2009年10月21日

トラバ雑想記22 みんな違って、みんなヘン

・・・いやいや、それを言うなら「みんなちがって、みんないい」ですよね?
まぁそれはそれとして、こう思ったりもします。

(よく見りゃ誰もがヘンな奴)って。

大して仲良くもないのに「おまえ変わってんなー」とか、そう言ってる人の方がよっぽどだったり。

「にゅーそくちゃん!」という、2ちゃんねるニュース速報まとめサイトらしき中にあった、
『坂本龍一が学食で一人で食べてるクズを批判 「すごく不愉快。無遠慮。人の気持ちを考えろと。」(36)』という記事ですが。

元記事は、「ほぼ日刊イトイ新聞」さんの「-矢野顕子について、坂本龍一くんと話そう。」という対談記事の一部『第3回 ジャージを履いてはならぬ。』なんですね。


まぁ「ジャージが嫌い」ってのは、まぁ分からなくもないなと思います。
ウォーキング中とかね、そういう目的ではないパジャマ的な着こなしの無粋さっていうのは。

だけど「学生食堂で一人でご飯食べてる人」を見て「僕、すごく不愉快なのね(笑)」と言われましてもねぇ〜?
ご自身いわく「頭突きしたい」くらい嫌いな自分の学生時代の感想らしいですけども。

相変わらず「おかしなオジサン」です。


そして次は「活字中毒R。」さんの記事から2つ、ご紹介させていただきます。
まずは『ホリエモンとひろゆきの「彼女が部屋の鍵をなくしたら……」』
「失敗への対処法」について語る、ご両人。
結構、堀江氏の考え方って嫌いじゃないんですよ。
とてもプラグマティックな印象ですし。
でもこれは極端かなっていうね、ほとんど「自己批判せよ」状態。
管理人さんのコメント「逃げ場がない状況で『正論』に追い詰められていくのは、ものすごくキツイのです。」に、僕なんかは同調しちゃいますね。

で、もう1つは『「勝間さん、自分と違う人がいることはわかります?」』です。
僕は勝間っていう人は名前しか知らないんですが、今まで好印象を持てなかった香山氏に初めて好感を覚えましたよ(ちょっと、だけど)。
サイト管理人さんのコメントを長く引用しまして、個人的な見解は割愛させていただきます。
 この勝間さんの話を読んでいると、勝間さんは「子供や社会のために」と言っているけれど、実際は、「いろんなものを効率化していくことそのものが楽しい人」のような気がするのです。
 そして、もちろん世の中は、勝間さんタイプの人ばかりじゃない。
(中略)
 勝間さんは、たぶん、「お酒やタバコで、ささやかな幸せに浸ることしかできない人間」の存在を理解できないのではないかなあ。
 「私ができたのだから、あなたもできるはず」というのは、ある種の「信頼」ではあるのだろうけど。
(中略)
 勝間さんは、「世界を救おう」というよりは、「自分を信じている人たちを引き上げてあげよう」という人なんじゃないかと僕は思います。
 でも、「人生を効率化すること」に向かない人っていうのもいるし、そういう人は、香山さんのベストセラー『しがみつかない生き方』のオビにあったように「<勝間和代>を目指さない。」ことも大事な「自分を不幸にしないための戦略」なのではないかと。
(中略)
 正反対の主張をしているようにみえるけれど、勝間さんと香山さんの「距離」よりも、怠惰な僕と香山さんとの距離のほうが、実際は、よっぽど「遠い」のだよなあ。


ところで今回、本当は最初の坂本氏の話題からフェチ方面に展開する気でいたんです。
でも、なんだか流れが変わってしまいました。
さて・・・どうしよう? 笑

まぁいっか、間をすっ飛ばしてオチの(筈だった)話題へ。

まったく大相撲とは関係のない「ドルジ速報」さんの記事、『男性が思う「実は○○フェチ」ランキング 』です。
絶対領域の黄金比率は「ミニスカート(ボトムス)丈:絶対領域:ニーソックスの膝上部分」=「4:1:2.5」だそうで。

ここから、割と女性から耳にする巨乳願望・・・というか(男は皆おっぱい星人)という頑ななまでの妄想について言及しようと思っておりました。
実際は、女性のオシャレとかって他の女性を意識してますよね?
男性に媚びてるように見えても、それは(男性の目線を一身に集める自分)を周囲の女性にアピールしてる気がします。
だから正確には(男が皆おっぱい星人)なのではなく(おしり星人に注目されても実感できない)という、あくまで正面に付随するアイキャッチとして、女性自身にとっての巨乳需要が存在しているのだと思うのです。

また長くなってしまったのと、中間の展開が違ってしまったので、これより掘り下げませんけども。
というか本来の「超個人的な好き嫌い〜性的ファンタジー〜フェティシズム」という構想が中途半端になってしまいまして、まとまりのない内容で恐縮です・・・。


しかも今回、どれもトラックバックできない記事だった・・・。orz(←最近見ない)
posted by tomsec at 00:59| トラバ雑想記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年10月09日

思い尽きたが好日・不安を脇見

あらかじめ申し上げますが、記事中で断言している文章は(〜と思う)を省略しています。
すべて個人的な感覚によるものですので、もし気に障ったらごめんなさいね。



見るものが中心にくる。
たとえば手仕事をしながら誰かと話をしているとき。
テレビを点けたまま雑誌をめくっているときなど。
人間は視覚から多くの情報を得ているから、気持ちの集中する方に目が向いてしまう。
そして目を向けている物事に、どうしても気持ちの主軸が移ってしまう。

それは子供や老人の、自転車運転にも似ている気がする。
道端のドブに寄ってしまっているな、と気が付くと吸い寄せられてゆく。
子供は成長や、そういった経験から自然と目を安全な方へと向けられるようになる。
しかし老人の場合は、おそらく不安や恐怖への感度が高くなってしまうのだと思う。
同じ目に何度も遭っても、やはり「危ない!」などと叫びながら危険に向かって進んでしまう。
それでも大抵は自分から自転車を降りて(あるいは倒して)回避はするけど。

以前(ハウリング)について考えてみたことがある。
感情の増幅効果は、どうも負の方向に強く働くらしい。
犬がサイレンの音に反応して吠えるのは、遠吠えの周波数とサイレンの音が似ているからだという。
遠吠えだ、と思うと自分も吠えずにいられなくなる習性なのだろう。
人間の感情も、それと同じ原理が作用するのかもしれない。

管理社会、いや近ごろでは監視社会ともいわれる。
こんな状況は、不安を中心に置いてしまった人の意識が生み出したのではないかと思ったりする。
世の中には、様々な不安要素があふれている。
というよりも、不安を増幅する装置に充ちている。
ニュースもそうだが、物を売る口実もそうだ。
そして他人を黙らせる方法も「では万一の時、貴方に責任を取ってもらいますよ」という言い方をする。
互いに助け合う、ではなく縛りあう社会だ。

ところで話はそれるが・・・。
誰かが「社会的弱者」という言葉を口にする時、何か引っ掛かりを感じる。
あたかも自分ではない誰かへの義憤でありながら、それは架空の存在を通して自分を語っているのではないかという気がする時がある。
それが過去のトラウマなのか罪悪感なのか、そういった本人の心理的な「内的弱者」の救済を訴えているような。
もちろん自身の葛藤を、社会問題と見せかけて解決したい訳ではないとしても。

特定の誰かを周囲が「社会的弱者」と呼んでいるうちに、本人も(自分は弱者だ)と思い込んでしまう事は、ないだろうか?
あるいは(自分は無力だ)と感じている人が望むのは、システムの変更なのだろうか?
むしろ己の窮状を打ち明けた相手に手を取ってもらい、話を聞いてもらうことだったりはしまいか。
たとえば子供の窮状を解決するため、と意気込んで教育現場に乗り込むよりも。

親自身が、我が子に労力や時間を費やすことで失うものを怖れるから、その弱さが裏返しになって教師を攻撃するのだと思ったりする(無論、一概には言えないが)。
そういう心理と同じような原理で「社会的弱者」という代理人を仕立ててはいないだろうか。
自分に何のメリットもデメリットもない事柄に、そうそう強気にはなれないものだ。
本当は縁も所縁もない第三者のためではなく、そうする事やそうして望む結果が自分に重要なのだ。
それは収益や立場に関わるのかもしれないし、深い心の問題かもしれないが。

大きな声を上げる人の、その言葉の中に目を背けていたい何かが見えるとしたら。
その人は「危ない!」と叫びながら危険に飛び込むかもしれない。
「弱者を救え!」と訴えながら自身の弱さに向かうかもしれない。
でも行動する人には動機があるのだから、それはそれで構わないのだ。

平成19年12月4日
posted by tomsec at 00:50| 思い尽きたが好日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする