「お金を賭けて巻き上げるつもりだった」とまで言われた時にゃあ、いささかムッとした。
 それからもう一杯サルベッサを飲んで、店を出る頃には雨は上がっていた。
 月は、もう見えなかった。
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メキシコ旅情【分水嶺・5 新しい季節】

 昨日は本当にくたびれた。やけに随分と、いろんな事が濃縮されていた気がする。夜遅くまで、見事にムラなく濃かったなぁ。うんうん。
 そうやって未消化の雑多な経験を反すうしながら、うとうとする。今朝は、僕もトニーと同じく10時まで熟睡していた。クーラーの温度も気にならない位、まだまだ眠たい。
 アマカは腰に重心がきてしまい、一晩じゅうV字に折れ曲がってて腰が辛くなる。そんで改めて簡易ベッドに寝てみたものの、寝心地の悪さは同じだった。これからずーっと快眠不可か…なんてこった!
 仰向けになって、寝転がったまま昨日の日記をつける。そして、ちょっと今日はのんびり過ごせると良いな、と思う。

 昨夜の雨は、カンクンに雨季の到来を告げた。
 トニーの話によるとユカタン半島一帯の気候は、だいたい9月から11月に1年分の雨が降り、他の時季はほとんど降らないらしい。こりゃまた運の悪い時期に来ちまったな。
「そんなことないよ、今がベスト・シーズンなんだ」とトニーは言う。
「8月は本当に暑かったんだから! エドベンは仕事で忙しいし、一人で出歩くのも退屈だし、夏場は暑すぎてなんにもする気にならなかった。君が来るまで、いつもこの部屋でスペイン語の勉強していたよ。今はちょうど良い季節だ、雨のおかげで気温が上がり過ぎないから快適な日々を過ごせるだろう」
 夏の暑さに耐え切れず、彼は自腹でクーラーを付けたのだ。思ったより高い買い物になったと言っていた。日本なら最新型が買える額、だったとか。
 12月になると雨季を越して過ごし易い晴天が続くのだが、メキシコじゅうがクリスマス休暇になる。3月から4月頃にもイースター休暇があって観光地は混みあい、料金が高くなるという。
 つまりカンクンは年中観光シーズン、という訳だ。夏にカリブ海の高級リゾート地を訪れる外国人、クリスマスにやって来る国内の上流階級、そのすきまには僕みたいなのがうろちょろする。
「雨季といっても、梅雨のように毎日降り続く様なものではないから大丈夫だよ」トニーは僕にそう言った。
「スコールと同じだよ。違うのは、朝方とか決まった時間に降るんじゃなくて、昼でも夜でも気まぐれにザァーッと来るのさ。すぐ行ってしまうんだけど」
 今朝の空も晴れあがっている。

 ママのコミーダを食べ過ぎてしまった。僕がデリシオーソ[素晴らしい]を連発して、ママを喜ばせ過ぎたようだ。おかわりを勧められ、つい断れなくなり平らげてしまった。消化が進むまで、ちょっと休んでいこう。あまりに苦しくて、身動きも取れない有り様だ。
 ビニールのテーブル・クロスにひじをついて、ママ達と一緒になってTVを見上げる。思い入れたっぷりに「トイジョ〜♪」と歌うテーマ曲が可笑しくて、見入ってる2人に遠慮して笑いを堪える。ト・イ・ジョ=貴方と私、タイトルからしてメロドラマ。
 そこにトニーが来て、ママは彼のコミーダも用意しようと立ちかける。が、彼がやんわりと断ったので機嫌を損ねてしまった。「外食ばかりじゃ体をこわすよ!」とか文句を言っても、彼女の表情には気遣いがある。やっぱ(大家族の肝っ玉かあちゃん)だよなぁ、と思う。
 突然、トニーが僕の肩に手を置いた。「上の部屋に行こう」
 訝しく思いながらも、ママにお礼を言って席を立つ。相変わらず、単語を並べただけの片言スペイン語だ。ママは満足そうに頷いて、トニーに「ずっと勉強してるアンタよりか、よっぽど上手に話すじゃないか」と毒づいた。
「みんな意地悪を言う。君は人気者だけどね」彼は冗談交じりに嘆いてみせ、ガレージを横切って2階へ。

「ねえトニー、何か用でもあるの?」
「子供たちと『トイ・ストーリー』を観るんだ」
 事もなげに言うので、僕は面食らった。だって昨日の晩、子供達はそれを観てたんじゃ…?
「あ!!」
 トニーは部屋に入ろうとして、まんまとヨーディの置き土産を踏み潰したのだ。僕が笑い転げている間に、彼は悪態を吐きながらシャワー室でスニーカーを洗って、外のバケツに溜まったクーラーの水を撒いて入口の痕跡を流した。そして何事もなかったような調子で、部屋を片付けながら話を続けている。なんか…やっぱり不自然だ。
 僕が気にかけていた事を口にすると、トニーはあっさりと言った。「観てないよ」
「だって…」と言いかける僕を遮るように、彼は声を潜めて日本語で話し始めた。昨夜、僕らが出掛けてから部屋に来た近所の子供達は、ビデオを観るどころかママやロレーナに追い返されていたのだ。
 それはちょっと驚きだった。だって連中はディエゴやジョアナの遊び仲間じゃん、それに陽気なママがそんな事をするなんて…?! しかし子供の出歩く時間じゃなかったし、トニー本人が不在なのに大勢の子供があがりこんでいれば無理からぬ話だ。ママ達に話が通ってなければ尚更。
 トニーは、じれったそうに再度「彼女達は、自分の家の子供が、近所の子供達とかかわる事自体が嫌なんだ」と言った。

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メキシコ旅情【分水嶺・6 セントロ】

 昼すぎ、僕はトニーと買い物に出た。ビアネイも一緒だ。
 セントロまでの道筋は、すっかり頭に入っている。トニーが好んで使う道順も覚えているし、この辺の位置関係はおおよそ把握していた。ちょっと地元の人になった気分。
 僕達三人は、英語で他愛ない話をしていた。歩きながらのせいか、ビアネイの部屋でよりも会話が負担に感じられる。トニーはネイティブ・スピーカーだし英語の先生だから平気だろうけど、僕にとってビアネイのスペイン語訛りを聞き分けるのは難しい。
 例えば、ビアネイが「star」と言うと「スタール」にしか聞こえないのだ。スペイン語でRを発音される度に、僕は彼女に何度も聞き返す羽目になる。何度でも陽気に答えてくれるものの、会話の腰は折れっ放しでボロボロだ。
 スペイン語訛りの彼女と話していて、昔観たアメリカ映画の中国移民の英語を思い出した。トニーと二人で話していると気付かなかったが、自分の英語もアジア系の訛りがひどいもんだ。だからって恥じてる訳じゃないけど、話すのも聞くのも疲れた僕は会話から外れて歩いた。

 トニーが「暑いし、喉が渇いたので『マッダーノゥ』に入ろう」と言った。何?…あぁ、マックの事か。
「こっちの店は東京のよりデッカくて、敷地内にプレイランドがあるんだぜ?」
 なんだか彼は、僕の好奇心をあおってるみたい。退屈そうな顔をしていると思ってなのか、それともマックに行きたくなさそうな僕の興味を引こうとしているのか。
「子供の遊び場を設けるなんて、面白いアイデアだね。無料なの?」と、僕。
「もちろん。でも君はダメよ、大人の体重じゃ壊れちゃう」って、当たり前だ。
 僕もこの真昼の暑さに慣れてきたな、それでも店内に入るとクーラーで生き返る。ちょっと効き過ぎで、一瞬ゾクリと総毛立った。三方がガラス張りで、照明なしでも眩しい。注文カウンターの反対側に、半屋内の遊び場が見える。人工芝の上に、平日のせいか寂しげなアトラクション。
 僕はまだ腹ごなしの途中なので、ホットコーヒーを注文する。妙な顔をした2人に「僕の体は、冷えると調子が狂うんだ」と説明した。ランニングシャツから出た両肩は、もう冷たくなっている。ハワイでもそうだったが、南国では室温20℃以下がマナーか? こればかりは馴染めない。
 トニーがフライドポテトを勧めてくれる。小さなカップにケチャップが入っていて、僕は(言えばくれる)とは知らなかったので驚いた。笑いながらビアネイが「でも、これはないでしょうね?」と言って指さしたのは、ケチャップと同じパックのハラペーニョ・ソースだった。カップにあけると、とろりとした緑色をしている。思ったほど辛くはないが、これは悪くないな。
「デリシオーソ」と僕は言った。
 ハラペーニョの実体は辛いピクルスの様なもので、僕は日本での夏の間じゅう取り憑かれたみたいに食べていた。ご飯に山盛りで「ハラペーニョ丼」などと命名して本人ご満悦、家族に呆れられていた位だ。
 ビアネイが軽く肩をすぼめて、満足そうに微笑んだ。トニーは僕にブラジルの「ご当地メニュー」の話をしてくれる。

 目抜き通りはトゥルム通りといって、他にもウシュマルとかコバといった近隣のマヤ遺跡からとった名前の大通りがある。トゥルム通りは、コバ通りを越えて16q南下すれば空港、更に行けばユカタン半島の付け根まで延々と続いているのだ。
 南北それぞれの大通りに交わる中心の緑地帯には、小さなモニュメントが建っていた。メキシコは右側通行なので、交差点を通過する車は反時計回りで行きたい方向に車線変更してゆく。まさにロータリー、渦巻くような車の奔流。僕の運転じゃ無理だ。
 信号や横断歩道が多くはないからって、歩いてても不便とは感じない。この町の空気や、ゆるやかな時間の流れのせいかもなぁ。のんびりと気取らない田舎町の風情、それでいて安旅行者の求める快適さは充たしている。道路事情を比べても、文化の由来や社会構造の違いを感じた。
 気安いセントロの街並みは「国際的観光地の金看板は新しいホテル地区に任せてちゃって、こちとら相変わらずローカル相手の肩肘張らない商売をやるんだもんねー」とでも言いそうな雰囲気があって良い。
 そういえば夏前、駅貼りの〈常夏のカリブ海! カンクン4泊5日〉とかいうポスターを見てたっけ。まだバイトもせず、可能性ゼロだった頃だ。あんなツアーだったら、今も溜息と共に見上げるだけだったな。その半額よりは多いけど、こうして僕はここにいる。
 写真で見る限り、ゾナ・オテレラはホノルルみたいな感じだった。行ってもいないで決めつけは良くないか、でもリゾート歓楽街にしか見えない。そういう場所に僕が宿を取っていたら、とっくに荷物をまとめて帰国便だろう。
 四日目なのに、気が付けば僕はずうっとここに滞在しているような錯覚さえ抱いていた。しかし幸運な事に、まだ一週間も経っていないんだ!

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メキシコ旅情【分水嶺・7 試練】

 スペール・メルカドで、僕は靴下とバスタオルを買った。まさか靴下が必要とは思わなかったが、トニーがクーラーの温度を下げたがるのだ。居候の身、あまり文句ばかりも言えない。
 笑ったのは、大きなワゴンに便座が山積みされていたことだ。そんな光景も珍しいけど、裏を返せば需要があるって事になる。どの家庭でも便座は消耗品なのか、それとも別売りが当たり前?
「ほら見て、便座売ってるよ。買わないの?」
 せっかく教えてあげても、トニーは全然興味を示さなかった。そりゃ毎日の事だ、慣れれば不便もくそもないか。放っといたって出てきちゃうしなー、便座の一つがなくたって。

 あの部屋のトイレとシャワー室は、日本の常識では試練だ。
 まずドアがない。カーテン代わりに吊ってあるラグの向こうに便座がない便器、右のシャワーは仕切りもバスタブもない。それ以上に、お湯がない。トイレにはペーパー・ホルダーもないので、床に置いてあるトイレット・ペーパーがシャワーの水を吸って大変な目に遭ったりする。
「座れない洋式トイレ」というパラドックスに、とりあえず僕は腰を浮かして対処している。いわゆる「空気椅子のポーズ」だ、ヨガだな(本当かよ)。トニーも最初は面食らったのだと言うが、一体どうしてるの?
「便器の縁に足を乗せてジャパニーズ・スタイル、これは滑り易いから止めたほうがいい。無難なのは、縁に紙を置いて腰掛ける方法だろうね」
 そのアドバイスに、試したばかりの「空気椅子のポーズ」を提案すると彼は大爆笑して「まるでカンフーの修行だな」と言ってまた笑い転げた。
 しかし、一番の問題は…やたら水が止まる! これはキビシイ。断水の理由は明快、二階全体の水を賄っている給水タンクが小さすぎるのだ。階下のママに言って専用蛇口を開いてもらわないと、ただ待ってるだけじゃあ復旧しない。
 つまり、トニーがいない時は自分で階下まで言いに行かねばならないのだ。泡だらけでタオル巻いた格好で階段往復するのは序の口、うっかり大きいの出ちゃったら…流せる水が溜まるまで、部屋じゅう臭い充満の刑だ。て言うか、外を通る人にもバレバレだし! 何故こんな目に?! なんか悲しくなる。
 でもここは川のない熱い国だ、水の事情は大いに違うのも想像に難くない。いや、むしろ日本が例外なんだろうなぁ。現実に「食糧危機の前に水の奪い合いが起きる」っていうし。

 買い物から帰るとビアネイの部屋に直行、僕らのコーラとハーシーズ・ミントチョコを冷蔵庫に居候させてもらう。どうせ僕らの胃袋に引っ越すまでの、ほんの短い仮住まいだ。
 トニーがティミー達を誘ってインライン・スケートでホッケーをしている間、僕は再びポストカードを書いた。昼前に、近所の子供達とビデオを観ながら書いた分を足すと11枚もあった。頭がぼぉっとなってきたし、昼寝でもしようかという所にトニーが帰ってきた。もう夕方かぁ。
 屋上で洗濯物を取り込みながら、陽が傾いた空を眺める。ふと、ある疑念が脳裏をよぎった。
(ベイビー・ベイブは今夜、僕達を誘いに来るんじゃ…?)
 暗い沼底から、音もなく湧きあがってくる泡。僕は重苦しい足取りで部屋に入り、トニーに不安を打ち明けた。
「大丈夫だよ、居留守を使うようママに頼んであるから…心配するな」
 この件に関して、これ以上話すことは無かった。トニーも、済んだ事と思いたいのだ。僕はモヤモヤとした気分を払いのけようと、MTVの新曲映像に集中した。
 意外なことに、この町にもCATVがある。それは多分、ゾナ・オテレラでの需要があるからなのだろう(これまたトニーは自腹で契約)。余計な金を…とかいう僕も、一人で部屋にいる時はMTVばかり観ていた。まさか、民放の「トイジョ〜♪」じゃ観る気はしない。

 僕は階下で夕食を取った。空腹というより、部屋で時間をやり過ごす息苦しさに耐え兼ねたのだ。朝食を食べ過ぎたし、量は少なめにしておいた。
 こうしてママ達の声に囲まれているだけで、正直ホッとする。それでも開け放したドアの外に、絶えず気を配らずにいられない僕。
 ともかく、もう八時を回っている。ベイビー・ベイブが言ったか覚えていないが、パーティは七時から始まる筈だ。誘いは無かったのだ、あるいは電話を掛けてきてママに断られたか…。
 僕は、大きく伸びをしながら2階ヘ戻った。

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メキシコ旅情【分水嶺・8 天気雨】

 今朝も起きたのは11時。今では僕もトニー時間、か…。
 思い出せば成田で夜中に電話をした時って、こっちは今時分だったんだよなぁ。寝ぼけ声のトニーに呆れてた僕が、今じゃ同じ穴の何とやらだ。隣の部屋で毎晩遅くまで話し込んでるせいだな、でも彼女達はとっくに病院で働いてる訳で。
 なんか出遅れちゃった気分だ、とりあえず屋上で一服。トニーは「部屋で吸えば?」と言ってくれるが、彼が煙草を好きじゃないのは知ってるので。ドアを開けると光の洪水、外は早くも真昼の熱気だ。
 今日は午後から家庭教師が来て、トニーにスペイン語を教えてくれる日だそうだ。午前中は予習と復習をすると言うので、邪魔にならないように外をぶらついて一日過ごそう。ついでに新しいビーチサンダルを買いに行くか、裏がツルツルになって鼻緒が取れやすくなってるし。

 ともかく食事が先だな。身振り手振りも板についてきて、ママの(何を飲む?)という動作にコーヒーをお願いした。
「カリエンテ[熱い]?」
 ママは(ホットが良いのか)と、僕に尋ねているのだ。
 ちなみに[暑い]は「ピカ」または「ピカンテ」という。この[熱い]と[暑い]の違いを、ママとパティの3人で大笑いしながらジェスチャーのやり取りをして覚えた。コーヒーは、ちょっとぬるかったけど非常に美味しかった。ママは「インスタントなのよ」と申し訳なさそうに言うけど、僕は世辞を言えるほど器用じゃない。
 食事の用意が出来る前にトニーが下りてきて、いつものようにママから食事の事で文句を言われる。ちょうど子供達がロレーナと一緒に学校から帰って来て、お説教は中断されて食卓についた。いつもの「赤豆と肉の煮込み」とトルティージャを食べる横で、トニーはコーラを飲みながらジョークを飛ばす。

 突然、ゴォーッという音が近づいてきた。
 何事かとガレージのほうを見ると、一瞬にして外は真っ暗! 向かいの家が見えない位の豪雨だ、樋を伝って怒涛の白滝が落ちてくる。
「ジュビア!」
 そう叫んだディエゴは、すでにガレージまで駆け出していた。ジョアンナも彼を追って、滝の下で一緒にキャーキャー始めている。ロレーナは大きなため息を吐いて「ふたりとも、食事の途中でしょ!」とかなんとか怒鳴りながら、子供たちを捕まえに席を立った。
 呆気に取られていた僕もトニーの後に続くと、もう滝の下は大きな水たまりだ。外に出た途端にずぶ濡れで、僕も意味なく大笑いしながら遊びの輪に加わった。しかめっ面だったロレーナまで、子供たちと大はしゃぎで押し合いへし合い。
(ずぅっと忘れていたよなぁー、この感じ…)
 雨に濡れるのって、こんなに気持ち良かったんだ。こんな事で、腹の底から笑っちゃえるんだなー。子供じゃなくなってから無意識のうちに、大人の振る舞いを計算するようになってたのかな。そういうスイッチが自然に切れて、余計な力が抜けて洗い流されてゆく感じ。
 これからは覚えていよう、全身で浴びる雨の素晴らしい気分を。もう僕は、雨を嫌う生活には戻らないんだ。濡れたら洗って乾かしゃあいいんだ、雨が降る所で暮らしてるんだから。
 そりゃあ濡れたら困る時だってある、寒い日は特に。でも(革靴の底が駄目になる、ズボンの裾が汚れる、スーツがしわくちゃで靴下が蒸れるetc..)なーんて下らない苛々で一日を不愉快にするのは止めだ。

 やがてロレーナが我に返って子供たちに戻るよう怒ってみせたが、彼女も一緒に遊んだ手前あんまり強く出られない。僕らはディエゴに手を引かれるまま、通りを走った。
 マカレナ公園前の道路に、近所の子供たちが飛び出して来る。子供の考えることは同じだ、みんな集まって始まる転ばしあい。言った者勝ちで、呼ばれちゃった子は水溜まりに引き倒される。転がされるほうも転がすほうも、悲鳴を上げて大興奮。
 誰かがトニーの名を叫んで、寄って集って泥水の中に転がされた。僕も心置きなく、彼の顔に水を浴びせてやる。ははは、下らないことに熱中するのって楽しいなぁ。当然ながらトニーは僕を指名、柄にもない黄色い悲鳴で押し倒される。濡れたアスファルトの匂いが懐かしい。
 水溜まりで遊ぶうちに、何度も滑ってビーサンの鼻緒が取れた。やっぱり、後で買いに行かなくちゃ。これで午後の予定は決まりだ。
 いつの間にかジュビアは止んで一段落する頃、オーラが見えそうな勢いでロレーナがズンズン寄ってきた。みんな冷や水を浴びせられたように、開放的な空気がキュッとしぼんで消え失せる。ディエゴとジョアンナを連れ戻しに来たロレーナに、昨日トニーが言っていた台詞を思い出した。立ちすくむ子供達に物凄い剣幕で、言葉の分からない僕まで泣きそうになる。
 子供を引いて帰る彼女の後ろから、トニーと僕はすごすごとガレージの檻に入る。空はもう雲ひとつなく、潮が引くように路肩が乾いてゆく。シャワーを浴びて着替えた後も、僕の気分は晴れなかった。

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メキシコ旅情【分水嶺・9 心の敵】

 メルカドに、新しいビーサンを買いに行く。
 刺すような陽差しも、空気の中に雨の名残が感じられて心地良い。泣いたと思ったらもう笑う、子供のような太陽だ。
 土産物屋は、相変わらずレイドバックしていた。絵ハガキを見つつ物色するも、どうも良いのが見当たらない。サイズが合わなかったり、派手というかシンプルさに欠ける柄だったり。もうビーサンじゃなくて健康サンダルにでもするか?
 最近ちょっと見かけない珍奇さとハズし加減、メキシコに健康サンダルという組み合わせに我ながら笑う。その場で意気揚々と履き替え、変な顔で見る店のおばさんに(まぁ分かるまい、このセンス)なーんて一人ごちて帰って来た。
 その数日後、トニーが言いにくそうに教えてくれた。
「ここでは、それはトイレで使うだけだから…」
 あらら〜?! でも僕は〈変なガイジン〉だからいいの。

 エドベン家のガレージに頭を突っこみ、奥の部屋にいるジョアンナに潜り戸を開けてもらう。僕は、みんなのように合鍵を持ってない。
 黒く頑丈な鉄格子の隅に仕切られた、小さな潜り戸だ。背中を丸めて出入りする度に、僕は動物園の猛獣を想像する。なんでこの家だけ、こんなに仰々しいんだ? まぁ余所は余所、この家はこの家だ。
 トニーの部屋に行くと、まだ家庭教師はいなかった。
「もうすぐエレーナが来る、というか時間はとっくに過ぎてるけど」
 彼女は車だから、排気音で分かるという。この近所は、昼間は滅多に通らない。
「メキシコ人もブラジル人も、時間の感覚が無いんだよな」
 ずいぶんと前にも、彼の口から聞いた覚えがある台詞だ。そうそう、ブラジル人のスケート仲間には振り回されたものだ。
 彼のノートをのぞき込むと、そこには勉強の成果が詰まっていた。熱心だな、良い教師は良い生徒でもある。気を散らせたくないので、僕は手帳を持って屋上に行った。

 いつもは空を見上げたりして一服しているけど、今はそんな心境になれなかった。こんなモヤモヤ感を放っておいたら、何をしてても気が削がれる。今は書くことで、考えを外に出して整理する以外なかった。
 その前に、まずは精神統一。半年ほど通っていたところで習った、太極拳みたいな事を思い出してやってみる。創作氣功、…って言ってたかな。体をゆっくりと動かす、一種の呼吸法だ。体内を流れる氣をイメージしながら、うろ覚えの動作を繰り返す。
[氣を練る]という動作を続けると、両手のひらの中に引き合うか反発しあうエネルギーを(人によって違うんだけど)感じるようになる。僕は磁石が反発する感じが…あれ? 何度も試して微かに感じ取れたのは、今までと逆の引き合う感触だった。
 こんな事は一度も無かった、僕の氣が弱まって逆転してるのは何故だ? ここに来てから何度も試している、地理的な問題じゃないとしたら何だろう。自分の氣に干渉するような要素、磁石の力が反転するような…電磁場的な変化?
 一昨日の月蝕!?
 根拠のない思い込みは危険だが、あの奇妙な夜の気配を思い出すと説得力があった。仮にそれが原因で氣のエネルギーが逆転したとして、それが何を意味するのか、何に関連してくるのか? ますますこんがらがってきた…。
「これから僕はどうなるのだ」
 思わず言葉に出してみて、自分でばかばかしくなった。これからも何もない、せいぜい覚悟しとくだけだ。何かが起こるとしたって、種はすでに蒔かれたって事だろう。実際まだ何も起きちゃいない、ヤバそうなムードだった気がしてただけで。
 僕は手帳を開いて、月蝕の夜からの出来事を並べてみる。

 この話を僕が知ったのは、さっきの水かけ遊びの後だった。ロレーナの異様な怒りようについて疑念を抱いた僕に、気まずそうにトニーが打ち明けたのだ。
 あの夜、一向に戻らない僕らを待ちくたびれた家族は冷めた料理を食べる羽目になった。ママが腕によりをかけて作ったコミーダも、楽しくなる筈の夜も台なしになってしまった。そして、すっかり気分を害したママとロレーナに居留守を頼んだ。
 いつの話だか知らないが、こんな騒ぎもあったらしい。近所の子供に悪気はなかったのだとは思うけど、事の発端は度が過ぎた作り話だった。僕がインライン・スケートで出てくるのを、物影で待ち伏せて銃で脅そうとしている人間がいる…質の悪い冗談だ。
 その噂に仰天したママは、姿が見えない僕を助けようと近辺を捜し回って警察を呼ぶ寸前だったそうだ。誰かが屋上で、何も知らない僕を見つけるまで…。そんな事があったとは、初耳だった。
 そんなこんなで悪い状況が重なり合い、結果として僕らのせいでママ達が過敏になっている。僕らは、ロレーナの皮肉どおり「二人ともイノセントで、何も分かっていない」のだろう。

 暮れ始めた空に、小さな鳥が無数に舞っている。
「エレーナは帰ったよ」
 階下から、トニーが言った。屋上に来た彼は、僕の話に静かな相槌を返した。こうして彼が聞いていてくれる事が、僕にはある種の救いのようだった。

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メキシコ旅情【分水嶺・10 お土産】

 いっけない、すっかり忘れてた!
 着いた初日に渡すつもりで、エドベン家に簡単な土産を持参してたのだ。出発の朝に突然(日本らしい土産物を)と思い付き、慌てて詰め込んで来たのだ。まぁ土産といっても自分の使い古しで喜んでもらえるとは思えないけど、要は気持ちだからな。
 赤い千代紙を貼り合わせた団扇と、薄っぺらい唐桟縞の半纏。居合わせたジョアンナとディエゴに「ハポネス・レガロ[日本のお土産]」と言って見せるが、反応が鈍い。子供って正直だよなー。
 ちょうどエドベンがいたので、彼に「これは使い古しのお土産です」と説明すると、彼は苦笑いしながらママ達に通訳して伝えてくれた。ママは目を丸くして喜んで、子供達も改めて興味深げに手に取った。
 まず団扇の使い方を実演してみせて、子供達に半纏を着せてやる。初めは戸惑いをみせたジョアンナにも笑顔が浮かんで、僕は何となくホッとした。
 エドベンは仕事から帰ったばかりらしく、ネクタイ姿のパリッとした格好をしている。僕は朝寝坊だから、一日のうちで彼と会う機会は少なかった。こんな夕方に帰ってくるのは交替勤務制だからなのか? 彼はランチリ航空に勤めているそうだ。
「これから車屋さんに行かないか」エドベンは僕を誘った。
 車に興味はないけど、ちょっと面白そうだ。部屋に戻ってトニーに訊ねると、面倒くさそうに肩をすくめた。習ったばかりのスペイン語を復習していたいらしい。
 僕は少し迷ってから、やっぱり行くことにした。

 帰ってきて夕食を取り、部屋に戻ってポストカードを書く。
 トニーとMTVを観ながら、これから何して過ごそうか話していたら騒々しくドアを開けてエドベン登場。彼のほうからやって来るなんて初めてだ、なんか妙にテンション高いな。
「オーラ、アミーゴス! 出掛けよう」
 元気よくトニーの肩を叩き、屈託のない笑顔をみせた。2人のスピードで話されると僕の英語力じゃ追いつかないが、ディスコに行こうという話らしい。
「では後ほど」とエドベンが去って、僕はトニーに内容確認。しかし彼も今いち解っていないらしく、自信なさげに「エドベンのベイブの、ホーム・パーティだと思う」と答えた。
「ディスコ、って言ってなかった?」
「どっちだって一緒だよ。女の子と、お酒と、ダンスだ…」
「違うよ、トニー。ディスコはお店だし、ホーム・パーティだったら他人の家だ」
 ため息まじりに首を振って、彼は乗り気じゃないのか?

 そろそろ時間だ、僕はトニーより先に階下に降りた。階段の途中で、通りに人の気配を感じて(パーティ仲間が集まっているのか)と思いきや…!!
 鉄格子の向こう、暗がりから浮き上がった顔はベイビー・ベイブと数人の男性だったのだ。連中の約束は昨日じゃ…? だが誘いに来たのは間違いない、胃だか胸だかがギュウッとなった。
 ベイビー・ベイブが呼んでいる、もう回れ右するには遅かった。なんという間の悪さ! 
「オーラ。うーん、ボニータ[きれい]!」
 今夜の彼女は化粧していたので、僕は努めて自然な笑顔で言った。そして立ち止まらないでリビングに直行、背後で何か訴えている彼女を振り返らず「ブエナス・ノーチェス!」と明るく手を振った。
「ケ・パソ[何かあったの]?!」
 何かを察したママたちが、少し険しい表情で僕に尋ねてきた。僕は大したことない、という素振りで「ベイビー・ベイブ」と答えてソファーに腰を下ろす。この位置なら、表からは見えない。
 ママとロレーナはガレージに出て、僕は初めて入り口の扉が閉ざされるのを見た。エドベンの家族が、僕を守ってくれているのを感じていた。アメリカン・ジョークで「メキシコ人の男はマザコンだ」というのがあったけど、実際メキシコの女性は強いなぁー。そんなお門違いな事を、ぼんやりと思った。
 外からは、まだ話し声がしている。僕はスペイン語が出来ないおかげで、それを無視する事ができた。僕は「ヘンなガイジン」なのだ…。TVに意識を集中して、状況を理解していない振りを続け、でも胸中では罪悪感でいっぱいだった。
 あの時、彼女に返事をしたのは僕じゃない。でも髪を切った代金を払うと約束したのは僕だ。僕の心が「彼女に会うべきだ」と告げていても、指が震えて止められなかった。彼女と僕じゃ言葉が通じないし、ママ達の厄介事を増やす真似はしたくない。彼女には、何の落ち度もないのに…。
 やがて、ママとロレーナが入って来た。エドベンが奥から出てきて、2人と短い言葉を交わす。ママは笑顔を取り戻し、僕にうなずいてみせた。それで終わりだった。まるで何もなかったかのように。
 おめかしして来たベイビー・ベイブの、はにかんだ笑顔が脳裏に焼き付いている。
 ガレージの外には、すでに彼女達の姿は見えない。格子戸にもたれて考えにふけっていると、エドベンが来て横に並んだ。
「心配や迷惑を掛けてごめんね」
「その通りだよ」エドベンは真顔で言う。
「知らない人の家に行くなんて何を考えているんだ。特に日本人の事は皆、金持ちだと思っているのだから」
「でも、彼女は知らない人間じゃない。あの夜は確かに怖いと思ったけれど、彼女は友達として髪を切ると言ってくれたんだ。僕は彼女に、その報酬を払いたいと思っている。約束は守りたい…」
 彼は深く息を吐き、僕に向き直った。
「今、何を言っているのか判ってる? そんな事をしてみろ、その辺の乱暴な連中が家で待っているのに、無事で済む訳ないだろう?」
 それでも食い下がる僕に、エドベンは強い口調になった。
「君は分かっちゃいない。とにかく、もう終わったんだ。今後、そんな事は考えないでくれ。もうすっかり忘れるんだ、いいね!」
 エドべンと家族の考えは同じだろう。言ってみたところで彼が賛成してくれるとは思っていなかったし、僕も意地を張るつもりはなかった。郷に入れば郷に従うものだ。彼と家族への感謝を棚上げしてまで、己の声に従うことが、果たして僕の正しさなのか。
 彼らの顔に泥を塗るような気にはならなかった。

 トニーが下りてきて、僕らはエドベンの車に乗り込んだ。
 僕は小声で「彼女たちが来たんだ」と言ったが、トニーには聞こえなかったのかもしれない。
posted by tomsec at 17:14 | TrackBack(0) | メキシコ旅情5【分水嶺】 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする