今朝は、予定もないのに午前中に目を覚ました。この頃にしては珍しい。
強い日差しの中に立つと、ふつふつと気力がみなぎっていくように感じられる。こういう朝は最高の気分だ、何か良いことがあるに違いない…!
そんな一日の始まりだった。
いつもの如くママのコミーダを食べて、書棚の本を見ているとトニーが顔を出した。
彼はこれから映画を観に行くので、僕を誘いに来てくれたらしい。映画無料デーなのだろう。しかし、観てても疲れるだけなので遠慮しとく。日本語の字幕なしで平気なほど、僕は語学堪能じゃないからな。
そこにロレーナが、今日も不機嫌そうな顔して奥から出てきた。トニーは彼女から紙の束を受け取ると、それを僕に手渡して嬉しそうに言った。
「ちょうど良かった、これが出来上がるのを待ってたんだ」
ディズニー・アニメ「ジャングル・ブック」スペイン語版の台詞をタイピングしてもらったんだという。彼は自分の持っているビデオを、スペイン語学習の教材として活用するつもりらしい。だけど、なぜ僕に…?
「観ているだけでストーリーが判るし、台詞も簡単な言い回しが多いから役に立つよ」
って事は、つまり僕がやるの?
「耳で聞いて文章を見ればダブル・チェックだからね!」
あ、ひょっとして映画に行ってる間の宿題かよ?!
トニーは出掛ける直前、日本語でこんな事を言い残していった。
「今夜、踊りの場所にアイヌ達と行きます。」
「えっ? あぁ、アイヌってヘセ…」
「シッ!」
日本語で話すのは楽だけど、英語を使わないと逆にややっこしくなる。
要するに伝言を頼んでた件だな。雑貨屋「アメリカ」で彼女達と逢ったのは一昨日だから、昨夜が「ディスコに行こう」と言われてた日だけど…? 音沙汰ないからすっかり・れていたが、エドベンが予定を変更したのかな。
(今夜、か…)
ヘセラの魔力的な瞳と肌を想い出して胸が高鳴る。ものすごい引力だ! でもやっぱり、スシ男たちも来るんだよなー。ちぇっ。
僕は、書棚からマヤ関連の新書を一冊借りて部屋に戻った。
マヤに関する本は、メキシコに来る前に何冊か読んでいる。本によって文明の解釈が大きく異なったりするのは、まだ推測の域を出ない未知の部分が多いからだろう。スキャンダラスに扱われがちな生け贄の習慣についても、未だ事実が解明された訳ではない。
僕が知りたかったのは、主にマヤ暦の事だった。現在使用されているグレゴリオ暦よりも非常に古く、はるかに正確なカレンダーがマヤの人々によって用いられていたという。紀元前3114年8月11日に始まって西暦2012年12月21日に終わる記録が、発掘された遺跡の石板に刻まれていたそうだ。
だけど今まで読んだ本には、それ以上は詳しく書かれていなかった。マヤ暦と西暦の何が違うのか? といった疑問も、書棚で見つけた本を読んで一気に氷解した。とはいえ複数の周期を組み合わせる方法そのものが複雑で、大枠を理解するだけでも大変だったが。
マヤ暦の複雑さは、今世紀に入って数学の概念が追いつくまでは馬鹿げた模様と見なされていたのだ。しかも石板に刻まれた五千年近い歳月さえ、マヤ人にとっては更に大きな周期の一部でしかなかったという。
こういう、常識的な価値観が根こそぎ引っ繰り返るようなカタルシスは堪えられないものがある。やっと西欧文明にも理解できるようになった叡知が、はるか太古の時代に存在していたのだ。
本と首っぴきでノートに向かい合っていると、あっという間に時間が経ってしまった。ひとくちにマヤ文明といっても数千年にわたって広範囲に拡がっていったので、地域によって更に尊かな農耕祭祀用の暦が幾種類もあってキリがない。
切り上げて、気分転換に「ジャングル・ブック」を観る。
ロレーナがワープロ打ちした紙束と、画面をチラチラ見比べてながら台詞を追いかけるのだ。なんだか慌ただしくて、ものすごく疲れてきた。一発本番のアテレコ作業やってる声優の気分。
トニーがドアを開ける音で、僕は簡易ベッドから半身を起こした。目を閉じてから、まだそれほど時間が経っていない気がする。
「シエスタ中だったか、ごめんね」
そう言って、彼はすぐにクーラーのスイッチを入れた。僕が冷房を使わずに・寝してたのは、考えられない事のようだ。さすがに喉が渇いたけれど、ビアネイ達がまだ帰ってないので冷蔵庫が使えなかった。
「行って帰ってくれば、ちょうど部屋も冷えているさ」
という訳で、角の雑貨屋に出掛けて属み物を調達する。僕は「アメリカ」行きを主張したが、トニーはやっぱり緑道の先にある雑貨屋のほうが好きらしい。
「今夜のディスコ話、どうなってるんだろう?」
「詳しい事は判らないけど、たぶん大丈夫でしょ」
「でも、エドベンの事だからねぇ…」
夜が来て、僕の不安は的中した。
エドベンの車は、セントロの外れで停まった。大通りに面してはいるが、薄暗く人通りのない寂しいエリアだ。この場所は知っている気がするけど、どの辺りだったか思い出せなかった。
明かりの消えたガラス戸の横に階段があって、エドベンは振り向きもせず先に上がっていく。どうやら二階はディスコじゃないな、非常に怪しげで…。またまたエドベンに一杯喰わされたようで、トニーと僕は顔を見合わせた。
階上から彼が呼んでいる。ここまで来ちまったものは仕様がない。かなり気が進まなそうなトニーに、僕は背後のポスターを指さして言った。
「これだよ、きっと」
彼は一歩後ずさり、ぎょっとした顔で僕を見た。踊るのは僕らじゃなくて、こういう際どい衣装の女性達なのだ。扉の向こうからは、ディスコ・ビートがあふれ出している。僕ら2人は現実との境界線上にいたが、エドベンはすでに暗がりの奥だった。
ストリップティーズ。トニーは、これが違法行為じゃないか多配なのだと思う。ビザなしで長期・在しているので、警察沙汰は洒落にならないのだ。
確かにヤバそうな店だけど、エドベンだってそれぐらい考えるさ。こういう店は「明るくさわやか」じゃ雰囲気が出ないから、わざとこんな感じにするのだろう…。と、分かったような口を叩く僕も二の足を踏んでいた。
僕がワイキキのストリップに行った時も(あの時も連れて行かれたんだが)、やっぱりこんな感じだった。ここのほうが場末の小屋っぽくて格は落ちるが。
トニーが言うには、フロリダのストリップは明るく清潔で安全なのだそうだ。客は悠々自適組で、踊り子にチップ渡すのも孫に小遣いあげるみたいで…ってホントかよ?
2005年11月08日
メキシコ旅情【郷愁編・2 ワイルド・キャット】
入り口の黒い幕をくぐると、目の前に花道があった。
どぎつい照明に染まったダンサーが、後方のステージからゆっくりと歩いてくる。花道の先は、天井からスチール・パイプが伸びている小さな円形ステージだ。ダンサーの女性は、ひとしきりパイプに絡み付いて後方ステージに下がった。脱ぎ捨てたビキニを拾い上げて引っ込むと、大柄な金髪の女性が同じように踊りながらブラを外してパイプと絡みはじめる。
花道を囲む「かぶりつき」の席はまばらなのに、壁際の暗がりは人で埋まっていた。それに気付かず壁に寄って、間近で客と対面して焦った。暗闇とステージ照明の眩しさで、足元さえ見えないのだ。
奥まったカウンターに、エドベンを見つけた。そこはDJブースの前で、PAが真横にあるので絶叫しても会話にならない。どうやら「良い席が空くまで待とう」という事らしく、トニーと3人でスツールに腰掛けてショーを見る。
場末というより、学園祭のような小屋だ。ホノルルと比べるのは間違いだろうけど、内装も音響も照明も手作り感すら漂うチープさ。高い天井も派手なドアマンもなし、踊り子さんもプレイメイトには程遠い。まぁアットホームといいましょうか、洗練されていない「いかにもストリップ小屋でござーい」っていう気安さは楽だ。
きれいな顔立ちをした金髪の踊り子は、嫌々ながら我慢してるみたい。高飛車なのは銀行員と郵便局員だけで充分だ、唯一のブロンド娘だから商品価値が高いのかもしれないが僕には関係ない。素人目にも下手なのに、見ているこっちまで厭な気分になってくる。
「メキシコの女性は胸が小さい」
いつだったか、そうトニーが言っていたっけ。胸に関しては、どの踊り子も小振りだ。僕は巨乳派を支持するつもりはないけれど(あればあったほうがビジュアル的に見栄えがするな)とは思った。だからホノルルのダンサー達は、とんでもないことになってたのだろう…。と、あらぬ事を考えてたら席を移ってボックス・シートへ。
超かぶりつきの、舞台と花道の角だ。少し年上の男性4人と相席になった、と思ったらエドベンの同僚らしい。おじさん達は「若いんだから、遠慮するな」みたいなことを言って、僕らをシートの奥に押し込んだ。トニーが花道の真横で、僕は彼に並んで座り直す。エドベンは舞台を背にする格好で、向かい側で腰を下ろした。
サルベッサ[ビール]のボトルが人数分、テーブルに置かれた。コロナ・ビールではない銘柄だったけれど、小皿に乗ったライムのかけらを絞って飲み口に押し込むのは同じだ。
「サルー[乾杯]!」
おじさん達は陽気に笑った。別の皿に並んだライムと岩塩をつまみにして、彼らは早くも二本目を頼んでいる。僕はこういう店に入り慣れていないので、ビール一本でも高くつくんじゃないかと心配になってしまう。高いと言っても円換算にすれば大した事ない筈だが、それだけ僕もペソ感覚に慣れてきたのだろう。
それにしても、この席は近過ぎだ。目の前にビキニ姿じゃ、顔を上げるのも恥ずかしい。とはいえ踊り子さんは、まるで素人みたいにぎこちない感じ。ただ一人だけ、指先まで気を抜かないような踊り方をしている女性がいた。気合というかエンターテイナーの心意気というか、とにかく惹きつけて飽きさせない動き。
小柄で締まっているのに、黄色いビキニがはちきれそうだ。褐色の肌は濡れて、挑みかかるような黒い眼差し。その眼力は、ヘセラよりも野生の猫のよう。
夜も更けたか、客席が埋まって熱気を帯び始めた。客もすっかりこなれてきたし、ヌード・ダンサーも興が乗ってトニーになまめかしい愛想をふりまいたりする。酔いが回ったのか、エドベンの同僚が押しのけるように身を乗り出してくる。おぉ、絵に描いたようなオッサンらしさだ!
その同僚は筋金入りのオッサンで、本能に忠実なタイプらしい。なんとか踊り子達の気を引こうとして、人目も気にせず声を掛けたりお道化てみたり、挙げ句は舞台でチークを踊ったりして周囲から喝采を浴びていた。
「トニーも気に入られたんだから、もっとガンガンいきなよ」
僕がニヤニヤして尻を叩くと、彼は恥ずかしそうに身をすくめた。
「ダメダメ、出来ない。それより席を交替してくれよ」
…ヤなこった!
ちょうど僕らの真正面、舞台の袖だと思っていた部分が明るくなった。そこはガラス張りのシャワー室になっていて、次の見せ場になるらしい。それでもビキニの下は脱がず、風呂なのにパンツ一丁で泡まみれの肢体をくねらせてシャワーを浴びるとバスローブをはおって別のドアから出て行った。
「何時まで、ここに居るんだろう?」
トニーが腕時計を見ながら言った。
確かに、いくら夜更かしの僕らだって寝てもいい時刻だ。ここに来たのが10時か11時頃で、もう2時近かった。おじさん達の雰囲気は、むしろこれからって勢い。気を遣ってテンションを上げているにも限度がある。トニーと僕は疲れてきて、とっとと帰りたかった。
六人位のダンサー全員のシャワー・タイムが終了する、と同時に音楽と照明が消えた。(もう閉店か)と思ったら、再び景気よく音楽が鳴り出した。もったりとした男性の掛け声と共に、ステージには踊り子達の揃い踏み。
「お待たせしましたー、いよいよ本日のスペシャル・ショー・タイムでぇーす!」
…という事らしい。何言ってんだよ、もう寝る時間じゃないの。
僕が耳打ちで(この調子じゃあ、まだまだ帰れないね)と言うと、トニーはがっかりした顔で肯いた。エドベンは何を誤解したのか、こちらに身を乗り出してきやがる。
「おいおい、これからがスゴイんだぜ?!ダンス・コンテストをやるんだよ」
それぞれのダンサーが客席から相手を選んで一緒に踊り、優勝者には特別サービスをしてくれるのだそうだ。早くも何人かの踊り子が、ステージに連れ上げた男性客と組んで踊り始めている。冴えない中年男ばかりなのに、誰もがラテンのステップを踏めるのだ。いずれも軽やかに女性をリードしていて、なんか悔しいけれどカッコ良い。
エドベンは面白がって、冴えない顔したトニーを花道に押し上げようとしている。トニーのほうは俄然、必死の抵抗を試みていた。彼には可哀想だけど、ちょっと退屈しのぎに踊ってもらおうか?
ちょうど目の前を踊り子が通りかかったので、僕も調子に乗って
「さぁトニーズ・ダンスを見せてやれー!」と背中を押す。
トニーが悲鳴を上げた。「ダメだよ、止めろ!」
本気で嫌がっているのが可哀相になって、押し手を緩めた途端エドベンが僕に振り返った。すかさずトニーが叫んだ。
「お前はマカレナが得意じゃないか、お前が踊れ!」
この切り返しで、一気に形勢が逆転してしまった。
僕は体をシートに沈ませて逃げたが、同僚のおじさん達まで面白がって手足を掴んでくる。これでは多勢に無勢、上体が持ち上げられてしまった。その瞬間、僕と踊り子の目が合った。
…野生の猫だ。
どぎつい照明に染まったダンサーが、後方のステージからゆっくりと歩いてくる。花道の先は、天井からスチール・パイプが伸びている小さな円形ステージだ。ダンサーの女性は、ひとしきりパイプに絡み付いて後方ステージに下がった。脱ぎ捨てたビキニを拾い上げて引っ込むと、大柄な金髪の女性が同じように踊りながらブラを外してパイプと絡みはじめる。
花道を囲む「かぶりつき」の席はまばらなのに、壁際の暗がりは人で埋まっていた。それに気付かず壁に寄って、間近で客と対面して焦った。暗闇とステージ照明の眩しさで、足元さえ見えないのだ。
奥まったカウンターに、エドベンを見つけた。そこはDJブースの前で、PAが真横にあるので絶叫しても会話にならない。どうやら「良い席が空くまで待とう」という事らしく、トニーと3人でスツールに腰掛けてショーを見る。
場末というより、学園祭のような小屋だ。ホノルルと比べるのは間違いだろうけど、内装も音響も照明も手作り感すら漂うチープさ。高い天井も派手なドアマンもなし、踊り子さんもプレイメイトには程遠い。まぁアットホームといいましょうか、洗練されていない「いかにもストリップ小屋でござーい」っていう気安さは楽だ。
きれいな顔立ちをした金髪の踊り子は、嫌々ながら我慢してるみたい。高飛車なのは銀行員と郵便局員だけで充分だ、唯一のブロンド娘だから商品価値が高いのかもしれないが僕には関係ない。素人目にも下手なのに、見ているこっちまで厭な気分になってくる。
「メキシコの女性は胸が小さい」
いつだったか、そうトニーが言っていたっけ。胸に関しては、どの踊り子も小振りだ。僕は巨乳派を支持するつもりはないけれど(あればあったほうがビジュアル的に見栄えがするな)とは思った。だからホノルルのダンサー達は、とんでもないことになってたのだろう…。と、あらぬ事を考えてたら席を移ってボックス・シートへ。
超かぶりつきの、舞台と花道の角だ。少し年上の男性4人と相席になった、と思ったらエドベンの同僚らしい。おじさん達は「若いんだから、遠慮するな」みたいなことを言って、僕らをシートの奥に押し込んだ。トニーが花道の真横で、僕は彼に並んで座り直す。エドベンは舞台を背にする格好で、向かい側で腰を下ろした。
サルベッサ[ビール]のボトルが人数分、テーブルに置かれた。コロナ・ビールではない銘柄だったけれど、小皿に乗ったライムのかけらを絞って飲み口に押し込むのは同じだ。
「サルー[乾杯]!」
おじさん達は陽気に笑った。別の皿に並んだライムと岩塩をつまみにして、彼らは早くも二本目を頼んでいる。僕はこういう店に入り慣れていないので、ビール一本でも高くつくんじゃないかと心配になってしまう。高いと言っても円換算にすれば大した事ない筈だが、それだけ僕もペソ感覚に慣れてきたのだろう。
それにしても、この席は近過ぎだ。目の前にビキニ姿じゃ、顔を上げるのも恥ずかしい。とはいえ踊り子さんは、まるで素人みたいにぎこちない感じ。ただ一人だけ、指先まで気を抜かないような踊り方をしている女性がいた。気合というかエンターテイナーの心意気というか、とにかく惹きつけて飽きさせない動き。
小柄で締まっているのに、黄色いビキニがはちきれそうだ。褐色の肌は濡れて、挑みかかるような黒い眼差し。その眼力は、ヘセラよりも野生の猫のよう。
夜も更けたか、客席が埋まって熱気を帯び始めた。客もすっかりこなれてきたし、ヌード・ダンサーも興が乗ってトニーになまめかしい愛想をふりまいたりする。酔いが回ったのか、エドベンの同僚が押しのけるように身を乗り出してくる。おぉ、絵に描いたようなオッサンらしさだ!
その同僚は筋金入りのオッサンで、本能に忠実なタイプらしい。なんとか踊り子達の気を引こうとして、人目も気にせず声を掛けたりお道化てみたり、挙げ句は舞台でチークを踊ったりして周囲から喝采を浴びていた。
「トニーも気に入られたんだから、もっとガンガンいきなよ」
僕がニヤニヤして尻を叩くと、彼は恥ずかしそうに身をすくめた。
「ダメダメ、出来ない。それより席を交替してくれよ」
…ヤなこった!
ちょうど僕らの真正面、舞台の袖だと思っていた部分が明るくなった。そこはガラス張りのシャワー室になっていて、次の見せ場になるらしい。それでもビキニの下は脱がず、風呂なのにパンツ一丁で泡まみれの肢体をくねらせてシャワーを浴びるとバスローブをはおって別のドアから出て行った。
「何時まで、ここに居るんだろう?」
トニーが腕時計を見ながら言った。
確かに、いくら夜更かしの僕らだって寝てもいい時刻だ。ここに来たのが10時か11時頃で、もう2時近かった。おじさん達の雰囲気は、むしろこれからって勢い。気を遣ってテンションを上げているにも限度がある。トニーと僕は疲れてきて、とっとと帰りたかった。
六人位のダンサー全員のシャワー・タイムが終了する、と同時に音楽と照明が消えた。(もう閉店か)と思ったら、再び景気よく音楽が鳴り出した。もったりとした男性の掛け声と共に、ステージには踊り子達の揃い踏み。
「お待たせしましたー、いよいよ本日のスペシャル・ショー・タイムでぇーす!」
…という事らしい。何言ってんだよ、もう寝る時間じゃないの。
僕が耳打ちで(この調子じゃあ、まだまだ帰れないね)と言うと、トニーはがっかりした顔で肯いた。エドベンは何を誤解したのか、こちらに身を乗り出してきやがる。
「おいおい、これからがスゴイんだぜ?!ダンス・コンテストをやるんだよ」
それぞれのダンサーが客席から相手を選んで一緒に踊り、優勝者には特別サービスをしてくれるのだそうだ。早くも何人かの踊り子が、ステージに連れ上げた男性客と組んで踊り始めている。冴えない中年男ばかりなのに、誰もがラテンのステップを踏めるのだ。いずれも軽やかに女性をリードしていて、なんか悔しいけれどカッコ良い。
エドベンは面白がって、冴えない顔したトニーを花道に押し上げようとしている。トニーのほうは俄然、必死の抵抗を試みていた。彼には可哀想だけど、ちょっと退屈しのぎに踊ってもらおうか?
ちょうど目の前を踊り子が通りかかったので、僕も調子に乗って
「さぁトニーズ・ダンスを見せてやれー!」と背中を押す。
トニーが悲鳴を上げた。「ダメだよ、止めろ!」
本気で嫌がっているのが可哀相になって、押し手を緩めた途端エドベンが僕に振り返った。すかさずトニーが叫んだ。
「お前はマカレナが得意じゃないか、お前が踊れ!」
この切り返しで、一気に形勢が逆転してしまった。
僕は体をシートに沈ませて逃げたが、同僚のおじさん達まで面白がって手足を掴んでくる。これでは多勢に無勢、上体が持ち上げられてしまった。その瞬間、僕と踊り子の目が合った。
…野生の猫だ。
メキシコ旅情【郷愁編・3 ダンス・チキン】
あっ、と気を取られたのがいけなかった。
野生の猫…つまり彼女が獲物を見定めたように、ストリッパーらしい手招きで誘うものだから、周りは余計に調子付いて僕を花道に押し上げ始めた。こちとらダンスどころかスペイン語も覚束ないってのに、みんなして僕を面白がってやがる!
こうなりゃヤケだ、僕は腹を括った。エドベンの同僚のオッサン達の異様にヒートアップした声援を浴びながら、彼女の手を取ってステージに上がる。思ったよりも小柄で、黄色いビキニの小猫ちゃんは汗で濡れていた。
しかし彼女は、まさか僕がダンスのステップを知らないとは考えもしなかったらしい。もはや後の祭りだった、コンテストは始まっているのだ。大音量の音楽の中、耳元で教えてくれるスペイン語は聞き取り不能だった。
彼女は厭な顔をしたが、リタイヤする気は毛頭ないらしい。単なる負けず嫌い以上に、きっと何かが懸かっているのだろう。スタートでエンコしたF1レーサーみたいな、彼女の苛立ちが伝わってくる。折角リードしてくれても、もつれた足が上手くさばけない。かみ合っていないのは、僕達のペアだけだ。
僕が照れ隠しでトニーを呼ぶと、彼女にキッと睨まれた。最後まで、勝負を捨てる気はないらしい。その時、僕の座っていたボックス席からマカレナの合唱が起こった。それは(マカレナ・ダンスで起死回生を狙え)という、リング下からのメッセージに聞こえた。
彼女の腕が弛んだ隙に身をかわして花道の角に立ち、僕はトニーやエドベン達の歌声に併せてマカレナを踊ってみせる。なぜか、これが周囲の客席にも受けた。お、意外に好反応? 最初は呆気に取られた小猫ちゃんも一緒に踊りだすと、笑い声と拍手がさらに大きくなってきた。よーし、こうなりゃこっちのもんだぜ。
調子づいてきた僕は、勢いに乗って意味不明な行動に出た。もはや勝ち負け無用、気後れと恥ずかしさが突き抜けたスーパー・ナチュラル・ハイ状態。
「おい、何だそれは〜?!」
トニーがげらげら笑って、僕にやじを飛ばす。
「チキン・ダンスだ!」
尻を突き出し背中を反らして胸を張り、拳を腋の下に付ける。その姿勢で両腕を激しく上下に動かしながら、腰を左右に振るのだ。こんな事を急に思い付いた自分と、この間抜け過ぎる状況が可笑しくて堪らなかった。
そして意外にも、このデタラメなダンスで客席じゅうが笑いの渦に。一躍、大ブレイクした僕達は賞レースに浮上したのだ。とんだ番狂わせで、余興のノリが白熱してきた。ステップを踏んでいた男性も足が止まり、口を開けて見ている。しまいには他のペアも真似する始末で、奇妙なダンス・コンテストになってきた。
早く終わって欲しいのに、結構な時間を踊らされた気がする。とうとう僕達は、チキン・ダンスでショー・タイムを乗り切ってしまった。全身びっしょり汗をかいて、僕は一緒に踊ってくれた小猫ちゃんに礼を言った。
お道化ながらトニー達のいるボックス席に帰ろうとして、彼女に腕をつかまれた。まだ何かあるのかと思ったら、客席の拍手で優勝ペアを決めるのだそうだ。僕達にスポット・ライトが当たって、中央に進んでポーズを取ると司会者の大声でボックス席が騒ぎ出した。
「おい聞いたか、勝ったぞ!」
そうかい、そりゃー良かったね。
「いや待て待て、まだだよ。もう一組との決勝戦があるんだって」
という訳で、また僕はステージに押し返されてしまった。もう勘弁してくれよ〜、不戦敗って事でさぁ。
「この声援が聞こえるだろ? ここだけじゃない、みんなが応援しているんだから」
ボックス席から始まったコールが、いつの間にか周りの席にも広がっている。しまいには、小屋全体が手を叩いて大合唱に…。なんでだ?!
音楽がスタートした。さすがに、もうチキン・ダンスは使えない。
さて、どうしたものか…。と、小猫ちゃんが何事か囁いてきた。ステップを踏めない僕をリードして、腰から上を使ったチーク・ダンスみたいなので勝負するつもりらしい。無論、普通のチークではない。どうやら即興で作られるシナリオに合わせて、当意即妙に(男女の逢瀬)的な演技をしなければならないようだった。
もう一組の様子は目に入らなかった。というか、周囲の事まで気を回しているどころじゃない。彼女の動きに集中していないと、自分がどう振舞えば良いのか予測できないのだ。ダンス、というよりアドリブ・セッションの掛け合いに近い緊張感。
次第にそれはエスカレートして、小猫ちゃんは僕のTシャツをまくり上げた。仰天して身を固くすると力づくで脱がそうとするので、仕方なくTシャツをトニーに投げ半裸になった。親密でもない相手に触れるのはためらいがあったけれど、ダンスの性質上ある程度は仕様がないか。
彼女の方も、ビキニで覆われた部分に僕が触れそうになると避けている気がする。観客に気づかれないよう、二人の間には暗黙の了解が生まれていた。僕は要求されるがまま、時には彼女を持ち上げたり振り回したりした。まるで(お色気パントマイム)だな。派手な動きと色仕掛け、というのが最終決戦の勝機ポイントらしい。
濡れたカール・ヘアが、僕のほおを弾く。チーズか、けものを連想させる湿った匂いが鼻をふさいだ。香水なのか体臭なのか、こってりとした苦手な匂い。この匂いをムスクと呼ぶのだろうか…?
小猫ちゃんの指先が僕の短パンに掛かった時には、さすがに本気で慌てた。真剣に抵抗したのも一瞬、結局は従うしかないと開き直った。主導権は彼女にあったし、もうこうなったらパンツ一丁でも同じようなものだ。
ますます僕らの踊りは「絡み」の様相を帯びて、客席の視線は僕らに集中していた。文字通り、視線は熱を帯びる性質を持っているのだと初めて知った。背後に回された指が下りてきて僕の尻をこねくりまわした後、一拍置いていきなりパンツまで引きずり下ろした。
(パンツまでとは…やりやがったな?!)
不意を突かれながらも、条件反射で手で股間を隠しながらコンディションを確かめるのは男の性か。とりあえず平常どおりだ。仕返しに彼女も脱がせてやろうとしたら、その手をピシッと払いのけられた。何なんだよ、男の僕がストリップしてるじゃないか! ギャラも出ないのに?
それでも場内は大ウケで、僕も妙に意地になって全裸で花道をウォーキングしてやる。腰を振って向き直り、大股開きで尻を突き出すと男どもが顔をしかめて目を背けた。如何ですか、お客さぁ〜ん?!
彼女が僕に抱きつき、両脚で腰をはさむ。と、思いっきり上半身を反らせ後頭部を床に叩きつける寸前、僕が重心を後ろに倒してバランスを保つ。日本のAVファンなら「駅弁なんとか」を思い出すだろう、あの激しいポーズの発展形だ。
僕は、逆さになって乱獅子を舞う彼女の腰を支えながら悶え続けた。もしも端から見てたらなら(オイシイ役だ)としか見えないだろうけど、特に体を鍛えてもいないし体力も限界で苦痛の極みだった。なのに小猫ちゃんは延々と僕の腰で暴れ続け、男どもは興奮して二度も三度もアンコールに耐えなければならなかった。
そしてやっと、長かった決勝ラウンドが終了した。
野生の猫…つまり彼女が獲物を見定めたように、ストリッパーらしい手招きで誘うものだから、周りは余計に調子付いて僕を花道に押し上げ始めた。こちとらダンスどころかスペイン語も覚束ないってのに、みんなして僕を面白がってやがる!
こうなりゃヤケだ、僕は腹を括った。エドベンの同僚のオッサン達の異様にヒートアップした声援を浴びながら、彼女の手を取ってステージに上がる。思ったよりも小柄で、黄色いビキニの小猫ちゃんは汗で濡れていた。
しかし彼女は、まさか僕がダンスのステップを知らないとは考えもしなかったらしい。もはや後の祭りだった、コンテストは始まっているのだ。大音量の音楽の中、耳元で教えてくれるスペイン語は聞き取り不能だった。
彼女は厭な顔をしたが、リタイヤする気は毛頭ないらしい。単なる負けず嫌い以上に、きっと何かが懸かっているのだろう。スタートでエンコしたF1レーサーみたいな、彼女の苛立ちが伝わってくる。折角リードしてくれても、もつれた足が上手くさばけない。かみ合っていないのは、僕達のペアだけだ。
僕が照れ隠しでトニーを呼ぶと、彼女にキッと睨まれた。最後まで、勝負を捨てる気はないらしい。その時、僕の座っていたボックス席からマカレナの合唱が起こった。それは(マカレナ・ダンスで起死回生を狙え)という、リング下からのメッセージに聞こえた。
彼女の腕が弛んだ隙に身をかわして花道の角に立ち、僕はトニーやエドベン達の歌声に併せてマカレナを踊ってみせる。なぜか、これが周囲の客席にも受けた。お、意外に好反応? 最初は呆気に取られた小猫ちゃんも一緒に踊りだすと、笑い声と拍手がさらに大きくなってきた。よーし、こうなりゃこっちのもんだぜ。
調子づいてきた僕は、勢いに乗って意味不明な行動に出た。もはや勝ち負け無用、気後れと恥ずかしさが突き抜けたスーパー・ナチュラル・ハイ状態。
「おい、何だそれは〜?!」
トニーがげらげら笑って、僕にやじを飛ばす。
「チキン・ダンスだ!」
尻を突き出し背中を反らして胸を張り、拳を腋の下に付ける。その姿勢で両腕を激しく上下に動かしながら、腰を左右に振るのだ。こんな事を急に思い付いた自分と、この間抜け過ぎる状況が可笑しくて堪らなかった。
そして意外にも、このデタラメなダンスで客席じゅうが笑いの渦に。一躍、大ブレイクした僕達は賞レースに浮上したのだ。とんだ番狂わせで、余興のノリが白熱してきた。ステップを踏んでいた男性も足が止まり、口を開けて見ている。しまいには他のペアも真似する始末で、奇妙なダンス・コンテストになってきた。
早く終わって欲しいのに、結構な時間を踊らされた気がする。とうとう僕達は、チキン・ダンスでショー・タイムを乗り切ってしまった。全身びっしょり汗をかいて、僕は一緒に踊ってくれた小猫ちゃんに礼を言った。
お道化ながらトニー達のいるボックス席に帰ろうとして、彼女に腕をつかまれた。まだ何かあるのかと思ったら、客席の拍手で優勝ペアを決めるのだそうだ。僕達にスポット・ライトが当たって、中央に進んでポーズを取ると司会者の大声でボックス席が騒ぎ出した。
「おい聞いたか、勝ったぞ!」
そうかい、そりゃー良かったね。
「いや待て待て、まだだよ。もう一組との決勝戦があるんだって」
という訳で、また僕はステージに押し返されてしまった。もう勘弁してくれよ〜、不戦敗って事でさぁ。
「この声援が聞こえるだろ? ここだけじゃない、みんなが応援しているんだから」
ボックス席から始まったコールが、いつの間にか周りの席にも広がっている。しまいには、小屋全体が手を叩いて大合唱に…。なんでだ?!
音楽がスタートした。さすがに、もうチキン・ダンスは使えない。
さて、どうしたものか…。と、小猫ちゃんが何事か囁いてきた。ステップを踏めない僕をリードして、腰から上を使ったチーク・ダンスみたいなので勝負するつもりらしい。無論、普通のチークではない。どうやら即興で作られるシナリオに合わせて、当意即妙に(男女の逢瀬)的な演技をしなければならないようだった。
もう一組の様子は目に入らなかった。というか、周囲の事まで気を回しているどころじゃない。彼女の動きに集中していないと、自分がどう振舞えば良いのか予測できないのだ。ダンス、というよりアドリブ・セッションの掛け合いに近い緊張感。
次第にそれはエスカレートして、小猫ちゃんは僕のTシャツをまくり上げた。仰天して身を固くすると力づくで脱がそうとするので、仕方なくTシャツをトニーに投げ半裸になった。親密でもない相手に触れるのはためらいがあったけれど、ダンスの性質上ある程度は仕様がないか。
彼女の方も、ビキニで覆われた部分に僕が触れそうになると避けている気がする。観客に気づかれないよう、二人の間には暗黙の了解が生まれていた。僕は要求されるがまま、時には彼女を持ち上げたり振り回したりした。まるで(お色気パントマイム)だな。派手な動きと色仕掛け、というのが最終決戦の勝機ポイントらしい。
濡れたカール・ヘアが、僕のほおを弾く。チーズか、けものを連想させる湿った匂いが鼻をふさいだ。香水なのか体臭なのか、こってりとした苦手な匂い。この匂いをムスクと呼ぶのだろうか…?
小猫ちゃんの指先が僕の短パンに掛かった時には、さすがに本気で慌てた。真剣に抵抗したのも一瞬、結局は従うしかないと開き直った。主導権は彼女にあったし、もうこうなったらパンツ一丁でも同じようなものだ。
ますます僕らの踊りは「絡み」の様相を帯びて、客席の視線は僕らに集中していた。文字通り、視線は熱を帯びる性質を持っているのだと初めて知った。背後に回された指が下りてきて僕の尻をこねくりまわした後、一拍置いていきなりパンツまで引きずり下ろした。
(パンツまでとは…やりやがったな?!)
不意を突かれながらも、条件反射で手で股間を隠しながらコンディションを確かめるのは男の性か。とりあえず平常どおりだ。仕返しに彼女も脱がせてやろうとしたら、その手をピシッと払いのけられた。何なんだよ、男の僕がストリップしてるじゃないか! ギャラも出ないのに?
それでも場内は大ウケで、僕も妙に意地になって全裸で花道をウォーキングしてやる。腰を振って向き直り、大股開きで尻を突き出すと男どもが顔をしかめて目を背けた。如何ですか、お客さぁ〜ん?!
彼女が僕に抱きつき、両脚で腰をはさむ。と、思いっきり上半身を反らせ後頭部を床に叩きつける寸前、僕が重心を後ろに倒してバランスを保つ。日本のAVファンなら「駅弁なんとか」を思い出すだろう、あの激しいポーズの発展形だ。
僕は、逆さになって乱獅子を舞う彼女の腰を支えながら悶え続けた。もしも端から見てたらなら(オイシイ役だ)としか見えないだろうけど、特に体を鍛えてもいないし体力も限界で苦痛の極みだった。なのに小猫ちゃんは延々と僕の腰で暴れ続け、男どもは興奮して二度も三度もアンコールに耐えなければならなかった。
そしてやっと、長かった決勝ラウンドが終了した。
メキシコ旅情【郷愁編・4 裸の勝者】
トニーが大声で、僕らの優勝を教えてくれた。すっかり疲労困憊して、彼に笑い返すのもやっとだ。客席からの喝采を浴びながら、僕はビキニの小猫ちゃんに寄りかかるようにして立っていた。
一体、僕は何をやっているんだろう? フラフラになって息を切らし、真夜中のストリップ小屋で素っ裸なのだ。男達の嫉妬と羨望が入り混じった視線に、訳もなく腹が立ってくる。これが傍目ほど気楽じゃないって事を、ちっとも解っちゃいないくせに! 誰が好き好んでやるもんか、けれども自分で踊った結果だけに心底うんざりしていた。
よろめきながら花道から降りようとする僕の腕を、またもや彼女が引っ張り返す。(もう付き合い切れねぇ、何があろうと知った事か!)とばかりに、その手を反射的に振り払った。ところが、総立ちになった客が僕を押し戻してくる。優勝者の「ごほうび」を観るまでは、僕を許さないらしい。冗談じゃあないぜ、今度ばかりは折れないからな。
「僕は眠りたい、それだけだ。他のサービスは何も要らない」
ステージ脇に立ったまま、僕は冷静にアピールした。だけど次第に押し問答になってきて、殺気立った気まずい雰囲気に。もういいじゃないか、僕を自由にしてくれよ…。
「勿体ないだろ、分からないのか? お前は素晴らしい(ごほうび)を貰えるんだぞ!」
僕はガックリ肩を落とし、回れ右をした。
そうする以外に、もはや僕の行き場所はなかったのだ。
(ごほうび)だからシャンパンでもくれるのかと思っていたら、照明が落とされて甘いバラードが流れ始めた。このムードにアクロバットは似合わないし、もうコンテストは終わったのだ。
小猫ちゃんは僕から離れて、ビキニのブラを外した。客席はどよめいたが、僕は軽い溜息をつく。こういうコトね…つまり僕に、じゃなく観客へのサービスかよ。しなだれかかる彼女の体は、例によって触れそうで触れない。いつの間にか後ろにパイプ椅子が置かれ、座り込む僕に覆いかぶさる姿勢で彼女は囁いた。
「私が動くから、じっとしていて」
スペイン語は解らない筈なのに、たしかに僕は理解した。ずっと集中して彼女の空気を読んでいたせいだ、そう彼女が言ったのは確かだった。
背もたれに体を預けていると、この心身の疲労が椅子から床に滴り落ちてゆくようだ。小猫ちゃんは、僕の胸に舌を這わせる振りをしている。客席の男達は、きっとカン違いしてるんだろうな。目を閉じていると、このまま眠れそう…。
ふと、彼女の気配が消えた。
うっすらと目を開けると、目の前に立った小猫ちゃんが、ゆっくりとビキニの腰ひもを解くのが見えた。
場内のボルテージは最高潮に達し、エドベンの同僚のオッサンは何事か口走りながらステージに上がろうとするのを周囲に押さえ付けられていた。ステージ・ライトが逆光となって、こちらから彼女の肢体は陰に隠れて見えない。
(まさかメキシコで〈まな板ショー〉か?!)
あらぬ想像が浮かび、眠気が消えた。彼女が僕に向かってくる。それにつれて、客席のうめき声にも似たざわめきが一段と大きくなった。いくら僕が「俎上の鯉」とはいえ「寝た子を起こすな」だ、こんな人前で起こされては堪ったもんじゃないぞ! 逃げ出したい気持ちと裏腹に、全身が重くて動けない。
小猫ちゃんは四つんばいで、僕の股間に顔をうずめた。しかし考えてみれば、僕に指一本触れさせようとはしなかったのにアレだけ…というのも辻褄が合わない。そして案の定、今度も触れてこなかった。
またもやお色気パントマイム、しかも今度は2人とも全裸だ。椅子に座った僕の上で、彼女は器用に体をくねらせていた。そして僕の手を取って自分の体をまさぐらせるが、やはり背中から脇腹止まりだ。どうでもいいのに、なぜか僕まで恍惚の演技をしてしまう。
僕の肩に掛かった太ももの谷間から、股間がせり上がってくる。熱帯の花の荒い息遣いを感じつつも、薄暗がりの中で判然としない。彼女がどんな体勢でいるのか不思議だったが、頭を両脚で挟まれているのだ。
結局は彼女の好きなように翻弄されているのに、どこか共同作業の感覚があった。だが所詮は小猫ちゃんのステージであって、僕は小道具の一種でしかなかった。彼女が全身を密着させるようなグラインドを始めると、陰毛の微風が鼻をくすぐった。
それが(ごほうびショー)のクライマックスで、やっと解放された僕はヨタヨタと汗まみれの服を着てソファーに体を投げ出した。
「何か飲むか?」
「いや、今は要らない」
最初のサルベッサだけで充分に酔いが回っていた。空腹すぎて、胃が何も受け付けられない状態だった。ソファーに丸まっていると、このままスゥーッと意識が遠のく。今まさに幸せな気持ちで旅立とうとする瞬間、僕は強く揺さぶられてボックス・シートの現実に引き戻された。もう放っておいてくれ…。
大きく深呼吸をして体を起こすと、先程の小猫ちゃんが通路側から割り込んできた。僕達はベスト・パートナーだ、互いの健闘を称えあうように目線を交わす。小声で耳打ちされても、騒がしくて聞き取れないし言葉が理解出来ないんだってば。
「これから私とやれるけど、ペソでもドルでもいいわよ」
通訳してくれたトニーが(足りなきゃ貸すぞ)と背中を押した。ばかいえ! すげーシラケた。
(くされオヤジども!)…僕は胸の中で毒づいた。
あのオッサン共、勘定をゴマ化しやがって。20ペソづつ割り勘にしたら、一人分が足りない。なのに全員しらを切り、挙句はニヤニヤしながら「日本人は金持ちだから、それくらい払っておけよ」と言い出す始末。
そういう算段だったのかい…! 睡眠不足も手伝って目を三角にしていると、よせばいいのにトニーが余計に払ってしまった。それに引き換え、オッサン連中に啖呵の一つも切れない自分が情けない。
午前3時過ぎ。店の外でオッサン達と別れ、エドベンの車に乗り込む。明け方の薄闇に包まれた町並みに、クラクションを鳴らし調子よく手を振りながら散ってゆく車。
空腹で道化を演じてさ、疲れ切った上にカモられて…。まったく最悪な夜だ。
帰宅してから、トニーの提案でタコス屋台に繰り出した。
エドベンはガレージに車を入れると自室に直行したが、こっちは数時間後に出勤する彼と違って自由の身だ。第一このままフテ寝じゃあ気が済まない、それに腹も減っている。あそこでは、サルベッサ[ビール]とフルーツ数切れしか口にしていなかったのだ。
ガレージ・パーティの後でエドベンに連れて来てもらった場所が、こんな近所だったとは思わなかった。メルカドの少し先で横道を折れると、路肩に沿って数軒の屋台が並んでいた。週末だからなのか、この間よりは屋台の数が少し増えたようだ。前回に比べれば客も入ってるし、滅入った気分も忘れさせてくれる賑わい。
僕らは、今回も二個づつ食べた。性懲りもなく、チリサルサ・ソースをたっぷりかけて。会計係はヤサ男じゃなかったけれど、屋台のオヤジは同じ顔だ。だけど無愛想じゃなくて、僕らも自然と笑顔になった。
一体、僕は何をやっているんだろう? フラフラになって息を切らし、真夜中のストリップ小屋で素っ裸なのだ。男達の嫉妬と羨望が入り混じった視線に、訳もなく腹が立ってくる。これが傍目ほど気楽じゃないって事を、ちっとも解っちゃいないくせに! 誰が好き好んでやるもんか、けれども自分で踊った結果だけに心底うんざりしていた。
よろめきながら花道から降りようとする僕の腕を、またもや彼女が引っ張り返す。(もう付き合い切れねぇ、何があろうと知った事か!)とばかりに、その手を反射的に振り払った。ところが、総立ちになった客が僕を押し戻してくる。優勝者の「ごほうび」を観るまでは、僕を許さないらしい。冗談じゃあないぜ、今度ばかりは折れないからな。
「僕は眠りたい、それだけだ。他のサービスは何も要らない」
ステージ脇に立ったまま、僕は冷静にアピールした。だけど次第に押し問答になってきて、殺気立った気まずい雰囲気に。もういいじゃないか、僕を自由にしてくれよ…。
「勿体ないだろ、分からないのか? お前は素晴らしい(ごほうび)を貰えるんだぞ!」
僕はガックリ肩を落とし、回れ右をした。
そうする以外に、もはや僕の行き場所はなかったのだ。
(ごほうび)だからシャンパンでもくれるのかと思っていたら、照明が落とされて甘いバラードが流れ始めた。このムードにアクロバットは似合わないし、もうコンテストは終わったのだ。
小猫ちゃんは僕から離れて、ビキニのブラを外した。客席はどよめいたが、僕は軽い溜息をつく。こういうコトね…つまり僕に、じゃなく観客へのサービスかよ。しなだれかかる彼女の体は、例によって触れそうで触れない。いつの間にか後ろにパイプ椅子が置かれ、座り込む僕に覆いかぶさる姿勢で彼女は囁いた。
「私が動くから、じっとしていて」
スペイン語は解らない筈なのに、たしかに僕は理解した。ずっと集中して彼女の空気を読んでいたせいだ、そう彼女が言ったのは確かだった。
背もたれに体を預けていると、この心身の疲労が椅子から床に滴り落ちてゆくようだ。小猫ちゃんは、僕の胸に舌を這わせる振りをしている。客席の男達は、きっとカン違いしてるんだろうな。目を閉じていると、このまま眠れそう…。
ふと、彼女の気配が消えた。
うっすらと目を開けると、目の前に立った小猫ちゃんが、ゆっくりとビキニの腰ひもを解くのが見えた。
場内のボルテージは最高潮に達し、エドベンの同僚のオッサンは何事か口走りながらステージに上がろうとするのを周囲に押さえ付けられていた。ステージ・ライトが逆光となって、こちらから彼女の肢体は陰に隠れて見えない。
(まさかメキシコで〈まな板ショー〉か?!)
あらぬ想像が浮かび、眠気が消えた。彼女が僕に向かってくる。それにつれて、客席のうめき声にも似たざわめきが一段と大きくなった。いくら僕が「俎上の鯉」とはいえ「寝た子を起こすな」だ、こんな人前で起こされては堪ったもんじゃないぞ! 逃げ出したい気持ちと裏腹に、全身が重くて動けない。
小猫ちゃんは四つんばいで、僕の股間に顔をうずめた。しかし考えてみれば、僕に指一本触れさせようとはしなかったのにアレだけ…というのも辻褄が合わない。そして案の定、今度も触れてこなかった。
またもやお色気パントマイム、しかも今度は2人とも全裸だ。椅子に座った僕の上で、彼女は器用に体をくねらせていた。そして僕の手を取って自分の体をまさぐらせるが、やはり背中から脇腹止まりだ。どうでもいいのに、なぜか僕まで恍惚の演技をしてしまう。
僕の肩に掛かった太ももの谷間から、股間がせり上がってくる。熱帯の花の荒い息遣いを感じつつも、薄暗がりの中で判然としない。彼女がどんな体勢でいるのか不思議だったが、頭を両脚で挟まれているのだ。
結局は彼女の好きなように翻弄されているのに、どこか共同作業の感覚があった。だが所詮は小猫ちゃんのステージであって、僕は小道具の一種でしかなかった。彼女が全身を密着させるようなグラインドを始めると、陰毛の微風が鼻をくすぐった。
それが(ごほうびショー)のクライマックスで、やっと解放された僕はヨタヨタと汗まみれの服を着てソファーに体を投げ出した。
「何か飲むか?」
「いや、今は要らない」
最初のサルベッサだけで充分に酔いが回っていた。空腹すぎて、胃が何も受け付けられない状態だった。ソファーに丸まっていると、このままスゥーッと意識が遠のく。今まさに幸せな気持ちで旅立とうとする瞬間、僕は強く揺さぶられてボックス・シートの現実に引き戻された。もう放っておいてくれ…。
大きく深呼吸をして体を起こすと、先程の小猫ちゃんが通路側から割り込んできた。僕達はベスト・パートナーだ、互いの健闘を称えあうように目線を交わす。小声で耳打ちされても、騒がしくて聞き取れないし言葉が理解出来ないんだってば。
「これから私とやれるけど、ペソでもドルでもいいわよ」
通訳してくれたトニーが(足りなきゃ貸すぞ)と背中を押した。ばかいえ! すげーシラケた。
(くされオヤジども!)…僕は胸の中で毒づいた。
あのオッサン共、勘定をゴマ化しやがって。20ペソづつ割り勘にしたら、一人分が足りない。なのに全員しらを切り、挙句はニヤニヤしながら「日本人は金持ちだから、それくらい払っておけよ」と言い出す始末。
そういう算段だったのかい…! 睡眠不足も手伝って目を三角にしていると、よせばいいのにトニーが余計に払ってしまった。それに引き換え、オッサン連中に啖呵の一つも切れない自分が情けない。
午前3時過ぎ。店の外でオッサン達と別れ、エドベンの車に乗り込む。明け方の薄闇に包まれた町並みに、クラクションを鳴らし調子よく手を振りながら散ってゆく車。
空腹で道化を演じてさ、疲れ切った上にカモられて…。まったく最悪な夜だ。
帰宅してから、トニーの提案でタコス屋台に繰り出した。
エドベンはガレージに車を入れると自室に直行したが、こっちは数時間後に出勤する彼と違って自由の身だ。第一このままフテ寝じゃあ気が済まない、それに腹も減っている。あそこでは、サルベッサ[ビール]とフルーツ数切れしか口にしていなかったのだ。
ガレージ・パーティの後でエドベンに連れて来てもらった場所が、こんな近所だったとは思わなかった。メルカドの少し先で横道を折れると、路肩に沿って数軒の屋台が並んでいた。週末だからなのか、この間よりは屋台の数が少し増えたようだ。前回に比べれば客も入ってるし、滅入った気分も忘れさせてくれる賑わい。
僕らは、今回も二個づつ食べた。性懲りもなく、チリサルサ・ソースをたっぷりかけて。会計係はヤサ男じゃなかったけれど、屋台のオヤジは同じ顔だ。だけど無愛想じゃなくて、僕らも自然と笑顔になった。
メキシコ旅情【郷愁編・5 ブラジリアン】
堪らなく眠いのに、トニーに起こされた。全身が筋肉痛で、錆び付いたように身動きひとつ出来ない。やっとの事で簡易ベッドから半身を起こす、それだけでもかなりつらい。
「サワー・マッスルは、体を動かさなきゃ治らないよ」…確かにな。
もう昼過ぎで、さすがに腹も減っていた。呻き声を上げながら立ち上がり、ひざをガクガクさせながらシャワーを浴びる。昨夜の出来事が、映像の断片になって脳裏によみがえった。チキン・ダンスを長々と踊ったせいか、筋肉痛は背中が特にひどかった。
トニーに連れ出され、夕飯の買い出しに。
「ママ達に、何か日本的な食事を御馳走しよう。いつもコミーダを食べているお礼に」
名案だ。そして、そう言われちゃあ毎日ママに食べさせてもらっている僕が寝ている訳にはいかないわな。彼の話では、ちょっと歩いた所に持ち帰りの寿司屋があるという。
ほほう…。それって、ぐるぐる回ったりするの?
いつもと違う空だった。珍しく薄曇りで、一雨来そうな気配。
カンクンの空は快晴かジュビアの両極端で、こういった半端な空模様は初めてだ。風は心地よく、照りつける陽射しもないので却って過ごし易い。生暖かな風は入梅の匂いを想い出させるが、それは冬に思い浮かべる夏のようにセンチメンタルだ。暑いばかりの毎日に、実は飽きていたのかも知れない。
トニーはセントロに出ると、繁華街を素通りして更に進む。石畳の歩道をひたすらまっすぐ歩き、そこから僕の土地勘が及ばなくなってきた。しかし地理感覚が正しければ、この先をずっと行けば飛行場がある筈だ。
ビルの上から水滴が…と思ったら、次第にポツポツと降り出してきた。妙に遠慮がちなジュビアは優しく降り注ぎ、町は溶けあうように淡く発光している。しばらくビルの軒先で雨宿りしたものの、いつもと違って数分で止む様子もない。雨足が、いくらか弱まったところで再び歩き出した。
やがて、トニーが右側を指して言った。
「ここがグラシエラとビアネの働いている病院だよ」
それは雑居ビルにさえ見える地味な建物で、もう一度この道を通っても見過ごしてしまうだろう。すでに町並みはセントロから外れて、アパートメントなのかオフィスなのか判別が難しい建物が続く。ずいぶんと歩いたな、ここから引き返しても一人じゃ帰り着ける自信がない。
「もう少し行けばエレーナのアパートがある。ちょっと立ち寄っていこう」
彼女は、トニーのスペイン語の家庭教師だ。
「ついでに、店までの道順を聞いてみよう」…って、道を知らずに歩いていたのかよ!
エレーナが住んでいるのは三階建のアパートで、幅広な石畳の歩道と庭先の芝生を街灯がみずみずしく照らしている。
建物の内部は暗く、湿ったコンクリートの匂いがする。トニーは先頭に立ち、廊下の奥で部屋番号を確かめてからドアを叩いた。間を置いて乱暴に扉が開き、何故かマッチョ系の大男が顔を突き出した。げっ、ヤバイかも…! 僕は瞬時に、逐電スタンバイ状態。
「トニーなの?」
中から声がして、駆け寄ってくる足音。エレーナの強烈なハグに出迎えられ、面食らいながらもホッとする。ボーイフレンドも打って変わった笑顔で、僕らと力強い握手を交わした。きっと来客の予定もないのに誰かがドアをノックしたので、彼もピリピリしちゃったのだろう。
エレーナはベランダを背にしたソファに沈み込むと、僕らに「楽にしてね」というようなことを言った。
部屋の天井が高く、玄関からテラスまでの二間が素通しになっているので採光性が生かされている。応接セットの他に家具はほとんどなくて、空間の使い方がリッチで開放的な部屋作りだと思う。
グラシエラ達やエドベンの、メキシコ人が暮らしている部屋の持つニュアンスとは全然ちがう。こういうのって、ブラジル人的感覚なのだろうか? かといって、タチアナ達の家とも別だが。
タチアナやビクトール達の家には、ジョアンナの賞金サギの一件で行った。くすんだ壁紙と使い込んでボロボロのアンティークっぽい調度品、乱雑なクッションとガラクタ…。故郷で暮らしていけなくなって移住してきたというから、ブラジル出身というだけで同一視できる訳もないか。
ふと僕は、ファビオラの顔を思い出した。神秘的で伏せ目がちな感じの、薄幸の美少女だ。くすんだブラウス、磨かれていない革靴、それ以上に恥ずかしいくらいドキドキしてしまったのは…。彼女にハグをして初めて、シャワーを浴びられない貧しさというのを感じたからだ。
ファビオラは学校に通うために、移住した親類の家に身を寄せているのだそうだ。ブラジルでも相当貧しい家庭に育ち、今の居候先でも彼女を養うだけで手一杯なのだという。決して陽気とはいえないけど、凛とした立ち方とあの微笑は美しい。
トニーとエレーナが話している間に、僕は熟睡しそうだった。今から彼女の友人達が遊びに来るというから、よい潮時だ。彼女とのハグとボーイフレンドの握手に送られ、僕らは通りに戻った。
ブラジル人とメキシコ人のハグは、何となく違うと思う。
エレーナ達は、豪快だ。こちらが気後れする程の明るさで気持ち良い。「セニョール・フロッグ」で逢った、エレーナの(ホルモン系の)友達なんか、頬骨がぶつかりあう位の勢いだったからな。
それに比べるとメキシコ人は、どこか板に着いていない気恥ずかしさがあるような。そっと抱き合うみたいで、若干エッチくさい感じがして照れ臭くなる。それはそれで好きなのだけど。また国内でも、中央メキシコ出身のビアネイ達とマヤ系のヘセラとでは何かまた別の違いがある気がする。
それは決して、僕がヘセラに特別な感情を抱いているせいでは無い。…と思う。
トニーがメキシコに来たのは、エドベンがいるという理由の他に(スペイン語をマスターする)という目的があったらしい。いつだか、彼は言った。
「世界じゅうの国々でもっとも話されている言葉は、何だと思う?」
そりゃあ、英語でしょ。
「だとすれば、スペイン語はその次だ。スペイン語を使う国は、英語より多いよ」
なるほど、アメリカでも英語を知らないヒスパニック人口が急増していると聞く。英語とスペイン語があれば、仕事の幅が拡がるもんね。それにトニーは、フランス語も中国語も出来る。人は見かけによらぬもの(?)だ。
今、彼は家庭教師を頼んでスペイン語を習っているが、発音と文法には手を焼いているらしい。動詞の変化形を覚えるのは大変そうだが、発音の仕方は日本語に近いのだそうだ。エドベンのママが言っていた「あなたの発音は良い」というのは、あながちお世辞ばかりでもなかったようだ。
「サワー・マッスルは、体を動かさなきゃ治らないよ」…確かにな。
もう昼過ぎで、さすがに腹も減っていた。呻き声を上げながら立ち上がり、ひざをガクガクさせながらシャワーを浴びる。昨夜の出来事が、映像の断片になって脳裏によみがえった。チキン・ダンスを長々と踊ったせいか、筋肉痛は背中が特にひどかった。
トニーに連れ出され、夕飯の買い出しに。
「ママ達に、何か日本的な食事を御馳走しよう。いつもコミーダを食べているお礼に」
名案だ。そして、そう言われちゃあ毎日ママに食べさせてもらっている僕が寝ている訳にはいかないわな。彼の話では、ちょっと歩いた所に持ち帰りの寿司屋があるという。
ほほう…。それって、ぐるぐる回ったりするの?
いつもと違う空だった。珍しく薄曇りで、一雨来そうな気配。
カンクンの空は快晴かジュビアの両極端で、こういった半端な空模様は初めてだ。風は心地よく、照りつける陽射しもないので却って過ごし易い。生暖かな風は入梅の匂いを想い出させるが、それは冬に思い浮かべる夏のようにセンチメンタルだ。暑いばかりの毎日に、実は飽きていたのかも知れない。
トニーはセントロに出ると、繁華街を素通りして更に進む。石畳の歩道をひたすらまっすぐ歩き、そこから僕の土地勘が及ばなくなってきた。しかし地理感覚が正しければ、この先をずっと行けば飛行場がある筈だ。
ビルの上から水滴が…と思ったら、次第にポツポツと降り出してきた。妙に遠慮がちなジュビアは優しく降り注ぎ、町は溶けあうように淡く発光している。しばらくビルの軒先で雨宿りしたものの、いつもと違って数分で止む様子もない。雨足が、いくらか弱まったところで再び歩き出した。
やがて、トニーが右側を指して言った。
「ここがグラシエラとビアネの働いている病院だよ」
それは雑居ビルにさえ見える地味な建物で、もう一度この道を通っても見過ごしてしまうだろう。すでに町並みはセントロから外れて、アパートメントなのかオフィスなのか判別が難しい建物が続く。ずいぶんと歩いたな、ここから引き返しても一人じゃ帰り着ける自信がない。
「もう少し行けばエレーナのアパートがある。ちょっと立ち寄っていこう」
彼女は、トニーのスペイン語の家庭教師だ。
「ついでに、店までの道順を聞いてみよう」…って、道を知らずに歩いていたのかよ!
エレーナが住んでいるのは三階建のアパートで、幅広な石畳の歩道と庭先の芝生を街灯がみずみずしく照らしている。
建物の内部は暗く、湿ったコンクリートの匂いがする。トニーは先頭に立ち、廊下の奥で部屋番号を確かめてからドアを叩いた。間を置いて乱暴に扉が開き、何故かマッチョ系の大男が顔を突き出した。げっ、ヤバイかも…! 僕は瞬時に、逐電スタンバイ状態。
「トニーなの?」
中から声がして、駆け寄ってくる足音。エレーナの強烈なハグに出迎えられ、面食らいながらもホッとする。ボーイフレンドも打って変わった笑顔で、僕らと力強い握手を交わした。きっと来客の予定もないのに誰かがドアをノックしたので、彼もピリピリしちゃったのだろう。
エレーナはベランダを背にしたソファに沈み込むと、僕らに「楽にしてね」というようなことを言った。
部屋の天井が高く、玄関からテラスまでの二間が素通しになっているので採光性が生かされている。応接セットの他に家具はほとんどなくて、空間の使い方がリッチで開放的な部屋作りだと思う。
グラシエラ達やエドベンの、メキシコ人が暮らしている部屋の持つニュアンスとは全然ちがう。こういうのって、ブラジル人的感覚なのだろうか? かといって、タチアナ達の家とも別だが。
タチアナやビクトール達の家には、ジョアンナの賞金サギの一件で行った。くすんだ壁紙と使い込んでボロボロのアンティークっぽい調度品、乱雑なクッションとガラクタ…。故郷で暮らしていけなくなって移住してきたというから、ブラジル出身というだけで同一視できる訳もないか。
ふと僕は、ファビオラの顔を思い出した。神秘的で伏せ目がちな感じの、薄幸の美少女だ。くすんだブラウス、磨かれていない革靴、それ以上に恥ずかしいくらいドキドキしてしまったのは…。彼女にハグをして初めて、シャワーを浴びられない貧しさというのを感じたからだ。
ファビオラは学校に通うために、移住した親類の家に身を寄せているのだそうだ。ブラジルでも相当貧しい家庭に育ち、今の居候先でも彼女を養うだけで手一杯なのだという。決して陽気とはいえないけど、凛とした立ち方とあの微笑は美しい。
トニーとエレーナが話している間に、僕は熟睡しそうだった。今から彼女の友人達が遊びに来るというから、よい潮時だ。彼女とのハグとボーイフレンドの握手に送られ、僕らは通りに戻った。
ブラジル人とメキシコ人のハグは、何となく違うと思う。
エレーナ達は、豪快だ。こちらが気後れする程の明るさで気持ち良い。「セニョール・フロッグ」で逢った、エレーナの(ホルモン系の)友達なんか、頬骨がぶつかりあう位の勢いだったからな。
それに比べるとメキシコ人は、どこか板に着いていない気恥ずかしさがあるような。そっと抱き合うみたいで、若干エッチくさい感じがして照れ臭くなる。それはそれで好きなのだけど。また国内でも、中央メキシコ出身のビアネイ達とマヤ系のヘセラとでは何かまた別の違いがある気がする。
それは決して、僕がヘセラに特別な感情を抱いているせいでは無い。…と思う。
トニーがメキシコに来たのは、エドベンがいるという理由の他に(スペイン語をマスターする)という目的があったらしい。いつだか、彼は言った。
「世界じゅうの国々でもっとも話されている言葉は、何だと思う?」
そりゃあ、英語でしょ。
「だとすれば、スペイン語はその次だ。スペイン語を使う国は、英語より多いよ」
なるほど、アメリカでも英語を知らないヒスパニック人口が急増していると聞く。英語とスペイン語があれば、仕事の幅が拡がるもんね。それにトニーは、フランス語も中国語も出来る。人は見かけによらぬもの(?)だ。
今、彼は家庭教師を頼んでスペイン語を習っているが、発音と文法には手を焼いているらしい。動詞の変化形を覚えるのは大変そうだが、発音の仕方は日本語に近いのだそうだ。エドベンのママが言っていた「あなたの発音は良い」というのは、あながちお世辞ばかりでもなかったようだ。
メキシコ旅情【郷愁編・6 偶像崇拝…?】
カンクンの外れ、まるで都営住宅のような団地にやって来た。
道路を挟んだ向かい側に、目的地の「スシ・マニア」があった。こじんまりとした店構えは、繁盛してないファーストフード店にも見えるが…。何故か宇宙空間と化した店の壁を、ヒップホップ調で巨大な原色スプレーの「握り」が飛び交っている!
ク、クレイジー〜!
空いた口がふさがらない、いくら異郷の風土料理とはいえ…。これでは食欲がもんどり打ってしまう、というか日本人を悶絶させるつもりか?!
ガラス張りの店内は、白いプラスチック製の丸テーブルと椅子が置かれている。カウンターもハンバーガー屋っぽい造りで、メニューがスペイン語なのでトニーに注文を任せた。
「それじゃあ、アボカドにクリーム・チーズに…」
それを聞いていた僕は慌てて、彼をさえぎった。
「ちょっと待って、そんなの寿司じゃないよ!」
「いやこれが美味いんだよ、ビックリするから」
もう充分ビックリしたから、せめてママ達には日本らしいスシを頼んでくれよ。そんな訳分かんないニッポンはダメ〜!
「だって、ここにサシミはないよ」
おいおい、冗談だろ〜? 壁に描かれた不気味な握りの大群は、それじゃあ一体なんのつもりだよ?
「残念だけど、サシミ以外ならあるから」…って、それじゃ寿司ネタ全部ないじゃーん!
ひどい、ここでは得体の知れない物を海苔で巻いて「スシ」と称して売っているのだ。奥の調理場で、メキシコ人が慣れない手つきでスノコを使って巻物をこしらえてる。あれじゃあ料理教室だよー、なんか刹那くなってきた。
そして段々と、自分のバックグラウンドを茶化されているみたいな気分になってきた。背広にチョンマゲとか、玄関入るとドラが鳴るとか、それと似たような方法で僕がママ達に日本の文化を紹介するのか…? それは、ちょっと違うだろう。
代金はトニーが支払ったが、この辺の物価にしては決して安いと言えない額だったようだ。確かに安価に流通する食材ではないだろうし、輸入物も使うのだろうけど。
テイク・アウトを待つ間、何組か親子連れが入って来てテーブルに着いた。
僕もあんなふうにして、近くの町に初めてハンバーガー・ショップが出来た頃は家族に連れられてきたものだ。父親の満足げな表情、戸惑い交じりの晴れやかな顔をした母親。もちろん嬉しくて仕方無さそうな子供たちにとっても、時折の休日に家族で外食するのは特別の行事なのだろう。
でも…、でもそれはスシじゃあな〜いっ!!
空にはいつもの晴れ間が戻っていた。いつになく強い風が、停滞してた湿気を追い払ってゆく。
帰り道、僕らはセントロで「バーガー・キング」に入った。迷わず(ワッパー×2+ハラペーニョ山盛り)を選ぶ。考えてみれば、二人とも朝から何も食べていなかった。大体、あの「スシ・メニア」の内装を見たら食欲も引っ込むっての。
店内は活気づいているが通りの人影はまばらで、目抜き通りの角に面した広い窓からは脇道の様子が見える。トニーが、向かい側の小さなカメラ屋を目線で示して日本語で言った。
「あの娘、ちょっと良くない?」
少し奥に引っ込んだカウンターから出てきた女のコが、風にあおられた看板を直そうとしていた。ショート・パンツから伸びた素足が、何といいますか、健全なお色気であります。
「うーん。顔はノーマルだけど、あの脚が良いねぇー。」
わざと話に無関係なジェスチャーをして、呑気に品定めをする下世話なオッサン二人。店を出た僕たちは何気ない顔で、初めて気が付いたふりをして「おっ、こんな所にカメラ屋さんが?」と店内をのぞき込む。
女のコは最初、怪訝そうな目をしていた。しかし僕らが親しげに、イノセントな笑顔で声を掛けると…ほぉら、彼女もニッコリした! 自己紹介をして、他愛ない話をして打ちとけた後で手を振って別れた。
「ま、今日はこんなモンでしょ。」とか言って、いい気なもんだ。
「可愛いねー、今度からここに写真を出そう。」
僕たちは、その脇道を通り抜けて家に戻る事にした。これからセントロに来る時は、この脇道を通って来よう。昼の陽差しに眠りこけた場末の居酒屋とか、ちょっとヤバそうな顔の土産物屋が店を連ねている。明るいうちなら僕にも横切れそうな、生活感がある裏道の雰囲気は少しゾクゾクして良い感じ。
脇道をまっすぐ抜けると、映画館と教会に挟まれた公園があった。その先を行けば郵便局が見えてくる、ここはもう見知った一角だ。
公園の隅にある教会グッズの店が気になって、ちょっとのぞいてみた。結構ユーモラスだったりグロテスクだったりする、カトリック的な聖人を模したイコン(偶像)たち。僕の(神は信仰の対象であって、茶々を入れたりするもんじゃない)という思い込みと裏腹に、店で売られる像にはどこか人懐っこく庶民的なノリが感じられた。ラテン系カトリック?
ビアネイ達の部屋やエドベンの部屋なんかにも、肖像画やイコンや聖書があったりするのを見た。実際に祈りを捧げたり、教会に通っている姿を見たことは一回もないが…。メキシコはカトリックが広く信じられていると聞いていたけれど、熱心な教徒がいるのかは別問題なのかもなぁ。
それともマヤの誇りを受け継いでいる人々にとって、所詮は押し付けられた外来宗教でしかないのか…。その辺はどうなんだろう?
夕食は、とてもおかしなものになった。テーブルの上に(怪しげなスシ)が並べられ、それを囲んだ一同が興味津々といた面持ちで見入っている。
エドベンとトニーが、スペイン語で何やら前置きを話していた。細かい部分については僕に確認を求めて解説し、ママ達はそれを聞いて感心したように頷いている。日本の食文化について、寿司について、箸について等々…多分そういった説明なんだろう。
僕は口を挟まないで座っていたけど、本心では「この食べ物は、日本と何の関係もありませーん!」と言いたくてウズウズしていた。
そして、合掌。それを見たママは、キリスト教の食前の祈りを連想して感激していた。おごそかに神妙に、日本食の夕ごはんになる。
みんな使い慣れない箸に悪戦苦闘しながらも、スシの味はすこぶる好評だった。みんなの称賛を耳にするたび、心はグルグルしてくる。僕は二切れ食べて箸を置いてしまった。残念ながら、僕には口に合わない。寿司だと思ったら吐き出したくなるが、現地料理だと思えば気持ち良く食べられる。そういう類いの代物だった。
エドベンとトニーの〈外部の目を通した日本〉が、更にママ達なりの解釈をされてゆく過程は興味深いと思う。換骨奪胎、黄身のない玉子みたいだ。しかも、この場での僕は偶像としての日本人だった。
もし異国の伝道師が死んだ後、自分の教えがトンチンカンに広まってゆく様子を目にしたら…。きっと同じようなニュアンスを味わうのだろう。
買ってきた「スシ」だけでは、全員で分けるには量が少なかったようだ。もちろん僕も満腹には程遠いけど、何か割り切れない嫌悪感のほうが先に立ってしまった。今迄で一番、口に合わなかった食事だ。ごちそうさまと手を合わせつつ、複雑な心境だった。
道路を挟んだ向かい側に、目的地の「スシ・マニア」があった。こじんまりとした店構えは、繁盛してないファーストフード店にも見えるが…。何故か宇宙空間と化した店の壁を、ヒップホップ調で巨大な原色スプレーの「握り」が飛び交っている!
ク、クレイジー〜!
空いた口がふさがらない、いくら異郷の風土料理とはいえ…。これでは食欲がもんどり打ってしまう、というか日本人を悶絶させるつもりか?!
ガラス張りの店内は、白いプラスチック製の丸テーブルと椅子が置かれている。カウンターもハンバーガー屋っぽい造りで、メニューがスペイン語なのでトニーに注文を任せた。
「それじゃあ、アボカドにクリーム・チーズに…」
それを聞いていた僕は慌てて、彼をさえぎった。
「ちょっと待って、そんなの寿司じゃないよ!」
「いやこれが美味いんだよ、ビックリするから」
もう充分ビックリしたから、せめてママ達には日本らしいスシを頼んでくれよ。そんな訳分かんないニッポンはダメ〜!
「だって、ここにサシミはないよ」
おいおい、冗談だろ〜? 壁に描かれた不気味な握りの大群は、それじゃあ一体なんのつもりだよ?
「残念だけど、サシミ以外ならあるから」…って、それじゃ寿司ネタ全部ないじゃーん!
ひどい、ここでは得体の知れない物を海苔で巻いて「スシ」と称して売っているのだ。奥の調理場で、メキシコ人が慣れない手つきでスノコを使って巻物をこしらえてる。あれじゃあ料理教室だよー、なんか刹那くなってきた。
そして段々と、自分のバックグラウンドを茶化されているみたいな気分になってきた。背広にチョンマゲとか、玄関入るとドラが鳴るとか、それと似たような方法で僕がママ達に日本の文化を紹介するのか…? それは、ちょっと違うだろう。
代金はトニーが支払ったが、この辺の物価にしては決して安いと言えない額だったようだ。確かに安価に流通する食材ではないだろうし、輸入物も使うのだろうけど。
テイク・アウトを待つ間、何組か親子連れが入って来てテーブルに着いた。
僕もあんなふうにして、近くの町に初めてハンバーガー・ショップが出来た頃は家族に連れられてきたものだ。父親の満足げな表情、戸惑い交じりの晴れやかな顔をした母親。もちろん嬉しくて仕方無さそうな子供たちにとっても、時折の休日に家族で外食するのは特別の行事なのだろう。
でも…、でもそれはスシじゃあな〜いっ!!
空にはいつもの晴れ間が戻っていた。いつになく強い風が、停滞してた湿気を追い払ってゆく。
帰り道、僕らはセントロで「バーガー・キング」に入った。迷わず(ワッパー×2+ハラペーニョ山盛り)を選ぶ。考えてみれば、二人とも朝から何も食べていなかった。大体、あの「スシ・メニア」の内装を見たら食欲も引っ込むっての。
店内は活気づいているが通りの人影はまばらで、目抜き通りの角に面した広い窓からは脇道の様子が見える。トニーが、向かい側の小さなカメラ屋を目線で示して日本語で言った。
「あの娘、ちょっと良くない?」
少し奥に引っ込んだカウンターから出てきた女のコが、風にあおられた看板を直そうとしていた。ショート・パンツから伸びた素足が、何といいますか、健全なお色気であります。
「うーん。顔はノーマルだけど、あの脚が良いねぇー。」
わざと話に無関係なジェスチャーをして、呑気に品定めをする下世話なオッサン二人。店を出た僕たちは何気ない顔で、初めて気が付いたふりをして「おっ、こんな所にカメラ屋さんが?」と店内をのぞき込む。
女のコは最初、怪訝そうな目をしていた。しかし僕らが親しげに、イノセントな笑顔で声を掛けると…ほぉら、彼女もニッコリした! 自己紹介をして、他愛ない話をして打ちとけた後で手を振って別れた。
「ま、今日はこんなモンでしょ。」とか言って、いい気なもんだ。
「可愛いねー、今度からここに写真を出そう。」
僕たちは、その脇道を通り抜けて家に戻る事にした。これからセントロに来る時は、この脇道を通って来よう。昼の陽差しに眠りこけた場末の居酒屋とか、ちょっとヤバそうな顔の土産物屋が店を連ねている。明るいうちなら僕にも横切れそうな、生活感がある裏道の雰囲気は少しゾクゾクして良い感じ。
脇道をまっすぐ抜けると、映画館と教会に挟まれた公園があった。その先を行けば郵便局が見えてくる、ここはもう見知った一角だ。
公園の隅にある教会グッズの店が気になって、ちょっとのぞいてみた。結構ユーモラスだったりグロテスクだったりする、カトリック的な聖人を模したイコン(偶像)たち。僕の(神は信仰の対象であって、茶々を入れたりするもんじゃない)という思い込みと裏腹に、店で売られる像にはどこか人懐っこく庶民的なノリが感じられた。ラテン系カトリック?
ビアネイ達の部屋やエドベンの部屋なんかにも、肖像画やイコンや聖書があったりするのを見た。実際に祈りを捧げたり、教会に通っている姿を見たことは一回もないが…。メキシコはカトリックが広く信じられていると聞いていたけれど、熱心な教徒がいるのかは別問題なのかもなぁ。
それともマヤの誇りを受け継いでいる人々にとって、所詮は押し付けられた外来宗教でしかないのか…。その辺はどうなんだろう?
夕食は、とてもおかしなものになった。テーブルの上に(怪しげなスシ)が並べられ、それを囲んだ一同が興味津々といた面持ちで見入っている。
エドベンとトニーが、スペイン語で何やら前置きを話していた。細かい部分については僕に確認を求めて解説し、ママ達はそれを聞いて感心したように頷いている。日本の食文化について、寿司について、箸について等々…多分そういった説明なんだろう。
僕は口を挟まないで座っていたけど、本心では「この食べ物は、日本と何の関係もありませーん!」と言いたくてウズウズしていた。
そして、合掌。それを見たママは、キリスト教の食前の祈りを連想して感激していた。おごそかに神妙に、日本食の夕ごはんになる。
みんな使い慣れない箸に悪戦苦闘しながらも、スシの味はすこぶる好評だった。みんなの称賛を耳にするたび、心はグルグルしてくる。僕は二切れ食べて箸を置いてしまった。残念ながら、僕には口に合わない。寿司だと思ったら吐き出したくなるが、現地料理だと思えば気持ち良く食べられる。そういう類いの代物だった。
エドベンとトニーの〈外部の目を通した日本〉が、更にママ達なりの解釈をされてゆく過程は興味深いと思う。換骨奪胎、黄身のない玉子みたいだ。しかも、この場での僕は偶像としての日本人だった。
もし異国の伝道師が死んだ後、自分の教えがトンチンカンに広まってゆく様子を目にしたら…。きっと同じようなニュアンスを味わうのだろう。
買ってきた「スシ」だけでは、全員で分けるには量が少なかったようだ。もちろん僕も満腹には程遠いけど、何か割り切れない嫌悪感のほうが先に立ってしまった。今迄で一番、口に合わなかった食事だ。ごちそうさまと手を合わせつつ、複雑な心境だった。
メキシコ旅情【郷愁編・7 炎天下】
これから皆で「サムズ・クラブ」に行くという。
僕は(今日こそ両替しなくちゃ!)と思ってたのに、なぜか強制的に連れて行かれた。銀行は早めに行かないと閉まっちゃうから、会員制のスーパーマーケットなんて付き合ってるヒマはないんだが…。結局は今回も、トニーの執拗さに押し切られちまった。
エドベンの運転する青いゴルフ、またもや僕は後部座席でグラシエラとビアネイの間に片尻座りで腰を浮かす。
メルカドの前に出ると、セントロの方とは逆方向に進む。絶好のドライブ日和だ、けれど窓から入る風だけじゃあ解消されない蒸し暑さだ。流れる汗で、Tシャツがシートに張り付く。しばらく走ると、中央分離帯の木陰を抜け出て青空が開けた。
思わず「ほぇー」と声が出た。何と言っても、土地の違いが大きい。建物の面積よりも駐車場が広過ぎて、ガラ空きなのかと勘違いする程だ。工場のようなプレハブの店舗が、向こうのほうに建っている。
この「サムズ・クラブ」は、登録した人だけが買い物できる安売り店なのだそうだ。東京近郊でも、同じように空き倉庫を使ったスーパーが続々と登場していた。もっとも、食料品から家具まで幅広く揃えたスケールは比べ物にならない。
店内は、金属製の巨大な棚いっぱいに商品が並んでいる。まるで物流倉庫だ、フォークリフトを入れなければ積み上げられないだろう。家具類のコーナーでは、天井高くに組み立て見本品がワイヤー吊りされている。
「こんだけ広いと、皆とはぐれたら二度と会えないかもね…」
僕はトニーにそう言いながら、呆気に取られて商品の峡谷を歩いていった。背の丈を越す冷凍庫の中に、業務用にしか見えないパッケージがずらりと並ぶ。これだけ豊富なメニューなら飽きることもないだろう、そして何でも冷凍食品化してしまえるんだな。
人間とは、実にいろんな物を必要としているなぁ。
僕は時々はぐれそうになったりしながら、何も買わずに皆に付いて歩いた。逆にスカンピンで来たおかげで、余計な衝動買いをしないで済んだのかもしれない。
あれ、レジの女のコ…知ってる顔だよなぁ? そう思ってたら、グラシエラが大声で笑いながら手を取り合っていた。そうだ、クラウディアだ。一緒に海水浴に行った、グラシエラの英語学校のクラスメイト。
彼女と目が合うと、僕を覚えているようだ。「やあ」と言って小さく手を振ってみせると、クラウディアはにっこりした。きゃしゃで、物静かな女性だ。ゲラゲラ笑ってるグラシエラが元気すぎるのか。彼女がここで働いているのを知らない訳でもないだろうに、まるで古い親友に出くわしたかのような大騒ぎで。どこの若い女性も、こういう動作は基本なのかね。
買い物をカートに山積みにして、広大な駐車場を横切って行く。
炎天下、アスファルトの照り返す熱気で目まいがしそうになる。店内はひんやりと肌寒いくらいだったのに、外気が一足飛びに上昇するのだ。みんな、よく平気そうにしていられるよ。閉め切っていた車にギュウギュウ乗り込むと、あんまり蒸し暑いので胸クソ悪くなる。初日以来の暑気あたりだ。それでも大分この気候に慣れたのか、すぐに回復してきた。
家に着くなり、ママの注いでくれたコーラを一気に飲み干す。
書棚の前のソファーに転がっていたギターを手に取ると、2弦が切れてチューニングが狂っていた。月蝕の日にディエゴが何処かから持ってきたけれど、持ち主はママも知らない様子。それにしても所有者に断りもなく弾いて、その上ほったらかしで弦が切れたなんて申し訳なさ過ぎる。
階段を上がってグラシエラとビアネイの部屋に行く。トニーも案の定そこにいて、僕は彼に楽器屋さんの場所を知らないか訊ねた。
「多分、あそこに楽器屋さんがあったと思うわ」
グラシエラが言って、腰掛けていたベッドから降りた。
「私ヒマだから一緒に行くわ。いい?」
グラシエラは楽しそうな笑みを浮かべて、バッグを肩に掛けている。
「先に銀行に行ってからだよ。じゃあ、急ごう」
僕は振り向きもせずに返事をして、両替の事以外は頭から追い払う。急いで部屋に戻ると、戸棚から財布を出してT/Cを切り取った。もう昼になろうとしている、もたもたしてはいられないのだ。早足でセントロへ。
両替窓口は奥にあり、珍しく行列が出来ていた。
並んでいるのは2、3人だったけれど、思ったよりも時間が掛かった。列の後ろに並んで裏書きを済ませる間にも、列は微動だにしない。
自分の番になった。今日の担当者もまた、不機嫌そうな面構えだ。透明プラスチックの仕切りから、僕はT/Cをくぐらせた。男は引ったくるような勢いでそれを机に叩きつけ、まずは大きなため息を吐いてから仕事にかかった。良い気はしないけれど、こういう風習にも慣れてくるものだ。
彼は計算機を弾いて、伝票を書き込んでから席を立った。なかなかの体格だ、銀行員よりルチャ・リブレに向いてる…人相からして悪役レスラーだし。ともかく、無事に暮らしの糧を手にする事ができて一安心。今日の目的は達成されたから、あとは楽器屋だ。
楽器屋は案外と近所にあって、帰宅するついでに立ち寄れば良かった。
今まで店の前を通っていたのに、初めて気が付いた。表には看板もなく、肩幅しかない間口のガラスに小さなスペイン語が書かれているだけだもの。こりゃ見逃すわ、目立ちたくない理由でもあるのかい?
よく見るとそこに下がった札に「シエスタ」と書かれ、時計の絵が印刷されていた。針は1時から4時を指している…あと3時間半は休業中かよー? 考えてみれば、僕が動き出す時間にはいつも休業中だったのだ。これでは見過ごしてしまう筈だ。
仕方ないので時間潰しにメルカドをぶらつくか。
楽器屋の向かい側、郵便局の並びにレコード屋さんがあるのを見つけた。当然、その店も今は昼寝中だ。メルカドの周囲を歩いてみたけど、ことごとく居眠り中とは! ついてないなー、うだるような昼下がりにグラシエラだけが相も変わらず元気に喋って笑ってる。そんな彼女の受け答えをするのが、なぜだか苛々してきた。彼女の無邪気さが、今はただ気に障る。
行く手にソーダ・ファウンテンを見つけて、やっと僕は正気に戻りかけた。白く張り出したテントの下、ショーケースには色とりどりのシャーベットが…! なのに誰も居やしないから向かっ腹が立つ、まるでオアシスに辿り着いて「断水中」の立て札でも見ちまった気分だ。
もはや動く気もせず、ガーデンチェアにドッカリ腰を据えて待つ。不機嫌まるだしの僕に、さすがのグラシエラも黙り込んでしまった。心の中では申し訳ないと思っても、一々それを説明する気にはなれない。
しばらくすると、遠くからピンクと白の制服姿が近付いて来て、その少年がカウンターの中に潜り込んだ瞬間に僕は復活した。突如、元気ハツラツな笑顔でアイスの3段重ねにご満悦。グラシエラは僕の豹変ぶりに狼狽して、うっすらと愛想笑いを浮かべるばかりだった。
遠慮しなさんな、オレのおごりだってば!
僕は(今日こそ両替しなくちゃ!)と思ってたのに、なぜか強制的に連れて行かれた。銀行は早めに行かないと閉まっちゃうから、会員制のスーパーマーケットなんて付き合ってるヒマはないんだが…。結局は今回も、トニーの執拗さに押し切られちまった。
エドベンの運転する青いゴルフ、またもや僕は後部座席でグラシエラとビアネイの間に片尻座りで腰を浮かす。
メルカドの前に出ると、セントロの方とは逆方向に進む。絶好のドライブ日和だ、けれど窓から入る風だけじゃあ解消されない蒸し暑さだ。流れる汗で、Tシャツがシートに張り付く。しばらく走ると、中央分離帯の木陰を抜け出て青空が開けた。
思わず「ほぇー」と声が出た。何と言っても、土地の違いが大きい。建物の面積よりも駐車場が広過ぎて、ガラ空きなのかと勘違いする程だ。工場のようなプレハブの店舗が、向こうのほうに建っている。
この「サムズ・クラブ」は、登録した人だけが買い物できる安売り店なのだそうだ。東京近郊でも、同じように空き倉庫を使ったスーパーが続々と登場していた。もっとも、食料品から家具まで幅広く揃えたスケールは比べ物にならない。
店内は、金属製の巨大な棚いっぱいに商品が並んでいる。まるで物流倉庫だ、フォークリフトを入れなければ積み上げられないだろう。家具類のコーナーでは、天井高くに組み立て見本品がワイヤー吊りされている。
「こんだけ広いと、皆とはぐれたら二度と会えないかもね…」
僕はトニーにそう言いながら、呆気に取られて商品の峡谷を歩いていった。背の丈を越す冷凍庫の中に、業務用にしか見えないパッケージがずらりと並ぶ。これだけ豊富なメニューなら飽きることもないだろう、そして何でも冷凍食品化してしまえるんだな。
人間とは、実にいろんな物を必要としているなぁ。
僕は時々はぐれそうになったりしながら、何も買わずに皆に付いて歩いた。逆にスカンピンで来たおかげで、余計な衝動買いをしないで済んだのかもしれない。
あれ、レジの女のコ…知ってる顔だよなぁ? そう思ってたら、グラシエラが大声で笑いながら手を取り合っていた。そうだ、クラウディアだ。一緒に海水浴に行った、グラシエラの英語学校のクラスメイト。
彼女と目が合うと、僕を覚えているようだ。「やあ」と言って小さく手を振ってみせると、クラウディアはにっこりした。きゃしゃで、物静かな女性だ。ゲラゲラ笑ってるグラシエラが元気すぎるのか。彼女がここで働いているのを知らない訳でもないだろうに、まるで古い親友に出くわしたかのような大騒ぎで。どこの若い女性も、こういう動作は基本なのかね。
買い物をカートに山積みにして、広大な駐車場を横切って行く。
炎天下、アスファルトの照り返す熱気で目まいがしそうになる。店内はひんやりと肌寒いくらいだったのに、外気が一足飛びに上昇するのだ。みんな、よく平気そうにしていられるよ。閉め切っていた車にギュウギュウ乗り込むと、あんまり蒸し暑いので胸クソ悪くなる。初日以来の暑気あたりだ。それでも大分この気候に慣れたのか、すぐに回復してきた。
家に着くなり、ママの注いでくれたコーラを一気に飲み干す。
書棚の前のソファーに転がっていたギターを手に取ると、2弦が切れてチューニングが狂っていた。月蝕の日にディエゴが何処かから持ってきたけれど、持ち主はママも知らない様子。それにしても所有者に断りもなく弾いて、その上ほったらかしで弦が切れたなんて申し訳なさ過ぎる。
階段を上がってグラシエラとビアネイの部屋に行く。トニーも案の定そこにいて、僕は彼に楽器屋さんの場所を知らないか訊ねた。
「多分、あそこに楽器屋さんがあったと思うわ」
グラシエラが言って、腰掛けていたベッドから降りた。
「私ヒマだから一緒に行くわ。いい?」
グラシエラは楽しそうな笑みを浮かべて、バッグを肩に掛けている。
「先に銀行に行ってからだよ。じゃあ、急ごう」
僕は振り向きもせずに返事をして、両替の事以外は頭から追い払う。急いで部屋に戻ると、戸棚から財布を出してT/Cを切り取った。もう昼になろうとしている、もたもたしてはいられないのだ。早足でセントロへ。
両替窓口は奥にあり、珍しく行列が出来ていた。
並んでいるのは2、3人だったけれど、思ったよりも時間が掛かった。列の後ろに並んで裏書きを済ませる間にも、列は微動だにしない。
自分の番になった。今日の担当者もまた、不機嫌そうな面構えだ。透明プラスチックの仕切りから、僕はT/Cをくぐらせた。男は引ったくるような勢いでそれを机に叩きつけ、まずは大きなため息を吐いてから仕事にかかった。良い気はしないけれど、こういう風習にも慣れてくるものだ。
彼は計算機を弾いて、伝票を書き込んでから席を立った。なかなかの体格だ、銀行員よりルチャ・リブレに向いてる…人相からして悪役レスラーだし。ともかく、無事に暮らしの糧を手にする事ができて一安心。今日の目的は達成されたから、あとは楽器屋だ。
楽器屋は案外と近所にあって、帰宅するついでに立ち寄れば良かった。
今まで店の前を通っていたのに、初めて気が付いた。表には看板もなく、肩幅しかない間口のガラスに小さなスペイン語が書かれているだけだもの。こりゃ見逃すわ、目立ちたくない理由でもあるのかい?
よく見るとそこに下がった札に「シエスタ」と書かれ、時計の絵が印刷されていた。針は1時から4時を指している…あと3時間半は休業中かよー? 考えてみれば、僕が動き出す時間にはいつも休業中だったのだ。これでは見過ごしてしまう筈だ。
仕方ないので時間潰しにメルカドをぶらつくか。
楽器屋の向かい側、郵便局の並びにレコード屋さんがあるのを見つけた。当然、その店も今は昼寝中だ。メルカドの周囲を歩いてみたけど、ことごとく居眠り中とは! ついてないなー、うだるような昼下がりにグラシエラだけが相も変わらず元気に喋って笑ってる。そんな彼女の受け答えをするのが、なぜだか苛々してきた。彼女の無邪気さが、今はただ気に障る。
行く手にソーダ・ファウンテンを見つけて、やっと僕は正気に戻りかけた。白く張り出したテントの下、ショーケースには色とりどりのシャーベットが…! なのに誰も居やしないから向かっ腹が立つ、まるでオアシスに辿り着いて「断水中」の立て札でも見ちまった気分だ。
もはや動く気もせず、ガーデンチェアにドッカリ腰を据えて待つ。不機嫌まるだしの僕に、さすがのグラシエラも黙り込んでしまった。心の中では申し訳ないと思っても、一々それを説明する気にはなれない。
しばらくすると、遠くからピンクと白の制服姿が近付いて来て、その少年がカウンターの中に潜り込んだ瞬間に僕は復活した。突如、元気ハツラツな笑顔でアイスの3段重ねにご満悦。グラシエラは僕の豹変ぶりに狼狽して、うっすらと愛想笑いを浮かべるばかりだった。
遠慮しなさんな、オレのおごりだってば!
メキシコ旅情【郷愁編・8 ボンゴ、2週間】
なんとかシエスタ・タイムをやり過ごし、改めて楽器屋のドアを押す。
まだ開店前かと思ったのは、外の光が強すぎて店内が薄暗いせいだ。今時分はギター小僧でごった返しているような楽器屋しか知らない僕には、この店の静けさは異様に感じられた。物音ひとつしないので、自分の立てる音で妙にぎくしゃくしてしまう。
以前、何かの本に(お店に音楽を流す理由)とかいう分析があった。人間はまったく音の無い状況よりも、ある程度の音があるほうがリラックスするのだという。店内に音を流して、パーソナル・スペースの心理的な錯覚を起こさせるらしい。いかに自分は雑音に慣らされているかが、こうしていると良く判る。
店員は中年男性が一人、客は僕ら2人だけだ。彼に弦の事を尋ねる前に、少し見ていくとしよう。ガット・ギターばかりが豊富に取り揃えてあるのは、マリアッチ御用達だからかな。エレキ系が極端に少ないし、これじゃあギター・キッズは来る訳無いか。
よく音楽雑誌のインタビュー記事で(海外で楽器屋に寄ったら安く売っててさぁ)なんて言ってるけど、やっぱそういう土地柄じゃないのかなぁ。フェンダー社がメキシコで生産しているという「ミュージック・マスター」どころか、エレキは日本製の「ヤマハRGX」が3本ぶら下がってるだけだ。
RGXかぁー、せめて「SGサンタナ・モデル」とかにしてくれよ…。
様々なパーカッションが、ガラス棚に並んでいる。まるで(さあ、手にとって試してよ!)と言わんばかりで、端から順に鳴らしてみるとグラシエラが(楽器は何でも演奏できるの?)とばかりに目を丸くして見ている。違うよ、ただ叩いてるだけ。
僕は手に持った楽器を彼女の目の前で鳴らしてみせて、「ギロだ」と言って手渡した。
彼女はギロを大事そうに受け取り、細いスティックで胴をこすってみる。こわごわ、という音がした。そのまんまだな、僕は可笑しくなった。ノーマルな木製のギロもあるが、これはプラスチック製でフランスパンくらいの大きさはある。南国の特大イモムシみたいな、虹色をしたグロテスクなセンスは何なのだ?
さすがにそんなものは買う気が起こらなかったが、かわいいボンゴには一目惚れしてしまった。皮がビス打ちされていて、チューニングなんて端から考えてない大雑把な作り。普通のより一回り小さくて、民芸品っぽいのがまた良い感じ。ほとんどオモチャだけど、割に乾いた良い音がする。
それに、何といっても安かった。単純計算で千二百円ちょっとだ、と思ったら買うしかないだろう。日本に持ち帰るとしても、大した荷物にはなるまい。それでこの金額ならばこりゃ、お買い得ってもんだよな。とんでもない衝動買いだとは思ったけど、いただきましょう!
もちろん、肝心の弦も忘れずに買う。その値段が、日本と変わらなかったのは意外だった。なんでも安いとは限らないのだ。物価を置き換えて考えると、下手すれば一本数千円という感覚かもしれない。そりゃもう、遊びじゃ弾けないわな。日本だって、そんな高級な弦を使っているのはプロとオタクだけだ。
小ボンゴをレジに出した時、店員の顔にありありと(オマエが?)と書いてあった。こっちも負けじと、鼻息も荒く(ナイショ!)…と顔で語ってみた。
ボンゴを手にして店を出ると、僕は斜向かいのレコード屋に引き寄せられた。
購買意欲に火がついたような危険を感じつつ、久しぶりのレコード屋に心躍る。とはいえ、置いてあるのはCDだけだ。日本ばかりではなく、メキシコでもレコードは生産中止に追い込まれたのだろうか?
ワンフロア全体が洋楽じゃん! そりゃあクラシックや幼児向けなどもあるにしても…。いやいや、メキシコだものJ−POPなんて存在しないし。メキシカン・ロック、何枚か買っちゃおうかと思って結局やめた。トニーの部屋にもグラシエラの部屋にもCDプレーヤーは無かったのだ。
その代わり、と言うのも変だけどTシャツを買った。〈ジミ・ヘンドリクス〉と〈グリーン・デイ〉のを、友人への土産用に。いかにもド派手な御当地柄よりは良いだろう。自分用にも一枚、そして帰りがけに寄ったスーパー「サンフランシスコ」で食料など。
両手が重たい…。
グラシエラの部屋で、コーラを飲みながら一休み。
帰ってきて早速、買ったばかりの子ボンゴを叩きまくる。おかげで指が真っ赤になってしまったが、こういうのは慣れれば平気になるのかなぁ? けっこう歩き回ったので、疲れが出てきてシエスタしたくなってきたが、日が暮れないうちに写真屋に行っとかないと。ギターの弦を張り替えて、チューニングを済ませたら出掛けよう。
ナイロン弦の優しい音色が、穏やかな午下がりに響く。陽が傾き始め、ようやく過ごし易い気温になってきた。誰かボンゴを叩いてくれないかなぁ、ギターでもいいんだけど。二つの楽器の組み合わせを想像すると、きっと似合いのコンビになるだろうと思った。
今回の現像出しで、僕が日本から持ち込んだ分の使い捨てカメラは終了。セントロで買った分と、トニーから借りて焼き増しするネガだ。この間のバースデー・キャンプとか、彼の撮ったフィルムで良い写真が相当あった。
しかし、もう2週間も経っちゃったんだなぁ〜。
月日で言えば短か過ぎ、感覚的にはすいぶんと長い。いわゆる(まるで夢のようだ)という文句は、こういう気持ちの時に使うべきなのか? これをただ(夢)と呼んでしまうには、ここの空気も時の流れも馴染み深かった。
経験を月日に換算して測るのは、なんだか非情なものだよなぁ。生まれ育った環境で設定された時間と、ここで現実に体験してきた濃さとの間に共通する目盛りなど見つけられっこないのに。
帰国予定まで、あと10日を切った。といって、日本に帰りたくない! と思うほどの執着は感じなかった。そして同時に、自分が帰る場所についても実感がなかった。ここで思い出す日本とは、僕の頭にある架空の記憶だった。遠く不確かで古い、何か。
思い出には戻れないように、自分の帰る場所は頭でイメージしてるよりも若干離れているのだろう…そう考えると、妙に落ち着かない気分になる。
ともかく今は、まだメキシコ暮らしのド真ん中。先の事は、その時になれば全て解る筈だ。
まだ開店前かと思ったのは、外の光が強すぎて店内が薄暗いせいだ。今時分はギター小僧でごった返しているような楽器屋しか知らない僕には、この店の静けさは異様に感じられた。物音ひとつしないので、自分の立てる音で妙にぎくしゃくしてしまう。
以前、何かの本に(お店に音楽を流す理由)とかいう分析があった。人間はまったく音の無い状況よりも、ある程度の音があるほうがリラックスするのだという。店内に音を流して、パーソナル・スペースの心理的な錯覚を起こさせるらしい。いかに自分は雑音に慣らされているかが、こうしていると良く判る。
店員は中年男性が一人、客は僕ら2人だけだ。彼に弦の事を尋ねる前に、少し見ていくとしよう。ガット・ギターばかりが豊富に取り揃えてあるのは、マリアッチ御用達だからかな。エレキ系が極端に少ないし、これじゃあギター・キッズは来る訳無いか。
よく音楽雑誌のインタビュー記事で(海外で楽器屋に寄ったら安く売っててさぁ)なんて言ってるけど、やっぱそういう土地柄じゃないのかなぁ。フェンダー社がメキシコで生産しているという「ミュージック・マスター」どころか、エレキは日本製の「ヤマハRGX」が3本ぶら下がってるだけだ。
RGXかぁー、せめて「SGサンタナ・モデル」とかにしてくれよ…。
様々なパーカッションが、ガラス棚に並んでいる。まるで(さあ、手にとって試してよ!)と言わんばかりで、端から順に鳴らしてみるとグラシエラが(楽器は何でも演奏できるの?)とばかりに目を丸くして見ている。違うよ、ただ叩いてるだけ。
僕は手に持った楽器を彼女の目の前で鳴らしてみせて、「ギロだ」と言って手渡した。
彼女はギロを大事そうに受け取り、細いスティックで胴をこすってみる。こわごわ、という音がした。そのまんまだな、僕は可笑しくなった。ノーマルな木製のギロもあるが、これはプラスチック製でフランスパンくらいの大きさはある。南国の特大イモムシみたいな、虹色をしたグロテスクなセンスは何なのだ?
さすがにそんなものは買う気が起こらなかったが、かわいいボンゴには一目惚れしてしまった。皮がビス打ちされていて、チューニングなんて端から考えてない大雑把な作り。普通のより一回り小さくて、民芸品っぽいのがまた良い感じ。ほとんどオモチャだけど、割に乾いた良い音がする。
それに、何といっても安かった。単純計算で千二百円ちょっとだ、と思ったら買うしかないだろう。日本に持ち帰るとしても、大した荷物にはなるまい。それでこの金額ならばこりゃ、お買い得ってもんだよな。とんでもない衝動買いだとは思ったけど、いただきましょう!
もちろん、肝心の弦も忘れずに買う。その値段が、日本と変わらなかったのは意外だった。なんでも安いとは限らないのだ。物価を置き換えて考えると、下手すれば一本数千円という感覚かもしれない。そりゃもう、遊びじゃ弾けないわな。日本だって、そんな高級な弦を使っているのはプロとオタクだけだ。
小ボンゴをレジに出した時、店員の顔にありありと(オマエが?)と書いてあった。こっちも負けじと、鼻息も荒く(ナイショ!)…と顔で語ってみた。
ボンゴを手にして店を出ると、僕は斜向かいのレコード屋に引き寄せられた。
購買意欲に火がついたような危険を感じつつ、久しぶりのレコード屋に心躍る。とはいえ、置いてあるのはCDだけだ。日本ばかりではなく、メキシコでもレコードは生産中止に追い込まれたのだろうか?
ワンフロア全体が洋楽じゃん! そりゃあクラシックや幼児向けなどもあるにしても…。いやいや、メキシコだものJ−POPなんて存在しないし。メキシカン・ロック、何枚か買っちゃおうかと思って結局やめた。トニーの部屋にもグラシエラの部屋にもCDプレーヤーは無かったのだ。
その代わり、と言うのも変だけどTシャツを買った。〈ジミ・ヘンドリクス〉と〈グリーン・デイ〉のを、友人への土産用に。いかにもド派手な御当地柄よりは良いだろう。自分用にも一枚、そして帰りがけに寄ったスーパー「サンフランシスコ」で食料など。
両手が重たい…。
グラシエラの部屋で、コーラを飲みながら一休み。
帰ってきて早速、買ったばかりの子ボンゴを叩きまくる。おかげで指が真っ赤になってしまったが、こういうのは慣れれば平気になるのかなぁ? けっこう歩き回ったので、疲れが出てきてシエスタしたくなってきたが、日が暮れないうちに写真屋に行っとかないと。ギターの弦を張り替えて、チューニングを済ませたら出掛けよう。
ナイロン弦の優しい音色が、穏やかな午下がりに響く。陽が傾き始め、ようやく過ごし易い気温になってきた。誰かボンゴを叩いてくれないかなぁ、ギターでもいいんだけど。二つの楽器の組み合わせを想像すると、きっと似合いのコンビになるだろうと思った。
今回の現像出しで、僕が日本から持ち込んだ分の使い捨てカメラは終了。セントロで買った分と、トニーから借りて焼き増しするネガだ。この間のバースデー・キャンプとか、彼の撮ったフィルムで良い写真が相当あった。
しかし、もう2週間も経っちゃったんだなぁ〜。
月日で言えば短か過ぎ、感覚的にはすいぶんと長い。いわゆる(まるで夢のようだ)という文句は、こういう気持ちの時に使うべきなのか? これをただ(夢)と呼んでしまうには、ここの空気も時の流れも馴染み深かった。
経験を月日に換算して測るのは、なんだか非情なものだよなぁ。生まれ育った環境で設定された時間と、ここで現実に体験してきた濃さとの間に共通する目盛りなど見つけられっこないのに。
帰国予定まで、あと10日を切った。といって、日本に帰りたくない! と思うほどの執着は感じなかった。そして同時に、自分が帰る場所についても実感がなかった。ここで思い出す日本とは、僕の頭にある架空の記憶だった。遠く不確かで古い、何か。
思い出には戻れないように、自分の帰る場所は頭でイメージしてるよりも若干離れているのだろう…そう考えると、妙に落ち着かない気分になる。
ともかく今は、まだメキシコ暮らしのド真ん中。先の事は、その時になれば全て解る筈だ。